魔女狩りと資本主義

風邪をどっぷりひいた。一度治りかけて、さらにぶり返して、10日ほどかけて、冬の毒素を出し切ったようだ。で、こういうときにしか、読めない本もある。こないだジュンク堂難波店でイベントをしたのだが、その際に表紙が飾られていて、「おいで、おいで!」してくれていた大著。ヨーロッパの魔女狩りと資本主義の誕生の関連性を見事に描く一冊だった。

「ちょうど囲い込みが農民から共有地を奪ったのと同じように、魔女狩りは女性からその身体を奪ったのである。こうして女性の身体は、それが労働力を生産するための機械として機能することを拒むいかなる障害からも『解放された』。火刑の恐怖は、共有地の周りに巡らされたどんな柵よりも手ごわい障壁を女性の身体の周りに築いたたのだ。(略) 魔女狩りは、女性が生殖の管理に用いてきた方法を悪魔的手段と断罪することを通じて破壊し、女性の身体を労働力の再生産へ従属させる前提条件として、それを国家の管理下におくことを制度化したのは間違いない。」(シルヴィア・フェデリーチ『キャリバンと魔女』以文社、p296-297)

前提として、共有地があった時代、小作農はその後の農民に比べて豊かだったという。農民達は協力して、領主にも対抗していた。で、中世以前の農民は、ワインを飲んだり肉を食べたり、栄養状態も中世よりも豊かだだったという。だが資本主義化が進む16世紀に共有地が「囲い込み」をされ、土地の私有化と個人の労働契約が進む中で、農民の間での連帯や協働が廃れ、社会的結束も瓦解していく (p114)。

農民の「共有地」を奪った後、支配層がターゲットにしたのは、女性であった。男性支配の教会主義論理に抗して、売春や避妊など、性的な管理を自らで行っていた女性達。そして、そういう女性を薬草(ハーブ)などを用いてサポートした助産師という女性ネットワーク。こういう存在は、神の代理人としてすべての存在を支配したい聖職者にとって、最大の目の上のこぶ、であった。このようなアンコントローラブルな女性を「魔女」とラベリングすることによって、「女性が生殖の管理に用いてきた方法を悪魔的手段と断罪することを通じて破壊し、女性の身体を労働力の再生産へ従属させる前提条件」が出来てきたのである。そのおかげで、次のような帰結に至る。

「女性が賃金労働者としてこうむってきた差別は、家庭内で担わされてきた不払い労働者という役割に直接起因するということを理解できるよりよい位置にいる。したがって、売春の禁止、そして組織化された職場からの女性の締め出しを、主婦の誕生、そして労働力再生産の中心地点としての家族の再構成に関連付けることができる」(p160)

女性が農業や売春など、自らの労働の対価を得る仕事に就くことを禁じる。そのタブーを破ったもものは魔女として火炙りにすることにより、その規範を強制する。これが、労働力再生産を無償で行う「専業主婦」誕生の背景にあった。さらに、女性を賃労働から閉め出し、主婦にしかなれない状況に構造的に追い込むことによって、家父長制を実現し、「労働力再生産の中心地点としての家族の再構成」を実現するに至るのである。「魔女」として排除されたのは、「不払い労働」や「労働力を生産するための機械として機能することを拒む」自律・自立的な女性であった。

「魔女狩りは女性に対する戦争であった。女性を格下げし、悪魔化し、そしてその社会的な力を破滅させるために一致して企図された戦いであった。それと同時に、魔女が命を落とした拷問部屋と火刑台で、ブルジョアジーが理想とする女らしさと家庭生活がねつ造された。」(p299−300)

従順な女性、という「ブルジョアジーが理想とする女らしさ」は、火刑台や拷問部屋いう物理的・精神的暴力の行使を伴って、「再構成」された。女性が「魔女狩り」という「女性を格下げし、悪魔化し、そしてその社会的な力を破滅させるために一致して企図された戦い」に破られて、男性支配の論理し馴致させられていくのが、魔女狩りプロセスそのもの、だったのである。

「魔女狩りの煽動においてより重要だったのは、中世末期にヨーロッパのエリート達が描いた、彼らの政治的・経済的な力を脅かしつつあったひとつの存在様式全体を根絶せねばならないという欲求であった。この課題が達成されると−社会的規律が取り戻され、支配階級がそのヘゲモニーが確かなものになったと知ると−魔女裁判は幕を閉じた。魔女魔術を信じることは、むしろ嘲笑の対象隣、迷信と非難され、まもなく記憶から追い出された。」(p332)

「一つの存在様式を根絶せねばならないという欲求」。これは、後の章で植民地支配のために「インディアン」をはじめとした先住民を「根絶」したプロセスと全く同じであると筆者は主張する。つまりヨーロッパ人は、中世で自立的女性という「一つの存在様式」を「魔女狩り」を通じて「根絶」することに成功した後に、植民地支配によって、アフリカやアメリカにおいて同じように別の「存在様式を根絶」するプロセスを、聖職者を用いて続けてきたのである。植民地支配のプロセスは、女性支配のプロセスから始まっている、というのを様々な文献を積み重ねながら整理していったのだが本書の刮目に値する主張であり、マルクスやフーコーは主題化出来なかったテーマである、と筆者はまとめている。

ちなみに、シェイクスピアの『嵐(テンペスト)』の登場人物でもあるキャリバンに込めた意味を、著者はこんな風に書いている。

「ここでのキャリバンは、私の解釈では、植民地主義に抗する反逆者−その闘争はいまなお現代のカリブ海文学に反響している−を表象しているだけでなく、世界のプロレタリアートの象徴であり、さらに厳密に言えば、資本主義の論理に対する抵抗の領域・手段としてのプロレタリアートの身体の象徴である。もっとも重要なことは、『嵐(テンペスト)』では後景に退けられていた魔女の姿が、本書では資本主義が破壊しなければならなかった女性の主体−異端者、治癒者、反抗的な妻、一人で生きることを貫こうとした女性、主人の食物に毒を入れ奴隷に蜂起をそそのかした呪術使いの女性−の世界の体現者として、舞台の中央におかれていることである。」(p12-13)

資本主義の論理に対する抵抗の象徴としての「キャリバンと魔女」。資本主義が魔女狩りを通じてその存在様式を根絶したかったのは、「異端者、治癒者、反抗的な妻、一人で生きることを貫こうとした女性、主人の食物に毒を入れ奴隷に蜂起をそそのかした呪術使いの女性」といった、自律的で主体的な生活者だった。これはまさに家父長制が作り上げられる中での、魂の植民地化プロセスを描いた名著でもある。そして、男も女も嵌入している、この魂の植民地化プロセスからどうすれば脱出することができるのか。そういう重要な問いを残してくれる一冊でもある。

追記:この本には中世のたくさんの絵画が挿入されている。象徴としての女性がどのように描かれているかの変遷を見る中で、男性の女性嫌悪(ミソジニー)が実に象徴的に描かれていることもわかり、当時の絵画の果たした啓蒙的役割を重ね合わせると、絵を見ているだけでも、色々なことを想起させてくれて、「お得」な一冊でもある。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。