当たり前の牢獄からの脱出

3月2日の土曜日に、阪大の深尾葉子先生と、ジュンク堂難波店で出版記念イベントを行います。ちょっとその宣伝もかねて、深尾論考と僕の本がどんな風につながっているのか、を整理してみたいと思います。

深尾先生の新著は『黄砂の越境マネジメント』(大阪大学出版会)。僕の新著は『当たり前をひっくり返す』(現代書館)。深尾先生は黄砂や植林を巡る人間の思い込みや、それを超えるための黄土高原での営みを描いている。僕の新著では、ニィリエ、バザーリア、フレイレという三人の先達が、入所施設や精神病院、教育現場の「どうせ」「しかたない」を超える実践をした軌跡をたどり直している。一見すると、全く違うテーマが描かれている、ように思える。

だが、深尾先生の著作には、僕の著作と通底する部分がたくさんある。深尾先生の本の内容を抜粋すると、僕の本の内容も説明できる部分がたくさんある。以前のブログで引用した深尾論考からいくつか抜き出してみよう。

「問題を『制御可能』と見なして枠組みを固定してしまうと、あらかじめ予定されていたストーリーに執着し、そのために現実に起きていることから目を背けてしまう」(p247)

これは、精神病院や入所施設でも、共通する話である。これらの施設・病院は、アブノーマルな人(精神病者、障害者)を施設に入れたら「制御可能」と見なし、収容施設で「予定されていたストーリー」に当てはめて、彼ら彼女らを「制御」しようとする。だが、主体性を持った人間は、そのような管理・支配の暴力に命がけで拒否する。そういう場合は「問題行動」「困難事例」とラベルを貼り、隔離や拘束、懲罰的な対応などで、本人の活動を制限しようとする。それは、施設や病院が生み出す構造的暴力という「現実に起きていることから目を背け」た上で、組織的・構造的問題を個人的問題にすり替える論理でもある。

「現実には非線形で複雑なシステムに対して、『調査・計画・実行・評価』という線形的アプローチを適用することは、原理的に不可能であるといってもよく、多くの問題を惹起する」(p248)

教育現場でも、PDCAサイクルは跋扈している。だが、本来は教師と生徒が学び合う中で、新たな学びが創発されるはずで、教育も非線形で複雑なシステムなのにもかかわらず、それを「線形的アプローチ」だと誤解する。だからこそ、教師は一方的に知っていて、生徒は何も知らないから黙って聞けば良い、という一方通行の銀行型教育が幅を利かせる。これは、「原理的には不可能」なシステムを人間に無理矢理押しつけているので、「多くの問題を惹起する」。不登校やいじめの問題も、このあたりに大きく関連していると、僕は思う。

「人為的要因と自然的要因が複雑に相互作用し、非線形性によって支配される複雑な現象を理解するには、あらかじめ『フレーム』によって対象と『時間』を区切り、限定された因果関係で理解しようとする手法は、大きな齟齬をもたらす」(p294)

最近つくづく思うのだが、精神症状と言われるものも、「線形性によって支配される複雑な現象」である。薬物療法が作用するのは、生理的・身体的な部分だけであり、眠れたり、極度の落ち込みや躁状態などの「急性症状」を和らげることは可能かもしれないが、その人が不眠や躁鬱、解離やPTSDに陥るきっかけとなった「人為的要因」(ハラスメントを受けた、いじめられた、家族関係が機能不全を起こしていた、耐えがたい経験に遭遇した・・・)を薬物療法で消し去ることはできない。つまり、精神症状とは「非線形性によって支配される複雑な現象」なのである。これを、現在の精神医療では「あらかじめ『フレーム』によって対象と『時間』を区切り、限定された因果関係で理解しようとする手法」で対応しようとしているが、それではうまくいかない。

一方、僕が最近ずっと追いかけているオープンダイアローグ(OD)や未来語りのダイアローグ(AD)では、「人為的要因と自然的要因が複雑に相互作用し、非線形性によって支配される複雑な現象」を、区切ったり切り分けようとはしない。むしろその「複雑な現象」を「限定された因果関係で理解しようとする」ことをやめて、原因-結果論から自由になって、「不確実性に耐えながら」、本人や家族、本人が関わって欲しい関係者や支援者が、お互いしっかり相手の話を聴き、自分の話を聴いてもらう経験をする中で、「複雑」な「相互作用」を捉え直し、紡ぎ直していく、そういう「非線形性」を帯びたダイアローグなのである。それは、深尾先生が黄土高原の村で観察した事と、似ている。

「村において観察可能であったのは、村人同士が各々個別に展開する労働交換や情報の交換によって形成される『関係』のネットワークのみで、それは常に変化し、形を変えて存在し続ける。そこから抽出できるのは、構造そのものではなく、構造化のダイナミクスであり、動的なモデルであった。」(p291)

ODやADでは、「『関係』のネットワーク」にこそ、働きかけようとする。それは「構造そのものではなく、構造化のダイナミクスであり、動的なモデル」であるがゆえに、そのダイナミックスに働きかけることにより、悪循環構造は、好循環構造へと、構造化を変える、という「動的なモデル」でもある。そこに働きかけることで、絶対に変わらないと思っていた家族関係や支援関係の固着化が、揺れ動きはじめるのである。それは、狭い因果モデルや線形性モデルを手放すからこそ、見えてくる世界でもある。

そこで、大切になるのが、アウトフレームである。

「『フレーミング』を取り外すということは、非線形的な語りの中では、常に線形的因果関係の背後に広がる非線形的な『縁起』に思いをはせるということであり、それこそが本書で『アウトフレーミング』と称する動作である。既存の『フレーム』を相対化し、『フレーム』の外部にあって、実は重要な役割を担いうるものを認識の中に取り込むこと、既知の世界で合理的であると考えられる事柄を常に相対視し、不合理であるとされていることを自己の行動や視野の中に取り込んでゆくこと、それが『アウトフレーム(フレームを凌駕)』することである。すなわちアウトフレームというのは、フレームを超えようとするプロセスそのものを指している。」(p310)

精神病者や知的障害者、小作人などは「ちゃんとしていない人」「馬鹿な人」だと排除され、精神病院や入所施設に入れられたり、あるいは地主から搾取されるがままになっていた。これは、線形的因果関係に収まらない存在を、構造的に排除することを「当たり前」とする世界である。いったん、そういう「当たり前」が定まると、差異の排除はドライブがかかる。いじめでもわかりやすいように、ちょっとでもマジョリティとは違う人・平均から逸脱している人が、ドンドン見つけられ、排除されていく。この20年で「発達障害」とラベルを貼られた子どもが急増しているのも、この理屈があるように思う。それは「合理的」と呼ばれる社会の枠組みが、第三次産業化が進む中で、ますます高度化し、狭隘なものになっていくプロセスでもある。そして、今の学校空間はますます息苦しいものになり、グローバリゼーションが進展した21世紀なのに、日本の多くの社会的空間では、同調圧力はものすごく強くなっている。

そこで、そのようなしんどい空間から抜け出すために必要不可欠なこと。それが、「線形的因果関係の背後に広がる非線形的な『縁起』に思いをはせるということであり」、深尾先生はそれに『アウトフレーミング』と名付けた。これは、僕の『枠組み外し』の視点と、通底した視点である。つまり、「当たり前」の日常世界を、「しかたない」と思わずに、「牢獄」と捉え直した(=アウトフレームした)上で、そこからどう脱出するか、を僕も深尾先生も、別のフィールドで考え続けてきたのである。

「非線形的な『縁起』」とは、僕の領域でいえば、ダイアローグによる創発や相互変容のことを指す。意図して相手を変えてやろう、という線形的な因果モデルを捨て、相手と私が「いま・ここ」で、どうなるかわからない「不確実」な物語を共有するなかで、自分が思いも寄らない声も聴く事により、その場に色々な意見が渦巻くポリフォニーが産まれる。相手を説得しようというモードではなく、お互いが自分の話を聴いてもらい、相手の話を聴く中で、自然とその声がストンと腑に落ち、何らかの納得が産まれる。そこから、相互変容が生じ、何かを変えようとする意図がないのに、勝手に場面や局面がかわっていく。これこそがまさに、「非線形的な『縁起』」のなせる技なのかもしれない。

という感じで、深尾先生の洞察を元にすると、僕自身が考えていることも、スルスルと言語化できる。それほどこの二冊は、意図していないのに共鳴し合う、という不思議な接点を持っている。それを、深尾先生と僕が、互いの本についてインタビューし合う中から、その場での共鳴する何かを探り当てていこう。それが、3月2日の大きな目的である。僕自身も、当日どんなポリフォニーが産まれるか、めちゃ楽しみにしている。会場のキャパはまだ空いているようですので、良かったら生でこの「アウトフレーム」を体感してみませんか?

会場でお目にかかるのを楽しみにしています。