「未来語りのダイアローグ」という希望

4月の週末は4週間連続で京都に通っていた。『オープンダイアローグ(OD)』(日本評論社)の訳者である高木俊介さんが、ご自身の所属するACT-Kという精神科の訪問支援チームのメンバー向けに開催されたクローズドな研修に参加させて頂いたのである。高木さんは私財をなげうち、ODの執筆者の一人で「未来語りダイアローグ(anticipation dialogue:AD)」を唱えるトム・アーンキルさんと弟のボブさんを日本で招いていた。ちょうど、そのトムさんに1年前、この依頼する場で通訳の真似事をしたことがご縁で、僕もその研修に混ぜて頂いた。

今回、この研修に参加したかったけど出来なかった人が多かったと聞いたので、少しでもOD/ADの理解に役立てば、と一参加者として感じた事・理解した事をまとめておく。なお、ちゃんと理解したい人は、先述の本をしっかりお読みになることをお勧めする。

ADのプロセスとは、おおむね次のようなものである。社会関係がうまくいかず・つまづき、支援者が介入するもうまくいかない「困難事例」に関して、「当事者(家族)の『問題』」に焦点を当てず、「支援者の『心配事』」に焦点を当て、それを解決するために、当事者や家族、支援者などの関係者に集まってもらう。そして、想起(anticipation)すべき未来を当事者と決めた上で、例えば1年後と決めると、次のように聞く。

①「一年がたち、ものごとがすこぶる順調です。あなたにとってそれはどんな様子ですか? 何が嬉しいですか?」②「あなたが何をしたから、その嬉しい事が起こったのでしょうか? 誰があなたを助けてくれましたか? どのようにですか?」
③「一年前、あなたは何を心配していましたか。あなたの心配事を和らげたのは、何ですか?」

この3つの質問について、ご本人だけでなく、ご本人に関わる支援者にも一人ずつ話してもらう中で、みんなの心配事だけでなく、希望する未来に向けての具体的な行動が明らかになり、本人と家族や支援者の関係が大きく変わり始める。

・・・これだけ聞くと、ほんまかいな?と疑いたくなる。僕も半信半疑、というか、「そうなればいいけど、1回のミーティングでそんな変化が生じるだろうか」と半信半疑だった。だが、実際の事例を通じての「ライブダイアローグ」のセッションの場面で、ACT-Kの利用者さんと支援者達が、トム&ボブの二人のファシリテーターに上記の3つの質問をされて話し合う場面を別室からの映像越しに眺める中で、本当に「ほんまかいな」の出来事が「ほんまに」起こっていったのである。これが、最大の驚きだった。先ほど、上述の本の第4章を読み直したが、そこに書かれていた通りのことを、トムやボブは実践し、それで大きく場面が展開していたのである。それは一体どういうことなのだろうか。少しだけ、体験したことの振り返りをしておきたい。

まず、他の多くの参加者が言っていたことだが、「聞くと話すをわける」「安心して話せる空間を確保する」、というのが、この未来語りダイアローグの最大の特徴だろう。ファシリテーターがこのミーティングをハンドリングするのだが、通常のケース会議やサービス担当者会議と違い、「ファシリは事例に関わっていてはいけない」「ケースにではなく、ダイアローグに集中するのがファシリの役割」なのである。これは一体どういうことか?

困難事例、とは、支援者が通常のかかわり方でうまくいかない事例、である。つまり、その困難性は「支援者にとっての困難」でもあるのだ。だからこそ、会議では「支援者の困難を解決する為に本人に協力して頂く」というスタイルをとる。支援者が本人の困難性について論じる、というのは、ご本人にとっては自分が批判や非難の対象である、と感じやすい。だから、本人の困難に焦点をあてるのではなく、支援者が何を心配に感じているのか、を主題化するのだ。ゆえに参加した当事者は、支援者の困難性を解決するのを助ける立ち位置、を取る事が出来る。ここが、通常のケース会議とは全く違うところである。

そして、上記の例でもわかるように、支援者が「困難さ」を感じている事例について「相談」するのだから、その事例に関わる支援者が会議のファシリテーターになってはいけない。あくまでも、一参加者として、当事者とも対等な立ち位置で、その「心配事」について「相談する」のである。だからこそ、外部のファシリテーターが必要であり、今回の京都の集中研修はファシリテーター養成の為の研修であった。

ただ、このADは治療でも心理療法でもない点が特徴である。つまり、一定のトレーニングは必要だが、資格がないと出来ない、ということではないのだ。その代わり、心配事がかなり極度になっている急性期においては、ADではなくケロプダス病院でやっているようなODの手法が必要であり、ADでは対処出来ない。一方で、急性期では無い心配事で、混乱している状況を整理するためなら、精神医療の現場以外でも、例えば組織内・組織間コミュニケーションの不全などの問題でも、このADのファシリテーションは使える、というのが、僕にとって最大の発見であり、魅力だ。

実際に自分も「脱施設化」に向けた「未来語り」のplanning meetingに実際のダイアローグの参加者として立ち会った。その中で、僕自身が「脱施設化について1年後、どんな嬉しい変化がありましたか」「あなたは何をしましたか? 誰としましたか?」「1年前の心配事は何で、何があなたの心配事を減らしましたか?」と聞かれた。「自分はどんな未来を想起して、自分には何が出来るか?」と問われるのは、外から観察していると簡単そうな質問に聞こえるが、答える張本人にとっては、結構グッとくる質問である。しかし、自分自身もこの問題であれこれ書いてきたし、それでも変わらない現実に大きなworryを抱えていたので、気がつけば「ファシリテーターとしての腕を1年後に上げています」という「未来語り」をしながら、そうなるための方法論を具体的に話している自分がいた。

この際、一参加者として実感したのは、ファシリテーターがアドバイスも提案もしない、じっくり聞いてくれる、というのが、これほど嬉しい体験か、ということである。「話すことと聞くことを分ける」ことで、僕もライブの間、ほかの人の発言を真剣に聴きながら、自らの中での内的対話をしているし、僕の発言もしっかり聞かれていて、他の人の内的対話を促している。まさに交響曲(ポリフォニー)のような空間なのだ。

不確実な未来についての何らかの提案や宣言は、勇気が要る。しかも、馬鹿にされたら・非現実的だと言われたらどうしよう・・・という不安や心配事も抱えやすい。でも、トムやボブといったADファシリテーターは、「ケースにではなくダイアローグに集中している」ので、どんな発言でも、批判も非難もされない。具体的に「いつからですか?」「それは一体何ですか?」という事実質問をする。前回のエントリーで「なぜ?」の問題を問うたのは、ここに起因する。語りにくい未来を恐る恐る語った相手に、「なぜ?」と問い詰めたりだめ出しをして気持ちをしぼませずに、具体的な未来像を語ってもらうための、事実質問なのだ。

僕の場合、「ファシリの腕を上げる、ということはどういうことですか?」と聞かれ、こんな風に答えていた。

「この研修で、精神科病院の中で働く方々が、様々な苦悩を抱えているのを知りました。支援者は、自分自身の心配事をそれとして言えない。だからこそ、何かがオカシイと感じても、変わることが出来ない。それが結局「どうせ」「しかたない」という諦めや現状肯定につながってしまう。一方僕はそんな現実を問題視し、多すぎる精神科病院に関して、いつも外から批判をし続けて来ましたが、全然変わらない現実に、半分絶望していました。
しかし、今回の研修で、精神科病院の中の人と外の人が対等な場でダイアローグすることが出来たら、そこから風通しが良くなり、精神科病院の現場での苦悩が表面化することで、解決策に結びつくきっかけがうまれるのだ、と思いました。その中で、ちゃんとダイアローグされている病棟現場なら、声高に『脱施設』と言わなくとも、『重度かつ慢性』の人も含めて、どうしたら退院できるか、を話し合う土壌が生まれると思います。
そういう意味で、僕は精神科病院の中の人と外の人が開かれた場でダイアローグ出来るような1年後になっていてほしいし、そのためにはこの1年間で、そういうダイアローグが出来るためのファシリテーターとしての腕を上げたいです。」

正直、こうしゃべりながら、僕自身が楽になっていた。

それは、自分自身の「心配事」が「解決された未来」から、自分が変わるべき課題や具体的に出来るアクションを口に出来るから、である。正直、上記の内容は、この研修を受ける前に、思いもしなかった。でも、精神科病棟のスタッフで参加している研修仲間達のライブダイアローグを拝見したり、対話を重ねる中で、外から批判するより、中の人の心配事を理解し、それを解決するための「建設的対話」を重ねていくことが、中の人が納得して変わるきっかけになるのではないか、と思うようになった。実際、ファシリテーターが入った、病院内の「心配事」に関するダイアローグの後、その病院の関係性は変わり始めるのではないか、という感触を、見ている僕も抱くことが出来た。

だからこそ、僕自身もこのファシリテーターとして、地域の現場や、あるいは病院の内外でのダイアローグの場に居合わせ、未来語りの瞬間に立ち会い、そのダイアローグの手伝いをしてみたい、と思っている。そうすることで、批判するだけではかえって頑なになり、聞く耳も持たれなかった外部者の「声」が内部に届くのではないか、と思っている。そして、病院の内外の人が対等な立場で、病院の人の「心配事」に向き合う事が出来れば、内外の障壁の高さが下がり、それがひいては病院職員のマインドを変え、結果的に「脱施設とは言わない脱施設化」を進める兆しになるのではないか。そんな「想起(anticipation)」をし始めている。

ちなみに、今回の通訳をされたのは、あの『プシコ・ナウシカ』を書いた松嶋健さんだが、彼と二人で、精神病院の内外でのオープンな対話って、イタリアのアッセンブレアそのものだよね、と話し合っていた。そう、イタリアの脱施設化は、病棟内でのオープンな対話から始まったのだ。それを日本で実現するためにも、この「未来語りダイアローグ」は充分使えるのではないか。そう思うと、希望がわき、ワクワクとした4週間だった。

さて、ファシリテーターとして、どこから何が出来るのか? 僕の具体的なアクションプランが、始まろうとしている。

「なぜ?」から距離を置いてみる

気づけば研修や授業でファシリテーターをする場面が多い。とはいえ、これまでファシリの研修を受けたことなく、参考文献を我流に読み込みながら、現場で鍛えられてきた。

とはいえ、我流には限界がある。そこで今、あるクローズドな研修の場で今、学び直している。その中で、研修の本論とは関係ないが、今の僕にとっての最も大きなハードルにぶち当たっている。それは、「なぜ」を使わない質問、である。僕が参加しているその研修でも、実際に「なぜ」を使わない。それは「なぜ」か?

僕の実像を知っている人にはご案内の通り、僕は「なんで?」の竹端である。インタビューでも、授業でも雑談でも、どんなところでも「なぜ?」の問いを深めていく。それは、価値前提を問い直すために必要不可欠な問いであると思っている。これは、「哲学の巫女」で夭逝した池田晶子の産婆術から学んだもので、僕自身が20代にずっと彼女の本を読み続け、30代で研修や授業を持つようになると、その骨法を使い続けてきた。

授業でも、例えばシングルマザーの貧困問題を取り上げると、「自己責任論」に共感する学生もいる。自分が選んだ相手なのだから、仕方ないではないか、と。その時、学生がどのような根拠で「自己責任」だと思っているのか、そこにはどのような前提があるのか、その前提はどういう時には機能するが、どういう時には機能不全に陥るか。それは自分自身と関係のないことか・・・を「なぜ」をもとに考えあっていく。すると、価値前提に含まれた臆断や他人事的な視点が崩れ、自分事として物事を見つめ直せる。そんな場面に出会ってきた。これぞ、池田晶子が舌鋒鋭く書き続けてきた、「問いかけ、考え続ける中での価値前提の問い直し」である。

だが一方、この「なぜ?」はしばしば原因追及になったり、放っておけば「問い詰める」表現になりやすい。そして、研修や授業の場で、あまりに僕と価値前提が違う人に「なぜ?」を問うていると、その前提を問い直すモードから、いつしか「相手の糾弾」に転化する場面が、たまにある。そしてそういう「糾弾」モードに入ったら最後、相手も頑なになり、対話が二項対立的議論の泥沼に変化し、不全感が満載で終わる。最近ではそんなことは少なくなったが、以前はたまに「やらかしていた」。

僕が受講している研修では、「対話が二項対立の泥沼」にはまらず、良き未来を想起するための方法論を学んでいる。その際、「なぜ?」と「説明」を求めるのではなく、「いつ?」「どこで?」といった「行動」を促す質問が大切だ、と学びつつある。

この逸話に関連して、ファシリテーターの知り合いが「こんな本ありますよ」と教えてくれた本がある。指摘された本は、実は僕自身が以前読み、線まで引いていながら、実践できていなかった本でもある。

「一般に、質問をする場合、英語の5W1Hを聞いていくようにするとよいと言われています。しかしながら、5WのうちWhyは避け、残りの4つ『When=いつ』『Where=どこで』『Who=誰が』『What=何を』の4つに置き換えるよう努めてください。中でも一番簡単かつ強力な質問が『いつ?』というものです。何か相手が問題を語り始めたら、『どうして?』と原因や動機を尋ねるのではなく、『一番最近それが起こったのはいつですか?』と尋ねます。さらに『その前は?』と聞いていく、相手はどんどん思い出してきます。次には、『それはどこですか?』『誰と(あるいは誰が、誰に)?』『何を?』などと聞き込んでいきます。そうしているうちに、相手は、原因や動機、あるいは事態の捉え方についての自分の思い込みと現実の間のギャップに気づき、自らそれを語り始める、というのがこの対話術の基本中の基本です。」(中田豊一『対話型ファシリテーションの手ほどき』ムラのミライ、p10-11)

僕が研修や授業で扱うテーマも、「原因や動機、あるいは事態の捉え方についての自分の思い込みと現実の間のギャップ」について、である。ただ僕自身はこれまで、それを僕から「なぜ?」「どのように?」と問いかけることで、相手に気づいてもらおうとしてきた。でも、それは僕から相手に対する問いかけである限り、相手は「応答」モードである。しかも「糾弾」されている、と思うと、相手は必死になって自己防御的に自分の価値前提に固執しようとする。それがコミュニケーションの悪循環を創り出すとしたら、僕の「なぜ?」という問いかけ自体が大問題だったのだ。

では、どうすればよいか。そのヒントは、次の二カ所にある。

「事実を聞くつもりで、相手の意見や考えを聞く質問をしてしまい、結果として、相手の思い込みや思惑を引き出してしまうことで、ものごとをよりわかりにくしている」(p79)

「対話型ファシリテーションの技法の中心は事実質問にあり、『なぜ』という質問は禁句と繰り返して述べて来ました。しかしこの場合はそれを逆手に取りました。つまり、あえて『なぜ?』を尋ねることで、相手の誤った固定観念を引き出し、事実質問を使ってそれを検証することで、新たな学びと気づきを引き起こすという方法をとった」(p97-98)

「なぜ?」質問が全く駄目、なわけではない。そうではなくて、「事実質問」と「相手の意見や考えを聞く質問」の違いに常に自覚的である必要がある、ということだ。もっといえば、質問者が今話題にしているのは「事実」なのか、「相手の意見や考え」なのか、に自覚的になることが大切なのだ。そして、僕はそこに無自覚なまま、「相手の意見や考え」を聞き続け、糾弾モードになり、泥沼にハマル局面があったのだ。

ということは、今の僕がすべきファシリの実践上の変化とは、「『なぜ?』を尋ねることで、相手の誤った固定観念を引き出し、事実質問を使ってそれを検証する」ということである。価値を問う質問一辺倒、ではなく、出てきた価値についてまで「なぜ?」とたたみかけず、「いつからそう考えるようになりましたか?」「誰からそういう考えを学びましたか?」「その考えは、何と似ていますか?」など、「事実質問を使ってそれを検証する」ことが大切になってくるのだ。

更に言えば、「相手の間違った固定観念」と決めつけなくても、力まなくても、事実質問は魔法のように状況を変える力がある、と筆者いう。

「事実質問の訓練を重ねていくうちに、人間の意識と行動と感情を繋ぐ糸の共通の仕組みがだんだん目に見えるようになってきます。それとともに、その糸を相手にみてもらうために効果的なものや出来事を捉まえて、『これは何ですか?』『それはいつですか?』と聞いて行けばよいということがわかってきたのです。」(p58)

「人間の意識と行動と感情を繋ぐ糸の共通の仕組み」。これこそ、ファシリテーターが常に手綱を握るべきポイントなのかもしれない。そして、その「糸」を事実で辿っていきながら、相手に「糸」の存在を「みてもら」い、そこから「意識と行動と感情」のダイナミズムに事実質問を通じて働きかける。そのプロセスの中で、「相手が自分で気づくことによって行動変化を起こすのを促す」(p65)ことも可能になる、というのだ。

さて、それは僕の場合にも当てはまるだろうか? 明日の授業から早速、①なるべく「なぜ」「どのように」を使わないこと、②使う場合でも「固定観念」に気づいてもらう場面に限定し、その後は「事実質問を使ってそれを検証する」ことをしてみようと思う。

果たして、どうなることやら。

「おせっかい」の前に信頼関係

ハートネットTVで相模原事件を受けた精神医療の特集を二夜連続でやっている。その中で、措置入院に関する検討会の委員を務めた松本俊彦医師が、番組HPで次のように語っていた。

「精神保健は、「他害を企てる人もまた困難や苦痛を抱えていて、本当はそれを解決したいはずなのだ」という仮説のもと、その人の主観的苦痛に寄り添い、信頼関係を築くなかで変える手法を用います。わかりやすい言葉でいえば、善意にもとづく「おせっかい」です。」

この主張そのものに関しては、僕自身も同感する。特に、「他害を企てる人もまた困難や苦痛を抱えていて、本当はそれを解決したいはずなのだ」という「仮説」はその通りだと思う。生きる苦悩が最大化したとき、「自傷他害」という「究極の自己表現」をせざるを得なくなるのだ。それは、薬物中毒の患者さんを沢山見てきた松本氏ゆえに、説得力がある整理だ。

だからこそ、僕は「国が打ち出した、措置入院した患者に対する退院後の訪問支援は、わが国の地域精神保健的支援の質を飛躍的に高める施策ではないかと考えています」という松本医師の意見には、反対する。彼は「自殺未遂者に対する訪問支援」が成功している事を引き合いに出して、他害要件のある人にも、同じような「おせっかい」な「訪問支援」が効果があるはずだ、と説得する。だが、ここには重大な欠陥がある。

自殺未遂者などの「自傷」行為をするひとに、「おせっかい」な「訪問支援」をする場合には、「あなたのことが心配だ」という大前提がある。だからこそ、支援者は「あなたのことが心配だ」とダイレクトに伝える。自分の事を気にかけてもらえることは、多くの人にとっては苦痛では無い。嬉しい場合も多い。特に、生きる苦悩が最大化している場合、「気にかけてくれる人がいる」という思いは、すっと相手に伝わりやすい。つまり、善意の「おせっかい」を、そのものとして受け止める信頼関係が構築されやすい。

一方で、「他害の疑い」の場合はどうだろう。

「あなたのことが心配です」という意味には、①「あなた自身の生きる苦悩が最大化した生きづらさ・しんどさが心配です」という意味だけでなく、②「あなたが他害行為をして、他者に迷惑をかけないかどうかが心配です」という意味もある。①のことを気にかけてくれるのであれば、それは「善意のおせかい」であるといえるだろう。でも、心配の中心が②であれば、話は異なってくるのではないか。

松本氏は、先ほどの引用の直前で、こんな風にも語っている。

「精神保健的支援は一種の性善説に支えられています。罰の威嚇をもって人を変えるのが刑事司法の手法であるとすれば」

松本氏自身は、「性善説」を地で行く医師なのだと思う。この間の薬物問題に関する社会的発言などを読んでいても、そう感じる。だが、残念ながら精神保健全体を「性善説」で見て良いのか、というと、はなはだ疑問に感じる。むしろ、「性善説」に基づく医療を隠れ蓑として、隔離拘束を「罰の威嚇」として用いている実態を、僕は沢山見聞きしてきたからだ。

現に、このハートネットTVでも、入院時の採血中にいきなり「興奮しているので眠剤を投与します」と暴力的に注射され、その後手足を拘束されて、2日後に意識が戻ったとき、枕元に「措置入院のお知らせ」の紙がおかれていた人の訴えが出されていた。彼は、説明無く隔離拘束されたことに、「人間として扱ってもらえない」と感じ、強い屈辱と恐怖を感じたという。このような強制入院における暴力的な対応や、「罰の威嚇」のような措置は後を絶たない。これは、読売新聞の原さんがずっと追いかけているが、新聞に掲載されただけでも実に多くの「罰の威嚇」的な不祥事が起こり続けている。

そんな精神科病院への強制入院を、「性善説」だから「おせっかい」も大丈夫、なんて安易に言って良いのか。これが最も気になるところである。

もちろん、だからといって、何もしなくてよい、と言うわけでは無い。他害行為にいたる人が、生きる苦悩が最大化した状態である、という前提は、松本さんと共有する。しかし、先にも見たように、他害疑いに関しては、①あなたのしんどさや辛さが心配だ、というだけでなく、端的に言って②あなたが何をしでかすかが心配だ、という暗黙の前提がある。そして、②を重視した場合、いくら本人に寄り添う(①の視点も持っている)、といっても、本人からすれば「利益相反」になっている(拒否しているのに行動が制限されている)という部分が強い。

だからこそ、松本氏が最後に語っている部分が、死活的に重要になる。

「そのような行きすぎにブレーキをかけるためにも、当事者に対する「権利擁護」の仕組みを強化する必要があると考えています。つまり、アドボケーター制度を併せて確立することです。これは、退院後の地域における「おせっかい」制度と切り離すことのできないものであると、私は考えています。」

本人の意思に反する入院をさせるとき、いくら「性善説」で「あなたのためだから」と言っても、本人の思いとずれている場合、その「あなたのため」は「罰の威嚇」に簡単にすり替わる可能性がある。ゆえに、それを監視し、本人の側に立って、本人の訴えをきちんと届ける権利擁護者(アドボケーター)の存在が必要不可欠なのだ。そして、この存在がないなかで、措置入院制度の縛りだけきつくすることは、信頼関係を構築しない中での「おせっかい」が強化されることであり、本人からみたら「性善説」ではなく、「罰の威嚇」が強化される危険性が高いのである。

ちなみに僕がフィールドワークをまとめたカリフォルニア州では、強制入院した人には必ず権利擁護者がつき、72時間入院時にその措置が正しかったか、について、異議申し立て出来る仕組みがある(詳しくは『権利擁護が支援を変える』を参照)。

これまで起きている不祥事や、松本氏も番組中で述べていた精神科病院の人員体制の不足の現実の中では、安易な強制入院の強化は、より厳しい人権侵害に繋がるリスクが非常に高い。この部分で、強制入院の最小化の努力、およびやむを得ず強制入院させられる人への権利擁護者の必置義務を課すことをせず、単に退院後の訪問支援「のみ」に限定されることは、「性善説」に端を発しながらも、結果的には「罰の威嚇」の強化に堕するのではないか、と大きく危惧している。

そして、アドボケーター制度を「退院後の地域における「おせっかい」制度と切り離すことのできないものであると」松本氏が考えているのなら、なぜその内容が含まれない中での精神保健福祉法改正案に「わが国の地域精神保健的支援の質を飛躍的に高める施策ではないか」とお墨付きを与えるのか、が理解できない。本気で「切り離すことのできないもの」と考えるなら、現に「切り離」された法案には反対すべきではないか。「そうはいっても世の中全部一気に変わるわけではない」という反論も聞こえてきそうだが、本質的かつ死活的に重要な部分を「切り離」すことに妥協すれば、それは松本氏本人が「性善説」であっても、「罰の威嚇」の強化に結果的に手を貸すことにつながらないだろうか。こう、危惧している。

僕は悲観的に考えすぎなのだろうか。

でも、例えば「アイヒマン実験」のことを思い出してほしい。このことをわかりやすく書いているサトウタツヤ氏は次のように述べている。

「アイヒマン実験とも通称されているもので,権威(者)による命令が個人を従属させ,殺人のような重大な結果をもたらしかねないことをシミュレーションしたものとして有名です」

「権威や役割が容易に深刻な暴力的行為につながる」

精神病院での強制入院は、その権限を与えられた医療者に「権威」と「役割」が与えられている。そして「権威(者)による命令が個人を従属させ」「容易に深刻な暴力的行為につながる」のである。「他害」を防ぐために、という「権威」と「役割」が、「罰の威嚇」のような「容易に深刻な暴力的行為」をもたらす危険性があるのである。その部分について、あまりにも脇の甘い法改正であり、松本氏も言うように、「善意にもとづくおせっかいであっても、それが行きすぎれば当事者をかえって追い詰め、苦しめてしま」うのである。そして、措置入院の最小化の努力、および権利擁護者制度の設置とセットでない今回の改正案は、「行きすぎ」の可能性が高く、「当事者をかえって追い詰め、苦しめてしま」う可能性も高いのだ。

「善意にもとづくおせっかい」が正当化されるには、まずそのまえに病院や医療者側が「行きすぎ」や「罰の威嚇」「深刻な暴力的行為」を防ぐ措置がなされなければならない。本人の権利を護る手段がしっかりない中での、「おせっかい」は、それも結果的に暴力的行為になりうる。更に言えば、そもそも措置入院や医療保護入院を最小化する努力をしないなかでの、措置入院に至った後のみの対応強化、では、問題の本質は変わらないままではないか。

だから、僕自身はこの法改正に納得出来ない。

納得出来ない部分をもう二つだけ、簡潔に述べておく。

今回の改正では、「退院時の支援を充実させる」ことが目玉とされていた。これを指して松本氏は「国が打ち出した、措置入院した患者に対する退院後の訪問支援は、わが国の地域精神保健的支援の質を飛躍的に高める施策」だと言っている。

だがそのモデルとなった兵庫県の仕組みを紹介する映像を見ていて、すごく気になった。様々な人が参加している会議に、「本人がいない」のである。「ご本人さんは○○と言っています」と保健師が「本人の代わりに」発言しているが、そこに本人がいないのだ。本人と「信頼関係」を本気で築きたいのなら、なぜそこに「本人がいない」のか? もし本人が入っていると「ややこしい」と考えているのだとすると、「本人不在のおせっかい」であり、それは本人にとっては、「自分のしんどさやつらさに共感してくれる人の集まり」ではなく、「自分が何をしでかすかわからないと迷惑に感じている人の集まり」と感じるのではないか。それが、本当に本人にとって安心できる支援である、と言えるのだろうか。

さらに、番組では紹介されていなかったが、今回の法改正案では、医療保護入院の市町村同意の要件を緩和することも書かれている。そもそも医療保護入院というもの自体、強制入院なのにその同意権限が家族等という玉虫色のものであり、この医療保護入院の存在自体が問題だ、と僕は思っている。その上、「家族等から意思表示が行われない場合について、市町村長同意を行えるよう検討する」とされている。これは、ハードルの低い措置入院措置、ということではないか。本来強制入院は最小化されるべきなのに、どうしてそれとは真逆の方向性を打ち出すのか。

このように、「おせっかい」の方向性が、松本氏の述べる「その人の主観的苦痛に寄り添い、信頼関係を築くなかで変える手法」とはほど遠い手段になっているのが、今回の法改正のように思えてならない。このような法改正は、やっぱりオカシイ。

追記:そもそも、今回の法改正の出発点である相模原事件との関係性については、事件直後のブログ「同じ穴のむじな」に書いております。そちらもごらんください。