呪いの言葉を超えるために

何気なく読み始めたら一気読みしたコミックエッセイがある。マンガは引用できないので、文章を引用してみる。

「『どうせ何をやってもうまくいかないよ』
その声が聞こえると
『そうだよね、うまくいくはずがないよ』
って あきらめてた」
このフレーズを読みながら、ゼミや授業で出会う何人もの学生達の顔を思い浮かべていた。彼ら彼女らの話を聴いて居ると、いわゆる「よい子」で、かつ、自信のない子が結構多い。自己肯定感が低く、他者承認を求めて必死になっていたり、「自分の意見なんて出したらウザいと思われるのではないか」と必死になって自分を「消している」人も少なくない。そして、どうしてそのように他者承認に必死になっているのか、の根源をたどっていくと、実は親や教師など、身近な大人から無条件で承認されてこなかったことが契機になっている人も、少なくない。
そんな現場の実感を見事に表現してくれたのが、細川貂々さんだった。彼女は、自分自身をモデルにしながら、自分自身の魂がどのように母の言葉によって毀損されていったのか、を明らかにしていく。(ちなみに彼女の『十牛図』の解説マンガも、魂の遍歴を辿るよい作品です)
「人に自分のことを話すときは『自分なんて何もできない』って言いなさい」
「あなたは何もできない子なんだから何もしなくていいのよ」
これらの言葉が、子どもの自発性や自尊心を、どれだけ深く傷つけていることか。そして、健気な子どもは、その母の言葉を真に受けて、自分自身が「やってみたい」と思うけど、親が承認してくれなさそうなことを、数多く引っ込めるようになる。そのうちに、ネガティブ思考に囚われて、自分自身のパフォーマンスは下がり、本当に「何も出来ない」と思わされ、親の期待通りの「何もできない子」ができあがる。
そういうストーリーを伺っていると、素朴な疑問が浮かぶ。
「そんなの、嫌だったら嫌だ、と言えばいいじゃん」
と。
でも、ゼミ生に聞いてみると、「それが出来たらこんなに悩まない」と言う。嫌であると言うことで、相手に嫌われるのは、怖いし、不安だし、そんなこと、とても出来ない。それよりも、自分さえ我慢すれば相手が喜んでくれるのであれば、そっちに従った方が楽だし、それ以上考えたくない。
これは、ちょうど今ゼミでの議論に浸かっている安冨歩さんの名著『生きる技法』(青灯社)の命題にもつながる。(この本についてはブログでも何度か触れている)
【間違った命題4-2】×他人を愛することは、自分を犠牲にすることである。
この【間違った命題】を、「正しい」と思い込んでいた学生達も、少なからずいる。両親やパートナーが承認してくれるのであれば、自分を犠牲にすることをいとわない人々である。でも、自分を犠牲にして相手のために尽くしても、それは本当の愛情関係ではない。とはいえ、子ども時代からそういう経験をすり込まれてきた人々は、それが当たり前と思い込んでいるから、それ以外の選択肢に踏み出すことが怖くて怖くて仕方ない。だから、自分を犠牲にしたくないので他人を愛さないか、他人にすり寄って自分を犠牲にして、結局疲れて果ててしまう。
そんなゼミ生達や僕が出会う学生達の背中を押してくれそうなのが、この貂々さんのコミックエッセイである。他者承認の牢獄に陥らなくても、まずは「私は 私のために生きる」(p113)。そう宣言してみる。そして、それを実践するために、少しずつ、自己否定という名の洞窟から出て、自分の楽しいこと、ワクワクすること、したいことをやってみる。他人にどう思われようと、「よい子」の自己検閲やリミッターをかけずに、自分を犠牲にせずに、大切にしてみる。それが、「何にもできない」という呪縛の悪循環から、一歩踏み出し、「箱の外に出る勇気」を持つための、最初の一歩につながる。
「どうせ」「しかたない」は呪いの言葉であり、それを振り切るところに、自由な世界があるのだ、と。
そんな勇気や希望をもらえる一冊である。
追伸:今朝配信された安冨先生のインタビューの「目に見えない暴力に取り囲まれていると、苦しみが終わらない」というフレーズは、まさに貂々さんが囚われた牢獄と構造的に同質だと感じた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。