型破りな「入門」書

三井さよさんからご恵贈頂いた『はじめてのケア論』(有斐閣)を読む。はじめに「本書は、すでにわかっていることを整理した『教科書』というよりも、『これからを考えるための材料』を私なりに用意したものになっている」(pⅱ)と書かれていたが、「はじめての」と題した本で、ここまで型破りに突き進むとは、良い意味で思っていなかった。

読みやすい文体なのだが、後に進めば進むほど、その問題を「はじめての」で遡上に載せるんだ!とびっくりする話題もどんどん提供していく。そして、三井さん自身は、なるべく落ち着いたトーンで書くのだが、ご自身のモヤモヤをしっかり言語化されていて、それが本書を貫く基調にもなっている。例えばちょっと長いけど、このエピソードが一番象徴的に僕には感じられた。

「あるとき私は、知的障害の人と一緒に行動していたのだが、その人がふいに店に入って商品を壊してしまった。同じようなことはそれまでにも何度かあり、それまでに出会ってきた店員は、慌てふためいて止めたり、『買ってからにしよう』と説得したりする私を見て、本人に対して『そうだよ買ったらいいんだよ』と言ってくれることが多かった。だがその日の店員は違っていて、『金を払えばいいって問題じゃないんだよ』と吐き捨てるようにいった。私は真っ赤になってしまい、ペコペコと謝りながら店を出たのだが、あとから考えると、もっと違う態度があったはずではないかと思う。まともにいいかえしてしまっては今後の本人の生活が立ち行かなくなってしまうかもしれないが、少なくとも私はそのとき、その場に商品を壊した本人がいることを意識できていなかった。本人がどう感じて、どう思っていたのか、という視点をまったく失っており、ただ自分の失敗を謝っていただけだった。結果的には、私もまたあのとき、あの人への排除に加担していたのではないかと思う。」(p200-201)

目に浮かぶ光景である。そして、僕が三井さんだったらどうするだろう、とすごく考えさせられるエピソードである。店の商品を壊す、しかも一度ではなく何度も。そのとき、慌てて謝る一方で、それを許してくれる店員に救われるであろう自分もいる。そんな中で、「『金を払えばいいって問題じゃないんだよ』と吐き捨てるように」言われたら、僕なら、どうするだろう。真っ赤になるほど怒りながらも、真っ赤になるほど自分を恥じ入ったり・なんとかせねばと必死になって、「すいませんすいません」と「ペコペコ謝りながら店を出」てはいかなっただろうか。後付け的には「もっと違う態度」はいくらでも考えられる。でも、その場で、店員に「おまえ(たち)が悪い」となじられて、実際自分のサポートが足りないという「罪悪感」を少しでも抱いていながら、にもかかわらず、そんなとっさの場面で僕は「その場に商品を壊した本人がいることを意識」出来ただろうか。そう思うと、僕だって「あの人への排除に加担していた」可能性がある。そんなことを気づかされるのである。

そして、三井さんはこのエピソードの後に、「ベースの支援では、こうしたことが繰り返し生じる」と述べている。「専門職のケア(professional care)の『前』と『後』には、生活や日常そのものに内包した支援やケアが必要」(p39)であり、それを「ベースの支援(basic support)」と三井さんは呼んでいる。そして、彼女のケア論の真骨頂は、この「ベースの支援」という屋台骨で、排除/包摂を論じている点である。その特徴を、p57に載せた図に基づきながら、一部抜き出して整理してみる。

「専門職のケア」(前者)は、「危機的事態に際しての介入、または特定のトピックでの介入」である一方、「ベースの支援」(後者)は「利用者の日常生活の中に埋め込まれたかかわり」である。前者では、「失敗」も多いが、「成功」もある一方、後者は「失敗」が多く「成功」を感じることは少ない。前者は一般的・普遍的な知識・技術がメインなので事前教育が重要だが、後者では個別の利用者とかかわりをもってきた時間そのものが重要なのでOJTが重要、という。

これを先ほどの事例に当てはめたら、どんなことが言えるだろうか。この事例も、結果的にはある種の危機ではあるが、「ふいに店にはい」った時のエピソードは、危機介入というよりも、利用者の日常生活の中にうめこまれた事例であり、事実その商品を壊したのは初めてではないということは、まさに「埋め込まれたかかわり」である。そのとき、どのように対応すべきかは「一般的・普遍的な知識・技術」で対応は不可能である。あくまでも、その利用者とお店の関係性や支援者と利用者の「かかわってきた時間」のなかで、どうしたらよいか、を考える術が求められてくる。そして、専門職介入による「成功」よりも、このような後味の悪い「失敗」に至ることも、決して少なくない。だが、三井さんはこの「ベースの支援」における「失敗」にこそ、価値がある、という。

「本当は『失敗』を『失敗』として認知できるというだけでも、そのケア従事者や利用者の相互行為は、すでにある程度『うまく』つながっているともいえる。相手の意思をまったく受け止めていなければ、自らのふるまいがそれに対して応えていないことに気づくこともできないからである。その意味ではここでいう『失敗』とは、ケア従事者と利用者が主観的に感じ取る経験というレベルの『失敗』にすぎない。」(p67)

三井さんは、上記のエピソードを通じて、「結果的には、私もまたあのとき、あの人への排除に加担していたのではないかと思う」と率直に語っている。これは、その利用者のそばにいた三井さんが「主観的に感じ取る経験というレベルの『失敗』」である。だが、彼女自身の言葉で整理し直すなら、「排除に加担していたのではないか」という「失敗」への気づきとは、「『失敗』を『失敗』として認知できるというだけでも、そのケア従事者や利用者の相互行為は、すでにある程度『うまく』つながっているともいえる」のである。このエピソードを通じて、「自らのふるまいがそれ(=相手の意思)に対して応えていないことに気づくこと」が出来たということから、結果的に三井さん自身が「相手の意思」を「受け止め」る努力を重ねてきたことが、僕たちにも理解できる。

つまり、これは「はじめに」でも述べられているが、多摩市を中心として知的障害者の自立生活を支援している「たこの木クラブ」の活動に10年以上関わってこられた社会学者の三井さんが、客観的な外部の研究者というより、その世界に入り込んで、フィールドワーク的に現場経験を積み重ねる中で、ご自身も「ベースの支援」の視点を体得する中で、気づいてこられたことを言語化された、ある種のフィールドワークの成果でもあるのだ。だからこそ、彼女の語るケア論は、理論的な前提をしっかり踏まえているにもかかわらず、必要最低限の理論しか出てこない。むしろ、「ベースの支援」に携わる人の中に一定数おられる「あまり本を読むのは得意ではない」「でも良い仕事をしている・現場でモヤモヤしている」人にも届けようという思いが詰まっている。だからこそ、読みやすい。だからこそ、色々なところで、「自分だったらどうだろう?」という考えるきっかけがちりばめられている。そして、三井さんは「こうすればよい」という「唯一の正解」を本書では示さない。それが、「教科書」を書かないという彼女の宣言であり、でも「はじめてのケア論」をひもとく一冊としては最適でもある、のである。

三井さんは、このような「ベースの支援」における「失敗」を通じて見えてくるケアの課題を、一筋縄ではいかない排除/包摂の議論を丁寧に重ね合わせながら論じていく。その圧巻は、学校教育現場における「特別支援学校/特別支援学級」における排除/包摂の論じ方である(5章)。その子に応じた形での発達を保証するために「支援学校・学級」が必要だという「発達保障派」の考え方と、障害を持つ子どもは他の子どもと「同じ」という前提に立って通常学級での教育を保障すべきとする「共生教育派」の論理を丁寧に辿った上で、「本人のため」と「私たちのひとりとみなすかどうか」(p149)という視点から、「本人のため」という論理は「障害児のことだけを考える論理」である一方、「私たちの一部とみなすかどうあという問題」は、障害児だけでなく、「私たちが私たちをどうみなすかという社会全体の問題なのである」と問いかけている(p150)。その上で、こうも述べる。

「社会学で排除が議論される際には、包摂のありようこそが排除経験を生むということが繰り返し指摘されている。」(p155)

障害のある子にも発達の機会を保障する、という「包摂のありよう」こそが「特別支援学校・学級」への「排除経験を生む」可能性はないか。これは入所施設や精神科病院への社会的入所・入院という「包摂のありようこそが排除経験を生む」というロジックとも同じである。だがその上で、第三者が「安易に質の上下や線引き」をする発想自体が「意味理解の多様性を極度に制限」する可能性もある、とも指摘している(p170)。このあたりの整理はスリリングで、実に福祉社会学的な視点も入っている。そのうえで、両論併記では終わらさず、その後には三井さんのスタンスもしっかり表明されている。が、これを書くとオチなので、それは本書を当たって欲しい。

というわけで、価値論争的な内容も「はじめての」に盛り込んでしまいながら、ケア現場のモヤモヤを中央において、「ベースの支援」を掘り下げ、排除/包摂の視点で、新たな可能性を探る。そういう意味では、『これからを考えるための材料』がてんこ盛りで、ケアに興味がある人向けの入門書としても読みやすくて優れているし、ケアに従事している人、あるいはケアに関わる研究をしている人にとっても、発見や学びの多い一冊である。そういう意味で、ほんまに「教科書」からはかけ離れた、優れた「型破り」の「はじめて」本でおすすめの一冊です。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。