「生きる苦悩」から「生きる喜び」へ

こないだ、関西大学の研究会にお呼びがかかった。「アクションリサーチと枠組み外し」というテーマで、自著や自分がやってきたことを語ってほしい、という有り難いオファーである。現場での講演は沢山あれど、大学の研究会に呼ばれる事は、実はこれまでなかった。一匹狼的な研究を続けてきたので、こういう同業者を前にしたプレゼンは、めちゃ緊張するものである。

で、そのプレゼンを終わらせた後、ホストの草郷先生から、こんなことを言われた。「『生きる苦悩』より、『生きる喜び』の方がいいんじゃない?」
草郷先生は、ブータンの国民総幸福(Gross National Happiness)の研究をしておられる方である、ということは、一応知っていた。だが、僕自身の研究とそれが直接関係する、とは思ってもいなかったが、言われてみれば、その通りである。それは一体どういうことか?
僕が「生きる苦悩」という言葉を使うとき、それは、以前論文にも書いた「病気から生きる苦悩へのパラダイムシフト」というフレーズが頭にあった。これは、イタリアで精神病院をなくした原動力になった医師のフランコ・バザーリアの言葉から取っている。彼は、精神障害と安易にラベルを貼って、「縛る・閉じ込める・薬漬けにする」ことを良しとしなかった。ただ、反精神医学のように、精神病がない、と否定する訳でもない。幻聴や幻覚、妄想や自傷他害のような形でしか、自分自身を表現できないくらいにまで「追い詰められた」人の、その「生きる苦悩」にもしっかり向き合おうとした。病気しかみようとしない医師、ではなく、病気という形で「生きる苦悩が最大化」した人の全体と向き合うことで、本人と医師・家族・社会との関係性そのものに踏み込んだ関わりをしようとした。そうしないと、病状は収まっても、根本原因である生きる苦悩は減らないのではないか、という視点である。
バザーリアが1970年代にイタリアで提唱した、この「病気」から「生きる苦悩」へのパラダイムシフトは、21世紀の我が国でもキュアからケアへのパラダイムシフトが提唱され始め、今日的課題として位置づけら始めている。だが、「生きる苦悩」に「寄り添う」ことを支援目標にしても、それを抱えた当の本人は、そんなに嬉しくないかもしれない。「生きる苦悩」が減るだけではなく、具体的にどう変わるのか、の目標がないと、生きていく希望が生まれない。その時、「生きる苦悩」から「生きる喜び」へのパラダイムシフト概念が、大きな補助線になりそうである。でも、これとて、僕のオリジナルではない。
ここ半年くらい、ブリーフセラピーの本を読みあさってきた。このブリーフセラピーって、以前ブログでご紹介した本のタイトル通り、『“問題行動の意味”にこだわるより”解決志向”で行こう』という考え方である。不登校や摂食障害、自傷他害、「ゴミ屋敷」など、周囲との関係性がうまくいかず、周囲の人々から「問題行動」とラベルを貼られる事態。これらの「問題行動の意味」に「こだわる」のは、本人も支援者も同じである。だが、そこにこだわればこだわるほど、そこに「居着いて」しまい、その固着した関係性から抜け出すことが出来ない。であれば、その「問題行動の意味」は理解した上で、そこに「こだわる」より、現実的にその状態から抜け出す「解決」方法を一緒に模索した方が良いのではないか。それが、ブリーフセラピーの考えたかである。(たぶん)
で、この「問題行動」を「生きる苦悩」と置き換えた時、同じ事が言えるのではないか、と思い始めている。「生きる苦悩」が最大化した人を前にして、まずはその苦悩の内容やご本人にとっての意味を支援者が理解することは、必要不可欠なことだ。だが、伴走型支援と呼ばれる支援において、その「苦悩」ばかりに目を向けていると、当事者と支援者が共に隘路にはまり込んでしまう。そこから目を転じて、「生きる喜び」を一緒に探そうと模索する同伴者になるとき、従来の価値観が一転する。それは、GNHの本にも出ていた「地元学」の表現を借りるならば、「『ないものねだり』から『あるもの探し』」へのパラダイムシフト」である。精神障害者支援の領域では、人々の出来ないことをベースにした欠損モデルから、その人が持っている強みを活かすリカバリーモデルへの転換、でもある。
これは、個別支援だけにとどまらなパラダイムシフトである。過疎化や高齢化、核家族化などが進み、町内会や自治会など旧来のネットワークも弱まってきた地域においては、孤独死や老々介護など、「生きる苦悩」が最大化した事例が沢山出てきている。それを、個人の欠損や病気と捉えるのではなく、地域社会の弱み、と捉えた時、その地域で「生きる苦悩」を、その地域で「生きる喜び」にどう転換できるか、という課題とも重なってくる。その際に、改めて「我が町の強み」を探る、「あるもの探し」の視点が大切になってくる。「これはダメだ、あれも足りない」と問題構造の原因追及をしていても、ため息しかでない。でも、「うちにはこんな魅力や強みがあるから、これを活かして何とか解決出来ないか」と「解決志向」で望んだ方が、悪循環は好循環に転換しやすい。
「生きる苦悩」の悪循環構造の分析も、もちろん大切だ。だが、その構造を分かったところで、それを好循環に変えることがなければ、単なる批評家で終わってしまう。悪循環にはまっている人・地域・社会は、「わかったふり」をして上から目線で指導してくる評論家を求めてはいない。「ほな、どないしたらええん?(では、どうしたらよいの?)」という解決策を求めているのだ。ただ、これは、「誰かに答えを差し出してもらいたい」という他責的思考では、苦しい。一緒に解決策を考えて、これでやってみる、と主体的に自ら解決を望む、解決志向型のアプローチが求められる。それは、個別支援でも、コミュニティ支援でも、変わらないはずだ。
ただ、付言しておくなら、「生きる苦悩」や「ないものねだり」から、「生きる喜び」や「あるものさがし」へと転換する際に、従来の価値前提も変える必要があるだろう。新自由主義的な競争原理で「生きる苦悩」や「ないものねだり」の悪循環回路にはまり込んだのなら、それ以外の「生きる喜び」や「あるものさがし」をする必要がある。この従来の価値前提を捨て去ることが出来るかどうか。これが、実は苦悩を抱えた人にも、最も難しい部分かもしれない。べてるの家が提唱している「降りていく生き方」というコンセプトも、この価値前提の転換と、大きく関係しているのかもしれない。自分の当たり前にしていた価値前提から「降りる」プロセスを経ないと、「苦悩」は「喜び」に転化できないのかも、しれない。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。