あっという間の13年間

毎年、3月15日は山梨学院大学の卒業式。そして、僕自身が山梨学院大学の研究室で卒業証書をゼミ生に渡す最後の日でもあった。13年間お世話になった山梨学院大学をこの3月で退職し、4月から兵庫県立大学環境人間学部に移籍することになった。ここしばらく、この移籍関連で忙殺され、ブログからも遠ざかっていたが、甲府から姫路への「帰り道」に、山梨での13年間のことをざっくり振り返っておきたい。

思えば、山梨には一人も身寄りがいないところからのスタート、だった。

博士号を取得したものの、就職活動がうまくいかず、2年間で50の大学で落とされ続けてきた。結婚して妻が「主たる生計者」を担い、生活は何とかなっていたが、母からは「そんなに大学に職が決まらないなら、研究職以外の仕事も探したらは?」と言われ、心身ともにやさぐれていた。そんな中、山梨学院大学で「地域福祉論」の公募が出ていたのが2004年の秋。二次面接の前の日は、長野にお住まいの師匠のお宅に前泊させて頂き、美食にワインに楽しくごちそうになり、翌朝に生まれて初めて甲府に降り立った。大学の本部棟の待合室からは小鳥のさえずりが聞こえ、こんな環境で仕事が出来たらいいな、と思った。それが、甲府の第一印象だった。2年越しにやっと掴んだ公募の仕事で、職が得られた事がとにかく嬉しかった。

<プレイングマネージャーとして>
ちょうど山梨に来る前あたりから、障害者自立支援法の制定に向けた議論が着々と進んでいた。ポスドク時代にお世話になっていたNPO大阪精神医療人権センターでは、厚労省の出す「精神病床のあり方検討会」や「グランドデザイン案」などの資料を毎週のように膨大に印刷しては、それを批判的に分析していた。その関連で、厚労省の改革動向に関する学習会に関する講師にも度々呼ばれていた。一時期その資料だけで段ボール箱数箱分もあった。

山梨に着任後もすぐ、障害者福祉現場で、そういう厚労省の政策に関する学習会の講師などに呼んで頂いていた。その研修の場では、自立支援法の全面的批判だったのだが、「唯一評価できる可能性は、地域自立支援協議会です。要求・反対・陳情に終わらせず、官民共同で連携や提案出来る場にどう作れるか。この場をどう使いこなせるか、が鍵です」と必ず締めくくっていた。すると、その僕自身の発言に責任を取る場面が訪れる。山梨に赴任して1年ほど経った、春のある日の講演会の後、「ご挨拶がしたいのですが」、と名刺を差し出されたのが、山梨県障害福祉課のTさんだった。「自立支援協議会についてご相談があります」、とのこと。このTさんとの出逢いが、僕自身の仕事を大きく変えるきっかけになる出逢いになるとは、その時は思っていなかった。

聞けば、山梨県でも相談支援体制の整備や市町村の地域自立支援協議会の立ち上げ支援をしようと考えている。その際、国は学識経験者などを「特別アドバイザー」として市町村に派遣する事業を作っている。この事業を活用し、山梨県の特別アドバイザーになってもらえないか、というご依頼だった。まさに、自分が言っていることを「やってみなさい」というチャンスだった。行政と連携提案が必要、と理念で分かっていながら、この前まで大学院生で、どうやって良いのかわかっていなかった。で、1年間で出逢った山梨の現場の人にアドバイスももらい、就任条件として、①県内の市町村の現場を全て訪問したいので、行政の人が同行してほしい、②僕だけでなく、障害当事者も特別アドバイザーにして、二人体制にしてほしい、という二つの条件を提示した。①については、「県庁が市町村を呼びつけて」という批判をしばしば耳にしていた。②については、一人だけでは不安なので、東京で自立生活センターを手がけ、僕と同時期に山梨に移住されてていた今井志郎さんと出逢い、彼とご一緒するなら、何とかやれるかもしれない、という思いがあった。そしてTさんは、この無理難題に近い事を聞き入れて下さったので、こちらもいよいよ「口だけかどうか」が試されることになった。

それから数年間は、プレイングマネージャー的に、様々な現場に関わり続けた。28市町村の訪問の中で、人口規模や社会資源の違いがどのようにその地域の文化や文脈を形成しているか、を学んだ。その上で、机上の空論に近かった協議会を実際にどうやって立ち上げるのか、市単独か、複数市町村での圏域レベルで合同協議会なのか、を各市町村と色々やりとりしながら、立ち上げ整備のお手伝いをした。市町村同士の確執やら、担当者レベルでの理解状況など、様々なでこぼこがある中で、どう底上げするか、をいつも考えていた。あと、長野の山田優さんなど、他の地域で立ち上げ支援を行っている人々の情報を掴み、そこから山梨で出来る事は何か、を考える日々だった。あまりにしょっちゅう県庁1階の障害福祉課で作戦会議をするので、県庁の駐車場パスを作ってもらっていた時期もあったくらいだ。それだけでなく、相談支援の研修のビジョンを描き、実際にその講師をずっとしていた時期もある。長野県にならって、各圏域の相談支援体制整備の核となる「圏域マネージャー」を県単独事業で作ってもらい、その委託事業のプレゼン審査もした。とにかく、智恵がないなら動いて解決せよ、とばかりに、出来る一つの方法論を模索し続けていた。そんな仕事の仕方が気に入られ、気付けば三重県でも特別アドバイザーを引き受け、市町村の相談支援体制整備や障害福祉計画策定のお手伝いもし続けてきた。

こういう自治体福祉の現場にドップリ5年ほど浸かっていたからこそ、2010年に民主党政権下で、障がい者制度改革推進会議の総合福祉部会、という、自立支援法を根本的に作り替える国の検討会が開かれることになったとき、委員を依頼されても、僕にも出来うることがある、と思えるようになった。元々は、甲府に来る前から現地調査もしていたスウェーデンやカリフォルニアの脱施設化研究の知見を活かしてほしい、というご依頼だったが、僕の中では山梨の自治体のリアリティがあるからこそ、地域移行した後の地域生活支援をどう創り上げられるか、をイメージしながらの、骨格提言の原案整理のお手伝いもしていた。震災を挟んで骨格提言を出した2011年8月までは、毎週のように、だけでなく週2回とか3回、打ち合わせや作戦会議等で東京に通っていた。関西にいたときには遠い存在だった霞ヶ関が、山梨に来て心理的にも距離的にもグッと近づいた。

<書籍化へのドライブ>
そして、骨格提言が無残にもゼロ回答になり、敗北感で一杯だった。猛烈に「書かねば」という思いを持ち始めた。

「なんぼ良い提言をしたって、人々がそれを応援してくれないと、施策にはならない。そのためには、自分自身がしっかり考えている事を整理して伝え、発信する媒体にならないと」「どうして厚労省の認識枠組みが変わらなかったのか。その認識枠組みを変えないと、脱施設化や地域移行は進まないのではないか」

こういった問題意識と、2010年に出逢った「魂の脱植民地化研究」がピタッと重なり、2011年の秋から猛烈に書き始める。それは、東日本大震災の発生後が骨格提言の作成時期と重なり、思うように被災地支援が出来なかった自分自身と、どこかで自分自身のあり方にブレーキを踏んでいた僕自身の実存を問い直す文章でもあった。だからこそ、自分自身の枠組みを捉え直す旅としての「枠組み外しの旅」であり、僕自身がどのような定めを実現する心的発達過程にいるか、を意味づけ直す「個性化」が、福祉社会の変容にも直結する、という内容に高まっていった。これが、2012年秋に出した初の単著である『枠組み外しの旅-「個性化」が変える福祉社会』(青灯社)という著作に繋がる。この本を書きながら、僕の認識枠組みや生き様、価値前提を徹底的に問い直す、内面という「異界」への旅を続けて来た。博士論文がもともとのベース(の一部)であるが、博論提出から10年近く経ち、山梨での様々な試行錯誤があったからこそ、やっとこういう形での単著執筆、という成果に導くことが出来た。

そうそう、このあたりで触れておかねばならないのは、職場である山梨学院大学法学部政治行政学科が、実にフレンドリーな先生方ばかりで、働きやすい職場であった、ということだ。福祉学科のような実習巡回がないので、夏休みや冬休みは海外調査に出かけたり、論文や書籍執筆をゆっくりする時間的余裕があった。ありがたい事に着任後すぐに他大学の巨大研究プロジェクトに5年間混ぜてもらったり、自身の科研若手研究が5年間当たり続けたので、スタートアップの5年間で本を大量に買い続けた。そして、与えられた研究室がたまたま小教室を改造した部屋で、学部長の部屋に次いで広かったので、本棚やゼミをする為の机や椅子も買い増してもらい、じっくり研究にも打ち込むことが出来た。

自治体の現場で抱いた問いを何とかしたい、という実務的な欲求から、英米の福祉政策ではどうやって解決しているのか、を読み囓り、障害者政策や認知症支援、ヒューマンサービスの組織論などの議論を色々追いながら、日本の現場に当てはめて考えようとした。授業期間中は学内の仕事もあれこれあったが、関西出張の行き帰りの電車内で、出張時に買い求めた仕事能率本をあれこれ読み漁り、作業効率を上げるための鍛錬も行った。このブログも文章修行の一環として2005年の着任後すぐ初め、主に文献との対話を他人の目に触れる媒体でしよう、とブログに書き続けた結果、今では原稿執筆速度もかなり速くなった。習うより慣れよ、とはこのことだ。

寛容な職場、気持ちの良い同僚、サポーティブな事務スタッフ、などに支えられて、『枠組み外しの旅』の1年後には、『権利擁護が支援を変える-セルフアドボカシーから虐待防止まで』(現代書館)という二冊目の単著も出す事が出来た。もともとは、こっちの本の元案になる原稿の方を書きためていて、最初の単著はこっちと思っていたのだが、権利擁護について語る僕自身の視座がしっかり定まっていなかったので、その視座を固めるためにも、『枠組み外しの旅』を先に上梓しなければ、この本にたどり着けなかったと思う。山梨でも三重でも、市町村支援の現場ではいつもかならず「当事者主体」と「権利擁護」は車の両輪で、自治体福祉政策の柱になる、と伝え続けてきた。それが、何とか本という形になったのだと思う。

<ウィングを広げる>
そして、僕にとっての大学院生時代からのコアな課題を言語化出来たことにより、新たな可能性というか、チャレンジが舞い込む。山梨は東京や大阪と違い、研究者の数も少ない。なので、行政の仕事を一度引き受けると、他課からもお声がかかる。主任ケアマネ研修の「地域援助技術(コミュニティソーシャルワーク)」の研修をして欲しい、と声がかかったことがきっかけになり、今度は長寿社会課で地域包括ケアシステムを作るためのアドバイザーに就任した。ただ、僕は高齢者福祉もケアマネジメントも専門ではなかったので、一人では無理と思っていた。そこで、山梨県内で出逢った魅力的な僕と同世代の若手研究者の伊藤健次さん(ケアマネジメント論)や望月宗一郎さん(地域看護学)を巻き込んで、アドバイザーチームを作り、現場支援の合間に研究会も開きながら、地域ケア会議の持ち方などを、包括や自治体担当者とも議論し続けていった。そして、この取り組みが面白かったので、僕に声をかけてくれた長寿社会課の主担当だった上田さんが移動になる前の年に、伊藤さんや望月さん、上田さんと4人で編著者になって『自分たちで創る現場を変える地域包括ケアシステム』(ミネルヴァ書房)という本も作り、上田さんが移動になる2015年春に上梓できた。山梨のような小規模の県でも、カリスマ支援者がいなくても、出来る事が沢山ある、ということを示した一冊である。障害者自立支援協議会の立ち上げ支援から培ってきた、現場との、行政との協働を、書籍として形に出来た一冊でもあった。

そして、こういう著作を世に問うと、反応して下さる方がいるのが、実に嬉しい。2010年から始めたツイッターをフォローして下さっていた、岡山県社会福祉協議会の西村洋己さんが、『権利擁護が支援を変える』の発売を機に、2013年秋、岡山で講演会をして下さった。その時に、オモロイ若手の西村さんと意気投合した事がきっかけになり、翌年春には岡山のオモロイ地域福祉の現場を巡るツアーを組んで下さり、更に一緒に仕事がしたくなって、前から目を付けていた社会起業家で人づくり塾を全国各地で繰り広げていた尾野寛明さんにアプローチして、三人で2015年からスタートしたのが、『「無理しない」地域づくりの学校』。この学校を展開するうちに、いつの間にか地域福祉の領域に足を踏み入れてしまう。

お世話になっている編集者からは「タケバタ先生は、障害者福祉と高齢者福祉、地域福祉のどれが専門なの?と他の先生に尋ねられます」と言われる始末。そうそう、東京や大阪のような大都市にいると、先述の通り、各領域に先達がいるだけでなく、その領域で充足していても仕事が結構あるので、他の領域にまで、手が付けにくい。ただ、人口80万で、世田谷区より人口の少ない山梨県では、一旦お顔のみえる関係性のネットワークを創り上げると、色んな仕事が付随的に付いてくる。それを面白がって関わっているうちに、博士論文は精神科ソーシャルワーカーとノーマライゼーションの関係性を迫るもの、だったのに、その10年後には、三障害を束ねる自立支援協議会、だけでなく、地域福祉という接点から認知症支援にも携わることになった。でも、地域を中心とすると、障害や高齢や地域福祉というタコツボは関係ない。地域の中で、私がいて、課題がある。それにどう私を主語として向き合えるか。そういうスタンスで、『「無理しない」地域づくりの学校』に取り組み続けていたら、これも昨年末、ミネルヴァ書房から尾野さん、西村さんと共に編著者として書籍化する事が出来た。

<授業で一皮むける>
このような研究や実践をする一方で、大学教員としても、山梨では本当に沢山のことを学生達から学ばせてもらった。山梨学院大学の名刺を全国どこで出しても、知らない人はいない。こんなに全国に沢山の「○○学院大学」があっても、みんな必ず「ああ、駅伝の!」と答えてくれる。あの「関東大会」の宣伝効果は、本当に半端ない。それはさておき、山梨学院大学はカレッジスポーツにも力を入れているから、実に様々なタイプの学生さんと出会った。2005年に専任教員として赴任する前も、関西の大学や専門学校で非常勤講師をしていたが、「大学教員になれた」と力が入り、最初の頃は熱を入れて講義するものの、学生達は全然聞いてくれない。それを最初は、「聞いてくれない・居眠りする学生が悪い」と人のせいにしていた。でも、そう他人をなじったり、寝るなと言っても、一方的な講義なら、朝練習でクタクタの学生達は眠くなる。パウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』を読み直し、銀行型教育を、他ならぬ僕自身がやっている、という自己欺瞞にも気づけた。ならば、と授業スタイルを徹底的に変え始めた。

師匠の大熊一夫さんや、博論の指導教官だった大熊由紀子さんは、様々な現場の人々をゲストに呼んで講義をして下さった。ただ、僕はそんな資金を持っていないし、何より山梨で1限の授業に来てもらうのは大変だ。一方、法学部の学生に福祉現場の話をしても、現場実習もしたことがないし、そんな世界を知らない・興味がない・関係ないと思っていた学生達に言葉や文字だけで理解してもらうのは限界がある。そこで、「クローズアップ現代」や「ハートネットTV」、「バリバラ」など社会問題を扱う30分番組を撮りだめて、授業時に見てもらい、その前後で僕が問いかけたり、学生同士で議論しながら、話を進めていくスタイルに変えた。

すると、「自分の頭で必死になって考える」「朝から全く眠れない授業だ」という感想をもらえるようになり、受講者との相互関係も年々良くなってきた。「社会を変える前に、自分が変わる」。これは「枠組み外しの旅」の通奏低音でもあるが、授業でもまさに、僕自身の講義スタイルを変えることで、学生との豊かな相互作用が展開出来るようになった。ここ数年は、学生達の発言を板書しながら、それを掘り下げ、板書されたキーワードを関連づける産婆術的関与をするだけで、授業がどんどん深まっていくことにも気付いた。そして、僕一人で頑張って授業をしなくても、学生が主体的に参加すればするほど、学生の満足度も飛躍的に高まる事も分かってきた。そんな折に、大学での初年次教育改革のプロジェクトにも関わり、僕がやっている事は、「アクティブ・ラーニング」なんだ、と気付かされた。だから、大学内で割り当てられた業務も、自分自身のアクティブ・ラーニングのFD的な要素もあり、実学的に多くを学ばせて頂くチャンスを得た。

<ゼミという相互作用の場>
あと、ゼミでの相互作用から、本当に数限りないことを学んだ。

僕は大学・大学院とも、ゼミを経験したことがない。卒論は、指導教官の先生のご自宅や、近所の喫茶店で1:1で指導を受けていた。大熊一夫師匠に弟子入りしてからは、師匠の鞄持ち的にあちこちくっついて回った。博論の指導教官の大熊由紀子さんの周りには沢山のゼミ生が集まってきたが、肝心の僕自身が博論調査で忙しかったので、部分的にしかその輪に加われなかった。そんな中で、2005年の着任当初からゼミを持つ事になり、最初にやってきた3人の3年生とお茶を飲みながら、戸惑うばかり。そんなところから、ゼミが始まった。

ただ、ゼミ生と現場訪問をしたり、飲み会を繰り返したり、他の先生に教わって見よう見まねでゼミ合宿をしはじめたり、をしているうちに、僕なりの鎧が取れてきて、学生さん達との関わり方が少しずつ、わかりはじめた。そんな頃に出逢ったのが、その後ゼミ生との必読書になる安冨歩さんの『生きる技法』(青灯社)だった。「誰とでも仲良くなってはいけない」「憧れと自己嫌悪は自己愛である」「自愛は、ありのままの自分を愛すること」。ウィトゲンシュタインのような簡潔明瞭な定理と、それに基づく深い洞察、それを友達やお金、という誰にとっても身近な話題で問いかける。この本に僕自身も多くを学び、せっかくだから、とゼミの課題図書にしてみたら、議論百出。学生達は、これまで自分自身が鎧のように身につけてきた「良い子」が、他人(親、教師、コーチ、恋人、バイト先・・・)にとっての「都合の良い子」だと、この本を巡る議論から気付き始めた。

すると、結果的に卒論では、僕は全く強制や誘導もしていないのに、「生きる技法」や「枠組み外し」を補助線にしながら、自分自身の「枠組み」を問い直す卒論が生まれ始めた。すると、福祉政策をテーマにしていた時代の学生の卒論より、本気度が増してくる。そりゃそうだ。自分自身を問い直すのだもの。だから俄然、ゼミの議論も深まりが出てくる。いつの間にか、毎年ほぼ全員のゼミ生がどこかのタイミングで泣いたり、言葉を見失う場面が訪れる、という、ある種の人生道場的なゼミに、気付けばなってしまった。

ただ、今回退職するにあたり、職場の複数の同僚から、「タケバタ先生のゼミ生たちは活き活きしている」と言われた。僕が褒められるよりも、我が事として素直に嬉しい。こないだは、附属高校の学生達にゼミ生達が講義をしてくれたのだが、「大人しかった子があんなに自分の意見を述べるように成長したなんて」と元担任の先生が伝えて下さったそうだ。なぜそのような変化が起こったのか?

ゼミの中で僕や仲間と議論をし続ける中で、「この場では思った事を話して良いんだ」という安心・安全の場を経験する中で、思考のリミッターを外し、自分自身ではめていた足かせから自由になり、自らを抑圧していたもの(親やクラブの顧問、教師・・・などの呪縛力の強い言葉)を「抑圧」として自覚化出来るようになると、学生達は自己愛モードから自愛モードに少しずつ変化し始める。そして、自愛モードでのゼミが展開されると、それがゼミ生同士で相互作用しあい、僕があまり働きかけなくても、ゼミのなかで勝手に学びの渦が生まれ、お互いの気づきが深まる。そんな場に、気付けばゼミが深化していた。そして、こういうゼミは、「僕が何かをした」という気持ちがどんどん減り、僕がただそこにいるだけで、勝手にゼミ生達が成長していく、という面白い場に高まっていった。そういう場がゼミという場を通じて展開出来るんだ、ということを知れたのが、僕にとって大きな気づきであり、ゼミ生から学ばせてもらったことであり、教育がオモロイ、と深く感じられるチャンスにもなった。

そういう意味では、研究も、現場との関わりも、教育も、学内での仕事も、実に実りが多く、本当に13年間で沢山の事を学ばせて頂いた。しかも、山梨を離れるにあたり、他大学の教員からは「離職にあたって嫌な思いをするかも」「関係がこじれる事や絶縁状態の可能性も覚悟して」とアドバイスを受けていたが、なんとありがたいことに、そんな反応は一切なかった。職場でも、福祉現場でも、ゼミ生達も、突然の移動で驚かれたり、ビックリしたり悲しい・寂しいと言われる事は何度もあったが、色んな場で送別会を開いて頂いたり、送別の品を頂いたり、嬉しい言葉をかけてもらえてばかり、だった。13年前、一人も知り合いがいなかったのに、山梨を去るときには、声をかけてくれる・気にしてくれる人々に沢山囲まれる日々になった。

<最後に>
そうは言っても、4月以後も山梨でのon goingな出逢いや関係性は続く。長く関わる自治体でのアドバイザー的関与はしばらく続きそうだ。一番気になっていたタケバタゼミは、僕よりも遙かにファシリのプロで、ここ1年ほど急速に仲良くなり、研究室にもしばしば遊びに来てくれていた、山梨学院大学の非常勤講師でもある小笠原祐司さんが引き継いでくれることになった。ただ、僕もゼミ生とはZoomやメールで関与し続ける、と約束している。

そんな訳で、今までは片道5時間かけて関西まで通っていたのですが、3月頭には姫路に引っ越し、これからは5時間かけて、山梨に通う場面がありそう。そうそう、13年間、この長時間の移動の中で、ブログの原稿を何本書いていたっけ。今回も、身延線特急が富士を過ぎたあたりから書き始め、新神戸でほぼ書き終えてみれば、9000字強というブログとしては超・長文に。今日はだから、普段付けない小見出しも付けてみた。

まだまだ書ききれないけど、本当にあっという間の13年間だった。そして、山梨という場や、山梨学院大学という職場は、30代の僕を育て、鍛えてくれた、第二のホームになった。本当に、心からの感謝である。そして、次は姫路でどんな出逢いが待っているのか。どんな学び直しや新しいチャレンジに遭遇出来るのか。春は不安と期待が入り交じるが、今年の春は、なおさら大きい。

13年間の山梨生活でお世話になった皆様、本当にほんとうにありがとうございました。

たけばたひろし