規則や権力への「従順」という「病」

バニラ・エアが車いすユーザーの搭乗をサポートせず、自力でタラップを上がらせた問題。これが報道されて以後、様々な意見が出されてきた。一般論で言えば、差別解消法に定める合理的配慮の提供が公共交通機関では定められていて、今回のバニラ・エアはそれが適切に出来ていなかった。落ち度は航空会社にあった、ということである。国交省もその線での指導をする。

だが、今回この件について、ツイッタ上などで、少なからぬ一般人が、被害者でもある車イスユーザーに同情するどころか、彼に攻撃的な言説を述べている。僕もこの問題についてツイートしたところ、リプとして「規則に従わないのは、わがままだ」「悪意あるクレームだ」「現場職員のことも考えよ」「お客様は神様ではない」「障害者のコストは・・・」「 障害を持つ者は従業員に何を要求しても許されるのか?」といった意見が寄せられた。

基本的にはこれは個々人の感情の問題ではなく、法律違反である。その根拠はDPI日本会議の声明に出尽くしている。以上。で終わりたいところなのだが、どうやら法律論だけではなく、感情的反発が強いようだ。そのことについては、弁護士の伊藤和子さんも掘り下げた論考をしている(バニラエア問題、声をあげた人へのバッシングはもうやめて。生きづらさを助長していませんか?)。そして僕は、伊藤さんも書かれているが、今回の騒動を通じて、私たちの「従順さの病」がかなりわかりやすい形で露呈したのではないか、と感じている。

「なぜ人間が他者を苦しめたり、侮辱するのかを理解するために、私たちはまず、『自分が自分自身の何を嫌悪しているのか』をとらえなければならない。私たちが相手の中に見いだす『敵』は、もともとは私たち自身の中に見つけることができる。私たちが押し殺そうとするものは、私たち自身の中の一部である。つまり私たちは、自分自身が人間性の萌芽を持っていたことを思い出せる『自分の中の異質なもの』を消滅させるのである。」(アルノ・グリューン『従順さという心の病』ヨベル、p43)

バニラエア問題で、当該の障害者を「敵」として攻撃する人は、法的問題で争いたいのではない。明らかに感情的反発というか、罵詈雑言レベルの言葉が使われている。その根拠は、タラップを自力で登った障害者にではなく、反発する人「自身の中にみつけることができる」のではないか。「敵は己の中にあり」。これが、ドイツ人の心理療法家として抑圧問題を鋭く問い続けてきたアルノ・グリューンの晩年の提起である。彼はヒトラーだけでなく、ブッシュ大統領や毛沢東、スターリンに共通する暴力への衝動を「自分自身への自己嫌悪」の他者への転嫁だ、と喝破する。職員に異議申し立てをし、制止を振り切り、タラップを自力で登る姿をみて、『自分の中の異質なもの』や「人間性の萌芽」を「思い出」しそうになる。それは、自分自身が「押し殺そうと」必死になってきたものなのに、それを易々とやっている(ように見える)障害者の存在に、自己嫌悪の露呈を恐れて、抑圧し、非合理な罵詈雑言や感情的反発に至っているのではないか。これが、彼の論に基づく僕の仮説である。彼は論を進めて、こんな風にも言う。

「ユダヤ人、トルコ人、ベトナム人、ポーランド人、中国人に対してであろうと、『障害者』や『無価値な人』に対してであろうと、『他者に対する憎悪』は、常に『自分自身への憎悪』である。つまりそれは、服従を要求する権威者のもとで生きるために必要な『権威者との結びつき』を確保するため、『従順になることによって断念しなければならなかった自分自身への憎悪』である。」(p61)

そう、『障害者』に『無価値な人』とラベルを貼る「他者に対する憎悪」は、無意識に抑圧している「自分自身への憎悪」なのだ。それを見たくないから、他者に転嫁しているのである。さらにいえば、その憎悪の根源は、自分自身が「従順になることによって断念」していることが多いのに、「あいつはワガママを通して断念していない」という事態に遭遇し、相手への憎悪という形で、『従順になることによって断念しなければならなかった自分自身への憎悪』を振り向けているのではないか。そう展開すると、ツイッタで匿名で罵詈雑言を浴びせる人は、「自分自身への憎悪」に満ちている、という推論もなりたつ。

「従順の原因は、それゆえ、『異質なもの』が-私たちの憎しみや自己疎外の形で-、私たちのうちに生み出される過程の中に見いだすことができる。私たちは従順になることによって、自分独自の感情や知覚を放棄する。(略)その後、その人にとって、権威に必死にしがみつくことが人生の基本となる。人は権威を嫌うが、しかしながら、自己をそれと一体化する。他の可能性はない。自分自身を抑圧することによって、『抑圧する者に向かう憎悪や攻撃性』ではなく、『他の犠牲者に転嫁される憎悪や攻撃性』が呼び起こされるのである。」(p49-50)

バニラエア問題で、ルールに従え、彼はワガママだ、現場職員を困らせるな・・・等々の発言を発する人って、極端な差別主義者ではなく、案外そこらにいる、ごく普通の人だと思っている。もっといえば、職場では真面目で協力的でコツコツ働く人かもしれない。なぜそういう人がこんな発言をするのか? そこには、幼少期の家族関係や親の躾、学校教育などの中で、「自分独自の感情や知覚を放棄する」ことを求められ、親や先生が求める「よい子」を演じてきたからではないか、という「妄想」も膨らむ。これは権力を持つ親や教師による「支配」なのだが、そこに自発的に従う「従順」さとは、前回のエントリーにある自発的隷従論そのものだ。

つまり、自分自身の「感情や知覚」を「抑圧」し、権威に従順になるが、そのことに関する自己嫌悪は消え去らない。だが、それと直面したくない。バニラエア問題なら、本来そのような会社のルールや搭乗拒否という内規を定めた会社そのもの=「抑圧する者」に「憎悪や攻撃性」を向けるべきであり、実際に当該の障害者はそうして、「実力行使に出た」。その「抑圧する者」への異議申し立てに遭遇して、応援するどころか嫌悪感を抱く人びとは、まさに「自分自身を抑圧することによって、『抑圧する者に向かう憎悪や攻撃性』ではなく、『他の犠牲者に転嫁される憎悪や攻撃性』が呼び起こされ」たのではないか。だからこそ、「ルールに従え」「他の客や職員に迷惑を掛けるな」と、合理的に説明出来る範囲を超えて、ヒステリックに叫ぶのかも、しれない。

で、そこから問いかけたいのである。攻撃すべき相手は、この障害当事者ですか?と。あなた自身が抑圧している自己嫌悪や、従順さ、それを強いている「抑圧する者」にこそ、異議申し立てをすべきではないですか。と。なぜ第三者のあなたが、障害当事者ではなく、航空会社の味方をするのでしょうか? 『他の犠牲者に転嫁される憎悪や攻撃性』の背後には、『抑圧する者に向かう憎悪や攻撃性』の隠蔽はありませんか? そして、それを認める事は、「自分独自の感情や知覚を放棄」した事実を思い起こさせ、「私たちの憎しみや自己疎外」と向き合う苦しみに直結することだから、必死になって否定し、他者に転嫁している可能性はないでしょうか? 他人を攻撃する前に、そう攻撃したい自分自身の内在的論理こそ、捉え直す必要はないでしょうか?

これは、僕のオリジナルな問いではない。僕が、パウロ・フレイレから学んだことであり、「枠組み外しの旅」を書く中で問いかけた、自分自身への抑圧や自己嫌悪、従順さへの問いそのものでもある。