リカバリーとは「矛盾を手なずける」こと

ぶあつーい洋書を久しぶりに真面目に読む。

「矛盾を手なずける:重度の精神障害からのリカバリー(Managing the Contradiction -Recovery from Severe Mental Health)」
12年前にスウェーデン在住時に、誰かに勧められて買ってみたものの、積ん読だったこの本。ネットで調べたら全文がダウンロード出来るのですね。でも分厚い博士論文なので、本で読んだ甲斐があった。
実はこの著者のToporさんの講演を、12月にイタリアのトリエステで聴いた。トリエステ精神保健局長のロベルト・メッツィーナ氏の論文にもたびたび引用されていて、興味を持ったのだが、実際にその講演を聴いて、びっくり。「薬も認知行動療法も、精神療法も、効く人には効くし、効かない人には効かない。では、リカバリーって、一体何だろう?」 こんな刺激的な議論の上で、彼の最新の研究を紹介してくれた。それをツイッターで紹介したら、約9000回ものRTされた。それが、このツイート。
「2015年12月19日: 精神病の人に、50ユーロを9か月間「投与」してみたら、対象群に比べて不安やうつ症状が減り、人間関係も豊かになり、生活の質も向上した、という興味深いスウェーデンの論文→Money and Mental Illness
このツイートで紹介した彼の論文を読んで、これは本気で読まねばならない、と手に取ってみた。(ちなみに、上記論文の概要や12月のトリエステ調査のダイジェストは、3月に発売される雑誌『福祉労働』150号に掲載予定です)
Toporさんがタイトルに込めた「矛盾を手なずける」とはどういう意味か。彼は16人の精神障害者へのインタビュー調査から、こんな結論を引き出している。
「リカバリー実践の物語における重要な要素とは何か。それは、最も強調すべき事は、矛盾を解決することではない、ということだ。むしろ、矛盾とうまくやっていく道を模索することであり、自分自身と折り合いを付ける事が出来るようになり、そのプロセスにおいて痛みをあまり感じずに済むようになるということだ。それこそが、矛盾を手なずける、ということなのだ。リカバーするとは、他の誰かになる、という事を意味していない。むしろインタビューの中では、リカバリーの過程は、人が自分自身を発見する道として表現されていた。それは問題に何とか対処することができ、しかしながら以前とは違うやり方で対処するのである。」(p318-319)
リカバリーの文献をそう沢山読んだわけでもないが、今まで出会ってきたリカバリーに関する表現の中で、最もしっくり来るものの一つだ。そう、「完治」がリカバリーではない、ということ。業界用語では似た表現として「寛解」というのもある。でも、これは病気の猛威が収まること、という意味合いであり、本人よりもどちらかと言えば病気が主人公。Toporさんは、リカバリーを経験した当事者の語りから、「病気の猛威が収まること」よりも、「自分自身と折り合いを付けること」ことをリカバリーと定義する。それは、僕が見聞きした精神障害の経験者の物語とも、共通する要素だ。いや、それだけでない。実は精神病体験に圧倒されないためには、誰にとっても必要不可欠な要素なのかもしれない。
この本の中では、精神病体験を通じて、非合理とラベルを貼られ、通常の人間関係が破綻し、通常の地域生活から排除された人々の経験が語られる。極度の孤独や社会的排除の中で、病状という表現でしか自分を護れない極限状況に追い詰められる。自分自身の言動に振り回され、家族とも敵対的な関係になり、医療や福祉サービスも、時として侵襲的に作用する。薬の副作用がきついときもある。
そんな中でも、例えば幻聴には、社会的な孤立に対処するための、「かなり苦しい対処方法」いう側面もある(P266)。嬉しくはない幻聴だけれど、少なくとも誰も話しかけてくれない、という状態ではない、という意味で、孤独への対処にもなってしまっている。また、家族とのかかわり方が変われば、当人にとっての問題の原因とも、問題に対処する上での強力な味方にもなる(p329)。薬だって、医療者の指示に従わねばならないという意味で他律的要素としても、またどの薬をどれくらい飲むかへの決定過程に参加することを通じて自律を取り戻すこともできる手段ともなる(p333)。専門家が一方的な見方を押しつけたら対象者のニーズに目と耳を塞ぐが、互酬性の関係を構築すれば「同行二人」のパートナーにもなる(p326)。包括性や継続性は、患者のトータルな管理にも、リカバリーの重要な要素ともなる(p330)。
つまり、症状も家族も専門家も薬も、さらには精神障害者への接し方も、どれもが両義的で不確実(ambiguity and uncertainty)な要素が含まれているのだ(p338)。
だからこそ、完治する=異常から健康に「治る」という、白黒付けるという二者択一の姿勢よりも、「自分自身と折り合いを付けること」という意味で、両義的なまま、「矛盾を手なずける」方が、現実的である、とToporさんは結論づける。ここからは、精神病状態に陥る以前の暮らしから、「両義的で不確実」な状態を許容し、「矛盾を手なずける」ことが出来ていたら、しんどい状態にはまり込まなくて済むのかもしれない、とも予期される。
これを読みながら、強く思い出していたのが、日本では超有名なべてるの当事者研究だ。
このべてるの家の実践も、自分自身で自己病名を付けることにより、他者によるラベリング(他律)から、自律性を快復しようとしている。また病気の悪循環サイクルを自分一人で抱え込む状態から、仲間と共に研究することで、社会的孤立への対処をしようとしている。専門家が一方的に病気と判断し服薬を強要するのではなく、当事者の内在的論理を明らかにした上で、しんどい状態を克服するための自律的なコントロール方法を、専門家と共に考えようとする。それは精神病院のような権力装置の中での他律的管理・支配を超えて、街の中で、試行錯誤しながらも、自律的にリカバリーしていく可能性を提供する。
結局、リカバリーの物語は、洋の東西を超えて、圧倒的に苦しい・追い詰められる経験をした後に、当の本人が、周りの人々と共に、どのようにその経験を手なずけ、その経験と共に、以前よりはましな形で、矛盾と共に生きていくのか、というプロセスなのだ。この部分を理解した上で、医療や福祉サービスは何が出来るか、が問われているのだ。それが、イタリアのトリエステの人々にも興味を持たれるポイントであり、メッツィーナさんが日本の当事者研究にも大いに注目していた最大の理由なのだろうとわかった。
そこで問われているのは、日本の精神医療や、日本の障害者福祉は、本当に精神障害者のリカバリーを志向しているか、支援しているか、という問いである。精神障害者が圧倒的な苦しさやしんどさにいる状態から、矛盾を手なずける、非常に個人的なプロセスに寄り添い、じっくりその物語を伺い、ともに次の一手を模索するプロセスに関われているか、という問いである。生物学的アプローチや心理療法的アプローチを否定しているのではない。そうではなくて、両者が(bioもpsychoも)、矛盾と共に当事者が社会の中で生きていくのを応援する、という側面がなければ、リカバリーではなく、他者による管理と支配の手段に堕落する、という点に自覚的であるかどうか、が問われている。それこそが、ほんまもんの生物-心理-社会モデル(biopsycosoial model)のはずだ。それが、今、日本で実現出来ているのだろうか? 精神病を経験した人が、再び「矛盾を手なずける」状態にリカバリーするまで、「同行二人」で「ともに」考え合う支援を出てきているだろうか? もしや、「支援対象者を手なずける」仕事になってはいないだろうか?
様々な問いを投げかけてくれる、実に刺激的な一冊だった。
追伸:16人の経験者の物語は、著者の素材を引き出す旨さにも支えられ、理論的に面白かっただけでなく、単純に物語として面白かった。こういう掘り下げた研究こそ日本でも必要だし、この本は翻訳されるべき本だ、とも思った。誰か、やってくれないかなぁ・・・。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。