内面化された規範の呪縛

どのような社会問題であっても、「逸脱した個人の自己責任」と捉えることも出来れば、「社会の歪みが脆弱な個人に反映された結果」と捉える事も出来る。障害学で言えば、前者は「医学モデル」と言われ、後者は「社会モデル」と言われる。後者は、個人のわがままや努力不足とラベルが貼られている問題に対して、個人の問題は社会的な背景があり、社会の抑圧的構造が悪循環的に個人に作用したとき、その回路から逃れることが出来なくなってしまった果ての、症状化・顕在化であると捉える。そのことを強く感じさせる新書に出会った。
「現代の『ひきこもり』は、自分自身と向き合うこととは違う。既存の価値観を内面化し、自己点検を繰り返し、その内面化した価値観に合わない自分自身が社会に漏れ出すことを必死になって防いでいる。そうでなければ社会での居場所を失うと感じ、その不安と恐怖と戦っている。だが、どのようにしても漏れ出す生身の自分を隠すことはできない。ひきこもりは『自傷行為』だと多くの経験者が言う。そうすることでかろうじて生き延びることができる、その人なりの逃げ道だ。」(杉山春著、『家族崩壊ー「ひきこもり」から問う』ちくま新書、p29-30)
ここに書かれていることは、何も「ひきこもり」に限らない。ちょうど今、卒論指導が佳境に入っているが、ゼミ生達が自らの実存を問い直す論文の中にも、他者肯定を得ようと必死になっていたり、同調圧力と自分自身の実存とのズレに苦しんでいる姿をしばしば垣間見る。KY、つまり「空気が読めない」という言葉に代表されるように、その裏返しの「空気を読め」という同調圧力、つまりは「既存の価値観」の押しつけは、21世紀日本社会では、もしかしたら以前よりきつくなっているのかもしれない。特に、小中高という学校空間では、「スクールカースト」のような序列化がきつく進んでいる、と最近のゼミ生は教えてくれる。その序列や同調圧力の「内面化」を強要され、「その内面化した価値観に合わない自分自身が社会に漏れ出すことを必死になって防いでいる」のだ。それほど、「社会の居場所を失う」「不安と恐怖」はきついのである。
そんな消耗戦に歯を食いしばって耐えろ、と強要するのは、全く人間的ではない。だからこそ、人間的な選択肢の一つとして、「漏れ出す生身の自分を隠す」手段として、「ひきこもる」ことにより、「かろうじて生き延びることができる」。しかし、それは温々と得られた解決策ではない。『自傷行為』という表現にあるように、切れば血が出るような、自らを切り刻む、痛みを伴った行為なのである。逃げないことも、逃げることも、共に苦しいのだ。
ここまでの分析なら、他の「ひきこもり」ルポでも見られる分析である。だが、この新書が類書と一線を画するのは、その「ひきこもり」の背景にある、家族の不安や歪み、また社会的な歪みにも、肉薄していく部分である。ご自身の息子さんも不登校になった経験を持つ杉山さんは、学校の担任の対応に対して、このように書いている。
「『適応できない児童には教師が指導する。母親の甘やかしは困る』という考えが透けて見え、親を指導しようという姿勢も感じた。育ちの偏った息子は学校に受け入れてもらえないのだ。私も母親として、否定的に見られている。私は不安になり、怯えた。このとき、私は学校教育、つまり社会の要請に適応しなければ、という気持ちが強かった。学校へのぎくしゃくした不信が生まれた。困難を理解してもらえないことへの、怒りの気持ちが含まれていた。」(同上、p95)
学校で標準化された価値観に「適応」することのみが「正しい」とされると、「適応できない児童には教師が指導する」という一方的、反-対話的アプローチが強化される。これは、支援ではなく、支配である。「育ちの偏った息子」という言葉も、100人いたら、標準偏差と同じように、中央値からずれた子どもが1割か2割存在する。だが、学校が認める偏差の枠内に収まらないと、「適応できない児童」とラベルが貼られ、適応すること=その偏差の枠内に収まることのみが、「社会の要請」の主要な課題となる。のびのび・すくすくと、その子の特性が活かされた形で育ってほしい、というのは、現代日本「社会の要請」ではないのだ。標準化・規格化された枠内に収まることが、「社会の要請」の強い圧力として、子どもだけでなく、親にも当てはめられるのである。
この経験を元に、杉山さんはこうも語る。
「ひきこもりの背後には、『抑圧』や『暴力』がある。その連鎖はどこから来るのか。どのように抜け出すのか。その謎は、私自身の中にもある。」(p116)
人を「自傷行為」せざるを得ない状況に追い込むこと。これは、確かに「抑圧」であり「暴力」である。この「抑圧」や「暴力」は、学校空間の中でも、「連鎖」として、自己反復・自己増殖的に蔓延している。そして、杉山さんは「その謎は、私自身の中にもある」と書いているが、まさに社会の構成員としての私たち自身の中に、「抑圧」や「暴力」の「連鎖」の「謎」が内包されているのだ。
「取材を続ける中で気付くのは、高度経済成長期かそれ以前に就職した若者たちは、少々の偏りを抱えていても、社会の中に居場所を見つけることが今よりも容易にできたということだ。就職時、過酷に振り落とされることなく、会社が大きくなるにつれて、仕事の種類は膨れあがり、ポストは増え、力を発揮できる場が次々に発生する。目の前の仕事をこなしていくことで、力をつけ、人との関わりを持ち、経済的に恵まれ、親世代の収入を超えた。
能力が吟味され、その力によって仕事をあてがわれるようになるのは、70年代半ばに入って、経済成長が鈍ってからだ。その頃から、不登校やひきこもり、育児不安という現象が顕在化していく。自分はうまく適応できるだろうか、対応できるだろうかという未来に対する不安が生まれていくのだ。」(p48)
社会の第三次産業化は、規格化や標準化圧力の強化でもある。高度経済成長期までの日本社会は、第一次産業も第二次産業に労働力が吸収された割合も高く、第三次産業が膨張化する以前の状態であった。だから、「会社」で働こうと、「工場」や「田んぼ」で働くのと同じように、どんな労働力であっても、その現場に役に立つものであれば、必要とされた。「振り落とす」なんてこともなく、猫の手も借りたいくらい、の状態であった。
だが「経済成長が鈍り」、第一次産業や第二次産業が、他国との価格競争で脅威にさらされる中で、70年代以後、日本社会は急速に第三次産業化していく。米や車、など「モノ」を売っていた時代から、「サービス」という付加価値を売る形態に社会が変化していく。すると、「モノ」の標準化だけが求められていた時代から、「サービス」の標準化に、ひいてはその「サービス」を提供する、人間の標準化・規格化圧力が強まったのではないか、と僕自身は考えている。
杉山さんは70年代から「不登校やひきこもり、育児不安という現象が顕在化して」いった、と述べているが、僕はこの表現を見て、2000年前後から、発達障害という現象が「顕在化」していった事に、強く重なって捉えている。
例えば、映画の「寅さん」は、今であれば明らかに特別支援学級に送り込まれる対象者と有徴化されただろう。杉山さんの表現を使うなら、「既存の価値観を内面化」できず、適応的な「価値観に合わない自分自身」が常に「社会に漏れ出」している。つまり、「社会の要請に適応しなければ」という規範や同調圧力に従わず、周囲の「指導」にも従わない。こういう「偏りを抱え」ている人であっても、以前は社会自身の標準化・規格化が進んでいなかったがゆえに、「しょうがない奴だなぁ」と「社会の中に居場所を見つけることが今よりも容易にできた」。だが、社会自身の標準化・規格化・制度化が進む中で、このような「偏り」は「魅力」ではなく、「逸脱」と捉えられる。その中で、「逸脱」を障害や症状として捉える社会的合意が構築されていったのではないか、と僕自身には思えてならない。
余談であるが、精神病院や入所施設は、産業革命以後の社会で構築されたものである。工場労働には成年男子の労働者が大量に供給され、その規格化された労働力の外にある、子ども、高齢者、障害者をケアする役割として、「専業主婦」も発明される。その上で、手のかかる子どもは「学校」に、高齢者や障害者は「老人ホーム」や「入所施設」「精神病院」に預けることで、より効率的に社会を規格化し、労働生産性を高めようとした。この社会の労働生産性を重視した結果として、労働生産性という価値に不適合な、つまりは社会が「標準」と定める価値規範から逸脱している個人が排除されていく。そして、多くの人はその排除を「不安や恐怖」と捉え、その排除から免れるために、労働生産性という標準化された価値規範を内面化し、それを常に自分の参照枠として「自己点検」し、必死になって同調しようとしているように、僕には思える。
この視点は、杉山さんの視点にも重なっている。
「ひきこもりの背後には、『自分に課す規範から自由になれないことがある。その規範が与えられるのは、多くの場合家庭=イエである』と私は書いてきた。規範を求めるのは高度化した産業社会だ。人の能力を計り、選別し、社会に配置するシステムを持つ。(略)共同体と呼ばれていたものが形を失う時、家族が孤立すれば、家族内の『規範』は偏り、次世代を苦しめる。次世代が生活する社会のあり方が、親世代の『規範』とは大きくずれる場合もある。」(p198)
「『私』の願いや怒り、価値観を我が子に伝えるよりも、我が子に他者を感じていほうが、社会に繋ぎやすい。我が子に他者性を持つことは、実は、現代の新しい『規範』なのではないか。だが、親自身が自分自身が生きてきた規範から自由になることは、案外難しい。それ以外の生き方を知らないからだ。」(p199)
親が子に対して過剰な「願いや怒り、価値観」を押しつけること。これが、不登校やひきこもり、家庭内暴力など、様々な形で子どもに顕在化される拒否反応である。このように顕在化しなくても、親や社会の「規範」に雁字搦めになり、そこから自由になれず、その「規範」が示す「良さ」を前にして、自分自身の「願いや価値観」を「抑圧」して、親や社会の顔色をうかがい、その範囲内に自己を矮小化する若者が多いことも、ゼミ生達との対話で強く感じていることでもある。これは、旧来の共同体的価値批判が団塊世代によって壊された後に、社会的連帯のベースとなる価値規範が作られることなく、家族が「孤立」していった帰結でもある。
だからこそ、ひきこもりを社会的に解決するには、ひきこもりの「矯正」ではなく、社会の構成員一人一人が、自らにも「内面化」された「抑圧」や「暴力」を自覚することが必要不可欠なのだ。僕自身はそれを「枠組み外し」と命名した。「自分自身が生きてきた規範から自由になる」ことが、自分を開き、他者を開き、他者の価値観、つまり「他者性」を肯定することでもある。同調圧力が強い、標準化・規格化された社会とは、この「他者性」が極端に抑圧された、単調な社会である。その息苦しさをどう突破していくか。
改めて、僕自身のライフワークでもある、標準化・規格化という呪縛と、それへの対抗策というテーマを考えさせられる一冊だった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。