『同行二人』の可能性

「人はなかなか自分のことについてはわからない。それは自分の置かれている状況を客観的に見ることが難しいからだ。だが、参照点になってくれる誰かがあなたのそばについていてくれたらどうだろうか。あなたはこの他者の認知を参照点として利用することで、一人では見えなかった別の可能性が見えるようになり、別の行為の可能性が広がるだろう。お遍路さんではないが、『同行二人』で道程を一緒に歩くことというのは、このようにして本人の行為の可能性を拡張し、主体性を行使するのを助けるのである。」(『プシコ ナウティカ-イタリア精神医療の人類学』松嶋健著、世界思想社、p211)

イタリア精神医療の現場でフィールドワークをした松嶋さんの博論が元になった大著を、昨夏の発刊直後に読んでいたが、昨日はその松嶋さんと討論できる勉強会に参加してきた。松嶋さんは、以前紹介したメッツィーナさんの講演会など、イタリア精神医療の要人が日本にやってきたときに、抜群の通訳をして下さる貴重な存在でもある。そんな、イタリアと日本の架け橋の存在のお一人だからこそ、彼がフィールドワークの中で学んだイタリア流の支援のあり方について、色々聞くと、実に面白かった。その本質を表しているのが、冒頭の引用部分だ。
確かに、僕自身もアドバイスを求められると、学生さんや現場支援者には、それなりの指摘は出来る。でも、自分のことになると、全くアドバイスが出来ない。それは、「自分の置かれている状況を客観的に見ることが難しいからだ」。特に、事態が混沌としていたり、自分自身がパニック状態であると、なおさら難しい。そんなときに、確かに「参照点」があれば、「一人では見えなかった別の可能性が見えるようになり、別の行為の可能性が広がる」。いつもパートナーと晩酌しながら、たわいもない話をあれこれしているが、その中で、僕は彼女に「定点観測する参照点」になってもらい、その何気ない一言に随分励まされ、また助けられている。そういう「同行二人」は、確かに僕自身の「行為の可能性を拡張し、主体性を行使するのを助け」てきた。
で、これは、僕がゼミ指導や、福祉現場のアドバイザーをしているときも、する・されるが変わるだけで、構造は全く同じである。彼ら彼女らの語っていることをとにかくじっくり伺い、ふと思いついた事を口にするだけなのに、それがフックになって、随分と学生さんの思考が深まる場合がある。現場の困難な物語を伺った上で、「それってこういう視点でも捉えられますよね」と指摘するだけで、「救われた」と言われたこともある。アドバイスを求めるときって、問いを抱えた当人が、その問いをどう考えたらよいのかわからずに混乱している時である。であれば、その混乱を鎮めるお手伝いをしながら、情報や考え方の整理のお手伝いをするだけで、自ずと解決の道が開かれ、一歩を踏み出そうという勇気が生まれる。これは、僕がパートナーと共に参照点になり合う場合でも、学生や現場の支援者とのやりとりでも、同じ事だ。
この「同行二人」とは、「本人の行為の可能性を拡張し、主体性を行使するのを助ける」ことを意味する。たぶん、支援現場において、ここがミソだろう。「参照点」となって定点観測し続ける中で、相手が「一人では見えなかった別の可能性が見える」のを助ける、ということだ。そのプロセスを通じて、混乱や混沌の中で「主体性」が低減している相手は、徐々に「主体性」を快復し、自分の人生のハンドリングが再び出来るようになっていく。そういうサポートの対象者が、パートナーやゼミ指導を求める学生だけでなく、人生において大きな危機(クライシス)にある・その経験を持つ人に変わった、というだけである。そこには、「統合失調症」「境界性人格障害」などの診断名を付ける必要がない。これは、イタリアの精神病院を解体した医師フランコ・バザーリアの次の思想に通底する。
「バザーリアにあったのは、所与の客観的なものとして立ち現れているように見える『病気』が、実は、ある特定の場所や環境、制度のなかではじめてその現実性を獲得しているのではないかという認識である。そして、『病気』の現実性を支えているのが、精神病院という施設であり、精神医学という制度だというのである。」(同上、p141)
先にみたように、「参照点」となる相手の力を利用して、混沌や混乱を乗り切り、別の可能性を見いだす、というのは、僕も含めて、誰だって当たり前のようにやっている。「大きな危機にある人」が、その支援を受けながら、別の可能性を見いだしていけば良いだけである。それに、「病気」というラベルを張るから、病者の混乱と、それ以外の人の混乱があたかも「違う」ようにみえ、「普通とは違うように見える人」だから、特別な対策としての「精神医学という制度」であったり、「精神病院という施設」が必要になる。全ては、「病気」と名付けることにより、その「病気の現実性」が支えられてしまうのだ。バザーリア派の医師フランコ・ロッテリは、こうも言う。
「精神医学は『人間』をエポケーすることで、距離を取った客観的で抽象的な知と権力を再生産する。バザーリアは逆に『病気』をエポケーすることで、人間をモノ化する装置を転倒させる。だがそれは同時に、病人の主体と出会うという危険を受け入れることでもあったというのである。」(同上、p142)
ちなみにエポケーとは現象学の用語で、括弧にくくる、という意味。病気を括弧に括ることで、「病気だから○○する」という当たり前の前提を疑う、ということである。だがこれまで「精神病院という施設」や「精神医学という制度」は、「人間」を括弧にくくることで、人間として当たり前の「生きる苦悩」を、「病状」という形で「距離を取った客観的で抽象的な知と権力」に変換し、それを「再生産」してきた。すると「大きな危機にある人」は「同行二人」ではなく、縛る・閉じ込める・薬漬けにする、という「治療」を受け、ますます混乱や絶望が激しくなり、その自己表現として「病状」を示し、さらに「治療」が強化され、という悪循環が高速度回転していった。そして、「精神病院という施設」や「精神医学という制度」は、そのような悪循環、つまりは「人間をモノ化する装置」として機能してきたのである。
だが、なぜそのような「装置」が必要であったのか。ロッテリの引用に続けて、松嶋さんはこう指摘する。
「だがなぜ主体と出会うことが危険なのか。それはおそらく、人間的な主体であるというところにこそ狂気が存するからである。それを恐れるからこそ、精神医学は狂気を医療化し、『精神疾患』という概念に閉じ込めようとするのだ。バザーリアはこう述べている。
『精神疾患が存在しないなんて、私は言ったことはない。精神疾患という概念を私は批判するが、狂気を否定しはしない。狂気は人間的な状況だからである。問題は、この狂気にどのようにして向き合うかということである。この人間的な現象を前にして、われわれ精神科医はどんな態度をとり、そしてこの[狂気の]必要性にどう応えることができるだろうか。』」(同上、p142)
これは、端的にいえば、精神病者を「自分とは違う異常者」とみるか、「自分もそうなる可能性がある状態に自分より先になった人」とみるか、という人間観の違いである。「精神医学は狂気を医療化し、『精神疾患』という概念に閉じ込めようとする」最大の理由は、「人間的な主体であるというところにこそ狂気が存する」と認めるならば、自分自身も「狂気」になる可能性がある、ということを認めなければならないからである。「狂気は人間的な状況だ」というと、「異常」とレッテルをはって、自分とは違う異次元の存在だと捨て去れない。自分自身もそうなる可能性がある極限状態を見る、ということに、多くの人は耐えられないからである。
この本の表紙に書かれている、イタリアの精神保健のモットーの一つに「近づいてみれば誰一人まともな人はいない」という強烈なメッセージがある。「私はまともである」と思い込んでいる人も、「近づいていれば」、まともではない「狂気」の部分がある。それは、僕もあなたも同じだ。そんな「人間的な状況」である、「狂気」という「人間的な現象」=「危機」に際して、「どのようにして向き合うか」が問われているのだ。
だからこそ、「同行二人」が必要になる。
「コレスポンデンスとは、二人の人間が向き合うインタラクションとは違って、同じ方向を向き、同じ風景を目にしながら一緒に歩いていく二人のあいだの関係である。それはまさに『同行二人』としての利用者とオペラトーレの関係にほかならない」(同上、p431)
ここでポイントになるのが、狂気の状態にある人とインタラクションで向き合う、というのではない、という点だ。狂気の状態にある人から、「狂気」を括弧でくくって取り出し、その狂気という「生きる苦悩が最大化」した「危機」という「同じ風景」を、当人と支援者が共に眺める。そこから、その「狂気」の「必要性」にどう「向き合」えばいいのか、を一緒に模索しながら、歩みを共にする。これが、「同行二人」の醍醐味であり、病気を括弧に括ることの本質なのだ。そして、それは、北海道浦河のべてるの家でやっている当事者研究だって、病気を括弧でくくって、その狂気を他の仲間や支援者と共に眺める、という論理では同じ、ということになる。
「イタリアでは、精神医療から精神保健への転回がなされたとき、問題はもはや『心』や『精神』を治療することではなく、『生きること』に定位し、『生きること』をどう支援していくかに変わった。『精神』の健康は、『生きること』のなかに、人々のあいだで生きていく過程において得られるものだということである。」(p405)
精神障害者だけでなく、自殺者や社会的ひきこもり者も多い日本において、「『心』や『精神』を治療する」ことよりも、切実に求められているのは、「生きることを支援すること」ではないだろうか。繰り返し書くが、「狂気」を否定する「反・精神医学」の主張ではない。「狂気」の状態にある「病人の主体と出会うという危険を受け入れ」る覚悟を、専門職や支援者が持てるのか、という問いである。DSMなどの「距離を取った客観的で抽象的」なラベリングで分かったふりをした上で、「病人」を閉じ込めると言う形で「人間をモノ化する」現状に従うのか。それに反旗を翻し、「『狂気』の状態にある」人と、「狂気」を共にながめ、自分が「参照点」になることで、「本人の行為の可能性を拡張し、主体性を行使するのを助ける」、「同行二人」の役割をするのか。この点が、イタリア精神医療の最大の醍醐味だ、と感じた。
そして、それは今はやりのオープン・ダイアログだって同じではないか、と思っている。「狂気」を否定せず、「狂気」の状態にあるときの苦しさや、それに支配されていることも含めて、支援チーム(=イタリアならオペラトーレ)と共有し、その状態を脱する為にどうすればよいか、をそれぞれの専門性を活かした「参照点」が助言をしながら、一緒に考え合うのが、オープン・ダイアログの本質ではないか、と勝手に想像を膨らませている。
松嶋さんの大著と、著者自身との対話から、支援の可能性というギフトを頂いた1月末であった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。