ひきこもりの「声」と悪循環からの脱却

先週の金曜日、一見全くつながりのなさそうな二つのものが、カチリと僕の中で繋がり始めた。

一つは、山梨県立図書館で開かれた「ひきもり大学 in 山梨 思い込み学科」のイベント。地元紙、山梨日日新聞の「ひきこもり」の連載に実名で登場し、こないだ僕の地域福祉論にもゲストに来て下さった元ひきこもり当事者の永嶋さんから誘われて、参加した。このイベントにおいては、永嶋さんと、「ひきもり大学」の活動も応援し、「ひきこもり」当事者への取材や支援活動も続けているジャーナリストの池上正樹さんのトークと、グループごとに別れたグループトークと分かち合いの場、から構成されていた。
永嶋さんのお話は、前述の大学での講義でも伺っていたが、池上さんとのセッションの中でも、実に深い内容が語られていた。ご自身は、「アゲアゲ系とは真逆」と仰るように、しみじみとした語りだが、心に染みいるものがいくつもあった。例えば
「役割や肩書きがなくなることが、関係性の喪失につながり、ひいては社会との接点の喪失に繋がる。」「ひきこもりから出てくる時も、支援者と言われる人が、本人にどのように接するか、に、大きく左右される。たとえば支援者が『○○してあげる』という上から目線の、上下関係的な接し方ならば、それが嫌で再度ひきこもることもある」
「僕(永嶋さん)自身は、運良く共感できる相手と出会え、そこからフラットな関係性が生まれ、つながりが拡がっていき、そのプロセスの中で、実名で語れるようになってきた」
これらの言葉を実名で語る永嶋さん。なぜ、この言葉に迫力があるのか。それは、トークのお相手である池上さんの著書の中で、わかりやすく書かれている。
「『ひきこもり』という状態に陥る多様な背景の本質をあえて一つ言い表すとすれば、『沈黙の言語』ということが言えるかもしれない。つまり、ひきもる人が自らの真情を心にとめて言語化しないことによって、当事者の存在そのものが地域の中に埋もれていくのである。ひきこもる当事者たちの多くは、本当は仕事をしたいと思っている。社会とつながりたい、自立したいとも思っている。しかし、長い沈黙の期間、空白の履歴を経て、どうすれば仕事に就けるのか、どうすれば社会に出られるのか、どのように自立すればいいのかがわからず誰にも相談できないまま、一人思い悩む。」(池上正樹『大人のひきこもり-本当は「外に出る理由」を探している人たち』講談社現代新書、p10)
この「沈黙の言語」の「パンドラの箱」が、県立図書館という場において、少しずつ、開かれ始めた。言語化が始まった。埋もれていた、誰にも相談できない「声」が、再び産まれ始めた。もともと「声」がなかったのではない。「ひきこもる」ことによって、埋まり、押しとどめられ、「言語化」できなくなってしまった「声」が、ピアの仲間達が手作りで産み出した場において、再生し始めた、のだ。
当事者や家族、支援者達が自発的にボランティアとして集まって構成されたこのイベントは、行政主導のイベントとは違い、手作り感満載で、段取りも含めてゆるーい雰囲気で開催された。池上さん曰く、山梨は、自治体のひきこもり対策が最も遅れている県の一つ、だそうだ。でも、逆説的に言えば、だからこそ、行政主導型に時としてありがちな、形は立派だけど魂が籠もらないイベントではなく、魂が籠もった、参加者の胸に響くイベントが展開されていった。そして、その場に遭遇して、僕は新宿駅のコンコースの書店で買い求め、甲府に戻る車内で貪り読んでいた、一冊の本と、会場全体から伝わってくる「声」が、結びつき始めた。
「一般的には、その主な原因にはいくつか、たとえばAとBとCと・・・があり、Aがまず重要でおおよそ何%ぐらいの割合で影響があり、次にBで約何%の影響があって・・・と考えがちです。小さな原因から小さな結果が起き、大きな原因から大きな結果が起きる。これらを合算したものが全体の結果である、と。
私はこれを『線形思考』と呼んでいますが、こういうものの考え方をしてはいけないのです。なぜか。まず第一に、社会においては、さまざまな物事が関連し合い、関係が連鎖して運動しているからです。そこでは因果は一方向に流れるのではなく、循環しています。ですから、『原因→結果』という枠組みを外し、結果がまた原因に作用する『フィードバック』を重視すべきなのです。(略)
この相互促進作用、すなわち『ポジティブ・フィードバック』は、一旦作動を始めると想像も出来なかったような爆発的な結果を引き起こします。なぜならフィードバックのループが廻るたびに自己増殖的に結果が増えていくからです。」
安冨歩『満洲暴走 隠された構造 大豆・満鉄・総力戦』角川新書、p18-19)
共同研究もさせていただいている安冨先生の最新刊の主題は「満洲」。「緑に囲まれ虎も生きるユートピア」だった満洲が、わずか20年の間にはげ山にされ、「どこまでも続く地平線、果てしなく広がる大豆畑」に変容させられてしまった。その謎を解き明かす中で、日本の思惑や中国におけるアメリカやソ連との関係、および満洲の地理的・気候的・文化的独自性などを分析し、満洲統治的なエートスと「立場主義」日本社会の今日的暴走の起源を辿ろうとする、安冨先生渾身の一冊。その内容や分析にも、多くの学びがあるのだが、安冨先生が「満洲問題」を分析するために用いた方法論の部分が、ひきこもりの「声」を聴く際にも、すごく役立ちそう、という点を、以下述べていく。
ひきこもりの問題も、わかりやすい原因が特定か出来ない場合が多い。だが学校や福祉関係者だけでなく、当事者や家族だって、「○○(性格が優しすぎる・失業した・自己肯定感が低い・・・)のせいでひこもっている」と思い込みやすい。しかし、これは「線形思考」である、と安冨先生は指摘する。このような「『原因→結果』という枠組み」に囚われる限り、悪者探しは出来ても、ではどうすればそこから脱する事が出来るかが、不透明なままである。
一方、「因果は一方向に流れるのではなく、循環してい」ると考えるなら、「原因を特定する」という方法論は無意味である、ということが見えてくる。「結果がまた原因に作用する『フィードバック』」に着目するならば、「さまざまな物事が関連し合」うなかで、一旦家に「ひきこもり」、そのことによって、家族や世間との関わりが切れ、それが「沈黙の言語」になり、「当事者の存在そのものが地域の中に埋もれて」、さらにはその声が聴かれなくなり、するとますます本人が自己主張出来なくなり・・・と、「一旦作動を始めると想像も出来なかったような爆発的な結果を引き起こ」される『ポジティブ・フィードバック』が強化される、という悪循環構造が見えてくる。そして、ここ最近、「ひきこもり」が大きく社会問題化されているのは、その「フィードバックのループが廻るたびに自己増殖的に結果が増えて」、ひきこもりの人々の数が、ある閾値を超えたからではないか、と感じ始めている。
永嶋さんにも来ていただいた地域福祉論の授業では、ここ数年、「悪循環の高速度回転」という、安冨先生が『複雑さを生きる』で提唱された概念を用いて、学生達と考え合っている(この概念については、以前のブログにも書きました)。ひきこもり、だけでなく、ホームレスや、認知症、ゴミ屋敷、シングルマザー、児童虐待、ワーキングプアなど、様々な社会的問題に共通するのは、全て「悪循環」というフィードバックがポジティブに、つまり加速させるようにループしているからではないか、という仮説である。もちろん、ひきこもりとホームレス、シングルマザーなどでは、悪循環を構成する各要素は違う。でも、「ポジティブ・フィードバック」が強化され、「一旦作動を始めると想像も出来なかったような爆発的な結果を引き起こ」されたことで、社会問題化して表面化する、という共通点があるように思える。
そして、このようなポジティブ・フィードバックという「悪循環」を断ち切るためには、循環のどこか一部を強化したりするのではなく、どうしたら「悪循環の高速度回転」を脱却する事が出来るのか、の分析が必要不可欠である。地域福祉論の授業を通じて、様々な社会問題の「悪循環の高速度回転」を学生と考え続ける中で、僕はその脱却の手がかりが、「沈黙の言語」の賦活であり、言語化である、と感じている。
それがなぜ、「悪循環」から「好循環」へのスイッチングの手がかりなのか。そこには、二つのコミュニケーションパタンの切り替えの問題が潜んでいる。そして二つのコミュニケーションの違いを、安冨先生は正規軍とゲリラ戦の違いで説明している。
「先進国のような組織化、正規化された集団は、戦争になると強いのです。そして、攻撃を受けてある程度の被害が出ますと、国家が崩壊することなく、秩序を維持したまま敗北できるのです。(略)ところが、ネットワーク的で分散的な社会は、攻撃力は弱いのですが、どんなに攻撃されて犠牲が出ても崩壊しないので、負けません。というより敗北できないのです。」(同上、p70)
「満洲の地は、中国には珍しくネットワーク性が低くて、ピラミッド型の県域経済システムが支配する、非常に簡単な構造でした。だから関東軍が乗り込んできて、そこだけ占領すれば、満洲全体を支配できました。(略)それに対して中国本土、華北以南は、分散的・階層的な社会でしたので、県域と鉄道を支配しても何も起きませんでした。ゲリラは村々に引っ込んで、延々と『負けない戦い』を繰り広げ続け、正規軍つまり日本軍は、ただただ疲弊していったのです。」(同上、p71)
秩序が形成されたピラミット型の社会と、ゲリラ的なネットワーク的で分散的な社会。前者を上意下達的・中央集権的に指揮命令系統が整う一極集中的なコミュニケーションとするならば、後者はゲリラに代表されるように「ここで負けたらあっちへ行く、あるいは、あそこが負けても私は戦う」(同上、p69)という、一つの命令系統が切れても、別のネットワークで繋がっていく、分散的で複雑な関係性を維持しているのである。
これが、ひきこもりやホームレスを初めとした社会的弱者の話と何らかの関係があるのか?
私は「大アリだ!」と睨んでいる。
日本における福祉的支援とは、行政が絡んでいる場合には特に、正規軍的なアプローチになってはいないか。標準化・規格化されたサービス体系の中で、全国一律・公平中立を謳い文句に、ケアパッケージを提供する、という発想が、特に21世紀に入ってからの、介護保険や障害者総合支援法の枠組みに、しっかりと見えている。このこと自体の是非は置くとして、この正規軍的アプローチが十分に・うまく機能しないのが、ホームレスやひきこもり、ゴミ屋敷など、世間でしばしば「支援困難事例」とラベルが貼られるケースではないだろうか。
なぜ、これらのケースに「支援困難事例」というラベルが貼られるのか。それは、正規軍的アプローチが標準化・規格化した「想定」の「外」にあるケースだからである。正規軍的アプローチのルールの中に収まろうとしない・できない人々だから、である。多くの社会的弱者は、行政から給付される現物・現金給付という対価と引き替えに、その行政の統制の下に、自発的にであれ、嫌々であれ、入る。就労支援や生活介護など、様々なプログラムにも載ってくる。だが、現物給付や現金給付を、行政の管理・統制からの自由とトレードオフ的に受け取らず、ゲリラ的に「支配」に抵抗する人々のことを指しして、「支援困難事例」とは言っていないか。その際、現実的には、その一部は、「”支配”」困難事例、とも言えないか。
先の安冨先生の一節のゲリラをひきこもりに変えるなら、「ひきこもりは家々に引っ込んで、延々と『負けない戦い』を繰り広げ続け」ている、とはいえないだろうか? それに対して、正規軍的に「このようなひきこもり対策を全国・全県・自治体全体・・・で一律・公平中立に行います」というのは、方法論的失敗に陥るのではないだろうか。
では、どうすれば良いのか。
その芽が、金曜日のイベントで垣間見られた。それは、行政が主催する時にありがちな、統制の取れた集権的・秩序的コミュニケーションとは違う、草の根からの、ネットワーク的で分散的な「ゆるい」つながりをもとにしたコミュニケーションである。実はこの会場には、お顔を存じ上げている県や自治体の多くのソーシャルワーカーや公務員、民間のベテラン支援者達も参加していた。だが、誰も自らの立場や地位を全面に出していなかった。みなさん、ワッペンに自分のペンネームだけを書き、平場で語り合っていた。このような立場を超えたフラットな関係性の構築こそ、信頼関係を築く大前提なのである。「あたなと私」の関係が、「支援者と支援対象者」の前に、構築される。これが、分散的でネットワーク的なアプローチの肝である。このお顔の見える関係があるからこそ、人と人のつながりのネットワークの中で、その「声」が聴かれ、魅力が再発見されていく。
そういえば、ひきこもり支援で有名な秋田県藤里町社協では、ひきこもり対策に最初カウンセリングをしようして誰も集まらなかったのに、ヘルパー2級講座を開いたら、ひきこもり当事者が沢山参加した、という。これも、「沈黙の言語」に対して、「○○してあげる」という一方的で規範を押しつけるようなコミュニケーションであれば失敗したのに対して、社協の職員募集に履歴書を送ったひきこもり当事者の声を手がかりに、自らのアプローチを変え、その「沈黙の言語」を活かす形での支援を行ったことで、ひきこもり当事者が「声」を上げ初め、そのなかで、当事者が安心して語り合える居場所を提供し、ひきこもり当事者のリカバリー支援に結びつけていった。
行政や社協などの支援者の側が、勝手に創り上げた支援プランに基づいて、相手を当てはめようとする。これは、正規軍的アプローチの戦略や戦術である。でも、その正規軍的規範に同一化されな人々が、ひきこもりやホームレスなど「支援困難事例」という形で、「負けない戦い」を繰り広げている。それに対して支援現場は、「ただただ疲弊して」いるのである。であれば、コミュニケーションパターンそのものを変える必要がある。
ひきこもりが、「本当は『外に出る理由』を探しいてる」のに、「家々に引っ込んで、延々と『負けない戦い』を繰り広げ続け」ている」。
こう認識するならば、ひきこもりの「負けない戦い」の悪循環を、好循環に変える支援が必要だ。それは、「かわいそうなあなたに、支援者が○○してあげる」という上下的・統制的・正規軍的コミュニケーションをまず捨てる、ということである。相手の「沈黙の声」に思いをはせ、その声をじっくり聞く中で、相手との信頼関係を構築し、ひきこもりの当事者のネットワークの中に入り込む、ということである。まずは、ひきもる人が「心にとめて言語化しない」「自らの真情」を語るのを、じっくり伺う、ということである。この「沈黙の言語」の言語化支援こそ、実は障害者支援領域で言われているセルフ・アドボカシー支援そのものであり、そこからしか、悪循環は好循環に転換しない。
だが、「声」を取り戻し、「言語化」が始まると、「家々に引っ込んで」いる当事者が、「外に出る理由」を、仲間や家族、支援者と一緒に模索し、構築し始める。このプロセスの中で、「負けない戦い」でお互いが疲弊する現状を乗り越え、状況をひっくり返す方法論が見えてくるのである。
僕自身は以前拙著で、このセルフアドボカシー支援のことを、説得的な支配から納得に基づく支援への転換に絡めて論じたことがある。ここに接続させるなら、コミュニケーションパタンの転換、とは、正規軍的な「説得」アプローチから、ネットワーク分散型の「納得」アプローチへの転換である。前者では厚労省や政治家の「○○すべし」という規範に基づく中央集権的ルールが重要視される一方、後者では「沈黙の言語」の当事者の声を聴き、その微弱な声を増幅する中で、その声や「納得」に基づいた、その場その場でのローカルな・分散的なルールが適応される。前者が「沈黙の言語」を結果的に増幅させる、悪循環の高速度回転=ポジティブ・フィードバックの自己増幅であるとするならば、後者はフィードバックのループ構造を理解した上で、その悪循環から好循環へとループ構造の切り替えを促す、当事者主体型の変換プログラムである。そして、それは局所的でローカルな、草の根的なものである。
正規軍的な規範や統制、標準化が、制度化された福祉の領域では色濃く見える。だが、そのような「制度化された福祉」における「支援困難事例」だからこそ、ひきこもり支援においては、ネットワーク型・分散型の、ローカルでボトムアップ的な、ルール生成的な協働作業が、「沈黙の言語」を打ち破るためにも、非常に大きな力を持っている。そしてそれは、ポジティブフィードバックのループを悪循環から好循環へと移行させるために、必要不可欠である。
先週の金曜日は、改めてそんなことを感じた一日であった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。