ダイアローグな症状論

中井久夫氏の本は元々好きで読んでいたが、『統合失調症をたどる』は、非常に良い。中井氏の統合失調症の発病から経過に関するテキストと、その時期に当事者がどう感じたか、のエピソードが、うまく折り重ねられていく。例えば「発病時臨界期-身体症状の現れ」という項目では、中井氏のテキストでは、次の様に述べている。

「身体の乱れと感覚過敏のこの時期は、病気への入り口であり、頭痛、緑内障、便秘と下痢の交代など自立系の乱れが身体にあらわれたものから、インフルエンザや虫垂炎のような身体病まである。悪夢をみたことをあとで話す人も多い。さらに聴覚過敏がおこる。(略)ここで、身体の最後の警告を聞けば危機が回避される。」(p114)
それに対して、当事者たちはご自身の経験を次の様に語っている。
「【ウナム】胸が苦しくて病院を転々としたが、どこも悪くないといわれた。この本の編集に参加して、経過を知る事で、あの胸の痛みが何だったのか腑に落ちた。胸の痛みが『状態が悪くなるよ』と教えてくれた。」
「【星礼菜】腹痛があり会社を早退していた。その後、幻聴が自分をほめちぎってきて、うっとりと高揚した状態になったが、しばらくすると過去の失敗などを責めさいなむ声に変わる。持ち上げられたぶん、たたき落とされたときの痛みは大きかった。その繰り返しに疲れ果て、どうすることもできず無気力になった。」
「【のせ】発病前に強烈な胸の痛みに襲われました。それがまったく嘘のようになくなったと思ったら、世界が変容し、幻聴が聞こえはじめました。」(p118)
中井久夫氏は、患者の病理を外から観察する文体ではない。確かに実際には外から観察しているのだけれど、患者の感覚や感情をしっかり聞いた上で、統合失調症の「異常体験」的な何かの内在的論理を、しっかり掴む天才だと思う。しかも、無理からあせり、発病時臨界期、いつわりの静穏期、発病、恐怖からの救いとしての幻覚妄想、回復時臨界期、などのプロセスの、統合失調症者の身体症状や感情、感覚などの内在的論理も実に精緻に描いていく。その中井氏のいくつかの著作のダイジェストが抜粋されていて、それだけでも読む甲斐があるのに、この本のミソは、その中井氏の論理と、実際の体験者の「対話」があるところだ。
「病の体験を言葉にして力に変えよう」という事をキーワードに創られた、就労継続支援A型事業所でもある鹿児島のラグーナ出版。そこに集う患者達とこの本を創り上げた精神科医の森越まやは「本書ができるまで」で、こんな風に語っている。
「いつしか私は、ラグーナ出版で働く統合失調症の患者とともに中井の著作を読みはじめました。『病気の前よりもよくなることを目指す』などの治療目標は患者の腑に落ち、日々を生きるための確かな力になったことを実感しています。本書の”考える患者”の一人は、『病気を説明する本はたくさんあるのに、病気になったときにどうすればよいか、これからどうなるのかを教えてくれる本がなかった。だからこそ、役立つ本を作りたい』と語りました。読書会の様子を中井に伝えると、とても喜んでくださり、『それでみんな(患者)はなんていっているの』『この時期ではみんなどう思っているんだろう』などと尋ねられ、この本が生まれました。編集を終えて、ある”考える患者”は、『多くの人がこの本を手に取って発病を未然に防ぎ、統合失調症を正しく理解してほしいと願うばかりです』と語りました。」(p5)
この本では、中井の著作から、その時期ごとの記述がテキストとして引用されている。だが、それを聖典としてあがめ奉るのが目的ではない。見開き2ページ程度の中に、わかりやすく、スッと頭に入る解説分のパラグラフが、3,4つ挿入されている。そして、次の見開き2ページには、”考える患者”による体験ノートと、中井・森越による解説が付けられている。
実際に、”考える患者”と中井が対談している訳ではない。だが、この中井のテキストを通じて、”考える患者”が自身の体験談を語る中で、テキストとしっかり対話がなされている。それを、中井・森越の対談が受けている。そのような往復作業の中に、テキストをリアルなものに変え、患者の内在的論理が彩られ、「分厚い記述」が生まれていく。実際に直接の対話をしていなくても、テキストを通じた対話というポリフォニーが展開していく。それを読み進める程に、読む側はそのような「多声性」のグルーブの中に、はまり込んでいく。僕もそうやって、一気に読み進んで行けた。
あと、”考える患者”の声にもあったが、「病気になったときにどうすればよいか、これからどうなるのかを教えてくれる本」は、確かにあまり見ない。特に、次の部分の対話など、思春期の子ども達は絶対に読んでおいた方が良いと思う。
「【中井】人はいつも『余裕の状態』にいるわけではない。無理をし、焦る。この三つの段階を上下しているのがむしろ人々の日常であろう。ただこの三つの状態の『風通し』がよく、状況に応じて『余裕』への方向をとりうる者が健康者であろう。困難にぶつかると発病への準備性の高い人はいわば氷雪を頂く山頂の方に向かって逃げる。」(p87)
「【ウナム】子ども時代から何か困難があると『休む』ことより『頑張る』方向を選択していた。そもそも休みの取り方を教わった記憶がない。高校時代、睡眠三時間の生活を続け、周囲にとってもそれが当たり前の現実となり、半年後に原因不明の胸の痛みが起こり発症した。あせりを本人は気づきにくいので、注意してくれる人の存在が必要である。今回、自分の病気の経過を知り『そうだったのか』と腑に落ち、治っていくような気がした。」(p88)
実はこの部分を読んで、自分自身にも当てはまる部分が大きくて、すごーくびっくりし、腑に落ちた。「余裕→無理→あせり」のプロセスは、確かに僕自身もあてはまり、そこで「氷雪を頂く山頂の方に」漕ぎ出すことも、時としてある。だが、身体が正直で、眠ることを削らないだけ、何とか「風通し」が良い状況に戻れている。というか、自分が悪循環に入り込んでいるときは、睡眠不足と、無理があせりに変容した時である。それを他人のせいにしたり、しょっちゅう被害的な事をネチネチ考えたり、ネットを夜中まで弄っていると、ろくな事はない。そういう時はさっさと寝るに限る。逆に言えば、そうやって睡眠を確保できない状態が続くと、どんどん「氷雪を頂く山頂の方に向かって逃げる」にはまり込んでいく。
そして、僕の場合は幸いにも、パートナーがちゃんと注意してくれる。「あんた、眠くないの?」「無理してるけど、大丈夫? 休んだら?」 僕自身はウナムさんと同じように、「そもそも休みの取り方」がへたくそなタイプで、「何か困難があると『休む』ことより『頑張る』方向を選択」する傾向もある。だから、20代後半は、クタクタだった。それが、結婚してから、パートナーにそういう注意をされ、最初は不承不承だったが、少しずつ休むようになり、身体が楽になってきた。未だに「あせり」はしばしばあり、「頑張る」方向に行きがちだけれど、「休む」というのが、創造性を高める為に、非常に大切だ、とやっと身体がわかってきた。9時間くらい眠ると、頭がスッキリする。6時間以下の睡眠が続くと、文章も書けなくなる。そういうリズムに、「余裕-無理-あせり」のサイクルは、すごくフィットして来る。
このように、精神的・身体的な「風通し」をよくする為の本が、「心の健康」のためには、実に大切だ。そして、この本は中井の精緻な理解に基づく統合失調症の発病から回復に向かう内在的論理の記述と、”考える患者”の「この時に堂感じ、考えたか」の対話がポリフォニーのように響き合い、自分だったらどうだろう、と問いかけてくれる、ダイアローグの性質が高い本である。第四巻まで続くそうなので、早く続きが読みたい、とワクワクしている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。