因果から縁起へ

「魂の脱植民地化」研究をご一緒している深尾葉子先生から、博論を元にしたご著書『黄砂の越境マネジメント』(大阪大学出版会)を御恵贈頂いた。この本の概要は出版社HPに次の様に書かれている。

「黄砂は砂漠から飛んでくるという思い込み、植林への思い込みの枠組みをはずす。人の動きと自然現象は予測不可能だが無秩序ではない。人の営みが作り出す景観と、その空間構造にある生活世界の理解なくしては成し得ない「境界を越える」黄土高原の緑化マネジメントを提唱する。」

正直、これだけを見ると、「なんのこっちゃ?」と思う人も少なくないだろう。環境問題はあまり興味関心がないから・・・とスルーする人もいるかもしれない。そういう僕自身も、かつてはスルー派だった。だが、8年前に深尾先生の講演を聴いて以来、そうやって「自分には関係がない」と切り分ける思考そのものが、「魂の脱植民地化」につながっている、と気付かされはじめ、そこから僕の学びも深まっていった。

深尾先生からこの8年間学ばせて頂いている事は数限りないが、決定的に大切なことの一つが、本書にも書かれている。

「問題を『制御可能』と見なして枠組みを固定してしまうと、あらかじめ予定されていたストーリーに執着し、そのために現実に起きていることから目を背けてしまう」(p247)
「現実には非線形で複雑なシステムに対して、『調査・計画・実行・評価』という線形的アプローチを適用することは、原理的に不可能であるといってもよく、多くの問題を惹起する」(p248)

これは砂漠化対策としての植林が、その現地の元々の植生を無視した、その土地に根ざしていない外来種の植林であり、「毎年何万本植えよう」という「計画制御」モデルであったため、見事に破綻していく様子を考察したものである。そして、そういう現場で現地のコーディネーターが、「上」が決めた目標と、現場でのズレを解消するために「『つじつま合わせ』のストーリー」(p254)を描いているという。

これは、中国の砂漠化対策の植林に限定されたことだろうか?

PDCAサイクルがもたらす弊害は、日本の教育や福祉現場でも沢山見られるし、少なからぬ方がその被害をご自身の職場でも体感しておられるのではないだろうか? 大学では毎年の授業アンケートという「評価」に基づいて、次年度どう授業を変えるかが「調査」され、それに基づきシラバスという「計画」を作成し、授業を「実行」する。これは少なからぬ大学で行われているが、それで現実に授業がめきめき改善したか、というと、少なからぬ場合、ペーパーワークという「つじつま合わせ」で終わっている。これは行政の福祉施策でも、コンサルに丸投げされた基礎「調査」がなされ、福祉「計画」が作られて、計画に基づいて具体的な施策が「実行」されるが、その施策が実践されるなかで表面化されたマイナスの「評価」に関して、次の「計画」の中に取り入れられ、改善されることは、あまりないのが現実である。

どちらの例からも言えること、それは「『制御可能』と見なして枠組みを固定」することで、計画も実践も「あらかじめ予定されていたストーリーに執着し、そのために現実に起きていることから目を背けてしまう」可能性がある、ということである。だから、「お上」がいくらPDCAをしつこく言っても、現場はそれでうまく回るはずはないし、「お上」が求めるから、と「つじつま合わせ」だけが蔓延し、「やっているふりをするだけ」の余計な仕事がどんどん増えていくのである。これは、まさに悪循環そのものである。

では、どうすればよいのか。深尾先生は、複雑な現象を制御可能であるかのように見なして振る舞う「切り取られた合理性」や「単純化された因果関係」(p272)、つまりはPDCAサイクルそのものから自由になることを提唱する。では、それに変わる代替案はないのだろうか? それを黄土高原の村における相互作用の観察に基づいて、こんな風に描き出す。

「村において観察可能であったのは、村人同士が各々個別に展開する労働交換や情報の交換によって形成される『関係』のネットワークのみで、それは常に変化し、形を変えて存在し続ける。そこから抽出できるのは、構造そのものではなく、構造化のダイナミクスであり、動的なモデルであった。」(p291)
「人為的要因と自然的要因が複雑に相互作用し、非線形性によって支配される複雑な現象を理解するには、あらかじめ『フレーム』によって対象と『時間』を区切り、限定された因果関係で理解しようとする手法は、大きな齟齬をもたらす」(p294)

PDCAサイクルに代表される計画制御は、「構造」で理解しようという試みだが、それは「あらかじめ『フレーム』によって対象と『時間』を区切り、限定された因果関係で理解しようとする手法」であるがゆえに、大学の授業であれ、あるまちの福祉政策であれ、「人為的要因と自然的要因が複雑に相互作用し、非線形性によって支配される複雑な現象を理解するには」「大きな齟齬をもたらす」という。

だからこそ、PDCAサイクルのような「構造」を手放し、どのような「『関係』のネットワーク」が存在するのか、それがいかように「変化し、形を変えて存在し続け」いるのか、という「構造そのものではなく、構造化のダイナミクスであり、動的なモデル」を理解することが大切だ、と指摘する。

大学の授業も、僕と毎年異なる学生(対象者)、そして教室環境や他の授業との関係性、といった「複雑に相互作用し、非線形性によって支配される複雑な現象」である。それをPDCAシートで埋めても、改善できない。それよりは、今年の学生さんとの一期一会のなかで、授業において学生達とどのような「『関係』のネットワーク」を創り上げていくのか、が問われている。そして、そのような関係性構築という「構造化のダイナミクスであり、動的なモデル」を自覚化することで、翌年の授業を「構造化」する上での課題が浮かび上がる。学生が学べていないと感じたら、教員の側が授業の内容ややり方を「変化」させ、「形を変えて」学生と関係を取り結び直す試行錯誤が求められる。これは、因果モデルでは描ききれない「複雑に相互作用し、非線形性によって支配される複雑な現象」そのものである。そして、そういう動的なモデルを動かしていくうちに、何らかの「構造化」が生まれてくるのだ。

最終章で深尾先生はそのことを次のように総括している。

「『フレーミング』を取り外すということは、非線形的な語りの中では、常に線形的因果関係の背後に広がる非線形的な『縁起』に思いをはせるということであり、それこそが本書で『アウトフレーミング』と称する動作である。既存の『フレーム』を相対化し、『フレーム』の外部にあって、実は重要な役割を担いうるものを認識の中に取り込むこと、既知の世界で合理的であると考えられる事柄を常に相対視し、不合理であるとされていることを自己の行動や視野の中に取り込んでゆくこと、それが『アウトフレーム(フレームを凌駕)』することである。すなわちアウトフレームというのは、フレームを超えようとするプロセスそのものを指している。」(p310)

この指摘は書き写しながら根源的に重要である、と改めて感じた。

授業で言うならば、教員の僕が知っている範囲の事を、僕が教案通りに一方的に講義する、というのは、「線形的因果関係」で閉ざすことである。それをやっていて、前任校では全然興味を持って聞いてもらえなかったところから、僕の授業改革は始まった。その中で、学生たちの発言や興味関心という「『フレーム』の外部にあって、実は重要な役割を担いうるものを認識の中に取り込むこと」が、僕の授業を変えてくれる大きなきっかけになった。「教員が教えなければいけない」という「既知の世界で合理的であると考えられる事柄を常に相対視」して、学生達の学び合いの場を授業中で展開していくことで、寝る学生はいなくなり、学生の参加度も満足度も高まっていった。これは、「学生が興味を持たない」という「不合理であるとされていることを自己の行動や視野の中に取り込んでゆくこと」そのものであり、結果的に僕のしてきた事は『アウトフレーム(フレームを凌駕)』だったのだ。そして、PDCAサイクルなんかより、死活的に重要なのは、この「フレームを超えようとするプロセス」であり「構造化のダイナミクス」を動かし続けることである。そして、そうやって僕が自分の教育スタイルの因果モデルを超えて、「非線形的な『縁起』に思いをはせる」ことによって、僕は沢山のことを学び続けているのである。

このプロセスは、授業だけの話ではない。たとえば、福祉現場で「支援困難事例」や「多問題家族」と呼ばれる事象に支援者が関わるとき、それは支援者がその対象者(家族)を「困難」と感じている時点で、「既知の世界で合理的であると考えられる事柄」の限界・臨界点にさしかかっているのである。わけのわからない発言、理解できない言動、周囲を巻き込んで迷惑をかける事象・・・などの「非線形的な語りの中では、常に線形的因果関係の背後に広がる非線形的な『縁起』に思いをはせるということ」が死活的に大切なのだ。そして、従来の支援の「『フレーム』の外部にあって、実は重要な役割を担いうるものを認識の中に取り込むこと」、つまりは「アウトフレーム」のダイナミズムのなかで、新たな「縁起」が生まれ、悪循環の固着状態から解放され、支援が回り始めたり、するのである。

あと、長くなったので手短に言うと、オープンダイアローグも、このアウトフレーミングのプロセスそのものである。線形的な因果論では解決出来ない「狂気」の出現に対して、因果論的に薬を処方して閉じ込める、のではなく、「狂気」の形でしか自己表現出来ないものは何かを支援者と当事者と本人が信頼を寄せる社会ネットワークの人々が一緒に考える事によって、「『フレーム』の外部にあって、実は重要な役割を担いうるものを認識の中に取り込む」プロセスそのものでもある、ともいえる。

そう考えるならば、私たちの「思い込み」や「つじつま合わせ」から自由になることが、より創造的で本質的な仕事につながることも見えてくるし、この深尾先生の指摘は、様々な人が関わる現象(支援関係や授業、環境問題や政治・・・)にも当てはめて考えることが出来る、極めて普遍性の高いモデルである、ともいえるのでは、ないだろうか。

この本は、折に触れて読み返そうと思う。

追伸:本の中身自体の紹介は密林レビューに書いてみました。