「○○しちゃダメ」と違うやり方とは?

わが家のおちびは絶賛イヤイヤ期に突入。食事中に、お茶の入ったミニボトルやスプーン、お皿などを投げまくる。「投げたらダメ」と言っても、全然聞いてくれない。そのくせ、「ぶどう食べる人?」と訊ねると、元気に「はい」と答えたりする。お茶ボトルがゴツンと当たると、正直痛くて、「痛いなぁ」と思わず大きな声を出すときもあるし、睨んでしまうときもある。でも、本人はきょとんとしている。まだ、「悪いことをした」という自覚や判断力も身についていないようだ。さて、困った。

そう思った時、岡山の「「無理しない」地域づくりの学校」で出会った、香川の子育てサークル「ぬくぬくママSUN’S」代表の中村香菜子さんの顔が浮かんで、彼女にお尋ねしてみた。すると、色々教えて下さったのだが、その中で最も刺さったフレーズが次の部分だった。

「コミュニケーションの基本は、相手を否定せず、認め、提案するです」

本当に、そのとおり。なのに、わが子の「『問題行動』を修正せねば」と躍起になるあまり、この基本を忘れていた。そう、おちびがものを投げ続ける時も、それにはそれなりの理由があるのだ。それを「否定せず、認め」た上で、それ以外のやり方を「提案する」。これは、子どもだけでなく、認知症のBPSDでも障害者のchallenging behaviorでも同じだった。・・・と知識で知っていても、目の前で実際にその行動と出会った時、スプーンや皿が飛び続ける時、なかなか自覚的になれない、ということも、今回よくわかった。文字で知っている事と、実際に出来る事は、違いますね。

そして、中村さんは、「ダメ」ではないコミュニケーションとして、次の様な例も教えてくださった。

「水筒投げたらめちゃ楽しいよなーわはははは!ねー!でもさ、これ、投げたらママの頭がいたたたたーやで。それに、大事な水筒が壊れちゃう。みんなえーんえーんやで。だから、こっちにしまっておくね、」

子どもが言語化出来ていない、水筒を投げて楽しい、とか、欲求不満とか、とにかく水筒を投げるのに意味がある、ということを肯定的にまず受け止める。親がキャッチしたと言葉で伝える。でも、その上で、親にとっての困った現象や、その行為が及ぼす影響も伝えた上で、別の提案をする。いやはや、さすがですね。

このことを教わりながら、二つのことが結びついて来た。

一つは非暴力コミュニケーション(Non Violent Communication)との共通点である。NVC Japanのホームページにはこんな風に説明されている。

「頭(思考)で判断・批判・分析・取引などするかわりに、自分自身と相手の心(ハート)の声に耳を傾けて、今の感情(Feeling)・ニーズ(Needs)を明確にしていくことで、お互いの誤解や偏見からではなく、心からつながりながら共感を伴ってコミュニケーションをすることを主眼にします。
具体的には、「観察(Observation)」「感情(Feeling)」「ニーズ(Need)」「リクエスト(Request)」の4要素に注目しながら、コミュニケーションで起こっている問題・ズレを整理していくという方法をとります。」

「それしちゃダメ」というのは、「頭で判断や批判」をすることである。それは、「自分自身と相手の心(ハート)の声に耳を傾けて」はいない。そして、そのことからズレが生じ、共感ではなく「お互いの誤解や偏見」が広がっていくという。では、どうすればよいか。実は、中村さんの上記のコミュニケーションでは、既にそれが実践されている。

「「水筒投げたらめちゃ楽しいよなーわはははは!ねー!」(観察) 「でもさ、これ、投げたらママの頭がいたたたたーやで。それに、大事な水筒が壊れちゃう。みんなえーんえーんやで。」 (感情+ニーズ:水筒を壊したくない、泣きたくない) 「だから、こっちにしまっておくね」(リクエスト)

ここでの肝は、相手がなぜそうするのか、という相手の内在的論理を探り、それを自分の感情と分けて、まずは観察言語として表現し、相手に伝える、ということである。つまり、真っ先に「ダメ」「やめなさい」といった「判断や批判」をする前に、相手の行動を「否定せず」に受け止めることである。

そんな折、昨日の朝日新聞のフロントランナーで、LITALICOの長谷川さんが取り上げられていた。彼の発言を読んでいて、ここまで考えて来たことと繋がるフレーズを見つけた。

「ワークスを利用する精神疾患の人たちの多くが、幼い頃からの失敗体験の連続でトラウマを抱えて青年期に発症していることを知り、「日本には、ユニークな人を育てる教育環境がなさすぎる」と痛感した。」

「ユニークな子にあった教育環境がなかった結果、二次的に精神疾患になる人が多いというのは、僕の肌感覚による仮説です」

ここでいう「ユニークな子」とは、単に発達障害とか精神障害というカテゴライズに入る子を意味してはいないと読みながら感じた。「○○しちゃダメでしょ」に素直に従う従順な子ども以外は、つまり実は大半の子どもは、本来一人一人がかなりユニークさを持っているのだ。だが、親が「○○しちゃダメ」と言い続けると、そのうちの少なからぬ子は、その親の統制に従う。それが「しつけ」として社会的に合意されている。そして、その「しつけ」に従う事を前提とした学校空間において、「しつけ」に従えない「ユニークな子」は、先生や親から抑圧され、「幼い頃からの失敗体験の連続でトラウマを抱えて青年期に発症」したり「二次的に精神疾患」になる可能性がある。それは、僕のこれまでの「肌感覚」とも繋がる話だ。(それは以前、「規則や権力への『従順』という『病』」として整理したことがある)

で、その元凶に「○○しちゃダメ」があるのではないか、とも感じている。

以前からの研究仲間でもある大阪大学の深尾葉子先生は、それを「ノットコマンド」問題として提唱しておられる。ノットコマンド、とは、例えば「○○しちゃダメ」のような否定形を伴う表現の場合、「しちゃダメ」という「ノット(not)」の部分を発話者は強調したいのに、受け取る方は「○○する」の部分だけを無意識的に受け取り、発話者の意図とは真逆の指示(コマンド)が伝わる、という「真逆の・意図しない(not)指示(command)」を指している。

娘の場合も、「ぶどう」とか「テレビ」とか「ご飯」とか「じぷた」(好きな絵本のタイトル)とか、キーワードに反応している段階である。その段階で「水筒投げてはだめ」と言っても、たぶん「水筒」しか聞こえない。すると、ダメという部分より「水筒を投げる」に耳が集中し、それを反復してよいと誤解するコミュニケーションが成り立ったいるのかも、しれない。

これは、大人だって同じだ。頭ごなしに「○○しちゃダメ」と言われても、「○○する」事が「楽しい」「したくなった」「そうしないとやっていられない」「それ以外の行動が出来ない」から「○○する」のである。その相手の内在的論理を探ることなく、頭ごなしに判断や批判されても、感情的な反発を受けるだけだ。まずは、否定せずに、notコマンドを使わずに、相手の表現を「観察」して、それを表現してほしいのだ。そこから、表現している相手と観察者の、判断や批判ではない、決めつけではない(=非暴力的な)コミュニケーションが始まるのだ。

そして長谷川さんが「幼い頃からの失敗体験の連続でトラウマを抱えて」と言う時、「ユニークな子」ほど、この「○○しちゃダメ」に安易に従わない特性(=ユニークさ)を持っているがゆえに、それを「しつけや教育」において、頭ごなしに批判・判断され続けてきた結果、二次的に精神疾患になる可能性もあるかも、と、我が事として理解することが出来た。

そういえば、僕だって小さい頃は癇癪持ちで、小学校のころは鞄を道路に投げて放置したり、とか、「きかん気」の子どもだった。でも、ありがたいことに、親や周囲の友達が「○○しちゃダメ」となじるタイプではなく、暖かく見守ってくれたから、なんとか自分で「鞄を投げても得なことはない」と納得し、そこから自分で行動を変えていった記憶がある。誰だって、感情がコントロールできない時がある。興味関心が、親の注意より先立つ時もある。その時に、安直に「○○しちゃだめ」と判断や批判をせず、まず生じていることを「観察」し、そこで生じていることを否定せずに受け止めることができるか。

うーん、実際にコツンとコップが頭に当たったり、食事が床に飛ぶ中で、落ち着いて観察するのは、ハードルが低くない。でも、怒鳴りつけるコミュニケーションをしても、おちびには届かないことだけは、確かだ。であれば、これは僕自身が非暴力コミュニケーションが出来るか、「問題行動」の内在的論理をまさにその行動が成されている時に探ることが出来るか、を試されているのである。おちびさんは、お父ちゃんになかなかハードで有意義な試練を与えて下さっている。さて、そろそろおちびが起きてきたので、その試練を試してみよう。

二項対立を超える為に

最近ご一緒させて頂く事の多い、財政社会学者の井手英策さんが新著『富山は日本のスウェーデン-変革する保守王国の謎を解く』(集英社新書)を出された。僕は発刊直後に駅の本屋で買って読み始めたが、その後井手さんからご恵贈頂いたものも届いた。この本は、新書で読みやすい文体なのだが、僕個人にとっては時間のかかる読書となった。それは、井手さんが二項対立を越える為の問いかけを、本書に沢山埋め込んでいて、途中で立ち止まって考える場面も多かったからだ。

「社会民主主義は、共産主義や社会主義とはちがって、議会制民主主義の廃止、共産党の一党独裁、私的所有権の否定といった革命的な変革をもとめてはいない。むしろ基本的な制度の枠組みを維持しながら、自由や公正、連帯といった価値の実現を追求している。
たしかに、追求する価値が古い文化や伝統のあり方なのか、自由や公正、連帯なのかというちがいはある。だが、それぞれにとっての大切な価値を実現するため、永続的な運動を行っていく点に目をつければ、マンハイムらのいう保守主義と社会民主主義との距離は意外と近いものに見えてこないだろうか。」(p26)

この井手さんの発言は、蒙を啓かれる、というか、自分自身に欠けていた視点だった。僕は14年前にスウェーデンに半年住んでいたこともあり、社会民主主義的な価値観は凄く大切だ、と思っている。特に子どもを授かってからは、公立保育園が近所にあって、1才から必ず入れられるので、パパが朝から連れて行った風景を、羨ましく思い出していた。ああいう社会を日本でどう実現出来るのだろう、と自分事として考えている。

そういう僕にとって、「大切な価値を実現するため、永続的な運動を行っていく」点では、社民主義と保守主義では構造は同じだ、という指摘が興味深く映った。大学生の頃から随分スウェーデン贔屓で、「スウェーデンでは」と「出羽の神」のごとくいつも引き合いにだしていた。でも、そういう言い方をしても、日本では全然響かない。「すごいですね」「いいですね」という声が挙がったとしても、必ずセットで「人口が違いすぎるから」「日本の風土に高福祉高負担は似合わない」などと否定されることも多かった。井手さんも、きっとそういう経験もされたのではないか、と思う。だからこそ、重視する価値ではなく、「永続的な運動」という側面で富山を捉え、それをスウェーデンと結びつけようとしたこの著作は、多くの問題提起を僕にも投げかける。

富山とスウェーデンがどう似ているのか、は同書を手にとって頂くとして、僕に刺さったフレーズを幾つか抜き出したい。

「富山を『保守的な社会だ』と斬って捨てることは簡単だ。おそらく多くの左派・リベラルはこうした社会を望もうとはしないのではないだろうか。だが、本書で明らかにした諸指標、そして富山の人たちがつくりだしたマクロの社会循環は、リベラルや左派がもとめ、そしてついぞ実現できなかった社会の姿にきわめて近いこともまた事実である。
一方、保守派の好む伝統主義的、家族主義的な傾向が支配的であることは、多くの人にとって生きづらさと紙一重というのが実際のところだろう。だが、そうした傾向は富山だけでなく、日本社会のいたるところに存在している。それをただ『保守的だ』といって批判するだけでは思考停止と変わらない。
保守的だと斬り捨てる前に、保守的なものの内側で起きつつある変化の兆しをうまくつかまえ、より、自由で、公正で、連帯できる社会をめざすことは論理的に可能だし、実際にそうした萌芽が富山社会にも数多く存在している。
僕は富山をユートピアだと思わない。無前提に賞賛するつもりはない。そうではなく、富山社会のこれまで、いま、に深く入り込み、学び、そのなかでの発見をつうじて、よりよい社会の条件について考えてみたいと思っている。そのヒントが富山に無数にあることを僕は知っているからだ。」(p74-75)

長い引用になったが、この部分に井手さんの視点が凝縮されていると感じる。「保守派の好む伝統主義的、家族主義的な傾向が支配的であること」が、団塊の世代を中心に多くの反発を招き、故郷を捨てて大都会に人口移動させる契機になった。少なからぬ若者にとって、上記の傾向は「生きづらさ」に直結していた。団塊の世代がリベラルや左派的視点に親和的になっていったのは、この「伝統主義的、家族主義的な傾向」への反発の意味も大きかったと思う。

だが、そんな「保守王国」富山が、持ち家率や女性の正社員比率で全国1位だと言う。これを指して「リベラルや左派がもとめ、そしてついぞ実現できなかった社会の姿」があるではないか、と井手さんは指摘する。保守王国で社会民主主義的な結果と類似した内容が出現しているのはなぜか、と問うているのである。その上で、井手さんは、一見すると相容れない二つを繋ぐ隘路を、「保守的なものの内側で起きつつある変化の兆しをうまくつかまえ、より、自由で、公正で、連帯できる社会をめざすことは論理的に可能だ」と整理している。

なるほど。先ほどの「大切な価値を実現するため、永続的な運動を行っていく」と結びつけると、見えてくるものがある。保守王国でも、さすがに三世代同居や地縁組織の加入率も低下しつつある。これは全国の傾向と変わりない。このような「保守的なものの内側で起きつつある変化の兆し」に対応して、家族主義的な限界を乗り越える為に、「より、自由で、公正で、連帯できる社会」を目指すようにシフトチェンジできるのではないか、という提言である。

つまり、二つの異なる価値体系の結び目にも見える富山という現場を観察することで、「よりよい社会の条件について考え」る「ヒントが富山に無数にある」と彼は指摘する。だからこそ、この本は富山礼賛本でも富山否定本でもない、富山というケーススタディーを通じて「思考停止」を乗り越える方法を模索する本だと僕は受け取ったのだ。

「リベラルな政策を志向する人たちのなかには、『家族』という言葉を聞いて眉をひそめる人が多いように思う。それは、家に閉じ込められた専業主婦に、家事や育児といった『シャドウ・ワーク』を押しつける『閉鎖的な場所』として認識されるからだ。(略)だが、ここで重要なのは、家族という『場』ではなく、家族の持つ『原理』をどのように社会に仕組んでいくかということである。」(p150)

この前段では、惣万さんの「この指とーまれ」に代表される富山型デイサービスと、その進化形態としての「あしたねの森」、そして射水市のふるさと教育を取り上げている。そして、その章のタイトルには、「家族のように支え合い、地域で学び、生きていく」と書かれている。ここに「家族という『場』ではなく、家族の持つ『原理』をどのように社会に仕組んでいくか」という井手さんの問題意識が詰まっている。

これまで「家族主義」が批判されてきたのは、「家に閉じ込められた専業主婦に、家事や育児といった『シャドウ・ワーク』を押しつける『閉鎖的な場所』」という意味で、「家族という『場』」の問題性ゆえであった。だが、社会変化に基づく「永続的な運動」という視点に基づけば、このような「場」は限界が来ている。それが、「この指とーまれ」のような宅老所や共生型ケアが全国で求められている理由でもある。そこは、家族規範を護持する「場」ではない。そうではなくて、「家族のように支え合い、地域で学び、生きていく」という家族の「原理」を社会化し、制度化したものである。そして、そのような家族における「場」から「原理」への変化こそ、保守主義の曲がり角において「永続的な運動」として選ばれた論理であり、この「原理」は「より、自由で、公正で、連帯できる社会」とも接続可能だ。これが、保守主義と社会民主主義を繋ぐ隘路なのだ、と腑におちる整理であった。

本の最後で、再びスウェーデンに言及し、井手さんはこう総括する。

「スウェーデン自身も、自分たちの保守的な価値のなかから新しい価値を生み出し、保守的な思想とリベラルな思想とのせめぎあいを経て、いまのスウェーデン型社会民主主義をつくりあげてきたわけである。リベラルが『保守的だと思ってきたもの』を『保守的だ』と批判することにとどまるとすれば、彼らの欲する社会変革は永遠に実現不可能のまま終わってしまうだろう。」(p198-199)

保守的だと批判することそのものを批判しているわけではない。そうではなくて、リベラルや左派が本当にスウェーデンを見習いたいと思うなら、「自分たちの保守的な価値のなかから新しい価値を生み出し、保守的な思想とリベラルな思想とのせめぎあい」をしっかり自分たちの国の中で受け止め、実践していくべきではないか、と提案していると受け取った。そして、富山のケーススタディーは、そのような「保守的な価値のなかから新しい価値を生み出」す土壌であり、かつ「保守的な思想とリベラルな思想とのせめぎあい」、つまり「場」から「原理」への移行や相克が表面化する現場である、と整理しておられると受け取った。

僕自身も13年間山梨で暮らし、また三重や岡山などで定点観測を続ける中で、都会人の言う保守/リベラルの二項対立では収まりきらない何かを感じていた。そしてそれを説明する言葉を僕自身は持っていなかった。井手さんのこの本で学ばせて頂いたのは、価値前提が違っても、ある価値を大切にするための永続的な運動というプロセスは同じではないか、という提起である。また核家族化や少子高齢化の影響の中で、保守とリベラルの中間のような領域に実態が変化している事も踏まえると、「自分たちの保守的な価値のなかから新しい価値を生み出し、保守的な思想とリベラルな思想とのせめぎあいを経」ることによって、「いまのスウェーデン型社会民主主義」のような「より、自由で、公正で、連帯できる社会」が実現出来るのではないか、と問いかけているのである。

僕自身は日本社会が「より、自由で、公正で、連帯できる社会」であってほしいと願っている。なので、この本は、ではその価値の実現の為に批判に終始せずに何をすべきか、を考える上で、非常に大切な補助線を引いてくれた、と感謝している。そういう意味では、この本は二項対立の閉塞感から抜け出すガイドブックなのかも知れない。