余裕がないのは、さて、どっち?

先日、ACT全国ネットワークという、精神科の訪問医療を進めている全国団体から、ニューズレターの巻頭言のご依頼を頂いた。この原稿をお送りし、既に発刊されているが、マイナな雑誌なので、当ブログにも転載することとする。
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「『余裕のあるほうがないほうに合わせる』のが対人関係の原則である。この定義によれば『治療者』とは『患者』より余裕が大きい人のことで、もし逆だと悲劇である。」(中井久夫『統合失調症をほどく』ラグーナ出版
中井久夫と考える患者シリーズ」と題されたこの本は、中井久夫の名人芸的な統合失調症の読み解きと、そのテキストに触発され、ラグーナ出版という鹿児島の就労A型事業所で働く「考える患者」達が自らの経験を語る、という紙上ダイアローグである。前作の「たどる」も面白かったが、本作の「ほどく」も、実に含蓄の深い言葉のやりとりがなされていた。引用したのは、その中での中井のテキストである。
ぜこのテキストを引用したのか。それは、先日リカバリーフォーラムで出会った奥野信子さんが、ご自身の患者体験について語られた次の言葉と重なったからである。
「診察室で先生は私の話ではなく、私の病気の話だけを聞こうとする」「先生は私の話を聴いてくれないから、私は先生に話を合わせて、先生の聞きたいことだけをしゃべってきた」「治療の前に、まず私の話を聴いてほしかった」
奥野さんは「悲劇」に遭遇してしまった。本来ならば「『治療者』とは『患者』より余裕が大きい人」の「はず」なのに、実際に合わせているのは、治療者ではなく患者の奥野さんの方である。つまり、治療者の方が明らかに「余裕がない」のだ。この奥野さんの経験は、例外的な「悲劇」なのだろうか?
中井久夫は多くの精神病につづく共通の三段階として、「余裕の時期」「無理の時期」「あせりの時期」の過程で整理している。受験勉強や就職、恋愛や過労などで余裕がなくなり、無理をし、空回りしてあせる中で、不眠症状が継続し、やがて発病状態へと至る、というプロセスだ。このプロセスを、先の「治療者」と「患者」の関係に当てはめると、実に恐ろしい「妄想」が浮かんでくる。
「患者」は「私の話を聴いて欲しい」と願っている。でも、治療や支援の場面で出会う「治療者」たちは、「病気のこと=治療者の聞きたいこと」しか聞こうとしない。聴く「余裕」がない。だからこそ、「患者」は諦めて、「治療者に合わせて」きた。つまり、「患者」は「治療者」より「余裕」をもっている。その一方、「治療者」は何とか目の前の仕事をこなそうと「無理」をしたり、「次の診察(訪問、予定、会議・・・)が迫っているから」と「あせりの時期」に入ってはいないだろうか。そして、そのような「無理」や「あせり」を重ねる中で、「余裕」を失っているのは、「患者」なのだろうか、それとも「治療者」なのだろうか? 全体性や見通しを失っているのは、さて、どっち?
この原稿依頼を受けた際、本号の特集テーマは「病院から地域へ その後は」であると伺った。「その後」に必要なのは、まずは治療チームのリカバリーである、と僕自身は思う。「余裕」なく、「無理」をして、「あせって」いては、良い仕事は出来ない。地域生活支援のはずなのに、気がつけばリスクマネジメントが最優先とされ、患者の管理や隔離、自由の制限が中心となってしまいかねない。現にグループホームが「ミニ施設化」している例は、洋の東西を問わず散見されている。ACTも「ミニ精神病院化」しないか、が常に問われている。
では治療チームが「余裕」を取り戻す為に、何から始めたら良いだろうか。それは、「水平の対話」以前の「垂直の対話」であろう。治療者の聞きたいことではなく、患者の話をきちんと聴く、という「水平の対話」を果たすためには、それ以前に、「自分は一体誰のために、どんな支援をしたいのだろうか?」と内なる自分自身の声と対話する「垂直の対話」が求められている。(詳しくは『オープンダイアローグを実践する』日本評論社の拙稿参照)
あなたは、自分自身の魂の声に蓋をしていませんか? まず、その蓋を外さない限り、自分の声を聴く「余裕」のない人が、他人の声に耳を傾けられるでしょうか?
治療チーム自身のリカバリーとは、「垂直の対話」からこそ、始まるのだと僕は思う。