ポリフォニー的現実

5月12日から13日にかけて、2017年の4月に「未来語りのダイアローグ」の集中研修を受けたグループの振り返り会を同志社大学で行った。24名の参加者が、1年前からの変化を振り返った。その上で、日曜午後はオープンな場での実践報告会を行った。

この日、僕は実践報告会全体のファシリテーションをしていてのだが、いつものように、会場内からの声を伺いながら、「話をまとめよう」「関連づけよう・つなげよう」としていた。このやり方は割と評価されてきたし、密かに自分自身も自信を持っていた。だがその様子を見ていた、同じ研修の参加者で、家族療法の大家でもある白木考二さんが、研修の合間に、「あんまり綺麗にまとめすぎない方がよい」と仰ったのが衝撃的だった。ただ、すごく大切な論点のような気もしたので、実践報告会の最後に白木さんにお願いして、二人でリフレクションを全体の前でやってみた。

白木さんがその際に言ったのは、「話をまとめようとするのは、旧来型のファシリテーションのやり方だね」「一つの話にまとまりそうになった時には、僕なら『他の話はありませんか?』と聞く」ということだった。「なぜですか?」とおたずねすると、「その方がよりポリフォニックになるから」という。「だって、意思決定の場ではないのだから、話をまとめなくてもいいじゃない」と。「僕は無責任だから」とも。これらの発言は、僕にとって目から鱗だった。

そう、僕はやっぱり「話はまとめなければならない」という旧来のファシリテーションの技術の癖が身についていたのだ。でも、白木さんが言うように、別にその場は特に、何かをまとめなければならない、という訳ではない。ダイアローグをしにきたのである。であれば、「何かをまとめよう」「話を一つの方向性に持って行こう」というファシリテーターの意図や意思は、その場に対して介入的な働きかけになる。白木さんのレクチャーでも、OD/ADが目指すのは、「早期の介入」ではなく、「早期の対話だ」、という話がなされていた。そういう意味でも、竹端はまだ介入的側面があったのだ。だが、ADで求められているのは、あるいは対話的な場で求められているのは、豊かなポリフォニーで、不確実性に耐えることであり、一つの声にまとめる・不確実性を縮減することではないのである。

という訳で、改めてヤーコとトムの本を読み直してみると、こんな風にも書かれていた。

「ポリフォニー的現実においては、誰の声が正しく誰の声が間違っているかを決めることはできない。<全ての声>が重要であり、新たな意味を生み出すことにかかわっているのだ。それらは等しく価値がある。モノローグ的な語りでは、声にヒエラルキーがある。たとえば、もっぱら主治医である精神科医の意見が診断を決めることになる。ポリフォニー的対話では、専門家間のヒエラルキーは重要ではない。問題となっている事態についての理解が豊かになればなるほど、より多くの声が新たな意味をつくりだすことに加わってくるのだ。」(『オープンダイアローグ』日本評論社、p109-110)

「<全ての声>が重要」と言うとき、それは、その場の流れの主流の声「以外の声」も「重要」ということである。研修会や授業などで、主流の声が浮かび上がると、僕はその主流の声を強いものにしよう、としてきた。それが、議論を方向付けることであり、「良いことである」と信じ込んできた。だが、そういう風にすると、時として感情的反発を招いた場面にも出会ってきた。そういう時には、その感情的反発をする人を「わからずやだ」「困った人だ」とラベルを貼って、終わることもあった。

だが、そのラベリング自体が、「ヒエラルキー」を産んでいる元凶なのだ。ファシリテーターの僕が、そのような「ヒエラルキー」を生み出すなら、その場は「ポリフォニー的対話」ではなく、「モノローグ的語り」で終わってしまう。そして、「モノローグ的語り」は「新たな意味」を生み出さないだけでなく、「誰の声が正しく誰の声が間違っているかを決めること」に加担するのだ。しかもそれは、ファシリテーターの「声が正しく」、その声に反する声は「間違っている」とファシリテーターが(無意識に)「診断を決める」ように査定者のポジションとして機能するのだ。まさに、これって権力作用そのもの。精神科医の権力作用を批判する僕自身が、ファシリテーションの場面で自らの権力作用に無自覚というのは、本末転倒である。

急いで付け加えておくと、もちろん、僕自身もある程度の試行錯誤をする中で、ここ最近は、ファシリテーションの場面で、できる限り色々な声を会場内から拾ってきた、つもりである。だが、白木さんに指摘されたように、「まとめ」モードになると、そこから声を選択的に選んでいたのも、また事実である。そして、その選択と集中を、良いことと、と思い込んでいた節もある。

では、どうすればよいのか。

「<全ての声>が重要」である、と本当に思うなら、主流の流れと違う声も「重要」であると受け止める必要がある。異論や反論は、方向付けられている流れに対する障害や障壁でない。「問題となっている事態についての理解が豊かにな」る、ということなのだ。そして、ある方向性の「声」とは違う「声」も含めた「理解が豊かになればなるほど、より多くの声が新たな意味をつくりだすことに加わってくる」という。「急がば回れ」ではないが、ある問題に賛成の意見が多いときこそ、まとめの場面であっても、賛成以外の意見も拾うことで、その問題に対する「新たな・別の理解」が豊かになり、単純な善悪や賛否という二項対立的なモノローグではなく、「より多くの声が新たな意味をつくりだす」ことが可能になるのだ。

そこから更に広げて考えると、僕自身はこれまで、ある程度、意見をまとめる・集約することがファシリテーターの役割だ、と思い込んで来た。そうすることにより、「より多くの声が新たな意味をつくりだす」チャンスを失い、モノローグ的な結論になっていたのかもしれない。そして、そのような一本化こそ、ファシリテーターの「取るべき責任だ」、と思い込んで来た。

だが、ダイアローグを大切にする「責任」を果たすならば、意見の方向付けや一本化という部分には「無責任」でないとつとまらない、と気付かされる。ダイアローグの前提に「ポリフォニー的現実」があるのなら、ダイアローグを大切にするということは、「<全ての声>が重要」であると理解し、異論や反論、少数意見をもその場を豊かにする大切な意見であると尊重し、まとめの場面でも取り上げることこそ、「取るべき責任」なのである。

そう考えたら、これまで僕は、「取るべき責任」をはき違えていた、と改めて気付かされた。「多くの声が新たな意味をつくりだすこと」を目標にして、そのためにこそ、<全ての声>が出てくるのをファシリテートする必要がありそうだ。そのことに無自覚で、せっかくのダイアローグのチャンスを、自ら潰して、ヒエラルキーに基づくモノローグ的語りに堕していたのだとしたら、何という愚かなことをしていたのだろう・・・。

そういえば、研修の翌日の講義で学生に「自分が『何をわかっていないか』をわかることが、最も大切だ」と伝えていた。偉そうに言っているけど、僕自身、上記のことが「全然わかっていなかった」のである。情けないけど、それは紛れもない事実。以前の僕だったら、白木さんの指摘の真意が理解できなくて(見たくない現実に蓋をしたくて?)、怒り出したり、感情的反発を抱いたかもしれない。でも、ダイアローグの研修を受ける中で、ようやく今、素直に己の愚かさやモノローグ的・支配的ファシリテートの欠点と、向き合う事ができはじめた。

<全ての声>を大切にするための実践を、これから少しずつ積み重ねていきたい。そう感じている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。