納得形成は「よく聴くこと」から

この秋も、恐ろしいほど、移動の日々。ブログの更新が怠りがちである。静岡に釜石・大槌、大阪と毎週のように長距離移動し、その合間にも東京出張もあったりする。落ち着いてものが考えられないので、よろしくない傾向である。

ただ、ありがたいことに、最近、講演に出かけた先で、以前より「言葉が伝わる」率が高くなってきた。それと共に、以前に比べれば、8割くらいの熱量で話をしても、その話の伝わり方は以前より2割増しのような気がしている。
それはなぜなのだろう、と考えて、ふと思いつくことがあった。それは、
説得より納得!
このフレーズは、現場向けの講演でもよく使っている言葉である。人は、納得しない限り、行動変容しない。いくら必死に心を込めて相手を説得しても、相手の内在的論理に届いて、腑に落ちて、あるいは「してみたい」と思って、相手が「納得」しないと、相手は動かない。これは、コミュニティソーシャルワークといわれるような、住民参加型福祉を推進する際の、当たり前だけれど、一つの肝でもある。そんなことを、講演では話していた。
で、お陰様で、講演しながら自己洗脳!?しているので、僕自身も以前に比べたら、講演が「説得」型から「納得」型に、少しは変わってきたのではないか、と感じている。
以前は、ジャ○ネット○カタのおじさんのようなハイトーンな声で、しゃべりまくって、情理を尽くして語ればよい、という説得モードだった。でも、最近の講演では、事前に主催者の方々と打ち合わせをするなかで、「納得」のヒントを掴んでから、登壇することにしている。そのヒントとは何か?
めちゃ簡単な話だ。主催者の、現場の声を、しっかりと聴くこと。それに尽きる。
あまりに当たり前すぎて、簡単すぎる説明に思うかもしれない。でも、案外それが僕には出来ていなかった。
毎回、話をするために、パワーポイントを仕込む。僕は以前恩師のお一人に「研究者なのだから、落語家にはなるな」と言われたフレーズを大切にしている。同じ話を繰り返しする落語の素晴らしさは評価するけれど、研究者が同じ話を繰り返していたら、話し手である僕自身が堕落する。なので、なるべくsomething new & interestを放り込みながら、角度を変えながら、話を切り込んでいこうとする。当然、パワポにもその工夫はする。だが、一番の工夫は、現場の声をしっかりと聴き、それと僕が考えてきたこととを、講演のその場で、即興的に対話させていくことである。そして、それは、受ける。
主催者はおおむね、その地域の福祉現場の方々である。その方々に、その地域の実情や福祉課題を聴く。自治体の特徴や、お国柄、その地域のリアリティをいろいろ聴いていく。場合によっては、主催者が感じている問題意識もしっかり聴いておく。そして、それらの「現場の声」と、僕自身が考えてきたり準備してきた内容を、まさに即興演奏のように、あるいは「熊さんハッつぁん」のように、講演の場で対話させていく。すると、聞き手の方々は、自分たちの現場の課題がライブで織り込まれていくので、自分事として聴いて下さる。それが、こちらの伝えたいことと織り込まれていくと、皆さんの中での感度が上がっていく。
講演を、対話の機会にするのは、簡単ではない。でも、聞き手となるべく対話的な関係を構築しよう、と思えば、いくつもの工夫が可能なのだと思う。
あと、質疑応答でも、こちらの対話の仕方によって、大きく変容可能性がある、と感じている。
時として、予定調和とは真逆のような質問を受けることがある。「あなたの言っていることはオカシイ。厚労省はそんなことは言っていない」とか、「あなたのお話は余裕がある人間には出来るけれど、毎日の生活費を稼ぐのに必死な人々には無理だ」とか、実際に言われたことがある。言われた時は、まだ未熟で、情理を尽くして、必死に「説得」しようとしていた。でも、それでは相手の「納得」は見いだせず、質問者も僕も、消化不良のまま終わることが多かった。
だが、その際、僕は相手の内在的論理を聴いてはいなかった、のかもしれない。相手は、わざわざ僕のタイトルを見て、やってくるのである。そして、僕が厚労省とは違う意見を持っていることも、あるいは「お金を稼ぐこと」以外の価値観の大切さを説いていることも、百も承知である。ただ、それが自分の中でこれまで信じてきた「信念体系」と大きく乖離しているし、簡単に飲み込めないから、違和感を表明しておられるのである。その際、僕が説得モードで話をすることは、相手の違和感をより増幅させる、悪循環の高速度回転につながるような気もする。(この悪循環の高速度回転については、以前のブログ参照)
語られている中身の事実を争っているのではない。その事実を語る僕自身の価値前提に同意が出来ない、という批判なり意見なのである。その際、僕が熱量を込めて語ることは、文字通り「火に油を注ぐ」ことになる可能性がある。その場合、相手の内在的論理を形成する価値前提をじっくり伺った上で、自分の内在的論理の価値前提との違いを整理し、「どちらの価値前提かによって、事実の見え方が分かれますよね」とお答えするしかないのである。ただ、残念ながら、短い質疑応答の時間でそんなことをしている暇がないので、尻切れトンボになってしまう。でも、本当は、その価値前提を巡る違和感の表明にこそ、じっくり耳を傾けるだけの価値があるものも、ある。ただし、対話者が「自分の価値前提が絶対だ」と思っていたら、対話は成り立たない。お互いが、自らの価値前提や信念体系を、括弧に入れて考える余裕を持っているか、が鍵にはなるが。
これは、講演だけでなく、大学での講義でも全く同じだ。僕は、講義の中で、価値前提や信念体系の話に踏み込む。福祉やボランティアの議論においては、唯一の正解がある、というわけではなく、どの価値前提や信念体系を選ぶか、という問いが、沢山含まれている。例えば、重度障害者でも入所施設ではなく地域生活支援を、とか、特別支援学校ではなく普通学校で、などの課題は、明確に価値前提の問いでもある。事実の背後にある、このような価値前提の問いに対して、きちんと学生たちの意見を聴きながら、どのような納得形成が出来るか。これは、大学教員にとって大切な仕事だったりもする。
こんなことを感じながら、講演現場では、なるべく心穏やかに、支援現場の方々の語りに耳を傾けようとしている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。