因果論を超える「対話」

最近、本を読み飛ばす癖が付いてしまった僕にとって、久しぶりに時間を掛けて味読した一冊だった。昨年から僕も話題にしており、精神医療の業界では大きな注目を集めているオープンダイアローグについての体系書の、待望の翻訳。しかも、訳者はACTーKの高木さん達のチームなので、現場のリアリティに基づいた、スッと入ってくる翻訳である。これほど面白くて、味わい深いものがあるだろうか。たとえば、こんなフレーズ。

「初めてのミーティングで患者がしゃべることはとても理解できないと思われるかもしれないが、回を重ねるうちに、患者が話していることは彼の人生のいくつかのリアルな出来事であるということがわかってくる。このような出来事には、精神病的危機を生じる前には普段の言葉ではほぼ言い表すこともできなかった、患者にとって脅威となっていた恐ろしい事柄のいくばくかが含まれている。精神病体験には、現実的な出来事が含まれていて、以前には言葉にできなかったテーマが前面に出てくる。同じ事は、逸脱行為についても言えることである。怒りや抑うつ、不安などの強い感情を伴って、患者はこれまで口にしたことがなかったテーマを語る。このように、危機状況の中心にいる人物である患者は、そのまわりにいる人たちには計り知れないところにいるのである。治療がめざすのは、それをあらわす言葉を分かち合える表現がこれまでなかった経験について、それを表現出来るようにすることである。」(セイックラ&アーンキル『オープンダイアローグ』日本評論社、p59)
「精神病体験」は、従来は異常で理解出来ない特有な何か、とラベルを貼られていた。今でもそう思う人は少なくないと思う。一方、このオープンダイアローグの思想の核心には、「精神病体験には、現実的な出来事が含まれていて、以前には言葉にできなかったテーマが前面に出てくる」という価値前提がある。つまり、従来のモノローグ的な「介入」であれば、「患者がしゃべることはとても理解できない」ので、取りあえず行動を沈静化させることが目的になりがちだった。しかも、それはあくまでも「正常」というカテゴリーのルールの範囲外、というラベルの張り方である。そして、精神病体験をしたご本人の内在的論理を追おうともしない。
だが、本当のダイアローグは、「とても理解出来ない」と一見思える内容の話を聞き続ける中で、「患者が話していることは彼の人生のいくつかのリアルな出来事であるということがわかってくる」体験を重ねていくことである。しかも、理解が不可能に思え、幻覚や妄想に支配されている状態とラベルを貼りがちだったのは、「精神病的危機を生じる前には普段の言葉ではほぼ言い表すこともできなかった、患者にとって脅威となっていた恐ろしい事柄のいくばくかが含まれている」からである。「CIAが見張っている」「宇宙人に思考が筒抜けである」などの表現は、それほど「恐ろしい事柄」がその患者の「危機」の時に起こっていて、それを表現する方法が「普段の言葉ではほぼ言い表すこともできなかった」からである。この時、大切なのは、その「突飛な言葉」に見える表現の背後にある「恐ろしい事柄」という普遍的課題を掘り起こし、話を聞き続ける中でそれを表現してもよい、と、支援チームに信頼関係を寄せられる・賭けてみることが出来るような環境を構築出来るか、である。
「危機状況の中心にいる人物である患者は、そのまわりにいる人たちには計り知れないところにいるのである。治療がめざすのは、それをあらわす言葉を分かち合える表現がこれまでなかった経験について、それを表現出来るようにすることである。」
つまり、「CIA」とか「宇宙人」で表現される内容は、「それをあらわす言葉を分かち合える表現がこれまでなかった経験」なのである。だから、絶対者や圧倒的存在としての「CIA」や「宇宙人」という記号が用いられる。そして、私たちはその記号の表層に振り回されて、「そのような事はあり得ないのだから、この人の言うことはオカシイ」と決めつける。だが、その記号でしか言えない「危機」とは何か、という問いを抱きながら話を聞く中で、「危機状況の中心にいる人物」の持つ、「まわりにいる人たちには計り知れない」「患者にとって脅威となっていた恐ろしい事柄」が、次第に浮き彫りになってくるのである。家族や信頼していた他人からの裏切りや虐待、ソーシャルネットワークから切り離された孤独など、私たちが了解可能な危機が、「普段の言葉ではほぼ言い表すこともできなかった」表現として、精神病的危機の場面で語られるのである。
従来は、それらの言葉を語らないようにすることが、治療者の一方的な(モノローグ)の「介入」における「回復」と見なされることがしばしばだった。だが、オープンダイアローグの目的は、「それをあらわす言葉を分かち合える表現がこれまでなかった経験について、それを表現出来るようにすることである」。モノローグは了解不能な言葉を異常と決めつけ、その異常な言葉が出てこなくなることが目的としていた。一方、ダイアローグはそのような「表現」を出すことが「危機」において非常で大事なことである、とした上で、その表現を通じて、相手の圧倒的な恐怖や不安を理解する手がかりを掴もう、という姿勢である。そういえば、昨年の9月にフィンランドのケロプダス病院を訪れた時も、心理士のタピオさんがこう語っていた。
「ただ聞かなければならない。ある程度の見通しや目標を立てて聞くと、沢山のことを聞き逃す。」
「見通しや目標」とは、専門的知識に基づく「予断」のことである。だが、この本にはその「予断」を持つ危険性を、こんな風に示している。
「浮かんでくる診断に関する考えやそれに続く治療の図式のような専門家の予断は、相手の話を聴くことを妨げ、<対話>の生成を邪魔する『ノイズ』を生み出す」(p202)
そう、「この人は○○のカテゴリーに入るのではないか」という診断や分類、治療の図式は「予断」であり、「<対話>の生成を邪魔する『ノイズ』」である、と言い切っている。なぜならば、それは、「相手の話を聴くことを妨げ」「沢山のことを聞き逃す」からである。予断があれば、「自分が見通しや目標を持つ上で必要な要素のみを聴く」ことになる。つまり、「専門家が聴きたいことを聴く」のである。一方、「ただ聞かなければならない」という時に大切にされるのは、「相手が妄想やあり得ない表現を用いなが
ら、どのような恐怖や不安を伝えようとしているのか」を、「予断」を持たずに聴く、と姿勢である。これは、全く異なる二つの「構え」である。
さらに言えば、この「構え」の違いは、実は科学認識やパラダイムの違い、でもある。第9章では「ダイアローグの思想」の背後にあるパラダイムの違い、を全面展開している。科学哲学を論じるノヴォトニーらの著作に基づいて、従来の「根拠に基づく研究は前時代の残滓だ」(p191)と言い切る。そして、ノヴォトニーらの著作のこの部分を引用する。
「単純な因果論のような信念は、たいていは線形的因果関係という暗黙の想定を底に秘めているのだが、それもまた過ぎ去った観念である。多くの、いや、おそらくほとんどの関係は非線形的で予測不可能な変化をしつづけるパターンに従っているという認識が、それにとってかわった」(p191)
ランダム化比較実験(RCT)や根拠に基づく治療(EBM)は、A→Bという「線形的因果関係」を暗黙の前提にしている。でも、ある人が「CIA」や「宇宙人」についてありありと語るとき、その表現の背後に共通する「A」という「原因」を一義的に決めることは出来ない。恐怖や不安感という共通要素があるとしても、その恐怖や不安感がなぜ、どのような形で生じたか、は人それぞれに違う。またどのような恐怖が、どんな幻覚や幻聴、妄想と結びついているのか、も「非線形的で予測不可能な変化」である。なのに、それをわかりやすい「線形的な物語」に無理矢理落とし込み、「沢山のことを聞き逃」しているのに、「わかったふり」をしていないか? オープンダイアローグが問いかけるのは、この治療者が前提とする「線形的因果関係」の「暗黙の想定」に対する、最大の疑問符なのである。それって、「自分の見たいものだけを見ていませんか?」という問いかけであり、人間の状態という「動的プロセス」を線形的な「静的プロセス」で理解(=誤解)する事への疑問である。そして、複雑系科学の視点では、このような「動的プロセス」の理解が、もはや新たな常識になっているのに、精神医学の世界では、旧来の「静的プロセス」に固執していませんか、という問いかけでもある。
つまり、以前僕が書いた、精神医療のパラダイムシフトの議論そのものである、とも言える。
認識や価値前提が異なるのだから、旧来のパラダイムから新しいパラダイムにシフトするために、支援者の心構えを大きく変える必要がある。エピローグでは、「対話的実践の新たなパラダイム」の特徴を次の様に整理している。
「1,専門的支援者は自分たち自身の不安を解消する為に、クライエントや『素人』たちに支援を求める。
2,専門的支援者は何らかの目的にそうように相手を変えようとするのではなく、自分自身の行動を変える。
3,いつも一緒に進んでいく(「共進化」)のであり、そこでは専門家も含めて皆が変化する。
4,クライエントのパーソナル・ネットワークは、問題の出所や温床ではなく、援助資源である。
5,協働作業は、皆が問題を共通に認識することで行われるのではない。そうではなく、専門家は参加者たちがそれぞれどのように今の状況を見ているのかということに関心をもつようにする。
6,治療の援助の計画は、治療や援助のプロセスでもある。そしてプロセスはクライエント抜きに専門家間で作って行くのではない。
7,話に耳を傾けることがアドバイスを行うよりも有効である。
8,考え方・態度・出会いが技法よりも重要になる。
9,専門家は互いの領分の線引きをやめて、システムの境界を乗り越えていかねばならない。」(p199-200)
治療する側とされる側、正常と異常、万能者と無力者、専門家と素人・・・従来の「線形的因果関係」は、この二つを切り分けて理解する前提があった。だが、複雑系科学や新たなパラダイムでは、この二つは分かちがたく関わり合う相互関係として理解する。すると、切り分けて相手にモノローグ的に介入するのではなく、ダイアローグ的な相互関係は、関わる側の専門家の態度如何で大きく変わる、ということが見えてくる。だからこそ、まず「自分自身の行動を変える」ことが必要なのだ。そのためには、「わかったふり」をせず、「クライエントや『素人』たちに支援を求める」ことも大切になる。それは「あなたのために」というモードから、「あなたと共に」という「共進化」のモードへの切り替えでもある。すると、悪循環の出所や温床に見えた「クライエントのパーソナル・ネットワーク」を、「援助資源」としてどう巻き込むか、という課題にもなる。本人や家族が大切な援助資源なのだから、彼ら彼女ら抜きでその治療プロセスを作っても、先に進めない。だからこそ、支援者は「アドバイスする」という役割を手放し、「話を聴く」ことが大切で、それは「技法」ではなく、「考え方や態度、出会い」の構えや姿勢の問題でもある。そうやって、専門家が線形的因果論パラダイムを乗り越え、「システムの境界」を乗り越えることで初めて、「切り分けられていた側」の「異常」に見える世界の内在的論理が了解可能になるのである。
そういう意味では、僕自身がオープンダイアローグに出会う以前から考えていた認知論的転換の話とすっきり接続される議論で、すごく腑に落ちる読書体験であった。

発達障害と「まっすぐなキュウリ」

3月31日づけの山梨日日新聞に、コメントが掲載された。山梨以外の人はご存じないと思うので、再掲した上で、少し書き足したいとおもう。
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―発達障害がクローズアップされている。
 「発達障害」と位置づけられる人が増えたと捉えている。1990年代以降、社会の効率化が進んだ。それまで発達障害の特性があっても地場産業で小商いなどの形で働けた人が2000年代に解雇されるケースは、事例検討に関わる市町村でよく聞く。
 コンビニのアルバイトにもあらゆる業務が求められる時代になった。端末の操作やおでんの仕込み、商品の発注、補充もする。レジでは客の年齢層も打ち込む。酒屋や小さな商店では、一人何役もこなさなければならないアルバイトはいなかった。チェーン店になり規格化が進んだ結果、マニュアルに合う人材だけが求められ、合わない人は要らないと言われやすくなった。
―環境の変化が要因か。
 話を聞かない、そそっかしいなどの特性は、かつて標準の範疇だった。多少変わっていても関わり合う中でコミュニケーションを学び、社会に受け入れられていた。それが、第3次産業化など雇用環境が変わる中で「問題」として顕在化した。発達障害者支援法により支援が進んだ一方、周囲が発達障害を「規格外」としてラベルを張る空気も強まっていると思う。
―周囲はどう捉えればいいのか。
 かつて生きづらさは本人の疾病、障害に起因すると考えられてきたが、現在は本人だけでなく環境や社会参加の要因も入れた複合的な捉え方が広がっている。「障壁」は本人の中ではなく環境との間にある。周囲の「態度」も社会参加を阻害する要因になる。
 県内では特別支援教育が広がっている。保護者からのニーズがある一方で「特別な人に、特別な配慮を、特別な場所で」という考え方が障害者を排除する方向に結びつかないか懸念している。発達障害の本人を排除せず、そう分類するようになった社会の変化にも目を向けるべきだ。
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この記事が出た後、今月に入ってから、山梨では発達障害のある子どもを親が殺す、という事件が起きた。動機としては「息子に発達障害があり、育児に悩んでいた」と供述しているという。これは、残念ながら、昔から起こり続けている事件である。僕は2012年に起こった事件に関連して、「みんな、殺すな!」というブログ記事を書いていた(ことをググって気付いた)。両親が障害を持つ子どもの将来や、子どもへの支援に悩み、悲観視、無理心中を図ったり、子どもを殺す事件は、先のブログでも引用したが40年50年前から、ずっと続いている。
僕の発言と、この事件の記事を重ねて考えてみよう。結局、「障害者問題は、個人や家族問題であり、社会的な支援の問題だという認知がまだ薄い」のが、厳然たる背景にあるような気がする。「母が育児に悩んでいた」は普遍的課題だが、育児に悩むから子どもを殺したりするケースは殆どない。発達障害だけでなく、例えば特別支援学級に入ることなどで「規格外」とのラベルが貼られていなかったか。そのことによって、母親は子どもの問題を「特別な問題」と捉え、解決不能であるという悲観的予測を抱かせていなかったか。この母親は、こういう悩みを打ち明けるような「ママ友」がいたのだろうか。
加えていうと、学校システム自体の課題も気になるところだ。このお子さんが映画「みんなの学校」の舞台である大空小学校に通っていて、「全ての子どもに学習権を保障する」という方針のもと、一般の子ども達と分け隔てなく育てられていたら、同じ事がおこっただろうか。この映画に出てくる木村先生の著書にも書かれているが、発達障害や知的障害のある子でも、他の子ども達と同じ環境で学び、その中でクラスメイトがお互いが「同じ部分」と「違う部分」を理解していたら、母の苦悩や背負いすぎた責任はもっと軽くならなかっただろうか。学校現場の人手不足や事務量の多さは以前から指摘されているが、それゆえに以前に比べて標準化・規格化した対応が求められ、「手の掛かる子ども」は、「発達障害」とラベルを貼られて、特別支援学校(学級)に排除されている現状はないだろうか。そうではなくて、大空小学校のように、地域の方々が学校支援に関わってくれて、先生以外の目が入っていたら、この母親は身近な悩みももっと相談出来る環境が持てたのではないだろうか。このプロセスの中で、「うちの子は特別なんだ」という「違い」のみが強調され、他の子どもと「同じ」ような成長期の課題がある、という「同じ」の部分が見えなくなるような布置があったとはいえないだろうか。
僕は裁判官ではないので、この事件そのものを裁きたいのではない。
だが、日本社会では、残念ながら未だに「障害は個人や家族の不幸」とされる現実がある。標準化や規格化が進む社会とは、社会が採用する厳しい基準に適合しない人が、「不適合」と排除されていくプロセスである。それは、曲がったキュウリも美味しいのに、スーパーに並べられず、下手をしたら廃棄処分されてしまう光景に重なる。曲がったキュウリだって、良い味という意味では「同じ」である。でも「見た目」の「違い」や、扱いにくい・梱包しにくいという「社会的な手間」が先立って、排除される。
しかし、実は「まっすぐなキュウリ」こそ、いびつなのである。
これも今ネットで見つけたのであるが、キュウリを真っ直ぐにするためには、おもりをつるしたり、クリップで挟んだり、という「矯正」がなされる。これは子どもに置き換えると、標準化・規格化の進んだ学校社会のルールや枠組みに適合しなければならない、と重しや枠をはめられる「矯正」である。その時、キュウリやその子自身が本来持っていた「伸びたい方向性」は、グイーっと「強制」的に雁字搦めにされる。それが、「空気」を強烈に気にする日本の若者達を作る元凶にある、とは言えないだろうか。
そう思えば、わが子が「まっすぐなキュウリにはなれない」事を悲観することも、また重しやクリップで無理矢理「まっすぐ」に「強制・矯正」することも、どちらも子どもの本性を伸ばす、ということとは相反する、息苦しい・生きづらい現象ではないか。私たちの社会が誰にとっても「生きやすい・暮らし心地の良い社会」になるためには、この「まっすぐなキュウリ」が求められるような社会構造こそ、変えていかなければならないのではないか。そんなことを、つらつら考えている。