魔女狩りと資本主義

風邪をどっぷりひいた。一度治りかけて、さらにぶり返して、10日ほどかけて、冬の毒素を出し切ったようだ。で、こういうときにしか、読めない本もある。こないだジュンク堂難波店でイベントをしたのだが、その際に表紙が飾られていて、「おいで、おいで!」してくれていた大著。ヨーロッパの魔女狩りと資本主義の誕生の関連性を見事に描く一冊だった。

「ちょうど囲い込みが農民から共有地を奪ったのと同じように、魔女狩りは女性からその身体を奪ったのである。こうして女性の身体は、それが労働力を生産するための機械として機能することを拒むいかなる障害からも『解放された』。火刑の恐怖は、共有地の周りに巡らされたどんな柵よりも手ごわい障壁を女性の身体の周りに築いたたのだ。(略) 魔女狩りは、女性が生殖の管理に用いてきた方法を悪魔的手段と断罪することを通じて破壊し、女性の身体を労働力の再生産へ従属させる前提条件として、それを国家の管理下におくことを制度化したのは間違いない。」(シルヴィア・フェデリーチ『キャリバンと魔女』以文社、p296-297)

前提として、共有地があった時代、小作農はその後の農民に比べて豊かだったという。農民達は協力して、領主にも対抗していた。で、中世以前の農民は、ワインを飲んだり肉を食べたり、栄養状態も中世よりも豊かだだったという。だが資本主義化が進む16世紀に共有地が「囲い込み」をされ、土地の私有化と個人の労働契約が進む中で、農民の間での連帯や協働が廃れ、社会的結束も瓦解していく (p114)。

農民の「共有地」を奪った後、支配層がターゲットにしたのは、女性であった。男性支配の教会主義論理に抗して、売春や避妊など、性的な管理を自らで行っていた女性達。そして、そういう女性を薬草(ハーブ)などを用いてサポートした助産師という女性ネットワーク。こういう存在は、神の代理人としてすべての存在を支配したい聖職者にとって、最大の目の上のこぶ、であった。このようなアンコントローラブルな女性を「魔女」とラベリングすることによって、「女性が生殖の管理に用いてきた方法を悪魔的手段と断罪することを通じて破壊し、女性の身体を労働力の再生産へ従属させる前提条件」が出来てきたのである。そのおかげで、次のような帰結に至る。

「女性が賃金労働者としてこうむってきた差別は、家庭内で担わされてきた不払い労働者という役割に直接起因するということを理解できるよりよい位置にいる。したがって、売春の禁止、そして組織化された職場からの女性の締め出しを、主婦の誕生、そして労働力再生産の中心地点としての家族の再構成に関連付けることができる」(p160)

女性が農業や売春など、自らの労働の対価を得る仕事に就くことを禁じる。そのタブーを破ったもものは魔女として火炙りにすることにより、その規範を強制する。これが、労働力再生産を無償で行う「専業主婦」誕生の背景にあった。さらに、女性を賃労働から閉め出し、主婦にしかなれない状況に構造的に追い込むことによって、家父長制を実現し、「労働力再生産の中心地点としての家族の再構成」を実現するに至るのである。「魔女」として排除されたのは、「不払い労働」や「労働力を生産するための機械として機能することを拒む」自律・自立的な女性であった。

「魔女狩りは女性に対する戦争であった。女性を格下げし、悪魔化し、そしてその社会的な力を破滅させるために一致して企図された戦いであった。それと同時に、魔女が命を落とした拷問部屋と火刑台で、ブルジョアジーが理想とする女らしさと家庭生活がねつ造された。」(p299−300)

従順な女性、という「ブルジョアジーが理想とする女らしさ」は、火刑台や拷問部屋いう物理的・精神的暴力の行使を伴って、「再構成」された。女性が「魔女狩り」という「女性を格下げし、悪魔化し、そしてその社会的な力を破滅させるために一致して企図された戦い」に破られて、男性支配の論理し馴致させられていくのが、魔女狩りプロセスそのもの、だったのである。

「魔女狩りの煽動においてより重要だったのは、中世末期にヨーロッパのエリート達が描いた、彼らの政治的・経済的な力を脅かしつつあったひとつの存在様式全体を根絶せねばならないという欲求であった。この課題が達成されると−社会的規律が取り戻され、支配階級がそのヘゲモニーが確かなものになったと知ると−魔女裁判は幕を閉じた。魔女魔術を信じることは、むしろ嘲笑の対象隣、迷信と非難され、まもなく記憶から追い出された。」(p332)

「一つの存在様式を根絶せねばならないという欲求」。これは、後の章で植民地支配のために「インディアン」をはじめとした先住民を「根絶」したプロセスと全く同じであると筆者は主張する。つまりヨーロッパ人は、中世で自立的女性という「一つの存在様式」を「魔女狩り」を通じて「根絶」することに成功した後に、植民地支配によって、アフリカやアメリカにおいて同じように別の「存在様式を根絶」するプロセスを、聖職者を用いて続けてきたのである。植民地支配のプロセスは、女性支配のプロセスから始まっている、というのを様々な文献を積み重ねながら整理していったのだが本書の刮目に値する主張であり、マルクスやフーコーは主題化出来なかったテーマである、と筆者はまとめている。

ちなみに、シェイクスピアの『嵐(テンペスト)』の登場人物でもあるキャリバンに込めた意味を、著者はこんな風に書いている。

「ここでのキャリバンは、私の解釈では、植民地主義に抗する反逆者−その闘争はいまなお現代のカリブ海文学に反響している−を表象しているだけでなく、世界のプロレタリアートの象徴であり、さらに厳密に言えば、資本主義の論理に対する抵抗の領域・手段としてのプロレタリアートの身体の象徴である。もっとも重要なことは、『嵐(テンペスト)』では後景に退けられていた魔女の姿が、本書では資本主義が破壊しなければならなかった女性の主体−異端者、治癒者、反抗的な妻、一人で生きることを貫こうとした女性、主人の食物に毒を入れ奴隷に蜂起をそそのかした呪術使いの女性−の世界の体現者として、舞台の中央におかれていることである。」(p12-13)

資本主義の論理に対する抵抗の象徴としての「キャリバンと魔女」。資本主義が魔女狩りを通じてその存在様式を根絶したかったのは、「異端者、治癒者、反抗的な妻、一人で生きることを貫こうとした女性、主人の食物に毒を入れ奴隷に蜂起をそそのかした呪術使いの女性」といった、自律的で主体的な生活者だった。これはまさに家父長制が作り上げられる中での、魂の植民地化プロセスを描いた名著でもある。そして、男も女も嵌入している、この魂の植民地化プロセスからどうすれば脱出することができるのか。そういう重要な問いを残してくれる一冊でもある。

追記:この本には中世のたくさんの絵画が挿入されている。象徴としての女性がどのように描かれているかの変遷を見る中で、男性の女性嫌悪(ミソジニー)が実に象徴的に描かれていることもわかり、当時の絵画の果たした啓蒙的役割を重ね合わせると、絵を見ているだけでも、色々なことを想起させてくれて、「お得」な一冊でもある。

型破りな「入門」書

三井さよさんからご恵贈頂いた『はじめてのケア論』(有斐閣)を読む。はじめに「本書は、すでにわかっていることを整理した『教科書』というよりも、『これからを考えるための材料』を私なりに用意したものになっている」(pⅱ)と書かれていたが、「はじめての」と題した本で、ここまで型破りに突き進むとは、良い意味で思っていなかった。

読みやすい文体なのだが、後に進めば進むほど、その問題を「はじめての」で遡上に載せるんだ!とびっくりする話題もどんどん提供していく。そして、三井さん自身は、なるべく落ち着いたトーンで書くのだが、ご自身のモヤモヤをしっかり言語化されていて、それが本書を貫く基調にもなっている。例えばちょっと長いけど、このエピソードが一番象徴的に僕には感じられた。

「あるとき私は、知的障害の人と一緒に行動していたのだが、その人がふいに店に入って商品を壊してしまった。同じようなことはそれまでにも何度かあり、それまでに出会ってきた店員は、慌てふためいて止めたり、『買ってからにしよう』と説得したりする私を見て、本人に対して『そうだよ買ったらいいんだよ』と言ってくれることが多かった。だがその日の店員は違っていて、『金を払えばいいって問題じゃないんだよ』と吐き捨てるようにいった。私は真っ赤になってしまい、ペコペコと謝りながら店を出たのだが、あとから考えると、もっと違う態度があったはずではないかと思う。まともにいいかえしてしまっては今後の本人の生活が立ち行かなくなってしまうかもしれないが、少なくとも私はそのとき、その場に商品を壊した本人がいることを意識できていなかった。本人がどう感じて、どう思っていたのか、という視点をまったく失っており、ただ自分の失敗を謝っていただけだった。結果的には、私もまたあのとき、あの人への排除に加担していたのではないかと思う。」(p200-201)

目に浮かぶ光景である。そして、僕が三井さんだったらどうするだろう、とすごく考えさせられるエピソードである。店の商品を壊す、しかも一度ではなく何度も。そのとき、慌てて謝る一方で、それを許してくれる店員に救われるであろう自分もいる。そんな中で、「『金を払えばいいって問題じゃないんだよ』と吐き捨てるように」言われたら、僕なら、どうするだろう。真っ赤になるほど怒りながらも、真っ赤になるほど自分を恥じ入ったり・なんとかせねばと必死になって、「すいませんすいません」と「ペコペコ謝りながら店を出」てはいかなっただろうか。後付け的には「もっと違う態度」はいくらでも考えられる。でも、その場で、店員に「おまえ(たち)が悪い」となじられて、実際自分のサポートが足りないという「罪悪感」を少しでも抱いていながら、にもかかわらず、そんなとっさの場面で僕は「その場に商品を壊した本人がいることを意識」出来ただろうか。そう思うと、僕だって「あの人への排除に加担していた」可能性がある。そんなことを気づかされるのである。

そして、三井さんはこのエピソードの後に、「ベースの支援では、こうしたことが繰り返し生じる」と述べている。「専門職のケア(professional care)の『前』と『後』には、生活や日常そのものに内包した支援やケアが必要」(p39)であり、それを「ベースの支援(basic support)」と三井さんは呼んでいる。そして、彼女のケア論の真骨頂は、この「ベースの支援」という屋台骨で、排除/包摂を論じている点である。その特徴を、p57に載せた図に基づきながら、一部抜き出して整理してみる。

「専門職のケア」(前者)は、「危機的事態に際しての介入、または特定のトピックでの介入」である一方、「ベースの支援」(後者)は「利用者の日常生活の中に埋め込まれたかかわり」である。前者では、「失敗」も多いが、「成功」もある一方、後者は「失敗」が多く「成功」を感じることは少ない。前者は一般的・普遍的な知識・技術がメインなので事前教育が重要だが、後者では個別の利用者とかかわりをもってきた時間そのものが重要なのでOJTが重要、という。

これを先ほどの事例に当てはめたら、どんなことが言えるだろうか。この事例も、結果的にはある種の危機ではあるが、「ふいに店にはい」った時のエピソードは、危機介入というよりも、利用者の日常生活の中にうめこまれた事例であり、事実その商品を壊したのは初めてではないということは、まさに「埋め込まれたかかわり」である。そのとき、どのように対応すべきかは「一般的・普遍的な知識・技術」で対応は不可能である。あくまでも、その利用者とお店の関係性や支援者と利用者の「かかわってきた時間」のなかで、どうしたらよいか、を考える術が求められてくる。そして、専門職介入による「成功」よりも、このような後味の悪い「失敗」に至ることも、決して少なくない。だが、三井さんはこの「ベースの支援」における「失敗」にこそ、価値がある、という。

「本当は『失敗』を『失敗』として認知できるというだけでも、そのケア従事者や利用者の相互行為は、すでにある程度『うまく』つながっているともいえる。相手の意思をまったく受け止めていなければ、自らのふるまいがそれに対して応えていないことに気づくこともできないからである。その意味ではここでいう『失敗』とは、ケア従事者と利用者が主観的に感じ取る経験というレベルの『失敗』にすぎない。」(p67)

三井さんは、上記のエピソードを通じて、「結果的には、私もまたあのとき、あの人への排除に加担していたのではないかと思う」と率直に語っている。これは、その利用者のそばにいた三井さんが「主観的に感じ取る経験というレベルの『失敗』」である。だが、彼女自身の言葉で整理し直すなら、「排除に加担していたのではないか」という「失敗」への気づきとは、「『失敗』を『失敗』として認知できるというだけでも、そのケア従事者や利用者の相互行為は、すでにある程度『うまく』つながっているともいえる」のである。このエピソードを通じて、「自らのふるまいがそれ(=相手の意思)に対して応えていないことに気づくこと」が出来たということから、結果的に三井さん自身が「相手の意思」を「受け止め」る努力を重ねてきたことが、僕たちにも理解できる。

つまり、これは「はじめに」でも述べられているが、多摩市を中心として知的障害者の自立生活を支援している「たこの木クラブ」の活動に10年以上関わってこられた社会学者の三井さんが、客観的な外部の研究者というより、その世界に入り込んで、フィールドワーク的に現場経験を積み重ねる中で、ご自身も「ベースの支援」の視点を体得する中で、気づいてこられたことを言語化された、ある種のフィールドワークの成果でもあるのだ。だからこそ、彼女の語るケア論は、理論的な前提をしっかり踏まえているにもかかわらず、必要最低限の理論しか出てこない。むしろ、「ベースの支援」に携わる人の中に一定数おられる「あまり本を読むのは得意ではない」「でも良い仕事をしている・現場でモヤモヤしている」人にも届けようという思いが詰まっている。だからこそ、読みやすい。だからこそ、色々なところで、「自分だったらどうだろう?」という考えるきっかけがちりばめられている。そして、三井さんは「こうすればよい」という「唯一の正解」を本書では示さない。それが、「教科書」を書かないという彼女の宣言であり、でも「はじめてのケア論」をひもとく一冊としては最適でもある、のである。

三井さんは、このような「ベースの支援」における「失敗」を通じて見えてくるケアの課題を、一筋縄ではいかない排除/包摂の議論を丁寧に重ね合わせながら論じていく。その圧巻は、学校教育現場における「特別支援学校/特別支援学級」における排除/包摂の論じ方である(5章)。その子に応じた形での発達を保証するために「支援学校・学級」が必要だという「発達保障派」の考え方と、障害を持つ子どもは他の子どもと「同じ」という前提に立って通常学級での教育を保障すべきとする「共生教育派」の論理を丁寧に辿った上で、「本人のため」と「私たちのひとりとみなすかどうか」(p149)という視点から、「本人のため」という論理は「障害児のことだけを考える論理」である一方、「私たちの一部とみなすかどうあという問題」は、障害児だけでなく、「私たちが私たちをどうみなすかという社会全体の問題なのである」と問いかけている(p150)。その上で、こうも述べる。

「社会学で排除が議論される際には、包摂のありようこそが排除経験を生むということが繰り返し指摘されている。」(p155)

障害のある子にも発達の機会を保障する、という「包摂のありよう」こそが「特別支援学校・学級」への「排除経験を生む」可能性はないか。これは入所施設や精神科病院への社会的入所・入院という「包摂のありようこそが排除経験を生む」というロジックとも同じである。だがその上で、第三者が「安易に質の上下や線引き」をする発想自体が「意味理解の多様性を極度に制限」する可能性もある、とも指摘している(p170)。このあたりの整理はスリリングで、実に福祉社会学的な視点も入っている。そのうえで、両論併記では終わらさず、その後には三井さんのスタンスもしっかり表明されている。が、これを書くとオチなので、それは本書を当たって欲しい。

というわけで、価値論争的な内容も「はじめての」に盛り込んでしまいながら、ケア現場のモヤモヤを中央において、「ベースの支援」を掘り下げ、排除/包摂の視点で、新たな可能性を探る。そういう意味では、『これからを考えるための材料』がてんこ盛りで、ケアに興味がある人向けの入門書としても読みやすくて優れているし、ケアに従事している人、あるいはケアに関わる研究をしている人にとっても、発見や学びの多い一冊である。そういう意味で、ほんまに「教科書」からはかけ離れた、優れた「型破り」の「はじめて」本でおすすめの一冊です。

隣人としての<ヤンチャな子ら>

『<ヤンチャな子ら>のエスのグラフィー』(知念渉著、青弓社)を読み終えた。博論の単行本化で、理論的な押さえもしっかりしていて、エスノグラフィーとしても面白いし、対象も興味くて、何より読みやすい。ゆえに、刊行前から話題で、僕が手に取ったのは初版から1ヶ月後の二刷りである。学術書としては、極めて売れ行きのよい、注目の一冊である。(ちなみに僕の本は5,6年かけてやっと二刷りになった・・・)

でも、そういう下馬評ではなく、読んでみて感じた実感は、「そうそう、この世界、わかる、わかる」という感覚である。30年前の、自分の中学校時代に出会っていた<ヤンチャな子ら>の世界観と地続きの世界が、見事に生き生きと表現されている。そう、僕にとっての隣人としての彼ら彼女らが、この本の中にいたのである。その上で、僕が知らなかった隣人の生活史や内在的論理を描いているのが、僕がこの本の世界に引き込まれた最大の理由である。

以前、『ヒルビリーエレジー』と『CHAVS』を読んだ感想として「階級格差の自覚化」というブログを書いた。この中で詳しく述べたが、僕自身も、京都のダウンタウンで生まれ育ち、中学校には<ヤンチャな子ら>が隣人だった。僕はたまたま猛烈学習塾に通って夜中まで勉強していたので、学校では昼寝ばかりしていた。そういう部分が<ヤンチャな子ら>と同じだったのと、学校の勉強は一応出来たので、そういう<ヤンチャな子ら>に勉強を教えてもいて、彼ら彼女らとクラスでは友好な関係を結んでいた。だからこそ、この本を読みながら、何人ものクラスメイトの顔が浮かんだのだ。

その上で、既存のヤンキー研究とこの本の決定的な違いは、「フィールド調査から見いだされたヤンキー集団の内部の階層性や複数制、そしてそこに社会空間の力学が作用している」(p221)という点をあぶり出している部分だ。<ヤンチャな子ら>は一枚岩ではなく、彼ら彼女らの中にも、「家族関係を土台にした、友人も含めた地元に包摂されているか否か」(p207)で、「社会的亀裂」がそもそも内部に存在しており、それが学校中退/卒業後の移行期により明確になる(p208)という。そう言われてみれば、中学校時代の<ヤンチャな子ら>の中でも、親のお商売を引き継ぐなどの形で「見通しが持てる経路」(p203)をたどった人もいれば、そういう「相続資本」がなくて、場当たり的な「即興的な関係性」しか築けず、「見通しをもつのが難しい仕事」についていった、と人づてに聞いたこもある。そして、そういう「社会空間の力学が作用している」と言われたらら、確かに思い当たる節が一杯あるのだ。

だからこそ、筆者がたどることが出来た一四人の<ヤンチャな子ら>の高校中退/卒業後の「移行パターン」の一覧表(p176-177)を見ていると、僕の中学の同級生がたどったであろう「移行パターン」を見せられているようで、圧巻であった。ペンキ屋やホスト、車屋など転々と職業を変える人がいる一方で、若くしてパートナーの妊娠が発覚して手堅い仕事につく人もいれば、住み込みで働くも挫折してその後歯車が狂う人もいる。これらの一覧表を見ながら、僕の「隣人」たちもたどったかもしれない生活史が浮かび上がってくるような、そんな不思議な読書体験をしたのだ。

その上で、結語に印象的なメッセージが書かれていた。

「インターネット上には、彼ら彼女らを『DQN』と呼んで、嘲笑・攻撃・侮蔑する語りがあふれている。しかし、それほど社会が饒舌に語るヤンキーについてだからこそ、彼ら彼女らのリアリティをきんと描き出すことができれば、それは『その立場にいたら自分もそういう行動をしたかもしれない、そういう選択をしたかもしれない』という、人々の他者への想像力もかき立てることもできるはずだ。」(p239)

僕がまさしくこの本を感じたのは、よくわからなかった・何気なくクラスでやりとしていた隣人という「他者への想像力もかき立てる」ということ、そのものだった。そして、それは理解社会学とは何か、ということについての、岸さんの語りも想起させる。

「他者の合理性を再記述する、つまり、行為の合理性を理解するとどうなるか。その帰結はいろいろあると思いますが、そのひとつは、行為責任の解除です。「そういう状況なら、そういうことするのも仕方ないな」というのが理解でしょう。」(「インタビュー 社会学の目的 岸政彦」

いみじくも、二人はほとんど同じ事を言っている。知念さんの文脈に引き戻すなら、<ヤンチャな子ら>という「他者の合理性を再記述する」ことで、「そういう状況なら、そういうことするのも仕方ないな」という<ヤンチャな子ら>の内在的論理を「理解」することができる。そういう意味で、この本はまさに理解社会学的な内容としての王道を行く一冊でもあるのだ。そして、僕はこの本を通じて、中学時代の隣人のうちの何人かの、虐待や貧困といった「しんどい家庭環境」や、学校から仕事への移行期での混乱や苦悩を、リアリティを持って想像することができた。そして、福祉領域に関わる一人として、そういう<ヤンチャな子ら>の内在的論理を「理解」することなく、「支援が必要な存在」「家族機能は不全な存在」などと外形的に決めつけることがもっとも危険である、と改めて確認し直した一冊でもあった。

職業的研究者として勉強になっただけでなく、自分自身の隣人を見つめ直すきっかけにもなった一冊だった。

立岩連峰初心者の踏破記録

昨年末に共同通信から依頼されて、立岩真也さんの新著『不如意の身体』の書評を引き受けた。年末年始の休みの間に読めば良いと思っていたのだが、読み始めたら、まあ手強い内容。立岩さんは実に論理的な文章を書くのだが、その森に深く分け入るような論理展開についてくのは、そう簡単ではない。僕の研究室には、途中で挫折した本も何冊もあるし、そうなりそうで「積ん読」の本もある。今回も、確かに簡単な本ではない。さてどうしたものだろう。

そう思った時に、掲載されるメディアである地方紙の読者を思い浮かべた。読書欄は気にしていたり、あるいは本屋にはたまに出かけて、立岩さんの名前は知っている。でも、きっと僕と同じで、最後まで読み終えられなかったり、難しそう、とそっと書棚に戻したり、買ったけれども積ん読のままの人だったり、そもそも手に取らない人も多いのかもしれない。

そうか、立岩さんの本の内容とがっぷり対峙した評論を書く必要もないし、そういう分量もないし、そもそもそれが求められてている媒体ではないのだ。しかも、立岩さんの本をすっと読める人は、僕の書評など見なくても、すでに買い求めているはずだ。であれば、僕の仕事は、気になるけど手に取ったことがない・買うのを逡巡している人に、この本を手に取ってもらうための紹介文を書けばよいのだ。それなら、僕でも書けるかもしれない。そう開き直った。

で、不思議なもので、開き直ってみたら、スルスルと文章が出てきて、読むのは時間がかかったのに、数時間で書き終えることができた。そして、上記の戦略が功を奏したのか、琉球新報の1月13日版をはじめ、多くの地方紙で1月中旬に掲載されたようだ。

というわけで、少し時間がたったのだけれど、その文章を転載しておきます。


能力主義への大胆な抵抗

本書の主張は極めてシンプルだ。病や障害と共にある社会において、なおすこと、できるようになることが、無条件で良いとは言えない。できる・できないに関わりなく生活ができるようにするとよい。本当はあなたができなくてもたいして困りはしない。何がどのように要るのかを考えるのが規範理論としての社会科学の仕事だ。

立岩はこのことを、できない・なおらない存在である障害者運動との出会いを通じて考え続けてきた。能力主義によって一元的に序列化される社会、なおらないなら安楽死をも肯定されうる社会への強烈な異議申し立てを行い、できなくても、なおらなくても、他者がおぎなうことで暮らせたらそれでよいではないか。そう訴えかける。

彼は極めて論理的にものを考え、著述している。だが、その論理は複雑に入り組み、ウネウネと蛇行し、丁寧に読み込まないと途中で遭難しそうになる。本書に限らず、独特の文体の膨大な著作が「立岩連峰」のようにそびえ立つ。評者は何冊も彼の著作にアタックしては、挫折した苦い経験を持つ。だが今回の著作は、やっと読(踏)破できた。

評者のような「立岩連峰」初心者・落伍者には、第Ⅲ部から読み始めるのをお勧めする。彼が他の編者の依頼を受けて書いた文章ゆえに、立岩の中心的主張がギュッと詰まっている。冒頭の要約もそこから拾ってきた。

立岩はなおる・できる=善いこと、という等式に丁寧かつ大胆に抗う。その等式を信奉する側の数多の反論や批判と真正面から対峙して議論を進める。自ずと言及すべき論点は増える。彼が既に検討した内容も、親切にそれを提示しながら辿る。立岩流の意を尽くした文体は、それ故、一般読者には不如意な文体に映る。

だがこの構造を頭に入れた上で本書を読み進めると、立岩が何に怒り、何を伝えたくて、本書を書き上げたのか、を真っ直ぐ受け取ることが出来る。時間をかけて、再度読破したい山である。