子どもでなく、教師が変われるか?

すごく面白く、現代の学校の抱える病の深さに気持ちが暗くなり、だが、二人の対話者の話に心から納得して希望も抱く、そんな本を読んだ。

「木村:合理的配慮といいながら、多様な特性を持った子をどんどん特別支援学級へと移し、排除しています。画一的な子どもだけを授業の場に残して、どうやって『主体的・対話的で深い学び』を実現して、社会力を付けるというのでしょう。」
「多様な子どもがいるのに、先生が教える行為を継続していると、困る子がいっぱい出てきます。だから、教える授業を変えない階切り、インクルーシブ教育なんてあり得ません」
(木村泰子・菊池省三『タテマエ抜きの教育論』小学館p84-85)

映画『みんなの学校』でも有名な大空小学校元校長の木村泰子先生の対談集を何気なく読み始めて、びっくりした。対談相手の菊池先生は僕は初めて知ったのだが、彼も北九州の「しんどい学校」で子ども中心の教育実践をやっていた元教師で、両者とも教育現場での教師向け講演を多数こなしている、という。タイトル通りで、タテマエ抜きに教育現場の問題点を語る二人の議論に引き込まれつつ、教育現場の根深さを思い知る一冊。

今、引用したように、特別支援学級への「社会的排除」は、かなり進んでいる。しかも、それは発達障害の急増、というより、教員との関係性の中で、社会的に構築されたものだ、と木村先生は断言する。全国学力テストなどの標準化テストで高得点をとらせるために、「画一的な子どもだけを授業の場に残し」、それ以外の「先生が教える行為を継続して」いたら「困る子」=「多様な特性を持った子をどんどん特別支援学級へと移し、排除して」いるのだ。それに「合理的配慮」なんてラベルを貼ると、開いた口がふさがらない。

ただ、この特別支援学校への排除は、それが当たり前だと思っている世代には、なかなかその前提を疑いにくい。かく言う僕自身も、大空小学校の映画の元映像となった関西テレビのドキュメンタリーを見るまで、心のどこかで、重い障害のある子は支援学級の方が良いのではないか、と思う部分があった。この映画を見たり、学生と議論するなかで、僕自身が気付かされたのは、そういう内なる能力主義を簡単に捨て去ることは容易ではない、ということである。そこに「合理的配慮」のような美しい言葉を着せられると、ころっと騙される。そのことを、菊池先生は次の様に整理する。

「自分が受けてきた教育がある。そして、教師として働く地域や学校に伝統的に伝わっている教育がある。教師は、毎年どんな子どもが学級に入ってこようとも、その二つの教育を一般化してしまいがちなのだと思います。『このやり方が正しいんだ。だって、自分もそういう教育を受けてきたし、先輩もそうやっているじゃないか』という考え方が染みついてしまっていて、なかなか授業を変えることができません。」(同上、p85)

この偏見や先入観は非常に強固であり、僕自身も長年縛られてきたし、学生達もインクルーシブ教育のビデオを見せても、この部分に抵抗を感じる人が多い。でも、長年の実践に基づく木村先生のこの発言には、全く反論はできない。

「先生自身が変わらないで、子ども達ばかりを変えようとしていることが大きな問題です。先生に反抗する子がいる学級で、先生の力のほうが強ければその子は不登校になり、子どもの力の方が強ければ学級崩壊になります。そもそも『この子が私に反抗しているのはなぜだろう?』といいうことを教えてくれるのは、その子しかいません。ですから、先生がその子から学ぶしかない。どんなに悪ぶっている子でも、先生が自分に学ぼうとしている姿や空気というものは伝わりますから、絶対につながることができるはずです。」(同上、p95)

不登校と学級崩壊は、コインの裏表。言われてみればその通りだが、しんどい子を見続けてきた木村先生の発言なので、説得力が半端ない。先ほどの「多様な個性を持った子」とつなげげるなら、「先生に反抗する子」とは、画一的で一方通行の教え方に対して「反抗する子」でもある。その際に、先生が変わろうとせず、その子を「困った子」とみなし、その子を変えようとパワーゲームを展開すると、そのパワーのぶつかり合いで、不登校や学級崩壊という結果が生じる。だが、どちらにせよ、無駄に力をぶつけ合うので、消耗感は半端ない。その無駄な消耗戦をどうやったら、抜け出せるのか。

木村先生はそこで、「『この子が私に反抗しているのはなぜだろう?』といいうことを教えてくれるのは、その子しかいません。ですから、先生がその子から学ぶしかない」という回路を開く。「反抗」を自己表現と捉えるなら、そのような必死の「反抗」を、他ならぬ教師の自分にしてくるのはなぜか、を本人から「学ぶしかない」のだ。そして、その「学ぶ」姿勢をもって子どもと向き合う教師には、「どんなに悪ぶっている子でも、先生が自分に学ぼうとしている姿や空気というものは伝わりますから、絶対につながることができるはず」という。

これは、「問題行動」への対処として、極めて真っ当な姿勢だと思う。「関係性のなかでの心配ごと(relational worries)」の考え方からみると、「反抗」というのは、教師と生徒の関係性のなかで生じている。ということは、反抗の原因の一つには、教師の側の関わり方、アプローチの仕方も含まれているのだ。つまり、教師は問題の一部分なのである。そう思ったら、相手を変えるより、自分自身のコミュニケーションパタンを変えるために、相手から学んだ方が、消耗戦のパワーゲームをしているより、遙かに有意義である。だが、先の菊池先生の言葉を借りるなら、『このやり方が正しいんだ。だって、自分もそういう教育を受けてきたし、先輩もそうやっているじゃないか』という心地良い先入観に囚われると、自分の変容可能性より、生徒が悪い、という決めつけに支配され、それを自己正当化するマジックワードとして、発達障害などの言葉を安易に誤用しているのではないか、という疑念すら、浮かぶ。

「大空小は創立12年目になりました。今の大空には、地域住民がつくっている地域の学校の根が張っています。この根はどんなものかというと、『大空で今誰がいちばん困っている? その子をみんなで見よう!』という根です。そもそも困っていない子は大人を信頼できているわけで、いちばん困っている子が大人を信頼するようになることが大事なわけです。その子が変われば、『あいつが変わるってすごい!』と、周りだって可能性を感じます。だから、他のことは何もしなくても構いませんから、一人の子どもを全教職員が多方面から見ていくことが必要です。この根っこさえしっかり張っていれば、少々の風が吹いても倒れることはありません。」(同上、p115-116)

「いちばん困っている子」を、不登校や特別支援学級という形で社会的に排除することが出来れば、先生は楽になる。でも、本人の困り感は、何も解決されない。そして、学校は本来、すべての子どもがが発達し成長するのを後押しする場である。ならば、『大空で今誰がいちばん困っている? その子をみんなで見よう!』という当然の帰結が導き出される。しかも、「いちばん困っている子」は「大人を信頼」できていない、というしんどさを抱えている。だからこそ、大空小学校では、担任や他の先生、用務員や校長、地域のサポーターの人など、多くの人が「かまう」。その中で、「いちばん困っている子」を大人が信頼し、「全教職員が多方面から見ていく」チーム支援を行う。だからこそ、子どもにも変容可能性が生まれてくる。

このプロセスを書き写しながら、精神病院を潰したイタリアの精神科医、フランコ・バザーリアの戦略と近いとも思った。彼は、精神病院の閉鎖病棟で、最も対処が困難と言われた患者を、一番最初に地域に退院させた。それは、「その子が変われば、『あいつが変わるってすごい!』と、周りだって可能性を感じます」という木村先生の戦略と全く同じである。学校や精神病院という、社会の他の風が入り込みにくい、閉鎖された空間。教員と生徒、医療者と患者は上下関係に陥りやすく、支配関係を生み出しやすい。また、教師や医師が言うことの方が、生徒や患者の言うことより、社会的に信用されやすい。だからこそ、「いちばん困っている子」を不登校や特別支援学校、閉鎖病棟に排除せずに、その子とがっぷり向き合い、信頼関係を醸成するなかで、その子の「困り感」をなくし、変容するのを支援する。これぞプロの仕事だと思った。

最後に繰り返すが、「先生がその子から学ぶしかない」のである。これは、「大学教員が学生から学ぶしかない」と言い換えても全く同じであり、精神医療においては「医療職は患者から学ぶしかない」のである。この部分を無視して、権威主義的に生徒や学生、患者に接することで、教育や医療の根が腐っていく。そんなことも感じた一冊だった。

因果から縁起へ

「魂の脱植民地化」研究をご一緒している深尾葉子先生から、博論を元にしたご著書『黄砂の越境マネジメント』(大阪大学出版会)を御恵贈頂いた。この本の概要は出版社HPに次の様に書かれている。

「黄砂は砂漠から飛んでくるという思い込み、植林への思い込みの枠組みをはずす。人の動きと自然現象は予測不可能だが無秩序ではない。人の営みが作り出す景観と、その空間構造にある生活世界の理解なくしては成し得ない「境界を越える」黄土高原の緑化マネジメントを提唱する。」

正直、これだけを見ると、「なんのこっちゃ?」と思う人も少なくないだろう。環境問題はあまり興味関心がないから・・・とスルーする人もいるかもしれない。そういう僕自身も、かつてはスルー派だった。だが、8年前に深尾先生の講演を聴いて以来、そうやって「自分には関係がない」と切り分ける思考そのものが、「魂の脱植民地化」につながっている、と気付かされはじめ、そこから僕の学びも深まっていった。

深尾先生からこの8年間学ばせて頂いている事は数限りないが、決定的に大切なことの一つが、本書にも書かれている。

「問題を『制御可能』と見なして枠組みを固定してしまうと、あらかじめ予定されていたストーリーに執着し、そのために現実に起きていることから目を背けてしまう」(p247)
「現実には非線形で複雑なシステムに対して、『調査・計画・実行・評価』という線形的アプローチを適用することは、原理的に不可能であるといってもよく、多くの問題を惹起する」(p248)

これは砂漠化対策としての植林が、その現地の元々の植生を無視した、その土地に根ざしていない外来種の植林であり、「毎年何万本植えよう」という「計画制御」モデルであったため、見事に破綻していく様子を考察したものである。そして、そういう現場で現地のコーディネーターが、「上」が決めた目標と、現場でのズレを解消するために「『つじつま合わせ』のストーリー」(p254)を描いているという。

これは、中国の砂漠化対策の植林に限定されたことだろうか?

PDCAサイクルがもたらす弊害は、日本の教育や福祉現場でも沢山見られるし、少なからぬ方がその被害をご自身の職場でも体感しておられるのではないだろうか? 大学では毎年の授業アンケートという「評価」に基づいて、次年度どう授業を変えるかが「調査」され、それに基づきシラバスという「計画」を作成し、授業を「実行」する。これは少なからぬ大学で行われているが、それで現実に授業がめきめき改善したか、というと、少なからぬ場合、ペーパーワークという「つじつま合わせ」で終わっている。これは行政の福祉施策でも、コンサルに丸投げされた基礎「調査」がなされ、福祉「計画」が作られて、計画に基づいて具体的な施策が「実行」されるが、その施策が実践されるなかで表面化されたマイナスの「評価」に関して、次の「計画」の中に取り入れられ、改善されることは、あまりないのが現実である。

どちらの例からも言えること、それは「『制御可能』と見なして枠組みを固定」することで、計画も実践も「あらかじめ予定されていたストーリーに執着し、そのために現実に起きていることから目を背けてしまう」可能性がある、ということである。だから、「お上」がいくらPDCAをしつこく言っても、現場はそれでうまく回るはずはないし、「お上」が求めるから、と「つじつま合わせ」だけが蔓延し、「やっているふりをするだけ」の余計な仕事がどんどん増えていくのである。これは、まさに悪循環そのものである。

では、どうすればよいのか。深尾先生は、複雑な現象を制御可能であるかのように見なして振る舞う「切り取られた合理性」や「単純化された因果関係」(p272)、つまりはPDCAサイクルそのものから自由になることを提唱する。では、それに変わる代替案はないのだろうか? それを黄土高原の村における相互作用の観察に基づいて、こんな風に描き出す。

「村において観察可能であったのは、村人同士が各々個別に展開する労働交換や情報の交換によって形成される『関係』のネットワークのみで、それは常に変化し、形を変えて存在し続ける。そこから抽出できるのは、構造そのものではなく、構造化のダイナミクスであり、動的なモデルであった。」(p291)
「人為的要因と自然的要因が複雑に相互作用し、非線形性によって支配される複雑な現象を理解するには、あらかじめ『フレーム』によって対象と『時間』を区切り、限定された因果関係で理解しようとする手法は、大きな齟齬をもたらす」(p294)

PDCAサイクルに代表される計画制御は、「構造」で理解しようという試みだが、それは「あらかじめ『フレーム』によって対象と『時間』を区切り、限定された因果関係で理解しようとする手法」であるがゆえに、大学の授業であれ、あるまちの福祉政策であれ、「人為的要因と自然的要因が複雑に相互作用し、非線形性によって支配される複雑な現象を理解するには」「大きな齟齬をもたらす」という。

だからこそ、PDCAサイクルのような「構造」を手放し、どのような「『関係』のネットワーク」が存在するのか、それがいかように「変化し、形を変えて存在し続け」いるのか、という「構造そのものではなく、構造化のダイナミクスであり、動的なモデル」を理解することが大切だ、と指摘する。

大学の授業も、僕と毎年異なる学生(対象者)、そして教室環境や他の授業との関係性、といった「複雑に相互作用し、非線形性によって支配される複雑な現象」である。それをPDCAシートで埋めても、改善できない。それよりは、今年の学生さんとの一期一会のなかで、授業において学生達とどのような「『関係』のネットワーク」を創り上げていくのか、が問われている。そして、そのような関係性構築という「構造化のダイナミクスであり、動的なモデル」を自覚化することで、翌年の授業を「構造化」する上での課題が浮かび上がる。学生が学べていないと感じたら、教員の側が授業の内容ややり方を「変化」させ、「形を変えて」学生と関係を取り結び直す試行錯誤が求められる。これは、因果モデルでは描ききれない「複雑に相互作用し、非線形性によって支配される複雑な現象」そのものである。そして、そういう動的なモデルを動かしていくうちに、何らかの「構造化」が生まれてくるのだ。

最終章で深尾先生はそのことを次のように総括している。

「『フレーミング』を取り外すということは、非線形的な語りの中では、常に線形的因果関係の背後に広がる非線形的な『縁起』に思いをはせるということであり、それこそが本書で『アウトフレーミング』と称する動作である。既存の『フレーム』を相対化し、『フレーム』の外部にあって、実は重要な役割を担いうるものを認識の中に取り込むこと、既知の世界で合理的であると考えられる事柄を常に相対視し、不合理であるとされていることを自己の行動や視野の中に取り込んでゆくこと、それが『アウトフレーム(フレームを凌駕)』することである。すなわちアウトフレームというのは、フレームを超えようとするプロセスそのものを指している。」(p310)

この指摘は書き写しながら根源的に重要である、と改めて感じた。

授業で言うならば、教員の僕が知っている範囲の事を、僕が教案通りに一方的に講義する、というのは、「線形的因果関係」で閉ざすことである。それをやっていて、前任校では全然興味を持って聞いてもらえなかったところから、僕の授業改革は始まった。その中で、学生たちの発言や興味関心という「『フレーム』の外部にあって、実は重要な役割を担いうるものを認識の中に取り込むこと」が、僕の授業を変えてくれる大きなきっかけになった。「教員が教えなければいけない」という「既知の世界で合理的であると考えられる事柄を常に相対視」して、学生達の学び合いの場を授業中で展開していくことで、寝る学生はいなくなり、学生の参加度も満足度も高まっていった。これは、「学生が興味を持たない」という「不合理であるとされていることを自己の行動や視野の中に取り込んでゆくこと」そのものであり、結果的に僕のしてきた事は『アウトフレーム(フレームを凌駕)』だったのだ。そして、PDCAサイクルなんかより、死活的に重要なのは、この「フレームを超えようとするプロセス」であり「構造化のダイナミクス」を動かし続けることである。そして、そうやって僕が自分の教育スタイルの因果モデルを超えて、「非線形的な『縁起』に思いをはせる」ことによって、僕は沢山のことを学び続けているのである。

このプロセスは、授業だけの話ではない。たとえば、福祉現場で「支援困難事例」や「多問題家族」と呼ばれる事象に支援者が関わるとき、それは支援者がその対象者(家族)を「困難」と感じている時点で、「既知の世界で合理的であると考えられる事柄」の限界・臨界点にさしかかっているのである。わけのわからない発言、理解できない言動、周囲を巻き込んで迷惑をかける事象・・・などの「非線形的な語りの中では、常に線形的因果関係の背後に広がる非線形的な『縁起』に思いをはせるということ」が死活的に大切なのだ。そして、従来の支援の「『フレーム』の外部にあって、実は重要な役割を担いうるものを認識の中に取り込むこと」、つまりは「アウトフレーム」のダイナミズムのなかで、新たな「縁起」が生まれ、悪循環の固着状態から解放され、支援が回り始めたり、するのである。

あと、長くなったので手短に言うと、オープンダイアローグも、このアウトフレーミングのプロセスそのものである。線形的な因果論では解決出来ない「狂気」の出現に対して、因果論的に薬を処方して閉じ込める、のではなく、「狂気」の形でしか自己表現出来ないものは何かを支援者と当事者と本人が信頼を寄せる社会ネットワークの人々が一緒に考える事によって、「『フレーム』の外部にあって、実は重要な役割を担いうるものを認識の中に取り込む」プロセスそのものでもある、ともいえる。

そう考えるならば、私たちの「思い込み」や「つじつま合わせ」から自由になることが、より創造的で本質的な仕事につながることも見えてくるし、この深尾先生の指摘は、様々な人が関わる現象(支援関係や授業、環境問題や政治・・・)にも当てはめて考えることが出来る、極めて普遍性の高いモデルである、ともいえるのでは、ないだろうか。

この本は、折に触れて読み返そうと思う。

追伸:本の中身自体の紹介は密林レビューに書いてみました。