精神病院という構造そのものへの問い

久しぶりに論文を読んで興奮していた。イタリアで脱・精神病院の展開をしたフランコ・バザーリア。彼やバザーリア派の実践してきた成果は、師匠の本にも書かれ、松嶋さんの本や、拙稿でも触れている。そして、その延長線上で、「施設化の何が問題か」を正面から取り上げ、バザーリアに関するイタリア語文献も用しながら議論を展開する、興味深い論文を、著者の鈴木さんから御恵贈頂いた。面白くて、一気に読んでしまった。

「施設の中で患者は精神医学の『対象』となり、医師の側から診断が下される。次に職員が行う一連の医療処置の『物体』となる。こうしたプロセスの中で患者は『自分自身を完全に見失ってしまう』、つまり自らの存在がもはや主体ではなく『客体』となっていくことに気付く。こうして施設内では、『対象化・物体化・客体化』という三重の意味での”モノ化”のメカニズムが作動していくことになる。」(鈴木鉄忠「”二重の自由”を剥ぎ取る施設化のメカニズム-F.バザーリアの精神病院批判を手がかりに-」社会学・社会情報学第25号 p140)
入所施設や精神科病院への批判は、僕も拙著の中で行ってきた。だが実際に、そうした施設・病院の職員と議論をすると、「僕たちだって一生懸命頑張っている」「帰るところのない人もいる」「今さら地域に戻しても、かわいそうなだけだ」といった反論が出てくる。僕は、そうした病院・施設の現場で、頑張って中身を変えようとしている職員がいる、ということは、理解している。でも、だからといって、入所施設や精神病院の構造を、そのまま続けても良い、とは思わない。それはなぜか、と言えば、鈴木さんが整理しているように、そういった環境では、「『対象化・物体化・客体化』という三重の意味での”モノ化”のメカニズムが作動して」いるからである。
これは、個人の資質や性格の問題ではなく、構造への問いである。福祉や医療という、人を支えるシステムが、障害や病気と診断を下し(=「対象」化し)、決められたルールに従う「物体」とみなし、主体性を失って客体化する。このプロセスそのものが、人間性を剥奪しているのに、その結果よだれを垂らしたり、生気を失った表情を見せた人々は、「病気や障害のせい」だから「しかたない」とされる。この「”モノ化”のメカニズム」によって、効率的に少ない人手で管理のしやすい「患者」「入所者」とはなるが、個性や尊厳、誇りや役割をもった「○○さん」の主体性は剥ぎ取られ、喪失していく。この主体性を剥奪する構造そのものが、問題なのである。つまり、そこで働いている人々の個人的努力や性格の良さ、だけでは、どうにもならない問題が、入所施設や精神科病院に代表される「施設化」の問題である。
そして、この施設化の問題点を、鈴木さんは「・・・からの自由」と「・・・への自由」の”二重の自由”の剥奪、と整理している。前者は、物理的な隔離拘束を指す。だが、そのような物理的な自由の剥奪は、同時に「人間らしい仕方で生きてゆく可能性にたいする、一定の、具体的・積極的態度」を、その被収容者から剥奪する。これは、「・・・への自由」とまとめられている。例えば、病棟転換型施設とか、あるいはグループホームなどでも決められたルールに雁字搦めになっている「ミニ施設化」された場所ならば、この「・・・への自由」は剥奪されたままだ。施設化とは、自由を剥奪することを通じて、人々を「モノ化」し、主体性を剥ぎ取る暴力装置そのものをさしている。しかも、それが法律や制度に則って、システマチックに、かつ標準化・規格化された形で行われる、という意味で、生権力の行使であり、集団管理型一括処遇がもたらす個人の無力化プロセスでもある。
この無力化プロセスを乗り越える糸口が、ゴリツィアの精神病院改革でバザーリアが取り組んだ、アッセンブレアと呼ばれる、患者と医療者の対話集会だった、というのも、なるほど、と頷かされる指摘である。
「この集会では患者自身に発言が求められる。自分自身のこと、人生や願望について、精神病院に居続けることの意味について、変えてゆくべき事柄について、意見が求められる。アッセンブレアを通じて『患者の自由意志と自己決定とコミュニケーション能力を蘇生させること』(大熊2014:54)により、『人間らしい仕方で生きていく可能性に対する、一定の具体的・積極的態度』と結びついた”・・・への自由”を取り戻していくのである。」(同上、p141)
モノ化され、主体性が剥ぎ取られた存在には、意見が聞かれない。聞かれないうちに、言いたい意見も抑圧され、失われていく。あるいは何を言っても「病気だ」とラベルを貼られたら、その空間で言う気もなくなる。こういう状況を変えるためには、まず患者自身が本当に思っていることを、安心して表明できる場が必要不可欠だ。それは、患者を「モノ」として扱わず、意見を持つ「主体」として受け止める聴き手が存在して、初めて可能になる。つまり、患者より、聴き手の医療従事者が、自身の患者との向き合い方を180度転換し、病院や入所施設の構造的暴力にも意識的であり、自由の剥奪から距離を置いて、患者ではなく「入院している○○さん」の声をじっくり聞こうという姿勢。それが、アッセンブレアという舞台だったのだ。
こう考えると、アッセンブレアとは、べてるの家の「当事者研究」や、オープン・ダイアログ、あるいは精神医療オンブズマン等の、源流にあるものだ、ということも見えてくる。このどれもに共通するのが、患者の声を「狂った人のおかしな発言」と決めつけるのではなく、「生きる苦悩が最大化した人(=主体)」による、必死の訴えであり、その人の生きづらさや生活のしづらさを本人の「声」として受け止め、そこから支援や治療のあり方を変えていこう、というプロセスである。さらに言えば、治療する・されるの関係であれば、医療者が支配し患者は依存的に従う、という関係性になりがちだが、共に課題を探り、問題を一緒に乗り越えていこう、という姿勢であれば、協働する、という関係性へと変容する事が可能だ。これは確かにパラダイムシフトであり、価値転換である。問題は、この価値転換を、医療者側が認めるか、という課題だが。
これに関連して、オープンダイアログに早くから着目している精神科医の斎藤環氏は、次の様に述べている。
「精神科医自身が、今まで、この内因性疾患についても、『脳の疾患であり、脳の疾患である以上は薬物治療が必須である』と教え込まされてきたわけです。世界中のマジョリティーの精神科医はそれを頑なに信じていて、脳の病気だから薬物治療だという等式はゆるぎないものです、いまだに。オープンダイアログがなぜ画期的かというと、そのゆるぎなかった図式に、ひびを入れるからです。(略) オープンダイアログが薬を一切使わないにもかかわらず、発症期の統合失調症を改善する力があるとすれば、投薬なしに治療できないと思ってきた前提が変わってくることになります。」(精神看護17(4):30)
実は、アッセンブレアの取り組みから、バザーリア達が産み出していったのは、「モノ」化した患者の主体性を回復することであった。それは明らかに、施設化された空間における投薬中心の治療より、効果的であった。つまり、投薬や精神病院が必要不可欠だ、という「ゆるぎなかった図式に、ひびを入れる」ことは、オープンダイアログが世界中に広まるより何十年も前から、イタリアで実践され、成果をもたらしてきたのである。その帰結は、必然的に以下のようになる。
「バザーリアは精神病院を『治療の場所』ではなく『施設化の場所』として捉えた。その『施設化』は患者に対して”モノ化”のメカニズムを作動させる。そうして最終的に患者の”二重の自由”を剥奪するところまで到達する。『施設化』の乗り越えは、入所者の”二重の自由”を守るという倫理原則を据えて、医師・患者の関係に象徴される非対称な関係を変容させるような、施設内の改革と地域支援サービスの構築、そして精神病院の『破壊』に求められたといえる。」(鈴木、前掲書、p143)
オープンダイアログが目指すのは、「医師・患者の関係に象徴される非対称な関係を変容させるような、施設内の改革と地域支援サービスの構築」である。確かに、これだけでも大きなパラダイムシフトがある。だが、本当に「非対称な関係を変容」させ、入所者の「”二重の自由”を守る」ことを念頭に置けば、精神病院という構造そのものの『破壊』は、その論理的帰結として必要不可欠である。イタリアで進んでいる司法精神病院の全閉鎖に向けた闘いは、まさにこの論理的帰結から生まれた、当然の方向性である。
本当に「治療」や「支援」を行おうとすれば、対象者の自己回復力や自己治癒力への働きかけも、必要不可欠である。だが、主体性が剥奪される場所では、自己回復力や自己治癒力も縮減する一方だ。利用者と支援者が非対称な関係性を乗り越えるためには、その関係性が暴力的に規定されている入所施設や精神科病院の構造的問題そのものが前景化され、その『破壊』こそが必要不可欠である、と改めて感じながら、鈴木論文を読みふけっていた。