『当たり前をひっくり返す』序章公開

今日、三冊目となる単著が発売された。『「当たり前」をひっくり返す――バザーリア・ニィリエ・フレイレが奏でた「革命」』である。

『枠組み外しの旅』を2012年、『権利擁護が支援を変える』を2013年に上梓してから、共著や編著は3冊ほど出したが、単著は5年間なかった。次の単著は最初から書き下ろしか単著を目指して書き続けよう、と決めていたので、時間がかかった。でも、その分、オモロイ物語になったのではないか、と自分では感じている。

出来れば多くの方に手にとって頂きたいので、挿画を山福朱美さん、帯文を斎藤環さんにお願いした。どちらも本当に素敵な作品を添えてくださった。ただ、中身を見てからじゃないと購入をためらう人(僕のように)もおられると思うので、今回も序章を「立ち読み」出来るようにしました(出版社了承済み)。立ち読みしてよいと思えば、ご購入くださいませ。

-------------------

三人の主人公

支配的な価値観をひっくり返し、支配-抑圧的な関係性もひっくり返す。半世紀近く前に、これを実際に行った三人を巡る物語を書いてみたい。

ブラジルで、大地主に搾取されていた小作人たちに識字教育をするなかで、『被抑圧者の教育学』を書き上げ、抑圧された側の主体性を取り戻す問題解決型教育の理念を世界中に拡げたパウロ・フレイレ。スウェーデンの知的障害者の入所施設の構造的問題と取り組むなかで、アメリカの「大統領委員会」に招かれ、「ノーマライゼーションの原理」を書き上げ、施設の論理を破壊したベンクト・ニィリエ。精神病院の隔離収容構造そのものを問題視し、「自由こそ治療だ」というスローガンのもとで、イタリア中の精神病院廃絶の法制定の原動力になったフランコ・バザーリア。

一九二一年にブラジルで生まれたフレイレ、一九二四年にスウェーデンで生まれたニィリエ、そして同じく一九二四年にイタリアで生まれたバザーリア。同世代に生まれた三人だが、直接の出会いや交流はないし、思想的に影響を与え合った形跡も見られない。ゆえに、これまでこの三人がセットで語られることはなかった。だが、単に同時代に生まれた人、というだけでなく、実践内容やそれが及ぼした社会への影響力、形成されていく思想や哲学、および生き様をつぶさに眺めていくと、少なからぬ類似性や関連性が見いだされる。

フレイレの『被抑圧者の教育学』が出版されたのが一九六八年。ニィリエの「ノーマライゼーションの原理」が最初に発表されたのが一九六九年。バザーリアはちょうどその頃、ゴリツィアの精神病院で病院の開放化を進め、精神医療改革だけでなく、イタリア学生運動でのリーダー的な存在であった。この一九六〇年代終わりといえば、世界各地でこれまでの支配体制への異議申し立てが行われ、学生を中心とした社会運動が大きなうねりとなった時期である。この時期に四十代後半を迎えた三人は、当時の知識人ではあったが、アンシャンレジーム(旧体制)の守護神として攻撃される側ではなく、抑圧的な教育や、入所施設・精神病院での管理支配といった、当時の社会で「当たり前」とされてきたことに公然と異議を唱え、それ以外の方法論を提示した、ある種の闘志であり社会改革のリーダー的存在であった。であるがゆえに、フレイレは一九六四年に軍事政権に「国際的破壊分子」として捉えられ、以後十数年間は亡命生活を余儀なくされ、ニィリエは一九七〇年に自らが所属していたFUB(知的障害者の親の会)から半ば追放される。バザーリアはゴリツィアの精神病院を一六九八年に去らざるを得なくなる。つまり、三人は当時の既得権益層にとっては、あまりに危険分子であり、放っておけない・追放すべき対象者でもあったのだ。

本書では、三人が何をどのように「ひっくり返した」のか、それはなぜ実現できたのか、を追いかけながら、半世紀後の私たちが彼らの思考と実践のプロセスから学べる現代的課題とは何か、を掘り下げて考えてみたい。

本書の構成

この本は大きく分けて、四つのパートから構成される。第一章から第三章まではバザーリアの精神医療改革を、第四章から第六章まではニィリエのノーマライゼーションの原理生成史を、第七章から第九章まではフレイレ思想の核である対話や意識化を、それぞれ掘り下げていく。第一〇章および終章は、これまでの議論をまとめ上げていく内容になっている。

三人は世界的な著名人であり、『希望の教育学』(フレイレ)、『再考・ノーマライゼーションの原理』(ニィリエ)、『精神病院のない社会をめざして』(バザーリア)、といった自伝的著作も日本語訳されている。また三人の理論や実践については、里見実氏の『パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』(太郎次郎社エディタス)、河東田博氏の『ノーマライゼーション原理とは何か』(現代書館)、大熊一夫氏の『精神病院を捨てたイタリア捨てない日本』(岩波書店)など、日本に紹介した第一人者による解説書も出ている。関連書・論文も沢山刊行されている。では、この本でしようとしているのは、「屋上屋を架す」ような愚行なのだろうか。

そうではない。この本では、ポリフォニー(多声的)であることを目指した。第八章で詳述するオープンダイアローグの考え方の中核に、このポリフォニーというものがある。

ポリフォニー的現実においては、語られている事柄は、新たな会話において新たな意味を得る。語り合っている事柄についての新たな言葉が生まれるのである。語り合っている人たちは、自らの社会的意味や社会的アイデンティティをつくりだしているのである。それらは、文脈が違えば異なったものになるのだ。(セイックラ&アーンキル、二〇一六:一〇九頁)

本書の元になる連載を雑誌「福祉労働」で三年にわたって書き続けるなかで、「新たな会話において新たな意味を得る」場面に何度も遭遇した。三人とも既に故人であり、僕自身は二〇〇四年にニィリエ氏に一度会っただけ、である。ということは、「会話」といっても生身の個人とのリアルな会話ではなく、三人が語った書籍との「会話」である。だが、三人のテキストを何度もなんども読み直すなかで、僕自身の「内なる声」とも繰り返し対話を続けてきた。三人のテキストとの「水平の対話」を重ねる中で、僕自身の中での「垂直の対話」も深まっていった。すでに先達によって何度も論じられてきたテーマに関しても、これまで重ねて論じられることのなかった三人の思想を交錯させることにより、「語り合っている事柄についての新たな言葉が生まれ」てきたのだ、と僕自身は感じている。

そして願わくば、読者のあなたの手元の中で、この本を通じて「新たな意味」が生まれて来るなら、著者としてこれほど嬉しいことはない。三人のことを全く知らない人にとっても、あるいはよく知っている人にとっても、「語り合っている事柄についての新たな言葉が生まれる」ことを願って、本書への誘いとさせていただく。そんな「ポリフォニー的現実」に、ようこそ!