価値前提を問い直す

安冨先生の新刊、『ありのままの私』(ぴあ)を拝読する。安冨先生に最初にお目に掛かったとき、確かチェ・ゲバラ風のヒゲモジャで、なかなか過激な東大教授、と思っていたが、その安冨先生が、無理をしない生き方を追求する中で、女性装をするに至った心的プロセスをわかりやすく語りかける一冊。ただ、いくら「ぴあ」が出している、タレント本的な体裁とは言え、あの安冨先生の本なので、単なる個人の体験記で終わるはずがない。やわらなかな文体の中に、本質を射貫く言動がしっかり内包されている。

「自分が『自分自身でないもののフリ』をして我慢していると、他の人が『自分自身でないもののフリ』をしていないと、腹が立ちます。なので、他人にも同じ事をするように強要します。特に、自分の子供にはとても厳しくそうします。こうして社会全体に、『自分でないもののフリ』が広がり、同時にストレスが広がってきます。」(前掲書、p17)
安冨先生が男装を辞めたのは、「自分でないもののフリ」をするうのを辞めた、からだという。でも、この「自分でないもののフリ」をしている人は、実はこの社会には沢山いるのではないか、というのが、この本の最大の問題提起の一つである。「よい子のフリ」「理不尽な指導・命令に素直に従うフリ」「親の言うことに逆らわないフリ」・・・などさまざまな「フリ」を演じているうちに、この「フリ」が内在化してしまい、自分自身が見失われ、その「フリ」をしない他者には暴力的な排除を行い、社会全体が悪循環に陥っていく。このまえがきを読みながら思い出していたのは、同じく安冨先生に勧められて読んだある本の一節だった。
「今日の精神病理学の矛盾は、何よりもまず、みずからの感情世界とのつながりを保つ以外の事はそもそも追求しない人々が病人であると分類されていて、このつながりから逃れようとしている人々は病人とされないことだ。」(アルノ・グリューン『「正常さ」という病』青土社、p28)
先ほどの「自分でないもののフリ」をしている人、とは、「みずからの感情世界とのつながり」「から逃れようとしている人々」のことである。しかも、その人々は、そういうフリをすることで、社会的地位や特権、立場を獲得している。それって、グリューンのタイトルにあるように、『「正常さ」という病』そのものである。ということは、「みずからの感情世界とのつながりを保つ以外の事はそもそも追求しない人々」を「精神病」とラベルを貼って排除することは、「みずからの感情世界とのつながり」「から逃れようとしている人々」の、その「フリ」を、明らかにしないための、スケープゴート的な営みなのかも知れない。感情世界とのつながりを正直に保とうとする「あいつはオカシイ」、と排除しておけば、それが出来ていない「自分はオカシクナイ」、と「正常」の世界にとどまれる。そのような暴力的な装置が「フリ」であり、「感情世界とのつながり」の回避ではないか、と見えてくる。グリューンはこうも続ける。
「狂気を巧みに隠している人々の場合には、権力の追求が、差し迫っている内面的な混沌と内面的な破壊を防ぐ唯一の道となる。空虚を、自分自身の内面的な空虚と認識しなくてすむように、彼らは破壊と空虚とを自分の周りに創り出す。」(同上、p30)
「自分でないもののフリ」をしている人、とは、「みずからの感情世界とのつながり」から逃れている、という意味で、「狂気を巧みに隠している人々」である。ただ、「自分でないもののフリ」をすることは、あまりに 「空虚」である。ゆえに、その「空虚」が自分の中に蔓延すると、生きていられなくなる。その「差し迫っている内面的な混沌と内面的な破壊を防ぐ唯一の道」が「権力の追求」というのだ。そう言われてみると、「自らの感情世界とのつながり」を切って、「権力の追求」に邁進している人の顔が浮かぶ。
たとえば出世コースをひた走るエリート社員、だけでなく、大学教授や霞ヶ関の官僚の中にも、このタイプの人が、確かにいる。それらの人に共通しているのは、露骨な言い方をすると、顔が歪んでいる、ということだ。それは、「狂気を巧みに隠して」「自分でないもののフリ」をしているがゆえに、その暴力性が顔に抑圧の兆しとして出ているから、とも言えるかも知れない。そういう権力志向の人々は、感情世界とのつながりだけではなく、自己正当化の為に、時には論理的一貫性をもスルーする(そのことは前回のブログで検討した)。「攻撃は最大の防御だ」とばかりに、他人に罵詈雑言を言い立てたり、詭弁や嘘を平気で繰り出す。それは、「自分自身の内面的な空虚と認識しなくてすむように、彼らは破壊と空虚とを自分の周りに創り出す」営みそのものなのだ。そういう詭弁をまき散らす人って、例えば政治家あたりに沢山思い浮かんだりもする。
この暴力的な「自分自身でないもののフリ」は、大きなシステムを回す上での原動力であったりするから、タチが悪い。そして、その「フリ」からの離脱とは、ある種、システムへの最大の抵抗でもある。
「精神分裂病の分裂は、感じることの統一性、つまり、内面世界との接触を保とうとする試みである。彼らの『狂気』は、作られて強制された『統一』-実際は統一ではない-に対する抗議だ」(p29)
世間が「狂気」という形でラベルをはる表現形式は、実は「作られて強制された『統一』」への「抗議」である、という。これは「感じることの統一性、つまり、内面世界との接触を保とうとする試み」という「自分自身であること」をやめるように、そして「自分自身でないもののフリ」を「強制」するようにする、「正常さという病」への命がけの「抗議」とも見えてくるのだ。ここまで考えていくと、イタリアの精神病院をぶっつぶした医師、フランコ・バザーリアの言葉にも突き当たる。
「規範の定義は、明らかに生産と同時に起こっている。そのことは、社会の端にいる人間は誰でも逸脱者として現れることとを意味している。逸脱行為は、価値の裂け目であり、それゆえこれと同じような価値は、この価値観を破る人は誰でもアブノーマルであると科学的に分類することによって、擁護され強化されなければならない。(略) 本人の選択によって、あるいは必要性に迫られて、生産役割を担えない人間や消費者になることを拒否する人間は、適切な科学的イデオロギーを通じて、規範とその境界を擁護することを強いられなければならない。」(Scheper-Hughes, Nancy and Anne M. Lovell eds., 1988, Psychiatry Inside Out: Selected Writings of Franco Basaglia New York: Columbia University Press. pp105)
正常と異常とは、ある価値規範によって分類される概念である。しかも、バザーリアは、その価値規範は、生産(production)や資本主義と結びついている、という。つまり、資本主義社会の価値前提に適合的な人は「正常」であり、その資本主義や、今なら新自由主義的な価値前提を確固たるものにするために、この「価値観を破る人は誰でもアブノーマルであると科学的に分類すること」が科学には求められている。バザーリアは、この「客観性」を装った科学の中に内包されている価値前提そのものを疑ったのであった。(バザーリアの「科学」批判については、拙稿でまとめたことがあります→「病気」から「生きる苦悩」へのパラダイムシフト : イタリア精神医療「革命の構造」
先に検討したように、グリューンは「今日の精神病理学の矛盾は、何よりもまず、みずからの感情世界とのつながりを保つ以外の事はそもそも追求しない人々が病人であると分類されていて、このつながりから逃れようとしている人々は病人とされないことだ」と述べた。「みずからの感情世界とのつながりを保つ」ことは、本来であれば、「自分であること」を保ち続けることであり、「正常」なはずである。しかし、資本主義や新自由主義の価値命題を重視するなら、話は別である。「24時間戦えますか?」というフレーズはさすがに死語になったが、生産性を至上主義とし、自己啓発をとことん称揚し、四半期決算で儲けが出るような「ニーズ」ばかり探す。これは、株式会社だけでなく、学校や病院などの非営利法人にもどんどん蔓延している、資本主義的なルールである。例えば、大学が「市場に役立つ人材」の供給を経済界からしつこく言われる風潮も、その一端である(そのことも批判したことがある)。
「みずからの感情世界とのつながりを保つ以外の事はそもそも追求しない人々」とは、「本人の選択によって、あるいは必要性に迫られて、生産役割を担えない人間や消費者になることを拒否する人間」である。こういう生産至上主義の価値前提を「逸脱」する人を認めていたら、そういう人が増えたら、生産至上主義という価値前提そのものが転覆されなかねない。ゆえに、「適切な科学的イデオロギーを通じて、規範とその境界を擁護すること」が、医学という「科学」に求められる。それが、「精神医学」に着せられた「科学的イデオロギー」の内実であり、診断し、病名をつけ、ラベルを貼る精神医療は、そのプロセスを通じて、「正常」な社会の「規範」を防御する、「社会防衛」的な機能を保持しているのだ、とバザーリアは喝破する。
実は、安冨先生の著書の中で、この話に通底する部分が出てくる。安冨先生は、「性同一性障害」という言葉が「大嫌いだ」と述べている(p139)。その理由を、この翻訳語の元表現である、gender identity disorderの定義や一神教社会におけるアイデンティティの定義にさかのぼって分析している。
「このdisorderは一番目の『無秩序』と解釈しないと意味が通じません。つまり、『性同一性無秩序』という意味です。何が『無秩序』なのかというと、男の身体で自分が男だと思っていれば『秩序』立っていて、男の身体のくせに女だと思っているのは『無秩序』だ、というわけです。どうして『秩序』という言葉が出てくるのかというと、赤ん坊を男女の集団に割り当てる、という儀礼を行う以上、その子供がそれぞれの性別の集団の規範や文化に順応するように期待されているからです。これが期待通りにいけば『秩序』ですし、期待がはずれて、男のくせに女の服を着たりすると、『無秩序』です。(略) 子供が生まれたら男集団・女集団に振り分けて、それぞれの集団にふさわしい振る舞いをするように圧力を掛けます。これによって『帰属』という『アイデンティティ』が生まれるのです。こうして子供は、何かに『帰属』して、その規範なり文化なりを、自分の中に取り込む、という変な能力を身につけます。この変な能力を『秩序』の基盤だ、と人々が認識しているわけです。この帰属意識の形成がスムーズに行われるなら、社会の『秩序』が成り立ち、それができないと『無秩序』になって社会が崩壊する、と思い込んでいるのです。」(安冨、同上、p146-147)
性同一性「障害」とは、端的にいって、性同一性「無秩序」である、と喝破する。それは、「男は男らしく、女は女らしく」という「秩序」や「規範」を撹乱する要素があるからである。社会が個人に「それぞれの集団にふさわしい振る舞いをするように圧力を掛け」ているのに、それよりも「みずからの感情世界とのつながりを保つ」ことを優先する人が現れると、それは圧力漏れであり、「秩序」や「規範」に対する重大な挑戦となる。それは、社会の価値観への「帰属意識の形成」にとっても脅威なだけでなく、「『無秩序』になって社会が崩壊する、と思い込んでいる」。その「思い込み」から、「無秩序」の状態を何とかして秩序化しよう、という試みがうまれる。そこに、医学という「適切な科学的イデオロギーを通じて、規範とその境界を擁護すること」の根拠が生まれて来る。これは、客観的ではなく、ある価値前提を護ろうとするイデオロギー的な振る舞いである。そのことについて、安冨先生も次の様に鋭く切り込んでいる。
「男女区別主義者にとって、『性同一性障害』という概念は実に便利です。というのも、男女の帰属を乱す者は『かわいそう』な『障害』を持っている『異常者』だ、と思えばいいからです。なので、そういう『障害』のある人は、手術を受けて本人が帰属したいと思っている集団にふさわしい身体に変造してしまえ、ということになります。これが性別適合手術の社会的意味です。男のくせに女だと思っているのなら、女っぽい身体に変造して、それで、『女の身体で女の心』という秩序状態を回復することができます。
『そうすればあなたも幸せでしょ? 女になりたいんでしょ?』
というわけでですが、目的は他人の幸福ではないのです。彼らが狙うのは、社会の表面的秩序の維持です。」(同上、p148)
「社会の表面的秩序の維持」とは、新自由主義的な価値前提が維持されること、とイコールだという仮説を立ててみよう。「男は男らしく、女は女らしく」というのは、性別役割分業の強化である。今の日本社会では、男女平等とはほど遠く、企業や行政の幹部、政治家はいびつに男性の割合が高い。この国では、会社で長く働くためのベビーシッターを所得控除にしようと国は検討する一方、北欧のように男も女も午後3時か4時に帰宅して、子育てを協働で行うような価値観は共有されていない。つまり、滅私奉公的な会社至上主義的な価値前提は問われる事なく、日本的な資本主義を維持してきていた。その前提や「秩序」を、「男女の帰属を乱す者」は壊しかねない。
だが、これは、「男女の帰属」に限ったものではない。「社会の表面的秩序の維持」を最優先にする人、とは、「みずからの感情世界とのつながり」を置いてけぼりにしている人、である。それは、冒頭に引用した安冨先生のフレーズを思い起こさせる。
「自分が『自分自身でないもののフリ』をして我慢していると、他の人が『自分自身でないもののフリ』をしていないと、腹が立ちます。なので、他人にも同じ事をするように強要します。特に、自分の子供にはとても厳しくそうします。こうして社会全体に、『自分でないもののフリ』が広がり、同時にストレスが広がってきます。」(同上、p17)
「自分でないもののフリ」をして、必死に「感情世界とのつながり」を切って、「社会の表面的秩序の維持」 に貢献している。そういう「秩序」や「規範」を必死に護ったり、維持したりすることにのみ、自らの心身のエネルギーを傾けている人にとっては、「自分自身でないもののフリ」を「強要」しても、それに従わず、「みずからの感情世界とのつながりを保つ以外の事はそもそも追求しない人々」や「本人の選択によって、あるいは必要性に迫られて、生産役割を担えない人間や消費者になることを拒否する人間」とは、自分の必死の努力や我慢を「否定」する存在にうつる。そもそも、自分自身が「自分であること」を否定して秩序や規範と同一化しているのだが、そのことはさておいて、その秩序や規範から「逸脱」しているように見える人の方を攻撃したくなるのだ。そこで、「医学」という「科学イデオロギー」が登場する。
「そういう『障害』のある人は、手術を受けて本人が帰属したいと思っている集団にふさわしい身体に変造してしまえ」いう価値前提が付与された「性別適合手術」とは、社会の規範や秩序を護る社会的な意味がある。だからこそ、「男女区別主義者」にとっても受け入れられる手術なのである。これは、精神科医が、正常と異常を区別、分類するプロセスに非常に似ている。社会の規範や「表面的な秩序の維持」を最優先にせず、「自らの感情世界とのつながり」を第一義的に扱う人は、精神科医によって「異常」とラベルを貼られる。このラベリングのプロセスとは、「適切な科学的イデオロギーを通じて、規範とその境界を擁護すること」である。「あいつ」は「異常」「障害」である、と境界を定めることにより、そう判断する「わたしたち」は「正常」であり、「健常」である、という「規範とその境界を擁護すること」につながるのである。
ながーい論考になってしまったが、今日のブログの最後を、バザーリアの次の発言で締めくくりたい。
「本当の問題に直面するためには、私たちは事実全体に対して、疑いを挟まなければならない。(To confront real problems we must put into question the whole of reality.)」(pp133)
安冨先生やグリューン、バザーリアは、表面的な異常や逸脱、差異にではなく「事実全体」に対して「疑いを挟む」ことによって、私たちが正常と異常、規範と逸脱、健常と障害、などをわけている、その価値前提そのものの恣意性やイデオロギー的歪みそのもの、という「本当の問題」に立ち向かっているのかもしれない。その価値前提の問い直しこそが、「自分自身でないもののフリ」から逃れ、「みずからの感情世界とのつながり」を取り戻す、重要な一歩になると感じている。

「一番病」と「魂の植民地化」

鶴見俊輔の対談を読んでいて、すごくアクチュアルに響く表現が出てきた。彼は、自分の父で戦後に厚生大臣になった鶴見祐輔のことをさして「一番病」である、と喝破する。

「そもそも親父は、勉強だけでのし上がってきた人だったんだ。貧しい生まれで、一生懸命に勉強して、一高で一番になるところまではきた。それで後藤新平の娘と結婚したんだ。そうやって勉強で一番になってきた人だから、一番になる以外の価値観をもっていない。そういう一番病の知識人が、政治家や官僚になって、日本を動かしてきたんだ。」(『戦争が遺したもの』鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二著、新曜社、p16)
「みんな知識人になろうとして、試験で模範答案を書こうとする。だから自由主義が流行れば自由主義の模範答案を書き、軍国主義が流行れば軍国主義の模範答案を書くような人間が指導者になった。そういう知識人がどんなにくだらないかということが、私が戦争で学んだ大きなことだと思う。」(同上、p17-18)
「一番病」の知識人にとって、自らの言説の論理一貫性よりも、「一番になる」ことの方が優先順位が高い。普通考えれば、自由主義と軍国主義は全く違うベクトルを向いていて、同じ人がその言説を変えることは、その論理を心の底から信じるなら、文字通りの「転向」になるほど、身もだえの苦しさがあってもおかしくないことだが、それを「知識人」達は易々とやってのける。それは、彼らにとって「知識」とは「一番になる」ための「模範答案」であり、「一番になる」という究極の目的のための「手段」にしかすぎない。だから、その時々で、「一番」になれるために、「知識」を入れ替えていく。それが、真逆の価値であっても、そんなのはどうでもよい。大切なのは、「知識」の価値や論理の首尾一貫性ではない。自分が一貫して「一番なる」ことができるかどうか、が最大の関心事なのだ。
僕自身は幸いにも、このような論理構造には陥っていない。だが、大人になって、賢くて優秀なはずの「知識人」たちが、論理矛盾する事を平気で口にするのを垣間見て、理解できない場面に何度か遭遇する。その度に、その人の論理一貫性の崩れを指摘するが、相手は全く意に介さない。あんなに賢い人が、なぜ論理矛盾に平気なのだろうか、と疑問だったが、「一番病」という概念を聞いて、氷解する。つまり、論理一貫性よりも、「一番であること」のほうが、自分の価値前提としての優先順位が上なのだ。であれば、論理の崩れをいくら指摘しても、相手には響かないのである。だって、論理を一貫したところで、今は時流が変わり、それを主張しても一番になれないから、である。その時々に「一番」になることだけを気にして、いくら論理矛盾や嘘をついても、そのことを気にしない。そういう論理構造の人々が、「政治家や官僚になって、日本を動かしてきたんだ」というのは、戦後70年経っても変わらない事態だと感じる。(そのささやかな観察記録は、ブログネット上の論考に書いている。だがこの論理矛盾を突く批判は、一番病の人には、痛くもかゆくもない指摘である、と今ならわかる。)
この「一番病」には、どのような構造的背景があるのか。それをぼんやり考えていたとき、書架から一冊の本が「おいで、おいで」しているのがわかった。久しぶりに手に取った本を再読して分かったこと、それは「一番病」には、「蓋」と「箱」が機能している、ということだ。
「社会でよりよく生きるために、自分の本性に『蓋』をして、獲得された人格を懸命に生きようとする場合、もっとも恐れるのは、自分本来の本性を覗き見ることであろう。自分でも本性の姿を忘れてしまえるほど分厚い『蓋』を構築し、社会の期待する自己を首尾よく演じた場合には、もはや自分自身の本来の魂は、暴力的な発露の機会でもうかがう以外に表出する可能性はまずない。あるいは、それが内側に向かって蓄積されてゆく場合には、身体を蝕み、自己の崩壊を招く。」(『魂の脱植民地化とは何か』深尾葉子著、青灯社、p24)
「一番病」とは「社会の期待する自己を首尾よく演じ」ることである。その為に、「自分の本性に『蓋』をして、獲得された人格を懸命に生きようとする」ことである。僕の最初の単著、『枠組み外しの旅』を導いて下さったお一人であり、この本も含まれた「叢書 魂の脱植民地化」の第一巻を書かれた深尾先生の著書を読み返して、改めて「一番病」とは、「自分でも本性の姿を忘れてしまえるほど分厚い『蓋』を構築」する、「魂の植民地化」状態である、と気付く。この際、誰が植民地の支配者か、といえば、「一番」と評価する「社会」や「世間」である。その「世間」の評価する「模範解答」を書こうと「懸命」に頑張ることは、「自分本来の本性」=「魂」に「蓋」をすることである。その上で、魂とは切り離された部分で、「蓋の上の人格」を構築し、その「蓋の上の人格」が「社会の期待する自己を首尾よく演じ」ることによって、「一番」はとれる。だが、魂とは切り離されているので、その人の言説にはぶれがあり、時流の変化に合わせて主義主張が変わり、論理一貫性の崩れを指摘されても、「一番」を取るために平気で抗弁ができる。そこには、「蓋の上の人格」を生きる上での「箱」が機能している、と深尾先生は指摘する。
「『箱』とは『蓋』によって押さえ込まれた魂の上に出来上がった空間で、そこには何でも挿入できる『空箱』が用意されている。そもそも『魂』と断絶しているため、そこに注入するものは何でも良い。母親の期待、何らかの教条主義的思想、アイドルスター、さまざまな知識でもいい。要は自分自身を構成する何か都合の良いものをそこに充填して、あたかもそれが自分であるかのように同一視することが大切だ。先の多重の役割を演ずる人は、この『箱』がいくつかの部屋に分かれていたり、さらに偏差値が高く情報を収集するのに長けたタイプの人間は、箱がまるで蜂の巣の小部屋のように沢山用意してあり、その対象となる事象ごとに、必要な知識が分類していれてあり、必要に応じて、必要な箱を開けて情報を取り出すシステムになっている。(略) 当然これらの情報は『情動』とは断ち切られていて、それぞれの箱の中の情報の整合性に主たる注意が払われ、箱と箱の関連性については必ずしも十分に考えられているとは言い難い。」(同上、p287-288)
例えば冒頭の例を用いるなら、自由主義と軍国主義は、相容れない二つのイズム、である。だが、それを「知識」として「箱」の中に「収集」すると、どういう事が起きるか。「一番病」の人は、「必要に応じて、必要な箱を開けて情報を取り出すシステム」を活用する。だが、その「箱」の中に入っているものは、本来なら単なる情報や知識ではない。自由主義も軍国主義も、その人の魂や情動に結びついている時、それらの価値や思想を「生きる」ことができる何か、である。だから、自由主義と軍国主義を、何の苦しみもなく1人の人間の中で両立させることは、本来はできないはず、である。
しかし、「箱の中の情報の整合性に主たる注意が払われ、箱と箱の関連性については必ずしも十分に考え」ない人なら、話は別になる。軍国主義と自由主義の関連性を検討しないで、それぞれの「主義」の「整合性に主たる注意が払われ」るだけならば、ある優勢な「主義」の「模範解答」を書くことにのみ、エネルギーが注がれる。時流が変わり、別の「主義」が主流になれば、その別の「主義」の「箱」を引っ張り出し、その「模範解答」を書くことに、重きがおかれる。以前の主義と今の主義の「関連性」について、検討はなされない。なぜなら、そもそもその人にとって、そこは「空箱」であり、「『魂』と断絶」されているからだ。「魂」の一貫性は全く「蓋」がされていて、「一番病」を満たすための「知識」に専心し、「あたかもそれが自分であるかのように同一視すること」によって生き残ろうとする生存戦略だからである。
そういう人を、私たちは、「空虚な人」という。そう、沢山の「空箱」を抱えた人のことである。だが、沢山の「空箱」を抱えた「空虚な人」は、見た目ではそれとは逆の、エネルギッシュな人、に映る場合もある。深尾先生は、そういう人種を、次の様に描く。
「自分自身の魂に蓋をして、その閉じ込めたエネルギーで、前に進む。一見エネルギッシュで、精力的であるととらえがちであるが、当の自分自身は、重い蓋の下に閉じ込められているので、少しも楽にならない。どんなに努力しても、どんなに自分に欠乏しているものを求めても、そこには答は見いだせない。これはまさに本稿で示した『蓋の上の人格』そのものであるといえよう。しかし、蓋の上の人格が自分自身であると確信し、それにしがみつこうとしていた当時の自分自身には、永遠に解くことができない苦しみが、自分を取り巻く外部世界に存在し、それに対し、もがいてももたいても、より一層強く自分自身に襲いかかってくると、認識されていた。まさかそれが真の自分に対する『蓋』に由来するものであるとは、理解できず、何をやっても抜け出せない絶望感と徒労感に苛まれていた。これもまた本稿の冒頭に述べた『自己呪縛』そのものである。」(同上、p54)
「箱」の中身を次々に入れ替えて、世間の時流に合わせて「模範解答」を書き続ける。これは確かに、「一見エネルギッシュで、精力的であるととらえがちである」。でも、それで「一番」が取れても、何も安心ができない。なぜなら、『蓋の上の人格』を前提にしているならば、「永遠に解くことができない苦しみが、自分を取り巻く外部世界に存在し、それに対し、もがいてももたいても、より一層強く自分自身に襲いかかってくると、認識され」るからである。自分自身の魂ときちんと向き合う事なく、「自分を取り巻く外部世界」にのみ目を向け、その他者の目にのみ迎合的になり、自分自身に「蓋」をすると、「何をやっても抜け出せない絶望感と徒労感に苛まれ」るのである。だから、「一番病」の人は、一番をとっても、全然安心ができない。一番をとり続けるための「抜け出せない」不毛な戦いにエネルギーをどんどん吸い取られていくから、である。
では、この「一番病」や「魂の植民地化」状態から、どうすれば抜け出せるのであろうか。
「『蓋の上の人格』については、当然社会生活を送る上で必要なものだ、むしろ、『本性』のままに振る舞うような人間ばかりが跋扈するならば、社会は秩序なき混乱に陥ってしまう、といった反論が聞こえてきそうだ。しかし、本書では、そんな反論を想定しつつなお、『魂の声に従って生きる』ことの重要性を根幹に据える。なぜなら魂を封じ込めていかに知識や人格や能力を構築しても、そこには生きるエネルギーを創成する力は備わっていないからだ。」(同上、p295)
「他者への暴力や支配、ハラスメントのより少ない社会は、より大きなハラスメントや支配によっては決してもたらされるものではなく、暴力やハラスメントに荷担する個々人の魂を封殺する『蓋』を揺り動かし、その下に閉じ込められている魂を解放することによって実現に一歩近づくのではないか。我々は、暴力を組織化する言説化された世界を、直接攻撃するのではなく、その暴力を産み出す1人1人の魂が『生きられる』状態にするという『難行』を達成する必要がある。そしてそれにはまず、自らとその周辺の人々の魂が『生きられる』社会を自らの周辺に構築する、というこれまた至極困難な課題に直面せねばならない。」(同上、p296)
なぜ「魂の声に従って生きる」=「本性のままに振る舞う」ことが、ネガティブに捉えられるのか。それは、世間や同調圧力が求める「模範解答」に、唯々諾々と従う事を拒否するからである。「魂」に「蓋」をして、「蓋の上の人格」を生きている人々にとって、自分が必死になって従っている「模範解答」を易々と踏みにじることは、社会に「秩序なき混乱」をもたらす脅威に映る。だから、あらん限りの知識や権威を用いて、そのような「混乱」を阻止しようとする。それが、「他者への暴力や支配、ハラスメント」につながるのだ。
これに対抗するためには、「暴力やハラスメントに荷担する個々人の魂を封殺する『蓋』を揺り動かし、その下に閉じ込められている魂を解放すること」が必然的に重要になる。「生きるエネルギーを創成する力」を取り戻す為には、『魂の声に従って生きる』しかないのだ。「自らとその周辺の人々の魂が『生きられる』社会を自らの周辺に構築する」ことによって、「本性」のままに振る舞う人間が、消して「秩序なき混乱」を作り出す元凶ではない、ということがわかる。むしろ、「一番病」の人々が構築してきた「秩序」そのものが、砂上の楼閣であり、時流が変わればあっという間に180度変わる虚構である、と見えてくる。このような虚構的な秩序を「模範解答」として信奉する「自己呪縛」から抜け出すことが、必要不可欠なのだ。
「他者への暴力や支配、ハラスメント」といった「暴力的な発露の機会」は、「それが内側に向かって蓄積されてゆく場合には、身体を蝕み、自己の崩壊を招く」。少なからぬ「一番病」の人が、病に倒れたり、アルコールや暴力に依存したり、自死に至る危険性を抱えている。それは、魂と切れた虚構を追求するがゆえの、「蝕み」や「崩壊」なのである。
平気で論理矛盾する「政治家や官僚」を「直接攻撃」しても、彼ら彼女らは、その時流の求める「模範答案」を書くことに必死であり、論理破綻の指摘は、痛くもかゆくもない。肝心なのは、「個々人の魂を封殺する『蓋』を揺り動かし、その下に閉じ込められている魂を解放すること」である。そのためには、安直に聞こえるかもしれないが、僕自身が魂に「蓋」をせず、「箱」の知識をひけらかさず、「自らとその周辺の人々の魂が『生きられる』社会を自らの周辺に構築する」ことを愚直に実践するしかない。そして、この「蓋」の揺り動かしや「魂の解放」を通じて、「1人1人の魂が『生きられる』状態にするという『難行』」が実現される、ということこそ、実はリカバリーへの道そのものである、と感じ始めている。