内なるハウルを意識する

ブログの更新が二ヶ月も空いてしまった。2005年に開設して以来、初めてのこと。引っ越しや勤務先が変わった疲労が出てか、何度か風邪も引いたし、子育てに仕事のピークが重なると、ツイッタに書き込めてもブログのために1時間割く余裕がなくなっていた。一般教養の130人の採点が終わったので、やっとその余裕を取り戻す。

さて、この間もっとも僕の心に残っていること。それは、昨晩指摘された、僕の中の「内なるハウル」の存在である。少し、丁寧に説明してみたい。

ハウルの動く城、とは、多くの人がご存じの宮崎駿のアニメである。そして、その「ハウルの動く城」を「魂の脱植民地化」の視点から考察した深尾葉子先生と、昨晩お話ししていた折、実は僕自身の中にも「ハウル」がいた、ということがわかってきた。それが、①英語を話すときと、②人前で講演するとき、の僕である。

きっかけは、深尾先生のお友だちのスティーブさんと三人で英語で議論をしていたとき、僕自身が頭をかきむしりながら必死で英語で言いたいことを絞りだそうとしていたのを見て、深尾先生から「何だか普段のタケバタさんと違うよ」と指摘されたことだった。僕はそれが、自分の英語表現の下手さ・稚拙さゆえである、と思い込んでいた。だが、深尾先生と話すうちに、僕が抑圧していた過去を思い出す。それは、英語の発音を巡る思い出である。

僕は小学校の頃、ラボファミリーという英語サークルに入っていて、「ぐりとぐら」「だるまちゃんとかみなりちゃん」といったかこさとしの童話が英訳された内容のテープをずっと聴いていた。だから、ヒアリングは割とすんなり出来るし、小学校の頃は比較的流ちょうな英語を話せていた。だが、中学校に上がってすぐ、友達から「巻き舌なんて、なんかいちびっている!」「外人っぽい!」と馬鹿にされて以来、日本語イングリッシュに強制して、巻き舌を封印した。だからこそ、それ以来英語を話すのにエネルギーが必要になった。伝えたいこと、話したい内容が一杯あるけど、「いちびっている!」と馬鹿にされた記憶ももたげて、下手な日本語英語しか出て来ず、相手に伝わらず・・・という悪循環に陥っていたのだ。

その話を聴いて下さった深尾先生が一言、「日本人に聞かせるのではなく、ネイティブと話すんだから、格好つけでもなんでもないじゃない」と仰って頂き、その呪符はひらひらと飛んでいった。そう、一生懸命力を入れて、日本語英語を話すから、疲れるのだ。そう思って、昨晩再び英語で議論した時、夜という時間帯もあって、テンションを上げずに、何だか気怠い感じで、必死に話そうとせず、リズムにのるように、話してみた。すると、表現や文法上の稚拙さは変わらないかもしれないけど、より自然に英語が出てきたのだ。それは、深尾先生もスティーブさんも同意してくれた。

このエピソードを通じて、もう一つの僕自身の「仮面」を思い出していた。それが、「講演モード」の「仮面」である。

数年前まで、研修や講演が終わると、「あなたの話を聴いて元気を貰いました」と言われることが多かった。一方、僕自身は講演が終わるとへとへとに疲れ果て、グッタリすることもしばしば、だった。だが、対価をもらって講演する、ってそういうことなんだ、と勝手に自分で思い込んでいた。その一方、身体はボロボロになるし、漢方医や鍼灸に通っても、その場しのぎでいっこうに快復しないのも、また事実だった。

そんな折、昨年春に未来語りのダイアローグの集中研修を受けて、僕自身が「頑張らなくて良いんだ」と思うようになった。僕自身がしっかり「話すと聞くをわける」ことを理解し、研修内でもより多くのダイアローグの機会を作り、「不確実性さを耐えること」になれて、僕の持って行きたい筋書きを放棄し、その場に任せるようになると、より場全体のダイアローグが深まっていった。そういう場では、落としどころを探らなくても、色々な人の声を拾う中で、勝手に場が収まっていった。そして、そういう講演の方が、確実に聞いて下さった方の全体的な満足度があがった。「元気になりました」と言われることはなくなったけど、「色々考えるきっかけをもらえました」と聞く機会が増えた。

つまり、これまでの僕は、一方的に伝えるのに必死になって、何とかして会場の人を「説得」して、理解させようとしていた。熱量をかなり込めて語るので、うまくいけば、相手に伝わって僕の熱量を伝えられると共に、僕自身はクタクタになった。でも、その熱量ゆえに時として、会場の人からの大きな反発を招き、研修中に激論になることもあった。そういうときは互いの熱がぶつかりあい、会場全体がグロッキーになってしまっていた。

でも、今はそういう「説得」を手放し、議論を一致させることも狙わなくなった。それは、僕がダイアローグを学んだトムさんから、次のアイデアを聞いていたからだ。

「ダイアローグが始まる前は、さまざまな独自の見方があります。ダイアローグの後にも、さまざまな独自の見方があります。しかし、見方はさらに深まっていて、お互いの物の見方がよりよく理解されています。このようにして、協力して活動する方向へと道が開かれます。」(トム・エーリク・アーンキル&エサ・エリクソン『あなたの心配ごとを話しましょう』日本評論社、p64)

「協力して活動する方向へと道が開かれる」ことが主目的であれば、意見を一致させる必要はない。むしろ、あなたも僕も唯一無二の存在なのに、意見を一致させる、とは、どちらか一方の価値観に従いなさい、という強制にしばしば陥る。熱量を込めれば込めるほど、反発を招く可能性が高くなる。ダイアローグにはならないし、押さえつけるときも、反発を招くときも、必要以上にパワーを使い、結果的に両者が疲れ果てるだけである。

だからこそ、意見の一致、ではなく、「お互いの物の見方がよりよく理解され」ることを目指す方が大切なのだ。そのためには、僕が必死に力んで話をするのではなく、テンションを下げて、落ち着いたトーンで、「あなたはどう思われますか?」と伺うことが必要不可欠なのだ。

で、ここまで①英語を話すときと、②人前で講演するとき、の僕が疲れ果ててきたこを述べて来た。では、なぜこれが「内なるハウル」なのか。

それは、アニメを見た人は思い出して欲しいのだが、ハウルは外界から「城」に帰ってくると、いつもグッタリ疲れ果てているのである。外界ではイケメンスーパースターとして振る舞っているのだが、その実、めちゃくちゃ怖がりで、自分の部屋(内界)にはお守りを張り巡らせているハウル。外界でテンションを上げてスターを演じた後、内界の扉を開いた段階で、既に肩を落として疲れ果てているのである。

このハウルの疲れ果てた姿が、英語を話した後や日本語で講演をした後の僕の姿と同じだ、と深尾先生に指摘されて、やっと初めて気づけた。つまり、この2つの振る舞いをしている時、僕はかなり無理をして、テンションを上げて、自分のエネルギーを使い果たし、「馬鹿にされないように」「少しでも敬意を持たれるように」と、他人のために心身を酷使してきたのだ。そして、その事に無自覚なまま生きてきたから、深尾先生のハウル論は以前から読んでその概要は諳んじて言えるにもかかわらず、「僕はハウルみたいにイケメンでもないし」なんて訳のわからない理由を付けて、僕自身のありようとは無関係だと切り分けていたのである。これって、まさに「魂の植民地化」そのものだ!

だいたい、「馬鹿にされたくない」「敬意を持たれたい」というのが、僕自身のありのままを表現することへの恐怖や、他者への憧れとそれが出来ない自己嫌悪にもとづく「自己愛」の作用である。安冨歩先生の名著『生きる技法』の中では、この「自己愛」を超えて、ありのままの自らを愛することを「自愛」と表現していた。そして、僕は『枠組み外しの旅』を書くプロセスに身を投じて以来、この7,8年の間に、だいぶ「自愛」モードを手に入れてきた。そのプロセスで、昨年くらいから、講演や研修場面でも、無理せず自愛モードを獲得出来た。そういえば、『「無理しない」地域づくりの学校』を岡山の仲間たちと創り上げてきたのも、僕にとっては格好のリハビリだった。だが、それが全然未開発で、「無理しまくって」「自己愛」に陥っていたのが、英語を話すときの僕、だったのだ。そんなことに、ようやく気づき始めた。

少なからぬ人が、自分の中に「内なるハウル」を抱えている。虚勢を張り、外界で無理をして、内界で疲れ果てる、という、憧れと自己嫌悪がセットになった自己愛モードだ。それは、ハウルの声優として一体化できた某ジャニーズ系アイドルさんの中にも恐らくあるだろうし、僕の中にも、しっかり根付いていた。あるからダメ、なのではない。それがあることに気づけると、キョンシーに貼り付けられた呪符のように、勝手にそれがほどけていく「魔法」なのである。深尾先生は「魔法は魔法であると自覚すると、その効力が失われる」と仰っていた。そう、自らのシンドサや悪循環に、その自己愛のフィードバックループがあるとわかれば、そこからどう抜け出せるか、も模索できるのだ。

ちょうど今日は立秋。姫路は何だか秋風のような涼風が吹き続けている。僕自身、もう少しクールダウンして、テンションを下げて、流れに乗るように、自分自身のあるがままに日本語でも英語でも表現できるように、ぼちぼちモードを切り替えていこうと思う。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。