『ソーシャルワーカーのソダチ』を読んで

長沼さん、荒井さんから御恵贈頂いたこの本。少し前に読んでいたのだけれど、なかなか時間が取れなくて、お二人の執筆部分についての感想を、備忘録的に書いておく。

荒井さんの「”教えない”ソーシャルワーク教育」は、僕自身の講義スタイルと似ているな、と感じた。従来型の「教える」とは唯一の正解を教師→生徒の一方通行で伝達する、というスタイル。これは、パウロ・フレイレが知識詰め込み型教育をさして「銀行型教育」と名付けたフレームそのものである。

一方、荒井さんは「教えないことによる主体的・対話的な学び」の可能性を指摘する。「正解」がたった一つに定められない対人援助の現場だからこそ、教員の役割は主体的な学びを支える、対等な関係を維持することだ、と言う。「正解」思想が「独善的で閉鎖的なモノローグ(独話)」である一方、「教えない」ことで生まれるのは、「学ぶひと(教わるひと)との開放的なダイアローグ(対話)」という整理は、深く頷いた。フレイレはそれを「問題解決型教育」と名付けているが、荒井さんの整理と通底している。

「主体的・対話的な学びには『正解』が設定されていません。いくら繰り返しても、『正解』にはたどり着けないかもしれません。しかし、『支援』という営みに正面から向かい、深く学ぶことを可能にするように感じます。このようにみてくると、『教育』とは、教科書的で、標準化された内容をそのまま『教える』ことではないということに気づかされます。そこには、逆説的な言い方ではありますが、『教えない教育』の可能性があるように思えます。」(p91)

僕が『枠組み外しの旅』で考えていたのは、標準化された唯一の「正解」を求めるのではなく、その現場でその状況で成功する解決策としての「成解」を求める、という視点である。もともとは、災害救援の現場で生み出された概念なのだけれど、福祉現場でもこの「成解」概念はすごく大切だと感じていた。最低限度の質保障としての標準化思想そのものを否定する気はない。だが、それは自分で読めば理解できる。大切なのは、自分がある課題に深く向き合うための、教える人と学ぶ人の主体的な出会いと関与、という意味でのダイアローグなのである。そして、その主体的な出会いと関与の中にこそ、支援の醍醐味というか、面白さがある。それは、一回こっきりの、再現不可能なものであり、標準化された「正解」ではなく、その場を豊かにする「成解」の模索こそ、求められているのだ。

そして、そんな主体的な出会いと関与において、大切な「視点」がある。それは、「ソーシャルワークの多様な『視点』を考える」の中で長沼さんが取り上げる、「視点」に内在する「立脚点」と「注視点」の違いについて、である。立脚点としての「自分」と、注視点としての「対象者」がごちゃ混ぜになっていませんか、という問いである。

「『立脚点』としての自分に気づく為には、『注視点』である他者をよく見続けていることが不可欠です。二人で向き合っているとき、相手の反応を引き起こしているのは自分自身だからです。」(p116)

この指摘はズシンときた。未来語りのダイアローグでいう「関係性の中での心配事(relational worries)」そのものである。妻が怒り出したとき、だいたいにおいて僕自身がその「反応を引き起こしている」原因である。でも、ついつい妻が勝手にキレて・・・と相手に原因を放り投げようとしている。そして、僕もキレてしまう。しかし、これは立脚点と注視点の混濁なのである。その混濁のまま、相手に責任をなすり付けようとすると、悪循環のスイッチを押してしまう。僕はこのスイッチを数限りなく、押し続けてきた、というお恥ずかしい経験を持つ。

「自分の発言や態度に対する相手の反応に注意深くなれば、相手の反応から自分の発言を修正することができます。やがて自分の言葉は相手の耳にどう聞こえるか、どう解釈されるかをあらかじめ予測しながら、言葉を選ぶことができるようになるでしょう。やがて『自分が何を言うか、言ったか』ではなく『相手にどう聞こえるだろうか』と考えることができるようになってくるでしょう。」(p116-117)

これも「いてて」な指摘である。僕はつい最近まで、『自分が何を言うか、言ったか』に必死だった。立脚点としての自分に必死で、参照点としての相手への敬意や配慮に欠けていた。そして、独り相撲をとり、勝手に空回りし、悪循環に陥ることが多々あった。でも、最近多少は余裕と落ち着きが出てきたからか、『相手にどう聞こえるだろうか』を考えることが出来る時もある。もちろん、妻と家事や育児を巡って衝突する時などは、まだまだうまくは出来ない。でも、そんなときでも、立脚点と参照点を意識するだけで、僕の視点(=立脚点)の押し付けを防ぐことができ、それだけで悪循環の高速度回転のスイッチを押さずにすむこともある。

「わかったつもりにならない」「不確実差への体制」をもつ。これらは、言葉として理解するだけでなく、実践出来てナンボ、の世界である。ソーシャルワーカーの教育にまつわる本だが、読者の僕は、自分自身の生き方を問い直すことが出来る、大変味わい深い本だった。

御恵贈、誠にありがとうございました。

『ヒロインの旅』から学べること

最近、ゼミ生や福祉現場の若手などと、じっくり関わりながら、個々人の成長を応援する場面が多い。その中で、感覚やセンスのよい女性の多くが決まって陥りやすい、ある穴ぼこがあるように思った。それを解きほぐすきっかけとなる、一冊の本と出会った。

「渦のはじまりは『女は受け身でずるくて怒っているから嫌だ』という気持ち。ヒロインはそこから『英雄の旅』にダイブする。仲間を作り、男と同じように社会で身を立てようとする。だが、その先に心がすさむ時期があり、『ダークフェミニン(女性の闇の側面)』と直面する。
闇に落ちたヒロインは癒やしを求める。この本で『母/娘の分離』と私が繰り返し述べる『女性の暗い傷』があるからだ。闇から光への帰り道で自分の本質を見直し、過去の生き方に統合売る。」(『ヒロインの旅』モーリン・マードック著、フィルムアート社、p15)

ここで触れられる「英雄の旅」とは、神話学者ジョセフ・キャンベルが繰り返し述べる「神話や物語の原型」である。だが、この際の主人公はヒーローであり、男性である。女性の臨床心理士である筆者は、女性の主人公であるヒロインは、どのような物語を辿るのか、それが男性とどう違うのか、を探る内面の旅に出かける。

その結節点にあるのが、『母/娘の分離』という『女性の暗い傷』である。そして、この「女性性からの分離」から「男性性との同一視と仲間集め」→「試練の道」→「成功の幻想」などの「光」を辿った後、「精神の乾きを知る:死」以後、「通過儀礼と女神への下降」→「女性性を見直す」→「母/娘の分離の修復」→「傷ついた男性性の修復」をへて、「男性性と女性性の統合」へと至る円環モデルを提示している。

この円環モデルは、僕が出会う女性達の試練を非常に象徴的に表しているようである。僕はなぜか「よい子」の女性と出会う事が多いのだが、僕が関わる女性達に多いのが、この「母からの分離」で苦悩している姿である。

「母のアーキタイプは二つある。一つは無限の愛を注ぐグレート・マザー(太母)。もう一つは停止や抑圧、死を表すテリブル・マザー(恐ろしい母)。どちらも人が幼少期までに感じ取る。子供の自我が発達するまで、母親のやさしさは肯定的な力、無視や過干渉は否定的な力と認識される。」(p34)

僕が出会う「よい子」のゼミ生や若い支援者の女性達は、母親の顔色をうかがい、母親が認めてくれる範囲内でその評価を勝ち取ろう、とする娘の姿である。それは、無限の優しさに護られた、というより、ある時期からその「優しさ」に「支配」されていたにも関わらず、「グレート・マザーへの思慕」を疑うことなく絶対視し、あるときから停止や抑圧などのテリブル・マザーに支配されていることに気づけない、気づこうとしない、気づくのが怖い、という娘の姿である。これは、女性のゼミ生達が、これまでも繰り返し表現してきたことであった。

そして、このままではいけない、と就職し、職場で男性性を獲得する旅に出る。男以上に一生懸命働き、「試練の道」を経た上で、成果と評価を獲得する。それは女性にとっての一定の成功であるはずだが、仕事だけでは満たされない「精神の乾き」を知り、エッジに立たされる。

「ヒロインが何かを断るには、かなりの抵抗がある。挑戦しない人間は無責任な弱虫に見られるからだ。社会的に言えば、それは死と絶望に近い。出世する人とは多くの事を上手くこなす人だ。ほとんどの人はその逆の生き方が理解できず、ただ恐れる。何かを『する』のをやめるなら、ただ『いる』術を知ることだ。」

僕自身も、子育てを始めて、「ただ『いる』」ことが、「する」中心の人間にとって、ある種の「死と絶望」に近いことをひしひしと感じる。社会的な評価とは、何かを「する」ことによって得られる。だが、育児に代表されるケア労働は、同じ「する」であっても、家庭内(=密室)での「する」であり、子ども自身の「いる」を支えるための基盤作りである。それは「多くの事を上手くこなす」「出世する人」とは「逆の生き方」である。必死になって何事かを「する」生活にこだわってきた人間にとって、それを減らして子どもと「ただ『いる』」生活へと転換することは、時間的な変更だけでなく、ある種生き方の変化をしないと、うまくアジャスト出来ないのではないか、とも思い始めている。

実はこの本を読んだ直後に読んでいた、話題の「OPTION B」も「精神の乾きを知る:死」以後、「通過儀礼と女神への下降」「女性性を見直す」プロセスが書かれた本であった。

自身の最愛の夫であるデーブが急死したフェースブックのCOOシェリル・サンドバーグ。彼女の悲嘆からの立ち戻りを描いたこの本を読んでいて、ポジティブ心理学のアダム・グラントが共著であるがゆえ、この本は悲嘆の中でもシェリルがどのようにレジリエンスを獲得していくのか、にフォーカスが当てられている。だが、「ヒロインへの旅」の下記の部分こそ、シェリルの苦悩を言い当てる表現だった。

「冥界下りの時期は無防備になる。自分の怒りに圧倒されるかもしれないし、自分が誰かわからなくなり、役割は機能しなくなり、不安になる。荒涼とした、女でなくなった感じや体内をかき回されるような痛み。地上の暮らしは続いても、心はずっと闇の中にある。」(p135)

シェリルが夫を亡くしてからの日々の中で、色々な人のサポートを受けながら、このような「冥界下り」を乗り越えていった。これは避けようのない試練であるが、だからこそ、彼女は泣きじゃくり、悲嘆に暮れ、絶望に陥りながらも、そこから生還し、そのプロセスを書籍化した。そして、夫デーブの喪失の中から、自らの「女性性」や「男性性」を修復し、統合していくプロセスの旅に出た、ともいえる。

僕は男性として、「ヒロインの旅」をどう支えられるのだろうか。それは、よくわからない。でも、妻や娘、ゼミ生や現場で出逢う女性達の苦悩や障壁を、この旅の途上と捉えたら、少なくとも余計なお世話をせずに、見守ったり寄り添ったり出来るのかも知れない。そう思い始めている。