2015年の三題噺

ここ数年は、一年最後のエントリーはその年を三題噺で振り返る、という題目である。この1年をどう振り返ってみるか、書き始めた段階では一つ目しか浮かんでいないけれど、とにかくそれからスタートしてみよう。

1,精神医療の社会学、という「原点回帰」
事の発端は、9月に訪れたトリエステだった。雑誌「福祉労働」に、精神病院を廃止したイタリアの医師フランコ・バザーリア、脱施設化の旗手であったスウェーデンの理論家ベンクト・ニィリエ、そして権力関係の認知転換を『被抑圧者の教育学』で説いたブラジルの哲学者、パウロ・フレイレの三人を巡る連載をしはじめた。その連載もあって、イタリア・トリエステに、バザーリアの実践の「その後」を調べに出かけた。
その時、時間を取って議論につき合ってくれたのが、現トリエステ精神保健局長のロベルト・メッツィーナ。2014年の11月に日本での講演を聴いて、そのロジカルでパワフルな語り口に感銘し、その続きの話をしたい、とトリエステに押しかけた。そして、彼と議論をしている最中に、ふと気づいた事がある。「精神医療の社会学を、自分はきちんと追い求めなければならない」と。
大学院のフィールドワークは精神病院だったし、2003年に提出した博論は、「精神障害者のノーマライゼーションに果たす精神科ソーシャルワーカーの役割と課題」だった。博論の一部は『枠組み外しの旅』にも入れ込んだし、関わり続けているNPO大坂精神医療人権センターのことや、アメリカでの権利擁護研究のまとめは『権利擁護が支援を変える』にも整理して入れ込んだ。とはいえ、この二冊で「仕上がった」訳ではない。まだまだ精神医療の問題について、病棟転換型施設の問題や、精神科病院が「司令塔役割」と位置づけられた認知症の「オレンジプラン」問題など、追求すべき課題は沢山ある。でも、どこかで、「精神医療の問題は、二人の師匠(大熊一夫さん大熊由紀子さん)の仕事だから」と遠慮していた部分もあった。
でも、ロベルトと議論しているうちに、社会学者としてきちんと精神医療の現状と課題を整理したり、どう変えていくべきか、について整理するのはとても大切な仕事だ、と改めて認識する。精神科医や看護師、当事者などの様々なアクターがどのように構造転換に関われるか、を社会学的な視点で分析したり、提起する仕事が必要かも知れない。そう思い始めたのは、イタリアに行く前にフィンランドでオープンダイアローグの現地取材をした事も大きいのだが、このトリエステ方式とオープンダイアローグの事を色々読んだり、考えたり、話したりしているうちに、この3ヶ月はあっという間に過ぎた。久しぶりに研究が滅茶苦茶面白いし、何というか、一から学び直している、という感覚が強い。大学院生に戻ったようだ。そういう意味では、40才という文字通りの「人生の正午」で、原点回帰の一年になったようだ。
2,ダイアローグを本気で考える
先に触れたフィンランドのオープンダイアローグについて、11月末東京で、ケロプダス病院の医師と看護師を招いた講演会が開かれた。その際の前座で登壇した僕は、「精神病院の中でのオープンダイアローグは、権力関係を問うことなく行うなら、矛盾である」と発言した。そのことについて、「反精神医学だ」とラベリングされたり、「トリエステ主義者がオープンダイアローグを乗っ取ろうとしている」と揶揄されたりもした。なぜ、そんなラベリングをされるのか、が全くわからず、ずいぶんくたびれた。

でも、結局精神医療について本質的な議論をするとき、このような既存の精神医療の構造そのものを問い直すか、現状や病棟の中で出来る可能性を探すのか、が二項対立的に分かれて、その溝が深い、ということを、改めて学んだ。これは、前回のブログでも書いたが、原発や辺野古移設を巡る賛成派と反対派と同じくらい、溝が深い、ということも、よく分かった。これらの問題に関して、「意見の対立を避け、お互いもう少し歩み寄って、相手の立場を理解しよう」という形でアプローチすると、どちらかに取り込まれるか、激しい反発を食らうか、という二項対立図式から逃れられないことも見えてきた。

ではどうしたらよいのか。まだ完全なる解法は見えていない。だが、12月にトリエステのバザーリアセミナーで伺ったTrialogueというアプローチが、一つのヒントになるのかもしれない。ダイアローグが二者の対話だとするなら、トライアローグは三者の対話。精神病院で言うなら、本人と家族と支援者が、対等な立場で話をする、ということ。これは治療ではなく、お互いの理解を深める為の対話で、病院でも患者の家でもない、公共の施設などで行う、という。オープンダイアローグが治療関係のパラダイムシフトだとするならば、トライアローグはその前提というか、互いの認識や価値観の違いを認め合う基盤作りだ、と、この考え方を提唱したウィーンの精神科医、アメリングさんは述べていた。

異なる価値前提の人々が、お互いを糾弾し合うことなく、自分の価値前提を見つめ直し、相手の価値前提を学び、その中から「ともに」考え合い、別のアプローチを協働して作り上げていく。これって、自立支援協議会や地域ケア会議で求められていることでもあり、僕自身が色々な研修の場でも大切にしてきたことである。それらの研修が僕にとってのOJTになって、研修における価値前提の違いを乗り越えるファシリテーションは、それなりに出来るようになってきたのかも、しれない。そして、僕が学んできたこの方法論は、精神病院や入所施設の価値前提を捉え直すためにも有効な方法だ、というのは、頷ける。大切なのは、誰かを責めたり糾弾したりすることなく、でも支配-被支配の関係を超えた場をどのように設定するか、ということである。このようなダイアローグの場を作り上げることが出来るか、は、来年に向けた宿題でもある、と書きながら感じた。
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3,出張と座談を繰り返す
9月以後、大きく僕の中で認知転換を果たしていったが、そもそも今年は出張や様々な人との座談・議論の場が多かった。グーグルカレンダーで振り返ってみると、主なものだけでも、こんな感じ。
海外出張:ニューヨーク(2月)、香港(6月)、フィンランドとイタリア(9月)、イタリア(12月)
国内出張:岡山(7回)、大阪(4回)、三重(4回)、大槌・釜石(2回)、その他日帰りでの東京出張多数、一回の講演・研修会もあちこちで
思えばニューヨークのエンパワメントセンターで議論をしていたのも、まさにリカバリーの話だったし、香港のソーシャルワーカーの集会では、いかにしてソーシャルアクションに関わる事が出来るか、を議論し合っていた。この時、まさか2ヶ月後の日本で、雨傘革命やジャスミン革命にも似た、SEALDSやママの会などのソーシャルアクションが自然発生するとは思いも寄らなかった。国内に目を向けると、岡山には毎月のように通い、「無理しない地域づくりの学校」の校長役を務めながら、尾野「教頭」や西村「用務員」だけでなく、オモロイ岡山の人々から多くを学び、旨い酒と肴に舌鼓を打ち続けた。大槌や釜石での半年に一度の地域づくりのお手伝いも板についてきたし、三重では相談支援体制の底上げが少しずつ果たされ始めていると実感する。大阪に戻ると、いつものように「議論の続き」が待ち構えている。
そういう意味では、忙殺されながらも、去年よりも一段と学びを深め、インプットし、吸収することが多い一年だったのかも知れない。
そうそう、3月末には編著『自分たちで創る現場を変える地域包括ケアシステム』(ミネルヴァ書房)も上梓し、地域包括ケアについて取り組んできた成果を少しは形に変える事も出来た。
さて、来年はどんなオモロイことが展開出来るか。今から楽しみである。
ついでに言えば、山登りは念願だった北岳・間ノ岳・農鳥岳の白峰三山は制覇出来たが、山登りの回数自体は激減。合気道もじっくり腰を据えて稽古できなかった。その代わりに、ランニングシューズも買って、出張先で観光ランニングをする、というI先生の得意技を真似始め、茨城や京都、岡山やケミ、トリエステで走っている。来年は、もう少しこちらの方面にもエネルギーを注ぎたいが、果たしてどうなりますやら。
みなさん、よいお年をお迎えください。
たけばたひろし

対立を超える対話に向けて

原発や沖縄米軍基地、あるいは精神病院に関して、「それは必要だ」という人と、「それはいらない」という人々は、今の日本社会で大きく対立している。そして、こう対立して固着することが、疾病利益的に良い、と思う人々も、残念ながら存在するようだ。

さて、この問題をどう考えたらよいか。そう思っていた時に、3年前に書いた拙著をめくってみて、びっくり。その解決のヒントになるようなことを、当時の僕は書いていた。現時点で、自分が考え進めるためのヒントとして、当該部分を備忘録的に掲載しておきたい。
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言語哲学者のオースティンは、陳述文の中には、単に生起した事実・出来事について記述する「事実確認的発言」だけでなく、「行為遂行的発言」と命名される、別形態の発言がある、という。
「行為遂行的」という名称は、「行為」(action)という名詞と共に普通に用いられる動詞「遂行する」(perform)から派生されたものである。したがって、この名称を用いる意図は、発言を行うことがとりもなおさず、何らかの行為を遂行することであり、それは単に何ごとかを言うというだけのこととは考えられないということを明示することである。(オースティン一九七八、一二頁)
(略)
「原発」を推進する側の論理として、「代替エネルギーの安定的供給には、まだまだ時間がかかる」「原子力発電所の存在がある種の核抑止力になる」「安価な電気を安定的に供給する為には必要不可欠だ」「高度な原子力技術を持ち続ける事で、世界のリーダー的存在になれる」と言った価値前提がある。あるいは、「沖縄の米軍基地」を容認する側の論理として、「日米同盟での戦略的重要性がある」「北朝鮮や中国の潜在的脅威から日本を護るために必要不可欠だ」という価値前提がある。だが、これらも事実確認的言説に見えて、行為遂行的言説に過ぎない。本当に「原発」や「米軍基地」が必要かどうか、は、無くしてみないとわからないのである。だが、推進側にはその存在が「正しい」という立場に拘泥され、「原発」や「米軍基地」がゼロになった場合の電力供給や安全保障に関する具体的なシナリオが描けない。その代わり、これまで「出来ない一〇〇の理由」を必死になって構築してきた。原発災害は、事実確認的言説と行為遂行的言説の取り違えがもたらした惨事でもあった。
だが一方で、反「原発」や反「沖縄米軍基地」運動も、「出来る一つの方法論」を具体的に提示できていただろうか。他国で原発や米軍基地を無くした事例などを論拠としても、反・非「○○」は「正しい」という価値前提に基づく行為遂行的言説を事実確認的言説と取り違えて発言していれば、「正しさ」を巡る互いの綱引きの段階を超える事が出来ず、「泥仕合」になってしまう。両者が「説得」モードで互いを批判しても、お互いが「納得」できない限り、「地すべり的移行」は起きない。
では、どうすればよいのか。まず、お互いの推進・反対の論拠となる価値前提の違いをハッキリとさせる必要がある。どのような背景や思惑、不安等があって、推進・反対の論拠が構築されて来たか、について、お互いの立場を超えて学ぶ必要がある。そのことを精神科医の名越康文は次のように述べている。
「福島第一原発の事故後、原発反対派と原発推進派がすごく対立していますが、その対話は、多くの場合、不毛なものに終わっているように見えます。反対派が推進派と話すときには、相手の中に自分と同じ要素を見つけつつ、自分の中に原発推進賛成派の人の論旨を見出すような営為がなければ、その議論は避けがたく不毛なものになってしまうでしょう。」(名越二〇一二、一九八頁)
この発言は、横塚の「重症児を自分とは別の生物とみるか、自分の仲間である人間とみるか(その中に自分をみつけるのか)の分かれ目である」という論理と通底する。「自分とは別の生物とみる」ならば、それは「反―対話」でしかない。「相手の中に自分と同じ要素を見つける」、つまり相手の意見の「中に自分を見つける」ことが出来ないと、対話は始まらないのだ。
例えばあなたは原発反対派であるとしよう。原発推進派という自分とは真逆の意見を持つ人が、どのような価値前提と内在的論理に基づいて、そのような推進・賛成の見解を構築したのか。それを、批判や糾弾という審判的・評価的態度で決めつけるのではなく、虚心坦懐に「自分の中に原発推進賛成派の人の論旨を見出すような営為」をすることが出来るか。意見(論理)も感情も大きく対立する問題に関しては、その感情的嫌悪感の波に呑まれやすい。だが、一方的で「反―対話」的な「説得」「恫喝」「糾弾」ではなく、対話の中から両者の「納得」を探るためには、まず自らと相手の立場に関する「枠組み外し」を徹底的に行う中で、膠着状態での安定の基盤にある「一次的存在論的安定」そのものを問い直す必要がある。
さらに言えば、「原発」や「沖縄米軍基地」問題は、国論が二分した状態で、何十年も「一次的存在論的安定」状態が続いている。その悪循環構造がなぜ止まらないのか、何が構造的制約なのか、についても考える必要がある。この悪循環構造が解決しないことは、誰にとって、何のメリットがあるのか。つまり、この構造の背後にある「世界の定立」とは何か、についても考える必要がある。最近では、その「世界の定立」に関して、アメリカの思惑という補助線を引くことにより、日本がアメリカの属国状態に置かれる事を「世界の定立」とする事によって、第二次大戦後の復興と経済的繁栄を勝ち取ってきた、その代償としての「原発」であり「沖縄米軍基地」である、とする言説が見え始めている(例えば吉見二〇一二、孫崎二〇一二)。
「原発」や「沖縄の米軍基地」についても、「どうせ」「しかたない」「無理だ」という言説は、明らかに宿命論的呪縛そのもののである。一方で、ただ反・非「○○」と唱えているだけでは、表面的な対立という悪循環構造から抜けられない。この表面的対立構造を超えて、「構造的制約」や「世界の定立」そのものに向き合う事を通じて、「○○」であり続けることにより、どのような「自分の権利を獲得」する機会を失っているのか、を理解する事が可能になる。この視点を持つと、事実と価値を取り違える失敗を繰り返さなくてもよくなる。
「『蓋』の上の人格」に気づき、蓋を開け、箱の外に出ようとすること。これはこれまで自らが「正しい(客観的な)世界観」と思い込んでいた価値前提に対して「正解幻想」というラベルを貼り直し、「枠組み外し」を行う事である。その中で、支配的言説(=ドミナントストーリー)を単に否定する(Aに対して非Aを対置させる)のではなく、その信念対立の前提についての現象学的還元を続け、「世界の定立」を問い直し、ドミナントストーリーを「非中心化」することによって「脱実体化」させる、という「地すべり的変容」に持ち込むことでもある。このような「枠組み外し」のプロセスに自ら一歩踏み出すことによって、「蓋」の「下」に潜む「真の<明晰>」に出会い、「生き方を解き放つ」ことが出来る。このプロセス全体が、「その循環のプロセスを含む循環性を認識すること」を通じて、「『みずからがいま書きつつあるメカニズムそのもの』を対象化しうるエクリチュール」を体得する、という「学習過程」そのものでもある、と言えるだろう。
そして、このようなプロセスを体感できる人こそ、「問題の一部は自分自身」であることに気づき、「反-対話」の論理を超え、自らのコミュニケーションシステムの不全感をまず変えようとする「対話」の論理を身につける事が出来る。そして、このような真の「対話」の論理の中から、「出現する未来」を導き出す事が出来る。

専門性を脇に置く勇気

僕の師匠、大熊一夫氏に教わった大切なことの一つに、「わからないことを、『わかったふり』しない」という格言がある。僕自身、小さい頃から「知ったがぶり」をして、それで周囲から尊敬されたい、と高望みするガキだったので、師匠のこの姿勢には、すごくビックリした。知識人自らが「わかりません」と口にして良いのか、と驚いた。でも、大人になればなるほど、その姿勢がどれほど大切であり、かつ実践するのが難しいのか、を痛感するようになった。そんなことを思い出させてくれた本と、先週末出会った。

「私たちが未知を恐れる理由のひとつは、自分自身と向き合わざるを得なくなり、自分の弱さ、不完全さをつきつけられるからだ。」「肩書きや役割は、すっぽり身を包むマントのようなものだ。私たちはその中に隠れて、知らないことによって脆弱になるのを避ける。」「人は、知らないという内面的体験と、有能という印象を維持したい外面的問題とのあいだで、葛藤を感じる。」(『「無知」の技法 not-knowing』デスーザ&レナー著、日本実業出版社、p108-109)
そう、社会人や職業人として、「肩書きや役割」を持つと、その「すっぽり身を包むマント」に依存する。いや、そのマントと共依存の関係に陥るのかもしれない。その肩書きを護る為に、という名目で、「知らない」という「脆弱」性から逃げようとするし、また「専門家が言うから」とそのマントが「隠れ蓑」の役割を果たしてくれる。そのことにより、「有能という印象を維持したい外面的問題」を護ることが出来、「知らないという内面的問題」から逃げる事が出来る。それは、確かに言われてみれば、「自分自身と向き合」うことからの逃避、つまりは「葛藤」の回避そのものである。
そういえば、東大話法で有名な安冨歩先生は、それを「立場主義」と命名した。「立場を守るためなら、何をしてもよい」という立場主義のテーゼは、結局「知らないと言う内面的体験」を抑圧し、その葛藤をなかった事にすることによって、「脆弱性」や「不完全さ」を棚上げするのである。だから、「想定外」の事態に直面した時に、全く役立たない思考となる。僕自身は、以前のブログにも書いたが、タケバタヒロシという実存と、「准教授」という肩書きの間でずいぶんの差異を感じ、苦しんでいたが、でもその「葛藤」を何とか抑圧せずに保ち続け、危機を乗り越えられたのも、思えば師匠の教えに従っていたからかもしれない。
そして、この『「無知」の技法』は、「わからない」「知らない」ことを、ポジティブな可能性に置き換える点が、非常に魅力的である。
「『知らない』を『ない』でとらえるのをやめ、そこには機会と可能性が『ある』ととらえなければならない。」(p134)
こないだから書いているオープン・ダイアローグの話を聞いた時にも、この視点の転換が必要不可欠だと感じた。例えばクライシスの状態にある人と出会うとき、多くの専門家は、「この人はどのような症状であり、診断名は何だろう?」と「見立て」ながら聞くという。でも、ケロプダス病院の看護師や臨床心理士は、口を揃えて、「ただ聞く」ことの重要性を指摘する。こちらが診断名やカテゴリーわけをしたい、という「予断」を持って聞くと、患者さんの生きる苦悩の最大化の危機、という問題の本質を見失い、大切な事を聞き逃す、というのだ。
とはいえ、多くの専門家にとって、診断名という見立てを適用せずに、「ただ聞く」ことは、専門性の否定であり、不安に思うかも知れない。でも、それはこの本が言うように、専門性の否定ではないのだ。専門性を脇に置くことで、「知らない」「わからない」という事実と向き合うことで、「そこには機会と可能性が『ある』」のである。これは一体どういうことか。
「不可知の道とは、単なる『ものを知らぬ無知』とは異なる。(略)『知ある無知(learned ignorance)』『愚者の知恵(foolish wisdom)』という意味だ」(p 152)
「知ある無知(learned ignorance)」というフレーズに出会って、なるほど、と思わず膝を打つ。師匠は、確かに単なる「ものを知らぬ無知」ではない。いろいろな事をジャーナリストとして知っている。でも、初めて出会った内容について、安易にわかったフリをせず、自分の知っていること・わかっていること、と対比させながら、その新しい内容について、色々考えながら、一体それがどういうことなのか、を自分自身に照らして考え続けているようだ。その中で、「知らない」「わからない」部分と、これまでの経験や知識と共通する「知っている」「わかっている」部分を腑分けする。その上で、「知らない」「わからない」部分を、そのものとして受け止めて、自分の新たな検討課題として受け取っているのだと感じる。それが、「そこには機会と可能性が『ある』」の意味することなのかもしれない。
オープンな対話、とは、実は「知ある無知」に開かれた対話、と言い換えてもよいのかもしれない。それは、専門性の否定ではないし、反精神医学とも全く違う。そうではなくて、専門家が、ある特定の対象者(や家族)の、一回きりであり非常に個別性の高い「生きる苦悩の最大化の危機」に接した時に、「知らないという内面的体験と、有能という印象を維持したい外面的問題とのあいだで、葛藤を感じる」ことを、否定しない、ということである。むしろ、その「葛藤」にオープンになることによって、「有能という印象」の枠から飛び越えることが出来る。これは、僕が「枠組み外しの旅」の中で、「エクリチュール」という「箱の外に出る勇気」として整理した部分でもある。
専門性が「既知」への固着へと結びつくことがある。その「既知」への固着を超えて、未知の、一回性の新たなにかに対して、文字通りオープンマインドで、「知ある無知」の状態で、「知らない怖さ」を素直に認めながら、その新たな世界に飛び込んでみる。これが、固着を超えた、未分化なsomething new & interestへの向き合い方として大切なのである。
この部分について、イギリスの精神分析医のビオンを引き合いにだしなが
ら、こんなことを著者達は述べている。
「ビオンは、人には『複眼の視点』が必要であると語っている。知っていることと、知らないことに、同時に焦点を置くのだ。」(p190)
シンプルだけど、名言である。
専門家になればなるほど、いやこれは年齢を重ねれば重ねるほど、といった方がよいのかもしれないが、「知っていること」「経験していること」の手垢がいっぱいついて行く。すると、新しい一回性の出会いに関しても、「知っていること」「経験していること」という「既知」の枠組みに当てはめ、ものをみようとする。その方が、思考が節約できるし、判断が速くなる。だが、そうすることによって、単眼思考に陥るのだ。それは、「知らないこと」がもたらす、新たな「機会と可能性」を見落としてしまう、ということである。ここを見落とせば、いつの間にか、「知ある無知」から「もの知らぬ無知」に堕落・劣化してしまう可能性もあるのだ。
「知らない」「わからない」ということは、肩書きや立場の「マント」でかくしている限り、「脆弱性」である。それは、自分自身の「知らない」「わからない」という葛藤の表現を抑圧しているがゆえの、脆弱性である。だが、その「葛藤」をそのものとして引き受け、「知ある無知」のまま、自分自身の目の前で展開されている「知らない」「わからない」世界を、共に探求することができれば、それは葛藤を引き受け、「ない」を「ある」に変える旅に船を一歩漕ぎ出すことにもつながる。そこからしか、「不可知の道」を歩み始めることは出来ない。それが、オープンマインドにつながり、その姿勢がないと、オープンダイアローグは始まらないのではないか、とさえ、思う。
そういえば、この本は、U理論のオットー・シャーマーも推薦しているが、U理論の中でも、「盲点」への気づきが創発につながる、と書かれていた(U理論と盲点については、以前論文を書いたこともある)。その「盲点」=「知らないこと」を「知らない」ものとして素直に認め、その事実を知ることって、葛藤を引き受けるだけでなく、ソクラテスの言う「無知の知」そのものであり、これは知的な営みのαでありΩなのである。
そんな原点回帰の「きほんのき」、を改めて教えてくれる、大切な一冊だった。
追記:不勉強な僕は、この本で初めてビオンさんと出会った。何冊か面白そうな訳本も出てみるので、これも読んでみようと思う。そういう意味では、成果がすごくたくさんありました。