「L型」枠組みを疑うメタスキル

昨日のゼミで、ゼミ生から、L型G型大学に関する質問が出た。ここ数日、ネットで話題になっていた話である。ソースは、文部科学省で開かれている「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議」という会合の第一回で、企業再生などを手がけてきた冨山和彦委員の提出資料のなかで触れられていた内容である。

「我が国の産業構造と労働市場のパラダイムシフトから見る高等教育機関の今後の方向性」と題されたプレゼン資料の中で、ごく一部のtop tier校(top tierって一流という意味なんですね。わざわざそれを日本語で書かないのが、なんだか・・・)はG型(グローバル型だそうです)の大学として、「グローバルで通用する極めて高度なプロフェッショナル人材の排出」、そしてそれ以外の大学はL型(ローカル)大学なので、「生産性向上に資するスキル保持者の排出(職業訓練)」をミッションにすべきだ、と整理している。実は、この整理自体、G型の人はレベルが高くて、L型の人はG型の人の「生産性向上に資する」存在になれば良い、という「上から目線」がプンプン臭うのだが、その本領が発揮されるのが、プレゼン資料7ページで書かれた「L型大学(含む専修・専門学校)では、「学問」よりも、「実践力」を」という表題の例示である。これは極めて本質的なので、この部分は全部紹介する。
文学・英文学部:「シェイクスピア、文学概論」ではなく、「観光業で必要となる英語、地元の歴史・文化の名所説明力」
経済・経営学部:「マイケルポーター、戦略論」ではなく、「簿記・会計、弥生会計ソフトの使い方」
法学部:「憲法、刑法」ではなく、「道路交通法、大型第二種免許・大型特殊第二種免許の取得」
工学部:「機械力学、流体力学」ではなく、「TOYOTAで使われている最新鋭の工作機械の使い方」
を学ぶべきだ、と書かれている。しかも、この委員は経済学部出身らしく、(筆者は日本のトップ戦略コンサルタントの一人だが、ポーターの5Forcesは使ったことが無い)という「自慢」が書かれていた。
この資料について、昨日のゼミで説明した上で、「みなさんはどう思う?」と聞いてみた。すると、「ふざけんな!」という怒りの声がある一方で、「むかつくけど、そう言われたら従うのしかないのかなぁ」という弱気の声もあった。それに関連して、ネットの記事を見ていても、「経営者にならない人間には教養より実践力だ」といった意見も出ている事も知った。
ゼミでは時間が超過していて言えなかったが、このことについて、ゼミ生に言いたいことがある。それが今日の本題である。一言で言えば、次の様になる。
このG型L型という枠組み自体を「鵜呑み」に受け入れてしまうこと事態が、自らをG型と「自慢」している人々(=いわゆる「勝ち組」)の人の「思う壺」になりはしないか。
この二項対立的な図式には色々問題点があるが、最大の難点は、G型大学に行く人は「雇用する側」、L型大学に行く人は「雇用される側」とすっぱり分けた上で、「雇用される側」は「雇用する側」にとって、「生産性向上に資するスキル」さえ持てば良い、という、選民思想というか、ある種のカースト思想的発想である。そのカースト的思想の持ち主の言葉を借りると、「「経営学」などというものを大衆化した大学で教える意味はない。彼らの大多数は、経営者にはならないからだ」ということになる。
だが、待ってほしい。経営者しか経営学を学ぶ必要はない、というのは、ずいぶん狭い視野しかお持ちではないようだ。まともな経営学者の伊丹敬之先生は、「経営とは、他人を通じて事をなす」ことだと言っている。これは、別にG型大学を出ていなくても、大企業の社長ではなくても、課長や店長や部門長として、だけでなく、チームリーダーにも十分に必要とされる資質である。
ここまで書いていて思いついたのだが、確かに途上国では、L型の学校出身の人は「簿記会計ソフトや大型二種免許、工作機械の使い方に必要最低限の英語」といった実践力しか持っていない場合も少なくない。だが、それに比べて日本の企業や町工場の最前線で働く人材は「層が厚い」と言われる理由は、L型の学校出身の人であっても、単に「生産性向上に資する」=つまりは使い勝手の良い労働者としてのスキル、だけではなく、その「生産性向上」に関するメタスキルを持っている、ということである。
僕の父は、母子家庭で育ち、商業高校卒業後、呉服業界に就職した、この整理で言うところの、L型学校出身層にあたる。でも、単に企業経営者にとって使い勝手の良い人材、ではなかった。現場のチームリーダーとして、お客さんとの関わりも豊かにしながら、会社の業績向上にも貢献した。呉服業界自体が傾き始めた後も会社に残り、社長の息子に帝王学を教えたり、何とかその経営を営業面で支えた人材である。退職時の肩書きは課長だったが、実質的には経営幹部として会社の方針を支えてきた人材でもある。会社=大企業、としか思い浮かばない人には「盲点」となっているが、中小企業では、L型学校出身者がきちんと経営のサポートまで行う事で、企業として存続している。そういう会社は、東京では「盲点」かもしれないが、地方に行けば、むしろそういう会社の方が数として多い。
そして「盲点」として言うならば、「弥生会計」とか「工作機械」の「使い方」に関する知識、とは、長くて5年、下手したら2,3年しか通用しない知識である。技術革新が加速度的に進めば、こういう知識はすぐに過去のものになる。その時に、「生産性向上に資する」存在でなくなったら、「もういりません」と使い捨てが出来る存在、とも言える。企業としては、低賃金でそういう人材を獲得出来るから、「オイシイ」のかもしれない。でも、それは、社会での二極化をますます進行させ、L型大学出身者の階層を固定化し、カースト化のような格差社会の進展を進める機能を持ちはしないか。
知識だけなら、スマホでも学べる時代において、大学教育の要諦とは何か。それは、愚直に見えるかもしれないが、「批判的思考能力の涵養」である。つまり、「正しい」と言われていることを、「ほんま
かいな?盲点はないのかな?」と疑ってかかる思考である。それは、「生産性向上に資するスキル」というもの自体を疑う、という意味での「メタスキル」である。このメタスキルを持たないと、弥生会計や工作機械がバージョンアップされた時に、ついて行けない人材になる。それでは、真の意味での「生産性向上に資する」人材とはならない。
さらに言うならば、このような「メタスキル」を持った人材は、ブラック企業で唯々諾々と働くことに対して、NO!と突きつける人材である。仕事が嫌なのではない。その業務内容が人間の尊厳を奪うような働き方である場合、経営者にもきちんと「オカシイ」と言える人材である。こういう人材が育つと、確かに目先の生産性は落ちるように思えるかも知れない。だが、本当の競争力のある企業とは、社員1人1人が会社の質の向上の為に、時には経営層にもモノを言える環境を保持する企業である。もっと言えば、社員のメタスキルを、会社のイノベーションにつなげることの出来る企業である。知識基盤型社会において、知識を疑い、知識の価値を吟味するようなメタスキルを兼ね備えた人材が、経営層のごく一部にしかいないような企業は、退場を迫られるかM&Aの対象になる。本当の実力のある企業とは、経営者と労働者をカーストのように分けず、社員全てがメタスキルを活かして役割と責任を持つ企業である。(僕はそのことを、中川淳さんの本を読んで感じた)
そういうメタスキルを育てるためにこそ、地方大学の存在価値はある。この9年間、山梨で教えてきて、そう感じる。最初は支配的言説を「鵜呑み」にしている学生でも、「疑う技術」を学ぶうちに、これまでの自分の中での「当たり前の前提」が崩れ始める瞬間がある。「自分は○○になりたい」と思い込んでいた学生が、実はそう親やまわりに「思い込まされていた」と知る事がある。でも、それを知ったあと、清々しい顔をして、新たに「では僕は何をやりたいのだろう?」と気持ちを切り替え、俄然学び始める。この中で、ブレークスルーが起こり、人間的成長を果たす学生を、何十人と見てきた。そういう学生にとって、戦略論や刑法は、何十年後の知識として直接残っていないかも知れない。だが、それらの学びを習得するプロセスの中で、こうやって物事を考えたり整理すればよいのだ、という考え方・学び方の学習が出来るのである。それこそが、メタスキルの涵養である。僕の3年ゼミは、毎週新書一冊を読んでもらって、その内容に基づき議論をしているが、それも知識の習得だけでなく、その本や議論を通じて自分たちのモノの見方自体を捉え直す、メタスキルの獲得を目指している。そして、そういうプロセスこそが、弥生会計や工作機械のバージョンがアップして、目先のスキルが使えなくなっても、ずっと使い続けることが出来る、真の意味での「生産性向上に資する」スキルなのである。
企業経営にとりくむ実業家の方々は、確かにポーターの戦略論を使っていないのかもしれない。でも、ポーターなどの経営学者達が、従来の経営の何がどう問題か、を疑い、新しい枠組みで考えた、その批判的思考能力自体は、実は彼らの理論から学びうることである。たまたま、その実業家は、良い教師や良い教科書に出会えず、それを学べていなかったのかも知れない。だが、自ら学ばなかったことを理由に、「社会的に必要ない」と言い切ることは、言語道断としか、言いようがない。
本当に現場を変えたいコンサルなら、まず思い込みでモノを言う前に、現場をじっくり観察するはずである。その教育現場の実態観察がない中で、わかってもいないのに、余計な口出しをしないで頂きたい。

納得形成は「よく聴くこと」から

この秋も、恐ろしいほど、移動の日々。ブログの更新が怠りがちである。静岡に釜石・大槌、大阪と毎週のように長距離移動し、その合間にも東京出張もあったりする。落ち着いてものが考えられないので、よろしくない傾向である。

ただ、ありがたいことに、最近、講演に出かけた先で、以前より「言葉が伝わる」率が高くなってきた。それと共に、以前に比べれば、8割くらいの熱量で話をしても、その話の伝わり方は以前より2割増しのような気がしている。
それはなぜなのだろう、と考えて、ふと思いつくことがあった。それは、
説得より納得!
このフレーズは、現場向けの講演でもよく使っている言葉である。人は、納得しない限り、行動変容しない。いくら必死に心を込めて相手を説得しても、相手の内在的論理に届いて、腑に落ちて、あるいは「してみたい」と思って、相手が「納得」しないと、相手は動かない。これは、コミュニティソーシャルワークといわれるような、住民参加型福祉を推進する際の、当たり前だけれど、一つの肝でもある。そんなことを、講演では話していた。
で、お陰様で、講演しながら自己洗脳!?しているので、僕自身も以前に比べたら、講演が「説得」型から「納得」型に、少しは変わってきたのではないか、と感じている。
以前は、ジャ○ネット○カタのおじさんのようなハイトーンな声で、しゃべりまくって、情理を尽くして語ればよい、という説得モードだった。でも、最近の講演では、事前に主催者の方々と打ち合わせをするなかで、「納得」のヒントを掴んでから、登壇することにしている。そのヒントとは何か?
めちゃ簡単な話だ。主催者の、現場の声を、しっかりと聴くこと。それに尽きる。
あまりに当たり前すぎて、簡単すぎる説明に思うかもしれない。でも、案外それが僕には出来ていなかった。
毎回、話をするために、パワーポイントを仕込む。僕は以前恩師のお一人に「研究者なのだから、落語家にはなるな」と言われたフレーズを大切にしている。同じ話を繰り返しする落語の素晴らしさは評価するけれど、研究者が同じ話を繰り返していたら、話し手である僕自身が堕落する。なので、なるべくsomething new & interestを放り込みながら、角度を変えながら、話を切り込んでいこうとする。当然、パワポにもその工夫はする。だが、一番の工夫は、現場の声をしっかりと聴き、それと僕が考えてきたこととを、講演のその場で、即興的に対話させていくことである。そして、それは、受ける。
主催者はおおむね、その地域の福祉現場の方々である。その方々に、その地域の実情や福祉課題を聴く。自治体の特徴や、お国柄、その地域のリアリティをいろいろ聴いていく。場合によっては、主催者が感じている問題意識もしっかり聴いておく。そして、それらの「現場の声」と、僕自身が考えてきたり準備してきた内容を、まさに即興演奏のように、あるいは「熊さんハッつぁん」のように、講演の場で対話させていく。すると、聞き手の方々は、自分たちの現場の課題がライブで織り込まれていくので、自分事として聴いて下さる。それが、こちらの伝えたいことと織り込まれていくと、皆さんの中での感度が上がっていく。
講演を、対話の機会にするのは、簡単ではない。でも、聞き手となるべく対話的な関係を構築しよう、と思えば、いくつもの工夫が可能なのだと思う。
あと、質疑応答でも、こちらの対話の仕方によって、大きく変容可能性がある、と感じている。
時として、予定調和とは真逆のような質問を受けることがある。「あなたの言っていることはオカシイ。厚労省はそんなことは言っていない」とか、「あなたのお話は余裕がある人間には出来るけれど、毎日の生活費を稼ぐのに必死な人々には無理だ」とか、実際に言われたことがある。言われた時は、まだ未熟で、情理を尽くして、必死に「説得」しようとしていた。でも、それでは相手の「納得」は見いだせず、質問者も僕も、消化不良のまま終わることが多かった。
だが、その際、僕は相手の内在的論理を聴いてはいなかった、のかもしれない。相手は、わざわざ僕のタイトルを見て、やってくるのである。そして、僕が厚労省とは違う意見を持っていることも、あるいは「お金を稼ぐこと」以外の価値観の大切さを説いていることも、百も承知である。ただ、それが自分の中でこれまで信じてきた「信念体系」と大きく乖離しているし、簡単に飲み込めないから、違和感を表明しておられるのである。その際、僕が説得モードで話をすることは、相手の違和感をより増幅させる、悪循環の高速度回転につながるような気もする。(この悪循環の高速度回転については、以前のブログ参照)
語られている中身の事実を争っているのではない。その事実を語る僕自身の価値前提に同意が出来ない、という批判なり意見なのである。その際、僕が熱量を込めて語ることは、文字通り「火に油を注ぐ」ことになる可能性がある。その場合、相手の内在的論理を形成する価値前提をじっくり伺った上で、自分の内在的論理の価値前提との違いを整理し、「どちらの価値前提かによって、事実の見え方が分かれますよね」とお答えするしかないのである。ただ、残念ながら、短い質疑応答の時間でそんなことをしている暇がないので、尻切れトンボになってしまう。でも、本当は、その価値前提を巡る違和感の表明にこそ、じっくり耳を傾けるだけの価値があるものも、ある。ただし、対話者が「自分の価値前提が絶対だ」と思っていたら、対話は成り立たない。お互いが、自らの価値前提や信念体系を、括弧に入れて考える余裕を持っているか、が鍵にはなるが。
これは、講演だけでなく、大学での講義でも全く同じだ。僕は、講義の中で、価値前提や信念体系の話に踏み込む。福祉やボランティアの議論においては、唯一の正解がある、というわけではなく、どの価値前提や信念体系を選ぶか、という問いが、沢山含まれている。例えば、重度障害者でも入所施設ではなく地域生活支援を、とか、特別支援学校ではなく普通学校で、などの課題は、明確に価値前提の問いでもある。事実の背後にある、このような価値前提の問いに対して、きちんと学生たちの意見を聴きながら、どのような納得形成が出来るか。これは、大学教員にとって大切な仕事だったりもする。
こんなことを感じながら、講演現場では、なるべく心穏やかに、支援現場の方々の語りに耳を傾けようとしている。