2016年の三題噺

毎年恒例の、今年一年を振り返るブログ。とは言っても、今年は何を基軸にしようか、書き始めた今も漠然としている。まあ、書いていれば出てくるだろうと思い、一つ目を繰り出す。

1,年下の仲間たちにエンパワーされた一年

僕自身は、これまでずっとチャレンジャーだと思ってきた。師匠や指導教官、諸先輩の優秀でオモロイ研究者の皆様に鍛えられた。そういう人びとの背中を追いながら、自分も少しでもその領域に近づきたい、と必死になってきた。同世代と群れることはせず、学会発表や論文執筆も、基本的には一匹狼で、必死にキャッチアップするモード、であった。

その風向きが、明らかにこの一年の間で、変化しつつある。

一番大きいのが、岡山や京都で人材育成塾の「校長」をしているから、かもしれない。

「校長」って、ふつう50代のおじさんがやる、あの立ち位置である。

岡山県社協の「無理しない地域づくりの学校」が二期目になり、そこからスピンオフした形で京都府社協でも今年、「コミュニティーソーシャルワーカー実践研究会」をさせてもらった。岡山では、各地域で人作り塾を主催している尾野寛明さんを「教頭」に、岡山県社協の西村さんを「用務員」にした布陣の二年目。尾野さんも西村さんもまだ30代前半だが、めちゃくちゃ面白くて優秀なメンツ。一年目の昨年は、尾野さんと僕が「船頭多くして船山に上る」に近い状態だったけれど、僕は「校長」なんだから、どーんと構えて尾野さんに任せればいいや、とお任せして、好きなことを好きな時にしゃべるだけのモードにしたら、やっと波長が合ってくる。11月末の最終回、長泉寺で尾野さんとセッションをしたときは、「漫才を見ているみたい」という評価を受けるくらいの掛け合いの呼吸が合ってきた。それは、僕自身がやっと、「貪欲に食らいつくチャレンジャー」の構え、を脱ぎ捨てて、年下の仲間たちに下駄を預けることを覚え始めたからかも、しれない。

そんな時期に、京都府社協の才女、北尾・西木ペアに誘われて、地元京都での恩返し的な仕事も今年スタートした。この2人も、僕よりは一世代若い2人だが、めちゃくちゃ優秀で、かつ熱い気持ちを持ち、細やかな心配りも出来るソーシャルワーカー。西村さんといい、北尾さんや西木さんといい、志ある社協若手の人びととチームを組むと、こんなにオモロイ仕事が出来るのだな、という可能性を教わった。今まで、僕の仕事はどちらかと言えば僕自身が企画から全面的にコミットする内容が多かったが、岡山と京都のこの人材育成塾は、主催者たちの本気の想いに寄り添いながら、僕はその場に顔を出し、皆さんとエールを交わしながら、全体をぼんやり眺めていくうちに、うまく展開して、連続講座の間に受講生も発芽し、ドラマがあちこちで展開して行く、という、生まれて初めての経験。

不思議なことに、京都や岡山に行く度に、こちらも元気を分けてもらえる、そんな愉快な場だった。僕は今までは逆で、講演する度に、受講者から「元気を貰いました」と言われるものの、僕自身はグッタリしていた。なので、一体この経験をなんて名付けたら良いのかわからなかったのだが、さっきのタイトルをみて、ふと、気づいた。そう、僕自身がエンパワーされつつあるのだ、と。誰か「のために」行う講演では、僕自身が一方的にエネルギーを出してしまう。でも、誰か「と共に」であれば、僕自身も学ばせてもらえて、元気も貰える。30代はひたすら前者で疲れ果てていたけれど、41歳になって、やっと「と共に」のモードを、自分自身でも実践できるようになってきた。そんな、信頼できる年下の仲間たちに、気づいたら囲まれ始めている。これは、めちゃもうけもんだ。

2,バラバラだったものがつながりつつある

研究の面では、今まで気になっていたことが、急にグッとつながってきた。「問題行動」や「困難事例」、BPSDや強度行動障害、精神症状・・・と言われている「何か」についてである。

僕の研究は、精神病院でのフィールドワークを振り出しに、精神科ソーシャルワーカーへのインタビュー調査や、スウェーデンでのノーマライゼーションについての実態調査、カリフォルニアと大阪での精神医療の権利擁護の比較研究、重症心身障害児者の地域生活支援や西駒郷からの地域移行調査、山梨での自立支援協議会の立ち上げ支援、障がい者制度改革推進会議へのコミット、地域包括ケアシステムの立ち上げ支援、そしてトリエステの脱施設化調査やオープンダイアローグへの関わり・・・など、雑多な領域で色んな事に首を突っ込んできた。「ご専門は?」と聞かれても、「よくわかりません」「特に一つと定められません」と、むにゃむにゃ答える日々だった。

でも、こないだ大坂精神医療人権センターの研究会で、認知症患者とBPSDについて議論をしながら、ふと全てのことがつながってきた。「ああ、僕が気になっているのは、『世間に迷惑を掛けるから』と排除されている人を、どう施設や病院に排除せず、包摂していくか、という主題なんだな」と。かつ「世間に迷惑をかける」行為とは、そのような形でしか表現できない状態に構造的に追い込まれている、という意味で、究極のSOSなんだな、と。こう考えると、いろんなことが串刺しで繋がってくる。

ゴミ屋敷の主、徘徊や暴力行為をする認知症の人、幻覚や妄想に振り回されている人、頭に壁をぶつける強度行動障害の人・・・。表面的な現象を見ると、バラバラに見える。でも、どれも「世間に迷惑を掛ける」「他者が口で制止しても止まらない」という共通点を持つ。そして、そのような言動ゆえに、これらの人びとは地域の中で暮らせない、と排除される。だが、そういう人びと自身が、そういう言動を喜んでしている訳ではない。不安や孤独、不満や苛立ち、貧困や心身の不調、などが折り重なり、絶望的な状態になる。しかも、それをどう言葉で表現してよいか、わからない。聞いてくれる人もいない。その中で、絶望や諦めの気持ちが大きくなる。その不安や苦しみを、行動の形で表現したのが、「自傷他害」である。あるいは、行動しない、という形で表現するのが、ゴミ屋敷だったり、「無為自閉」と言われる状態である。そして、多くの人はその「状態」をみて、「その人は○○という病状だ」と固定的な理解をして、「わかった気」になる。でも、ご本人は、その「状態」に固定されることが、「理解されていない」と思うからこそ、命がけで反論の行為や表現にでる。すると、「病状」がひどい、というラベルを押される。その悪循環。

ということは、この悪循環の構造や全体像を理解し、その悪循環を鎮め、悪循環が好循環に変化し、本人も周囲の人もハッピーな形に物語が変容するにはどうしたらよいか、を考えるのが、実は支援の醍醐味であり、僕自身が追い求めてきたテーマのひとつだ、ということに、やっと最近気づき始めた。これは、5月に参加したオープンダイアローグのセミナーでも感じたことだし、この秋、精神科の訪問看支援チームであるACTの現場に二カ所ほどお邪魔して、改めて強く感じた事だ。脱施設化を日本で本気で実現するために、今までスウェーデンやアメリカ、イタリアのシステムを、僕自身は調べ続けてきた。だが、システムだけでなく、「悪循環を地域の中で鎮め、好循環に転換させる支援のあり方」を考えることが、脱施設化を本気で実現する為の、大きな鍵なのだな、と気づき始めている。こういう部分で、今までバラバラな現場で考え続けてきたことが、やっと一つの形として、言語化できはじめている。

3,いろんな意味で「本厄」でした

日本では、男子の41歳は「本厄」とされている。「前厄」の昨年、妻に山梨の地場産業のショップ「かいてらす」で、翡翠の数珠をプレゼントして貰った。山梨は宝石の加工業が日本一でもあり、うちの近所にも宝石加工関連の会社が沢山ある。

そういえば、うちの父親が「本厄」だった年には、滋賀の立木山に毎月お参りに出かけていた。僕はドライブがてらに休日、弟と3人、時には母も一緒に4人で立木山に行くのが好きで、帰りにMドナルドでお昼ご飯を食べるのも含めて、一大イベントだった。でも、そんな父も、確か厄年の時期に十二指腸潰瘍で入院した。暮れの時期に北野天満宮そばの病院に入院していたので、お見舞いついでに12月25日の「終い天神」にでかけた事を思い出す。あれから30年たった。

数珠を毎日つけていると、折に触れて「本厄」だ、と思い出す。で、そのことの意味を考えていたのだが、41歳というのは、仕事に脂がのり出すのと、体力がついていかなくなる(衰え始める)、その均衡点が崩れる時期なのだな、とよくわかった。先の二つの噺で書いたように、最近いろんな学びや気づきが多く、仕事の面では実に充実している。ありがたいことに、いろんな領域からの講演や原稿依頼も、増えてきた。放っておけば、忙しさはドンドン加速していく。その一方、体力は着実に落ちはじめている。特に、仕事続きで、合気道の稽古やランニングが出来ないと、体重が増え、身体の切れも失われていく。だからといって、以前なら、出張帰りでそのまま合気道の稽古に行くことも出来たのだが、今ではそんなことをしたら身体が悲鳴を上げるので、さすがにそこまでの無理が利かない。

そんな折に、今年は何度も、「何を大切にしますか?」「優先順位が高いのは、どれですか?」と、妻にも尋ねてもらい、自問自答をした年だった。そして、そういう自問自答の中で、自分が譲れない軸や一貫性を再定義し、次の10年20年に向けて余裕を持って生きていくための、ギアチェンジの時期。それが「本厄」という年なのだと、改めて感じた。それは、昔からその年齢で来る体力の衰えと、経験の蓄積の均衡点の崩れと反比例の始まりに際して、「人生の正午」を超えて、「午後」をどう豊かに成熟していくのか、を自問自答し、次のステップに歩み出すための、必要不可欠な「階段の踊り場」の時期なのだと、本厄の一年を過ごして、やっとわかった。僕は、経験してみて、やっとその意味を理解できるタイプなので、いつものことだが。

自分の中では、今年はいろんな不全感や、未達成なモヤモヤ感が引きずり続けた。もっと勉強したい、もっと学びを深めたい、と思いながら、現実的な制約も大きくて、フェードアウトすることもあった。この20年は、体力に任せてがむしゃらに突っ走ってきたが、どうもそれでは対応出来ない局面があり、どうもそれとは違う立ち位置の方がスーッとうまくいくことは、一つ目の話題で書いたとおりである。ということは、次の20年は、がむしゃらモードではなく、少し腰を落ち着けて、取捨選択した上で、一貫性と柔軟性をもちながら、もちろん前提としてオモロく楽しみながら、出来る事を積み重ねていくのだな、と理解し始めている。そういう意味で、やっと「大人」の「成長」や「成熟」とはなんたるか、が、朧気ながら見え始めたのが「本厄」というプロセスなのかもしれない。(まだ「成熟」とは言い切れないけれど)

 

で、実はこの3つ以外にも、大きな変化のプロセスが始まっているのだが、それはまた、いずれ機会を改めて書くとしよう。

この一年も、お世話になりました。

みなさま、良い年をお迎え下さいませ。

たけばたひろし

自分の「魔法」を取り戻す

寝屋川たすけあいの会の機関誌「つなぐ」に、ずっと1125字で連載させて頂いている。こないだ掲載された文章は、最近考えている「魔法」について。ブログでも、ご紹介させて頂こうとおもう。
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人は皆、自分独自の「魔法」を持っている。といっても、石を金に変えたり、人を呪い殺す力、ではない。他の人にはない魅力であり、その力を活かすことによって、自分や他人を幸せにすることが出来る「魔法」。みんなを笑わせる、場を和ませる、あの人にはなぜか悩みを打ち明けられる、突破力がある、黙っているけど包容力がある・・・これらは、みな「魔法」である。あなたは、どんな「魔法」を持っていますか?
この「魔法」をもっともうまく使いこなせる存在。それは、乳幼児である。赤ちゃんや小さな子どもがいるだけで場が和む。それは、その子ども達ひとりひとりが持つ「魔法」を、存分に発揮しているからである。まだ言葉を覚えたての頃の子どもが、ハッとするような一言を発する時、大人はそれを偶然のなせる技だと誤解する。だが、実は子どもは意識の制約をかけることなく、自らの持てる「魔法」を使って、場面を転換する言葉を発しているのだ。
そんな魅力的な「魔法」も、周りの顔色をうかがい、空気を読み始める年齢になると、急速に威力を失っていく。人と違っている部分は、馬鹿にされたり、「違うよ」と指摘されたり、時としていじめの対象になる。親や先生から「余計なお節介だ」と叱られ、「子どもは黙っていなさい」と抑圧される中で、「直感・直観で思ったことを口にしてはいけないのだ」と封印してしまうようになる。さらに成長すると、立場や肩書きばかりを気にする大人の振る舞いを真似して、心に生じた「魔法」を「幼稚な発想」と否定し、大人になること=世間に同調すること=立場主義者になること、を目指し、その人の魅力や活き活きさが失われていく・・・。
格差社会の拡大と共に蔓延する生きづらさ。確かに制度政策が改善すべき課題は多い。とはいえ、制度政策から遠い私たちひとりひとりが、この「魔法」の封印に気づき、それを取り戻すことで、生きづらさが減る部分もある、とも思っている。そのために、どうしたらよいのだろうか。
まずは、「おかしいことはおかしい」「変なことは変だ」と口にしてみること。空気を読んで、「どうせ」「仕方ない」という呪いの言葉を自分自身にかけるのは、「魔法」を抑圧するだけだ。
次に、ありのままの自分を認めること。「○○すべき」に囚われず、出来ない・不甲斐ない・自己嫌悪に感じる自分も、そのものとして認めること。これは、自分の持つ魅力=「魔法」を引き出す前提条件となる。
その上で、自分の持つ潜在的な力である「魔法」を信じて、その力を活かす機会を探ること。素の自分の持つ力を素直に受け入れ、再評価することが、大切になってくる。
福祉現場で求められているエンパワメント支援とは、そんなご本人が「魔法」を取り戻す支援なのかもしれない。(続)
寝屋川たすけあいの会機関誌「つなぐ」229号より
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「世間の目や評価」を気にして縮こまっていると、自分の「魔法」が消えてしまう。自分にリミッターを掛けているのは、そのような内面化された「世間の目」なのだと、思う。ここからどれだけ自由になれるのか。それは、創発が可能となり、創造力豊かに活き活きと生きるための、原点なのだと思う。

誰のための、何のための地域福祉?

最近、地域福祉の専門家、とラベルを貼られることもあるし、確かに地域包括ケアシステムに関する編著や文章も書いているので、少し気になることを書いておく。
僕が結果的にラッキーだったこと。それは、地域福祉に関わる前から、精神病院や入所施設の構造的問題と向き合い、「脱施設化」というテーマと向き合っていたこと。「地域で暮らしてはいけない」、と、社会的に排除されている人をどう再び地域に包摂するか。その方法論として、地域福祉と出会ったこと。この順番が、決定的に大切だと、今ならわかる。
「迷惑をかけるから、地域から出て行ってくれ」「親が面倒を見れないなら、精神病院や入所施設しか行き場がない」と第三者に決めつけられ、地域生活から排除され、日本も批准した障害者権利条約19条が差別だと指摘する「特定の生活様式を義務づけられている」状態に長い間おかれている人。それが、社会的入院・入所の根本的問題である。今年の夏に起こった相模原での連続殺傷事件でも、そもそも入所施設に障害者を分ける思想そのものが、排除の論理であり、そこから差別が起こった、と僕自身は考えている。(この点は以前、ブログにも書いた)。
つまりは地域社会から排除されてきた人が、どう地域の中で自分らしく生きることが出来るか、をずっと考えてきた。歴史的に辿れば脱施設化とはコミュニティケアへの転換であり、地域の中で障害が重くても、認知症でも、ターミナルの時期でも、暮らし続けられるし、それを支え続ける、というのが施設や精神病院、家族介護者に依存しない地域支援のあり方として模索されてきた。だからこそ、地域福祉で出てくる「困難事例」って、「本人の困難」、ではなく、「その地域や支援者にとっての困難」であり、変わるべきは本人ではなくて地域だ、と思い続けてきた。
でも最近、地域福祉領域で現場と関わったり研修をする中で、どうやら上記の前提が共有されていない、ということに気づき始めた。地域福祉に関わる専門家といわれる人の中にも、「認知症でBPSDが出てきたら、精神病院に入れるしかない」「特別支援学校の卒業後は、みんなと一緒に暮らす入所施設の方がよいのではないか」という発言をする人と、いまだに出会う。僕としては、脱施設化が世界の潮流なのに、どうして「何をいまさら!」なのだが、いまだに!そういう発言に出会うのである。
「○○ならば、施設・病院しかない」という論理の、何が問題なのか。それは、「地域に迷惑をかけない人は地域福祉が支えるけど、地域に迷惑をかける人は入所施設や精神病院へ」、という選別のロジックに、他ならぬ地域福祉に関わりがある人でも染まっていることである。脱施設化、という前提がないと、こういう選別の論理が跋扈する。だが、これは地域福祉にとっては、本末転倒である。
なんのための地域作りであり、誰のための地域福祉か。それは、介護給付費の削減のためでも、ボランティアという「安上がり労働力」の確保のためでもない。どんなに重い障害を持っても、BPSDや強度行動障害、幻聴や妄想などの形で生きる苦悩が最大化していても、地域から排除されない。誰もが地域住民として尊重される。そんな地域を創り上げるために、専門職や行政、地域住民がどのように学び合い、関われるか。地域作りとか地域福祉と言われるものは、この学び合いや関わり合いの中から生まれる相互作用を生み出すプロセスなのだと思う。そして、僕自身は、そういうスタンスで地域作りをしてきた、精神科ソーシャルワーカーから沢山のことを学び、結果的に地域福祉のダイナミズムを学んできた。(「五つのステップ」という学恩
そして、社協も民生委員も地域福祉も、そういう大きなビジョンのための方法論なのだ。方法論は、ビジョンの達成のために、柔軟に変わるべきである。方法論が絶対化や固定化し、自己目的化されてはならない、と、改めて感じる。
そう考えると、社協や民生委員の活動の中には、誰のため、何のため、が見えにくく、方法論が自己目的化してしまった活動が、あるのではないだろうか? 地域包括支援センターや基幹型障害者相談支援センターが、「○○ならば、施設・病院しかない」という選別や排除の論理に手を染めてはいないだろうか? 誰のための、何のための、地域福祉なのか? 今一度、原点に戻って問い直さねばならないと、僕は感じている。