泥臭く、かつ合理的に動いた経済学者

正直に言うと、鈴木氏の以前の著作をパラパラ捲って、「新自由主義に親和的な人」だと思っていたし、橋下・松井体制への評価も僕のそれと大きく異なる人である。僕自身が信頼できるジャーナリストで、精神医療や貧困について当事者目線で鋭く切り込む読売新聞の原昌平さんが関わっている事を知らなかったら、正直買い求めなかったかも、しれない。むしろ、なぜ原さんが鈴木氏と一緒に仕事をしているのだろうか、という疑問さえ、持っていた。
だが、読み始めると、面白くて一気に読み終えた。確かに彼は「経済合理性」をご自身のドクトリンにするがゆえに、「人権派」と呼ばれる人々への嫌悪感を抱いている事は、よくわかる。でも、その自分自身の主義主張を超えて、「あいりん改革」に文字通り泥臭く取り組み続けた事が、この本を読んでよくわかった。東京からしょっちゅう通い、ドヤ街近くの宿に泊まって、現地の住民や労働組合、支援者や行政関係者と何度も何度も話し合い、飲み交わし、信頼関係を作り、自らが「ハブ」となっていく。そこには、目的を遂行する為には「怒鳴りつける反対派事務所に一人で乗り込む」、という意味での「何だってする」という「経済合理性」があるのだが、その目的が「あいりん地区からの日雇い労働者の排除」ではなく、「あいりん地区に関わるステークホルダーがみな納得する形で街の再生を進めていく」という、非常に高い目的を達成しようとしていた。しかも、見事にそれを実現していく。
彼が阪大の大学院生から助教授になる間、あいりん地区に通い続けたことや、その中で現地の支援者や原さんを含めたあいりん地区に詳しいジャーナリスト・研究者達とつながり続けていたことは、本書を読んで初めて知ったことである。単なる落下傘の「特別顧問」ではなく、現地で温め続けてきたネットワークが前提としてあり、橋下改革の目玉として提示された「西成特区構想」というアドバルーンと見事に結びついて、結果的に彼が特別顧問としてこの問題に3年8ヶ月も関わり続けた、という成果になっていった。
本の中身はすごくオモロイので、是非とも手にとって頂きたいのだが、僕自身がこの本を読みながら、思い出したことを書く。それは、僕が闘いに敗れたことを、かれは成功したんだ、という敬意の眼差しである。
僕は民主党政権時代に内閣府に設置された「障がい者制度改革推進会議」の「総合福祉部会」委員として、障害者自立支援法の廃止と新法の制定に向けた議論に1年半、コミットしていた。そして、2011年8月に、利害関係が複雑に異なる障害者団体が一致団結して「骨格提言」を創り上げるも、翌年2月に見事に厚労省からゼロ回答され、民主党政権もそれに押し切られる、という惨敗の渦中にいた。その事は、以前総括的に書いている。僕自身は、敗因として、①厚労省と全面対決をしたこと、②この議論が障害者団体の枠内に収まり社会的な関心を充分に集めきれなかったこと(東日本大震災の被災とも重なり)、だけでなく、③僕自身や日本社会の認識論的な枠組みの限界があったこと、の3点があると感じていた。そして、②と③に関しては、『枠組み外しの旅』という拙著を書く形で、自分なりに総括した。だが、①については、どうすればよかったのかについて、総括しきれないでいた。それを、鈴木氏は大阪市というフィールドで、乗り越えているのだ。
実は、鈴木氏も国の審議会で、同種の経験をしていたという。彼自身も御用学者ではなかったから、むしろ民主党政権下の審議会では外された、という。その上で、これは僕と認識の共通するところなのだが、審議会はアジェンダ設定や委員選びを誰が握るか、が鍵であり、それを官僚に握られてはいけない、と理解し、実際にこの西成特区の有識者会議でもそれを貫いた、という。ここまでは、障がい者制度改革推進会議と同じ、である。だが、鈴木氏の場合は、その上で、2つの強みを持っていた。一つは、橋下・松井両氏という市と府のトップとのパイプラインがあり、いざという時には直接の対話で突破力としたという点。もう一つは、西成区役所を始めとした行政の職員ともガッツリ関わり、彼ら彼女らの内在的論理を探り、相手のメリット・デメリットや急所を押さえた上で、自らの改革に協力させていった、という点である。これは、ヤワな普通の学者では絶対に出来ない事だ。
そして、この本を読みながら感じたのは、肥大化した官僚機構の硬直性や自己組織化がここまで酷いことになっている、という現実である。首長が号令を掛けたくらいでは、簡単には変わらない。終身雇用を維持する為の最適化戦略をとろうとする官僚システムを動かすには、その内在的論理を知り、その文化が受け入れざるを得ないようなルートを創り上げて行かなければならない。これは民主党政権や総合福祉部会が失敗したことであったが、鈴木氏は、元日銀マンで官僚制機構の内在的論理を知り、かつ「経済合理性」を徹底的に追求していった結果、このハードルも突破していく。この辺りの彼の戦略や、官僚より先にアジェンダ設定をする突破力、そして、あくまでもボトムアップ型まちづくりを進める為に、大声で反対する人も対話集会に受け入れる度胸や度量が、ほんまもんだなぁ、とつくづく感じた。むしろ、そういう戦略と突破力、度胸や度量がない限り、硬直した官僚制機構の逆機能を打破することは出来ないのである。
さらに、この本を読みながら、改めて感じたのは、まちづくりにおけるボトムアップ型の重要性である。大阪市があいりん地区改革を失敗し続けてきたのは、戦略と突破力、度胸や度量に欠けるがゆえに、こそこそと密室で決めて、それを直前になって形式的に住民に説明し、怒鳴られても強行採決的・一方的に決めてしまうがゆえ、だった。つまり、行政内部で根回しをしても、住民との膝詰め談義をしていなかったのだ。一方、反対運動側も、行政との対話の機会がないばかりに、不信感は蔓延しても、それを抗議行動以外の形で昇華させる場が少なかった。鈴木氏が「アゴラ」の形で提供したのは、全てのステークホルダーがお顔の見える関係を作り、本音で議論を出来る空間を作ることであった。これは、大都市であれ、中山間地であれ、まちの再生には必要不可欠な要素である。そして、それをあのあいりん地区で実現させたのである。
海外の大都市のスラム地区の再生の本などを何冊か読んできたが、それと近いことを実際に日本でやることが、想像を絶するタフネスを必要とすることである、というのもよくわかった。そして、彼がハブとなり、あいりん地区に共感する支援者や学者、ジャーナリスト、地域住民などを巻き込みながら、渦を創り上げるなかで、「改革の舞台監督」として、大舞台を展開させていったプロセスを学ぶことができた。僕自身も、いろんな自治体を垣間見る中で、こういう地道な対話の積み重ねの上にある改革の重要性を、ひしひしと感じている。大言壮語するだけでも、悲観するだけでもなく、地に足のついた「抜本改革」を実現するためのヒントを、同書から得ることができた。
その意味では、本書は単なる闘いの記録、を超え、普段はなかなか表に出てこない・内幕が語られない政策形成過程分析のケーススタディーとしても、貴重な一冊であると感じた。