“日本的働き方”のしくみ

話題になっている分厚すぎる新書『日本社会のしくみ-雇用・教育・福祉の歴史社会学』(小熊英二著、講談社現代新書)を読む。彼の本はどれも分厚いが、新書でもこの分厚さか、と驚くが、なかなか中身も迫力ある。

読後、僕がこの本のタイトルとしてふさわしいと思ったのは、『“日本的働き方”のしくみ-雇用を中心として、福祉や教育との相関も描いた歴史社会学』だった。確かに“日本的働き方”が、「日本社会のしくみ」を大きく規定しているが、それだけで教育や福祉が全て説明出来るわけではない。福祉や教育に大きな影響を与え、相互作用しているものとしての、日本的な雇用・労働慣行の形成史として、学ぶべきことは多かった。

ただ、著者も述べているように、日本の雇用類型を三類型で分けると、「地元型」が36%、「大企業型」が26%、「残余型」が38%(p40)、であり、本書はこのうち、4分の1を占める「大企業型」の雇用慣行が、中小企業(=地元型)や大企業の「外部」にある「残余型」にどのように影響を与えてきたか、を説明することで、「日本社会のしくみ」がある程度説明出来る、という仮説で本書を執筆している。当然ツッコミとして、地元型の説明を、全て大企業型の転写として言えるのか、とか、残余型も大企業型の外部という位置づけだけでよいのか、という指摘もある。だが、それは別の研究者がすればよいことだと思う。とにかく一人で、日本人の「『生き方』まで規定している『慣習の束』が、どんな歴史的経緯を経て成立したのかを書きたい」(p585)という意図を持ち、「自分が生きている社会を深部で規定している原理の解明」という「人文科学の基礎研究」(p586)として一冊にまとめきったのは、すごいことだと思う。

あと他の職種に比べて、大学教員が国公立私立の関係なく移動している理由も、よくわかった。それは、日本社会の中では例外的に横断的労働市場だからだ。私立から公立に移籍するときも、等級表での給与換算がなされていた。前任校も山梨県庁の等級表をベースにしているので、入れ替え可能性が高い。これが他の職種でも可能か、という問いなのだろう。

という前置きはこれくらいにして、いくつか気になった部分を引用しておこう。

「旧帝国大学と早大・慶大・一橋大・東工大の年間入学者数は、合計で4万人を超えている。さらに2001年以降の大学卒業者数は、ほぼ55万人で一定している。これを人気上位100社の総合職採用2万人、大企業採用数の12万人と対比させれば、全体の競争状況がどのようなものであるかは想像できる。」(p54)

ここに霞ヶ関のキャリアを加えたら、なるほど確かに戦前官庁の三層構造で言うところの「高等官」(=軍隊の少尉以上)p226は埋まる。すると、4万人以外の50万人の大卒者は、昔の属性で言う「大企業型」の「判任官」「等外」、あるいは「地元型」の「高等官」などになるし、非正規労働などの「残余型」になる大学生が出てくることも、頷ける。そして、それと重ねて考えたいトヨタの「出世すごろく」なるものが面白かった。

「大学卒業後に新卒でトヨタに入った社員は、30代後半で基幹職3級に上がり、年収は約1500万円。さらに2級、1級と上がるが、それぞれ4から5年かかるうえ、1級まで到達するのは同期のうち10%程度。1級になると年収は約2000万円。同期入社の1%という狭き門をくぐり抜けて常務役員まで上がれば、3000万円超へ跳ね上がる。」(p543)

いったん「高等官」になった後も、その中での熾烈な競争が続き、10%の「高等官の中での高等官」以外は、早期退職や出向(=公務員なら天下り)などの対象になる。これは、日本の官公庁および大企業で共通する仕組みである。さらに言えば、それを維持するためにも、「外部」が必要になる。

「年功による昇進や昇給は、元来は経済的コストに左右されない官吏の慣行であり、戦前の民間企業では少数の職員だけの特権だった。それを全従業員に適用するのは、高度成長期のような例外的時期をのぞけば、困難なことだった。それでもなお、長期雇用と年功賃金を続けようとすれば、適用対象をコア部分に限定するしかなかった。そのための方法が、人事考課による厳選、そして出向・非正規雇用・女性という外部を作り出すことだったといえるだろう。」(p528)

雇用における男女格差が埋まらない最大の理由は、女性が内部ではなく外部と認知されてきたことの温存であり、また女性以外でも出向や非正規雇用の外部性を担保することによって、「コア部分」の長期雇用と年功賃金という「内部性」を維持してきた、そのツケである。

小熊さんは、この「雇用慣行の束」は容易に変えることが出来ないと考えている。そして、彼自身の解決策としては、「社会保障の拡充によって解決するしかない」(p576)という。スーパーで働く勤続10年の非正規雇用のシングルマザーが「昨日入ってきた高校生となぜ同じ給与なのか」と問われた際の、小熊さんが考える選択肢は、回答①年功序列型でもなければ、回答②同一労働同一賃金と個人自己責任的キャリアアップの推奨、でもなく、次のようなものだった。

「回答③ この問題は労使関係だけではなく、児童手当など社会保障政策で解決するべきだ。賃金については、同じ仕事なら女子高生とほぼ同じなのはやむを得ない。だが、最低賃金の切り上げや、資格取得や職業訓練機会提供などは、公的に保障される社会になるべきだ。」(p578)

これを1963年の経済審議会答申が実現出来なかったこと(p574)と述べ、小熊さんは、日本型雇用の「慣習の束」を温存しながら、回答3を実現しようと考えているのではないか、としている。

「当時の日本政府と日経連は、横断的労働市場と社会保障拡充の政策パッケージを提唱していた」(p414)のだが、小熊さんは、先に児童手当や公営住宅の整備といった「社会保障」で解決すべき課題があれば、「横断的労働市場」も結果的に進みやすいのではないか、という提案とも受け取れる。それを実際にしているヨーロッパのことを以下のように整理している。

「現場労働者や下級職員は、20代終わりから30代で賃金が頭打ちになってしまうことも多い。職務が同じなら、賃金もあまりかわらないからである。熱心な人は、社外で資格を取ったりして、より上の職務を目指すが、そうでない人ももちろんいる。西欧や北欧では、それをカバーするため、児童手当、公営住宅、家賃補助などが行われることが多かった。これは一種の少子化対策でもあるが、中年期に賃金が上がらない人たちに対する支援措置である。また、夫婦共稼ぎも多い。」(p115)

つまり、日本では終身雇用制を大企業のみならず中小企業でもとることで、企業内福祉として住宅手当や児童手当を抱え込んでいた。だが、今その余力がない企業では、その恩恵を受ける人の数を減らしたり、削減したりしている。この部分を、放置したら「19世紀型の『野蛮な自由労働市場』に回帰」(p575)することになる。それなら、この部分は政府が直接投資した方が良いのではないか、という提案である。これは以下の部分ともつながる。

「『地元型』は、収入は大企業型よりも少なくなりがちだ。しかし親からうけついだ持ち家に住むなら、ローンで家を買う必要はない。地域の人間関係にも恵まれ、自治会や兆兄会、商店会、農業団体などとの結びつきがある。近隣から野菜などの『おすそ分け』を受け取れれば、支出も少ない。自営業や農業は『定年』がなく、ずっと働く人が多い。」(p22)

「残余という言い方に、とくにマイナスの意味はない。日本の健康保険制度などが想定してきたような、「『カイシャ(職域)』と『ムラ(地域)』という、日本社会において基本的な単位となる帰属集団」の双方に根ざしていない類型ということだ。『残余型』の生き方が増えているとすれば、それは過去の制度が、社会の変化にあわなくなってきていることを意味しているといえるだろう。」(p35)

「大企業型」に入れなくても、「地元型」で社会関係資本が蓄積されていれば、年金が低くてもなんとかなる。老後2000万円必要なのは、大企業型での暮らしをしている人だけだ、ともいえる。一方、「残余型」が38%になっている、ということは、「大企業型」の外部とされ、かつ社会関係資本からも切り離された労働者が4割近く存在している、ということである。この人びとに、「児童手当、公営住宅、家賃補助など」がないと、貧困世帯の拡大につながる。また、この残余型の人が、無職や休職中、職業訓練中の衣食住の基盤を上記の公的支援で支えられることが、「横断的労働市場」の形成の基盤になる、ということも理解できた。

新自由主義的な経営者(ホリエモンやZozo前社長)あるいはそれを応援する橋下等の政治家・評論家は「19世紀型の『野蛮な自由労働市場』」を求めている。だが、そうではない未来を切り開くために、小熊さんのような提案を政治家や政党が提案することが出来るか。このあたりも、今後の鍵になるように思えた。

履歴書の空白期

僕が尊敬する、年若い友人のてっちゃん(小笠原祐司さん)が、「私の『履歴書の空白期』」を書いていた。ファシリテーターとして全国で、海外でも大活躍するてっちゃんにも、苦しい時期があったんだな、と改めて読みながら感じていた。彼のひりひりするような記述を読みながら、僕自身も己の「履歴書の空白期」を思い出していた。

僕の「履歴書の空白期」は博士号を取ってから山梨学院大学に入るまでの二年間。2013年4月から2015年3月までの二年間である。その間は、思い出せば味わい深いけど、実にキッツい二年間だった。

そもそも博論を書き上げるのに必死で、その後の就職活動のことは何も考えていなかった。甘ったれてたその当時、僕は新設講座の一期生だったので、博論を書いた後、助手のポストを譲ってもらえるのではないか、とぼんやり思っていた。でも、当然そんなはずもなく、みんな履歴書を必死になって書いてエントリーすると知ったのが、博論を書いた後の2013年春。博士号取得で大学院修了になったけど、いきなり肩書きのない状態に放り出された。

一応、大学や専門学校の非常勤講師をしていたけれど、プー太朗状態。見かねた大阪精神医療人権センターの当時の代表、里見弁護士に相談したら、人権センターでバイトしませんか、と誘ってい頂いた。里見先生は阪大法学部出身の大先輩で、数年前に神奈川でご一緒し、帰りの新幹線でゆっくり話をさせてもらって以来、何かと気にかけてくださっていた。でも人権センターに潤沢な予算がある訳でもなく、里見法律事務所に雇って頂く形になった。その当時はその意味があまりわかっていなかったが、本業に全く役立ったない人間に給料を払ってくださったばかりか、その業務には全く口出しせずにこちらに任せてくださった里見先生の包容力には、本当に感謝してもしきることはない。

そして、定職に就かずに困っていたからこそ、チャンスも巡ってくる。大学院のころに毎週東京から教えに来てくださっていた河東田博さん(立教大学)の科研研究班に混ぜて頂き、脱施設に関する調査に関わっていたからこそ、その延長線上で、在外研究のお誘いを頂く。定職が無くて困っていた時期だからこそ、その意味もわからず、とにかくエントリーして、スウェーデンに旅立つ。博論を書いている最中に無謀にも結婚して、妻は常勤職だったが、彼女も一緒に行けそうだったので休職して、二人で2013年10月末から2014年3月までの5ヶ月間、スウェーデンの第二の都市、イエテボリに住む。受け入れてくださる知的障害者の当事者組織、グルンデンの支援者アンデシュさんと連絡がなかなかつかず、ビザもギリギリで下りたし、住むところも決まらずユースホステルに滞在した期間もあったし、何より何を研究するかほとんど決まらずに行ってしまったし、不安で押しつぶされそうだったが、「背に腹は代えられない」無職期間だから、だったこそ、それでも現地で調査を続けた。その報告は、今でもウェブで読める。

で、スウェーデンで調査をしながらも、スウェーデンからもせっせと履歴書を送り続けた。そもそも福祉を研究しているのだが、社会福祉士を持っておらず、社会福祉学部の教育を受けている訳でもない僕は、就職に圧倒的に不利だった。そんな中、「助手採用の二次面接に来て欲しい」と東京の某有名大学から連絡を受け、10万円くらい自腹を切って、一時帰国する。面接では「君はお酒が飲めますか?」とか、採用を前提としたように思える話が進み、「これは決まったかも」と思って、住宅情報誌を買って帰る。そして、帰国日の当日、実家から関空に行く「はるか」に乗っている際に、別の大学から電話がかかってきて「明後日に二次面接に来れますか?」と聞かれて、飛行機を当日キャンセルする。で、また東京で面接を受けて、5万円の追加料金を払ってスウェーデンに戻るも、どちらとも不採用。そりゃないよ!と激しく落ち込む。今なら「人事は水物」と承知しているが、この時の消耗感は、本当に激しかった。

結局二年間で、50ほど履歴書を書き続けては、紙切れ一枚の不採用通知をもらい続ける。結構沢山のボリュームの内容を書き、業績も三本ほどはフルコピーして送らねばならず、その労力と資金だけでも、ままならない。あるときは、東京で学会発表があった日の午後、飛行機で行かねばならない大学から二次面接にどうしてもその日中に来てほしい(もちろん自腹で)、と言われ、当時住んでいた西宮から、朝一の新幹線で東京に行き、自分の発表を終えるや否や、羽田空港に飛び込んで飛行機で現地に行き、面接を受けるも、不採用、なんてこともあった。この時はほんまに「ふざけんな!」と思った。

で、こういう時期の周りの「助言」も、痛い。当時妻が常勤職で、僕はある種「妻のヒモ」だったのだが、それを見かねた僕の母親が「そんなに仕事決まらないなら、大学教員の道は諦めて、何でもいいから他の職を探したら? ○○ちゃん(妻のこと)がかわいそう」と言い出した。母の言うことはもっともだし、妻に迷惑をかけてることはその通りなんだけど、これまでの努力を捨てなさい、とも思えるこの「助言」に、なんと言い返してよいのかわからず、ぐったり落ち込んでいた。

で、もう履歴書を書くのもいい加減嫌になっていた2014年秋、学部時代からお世話になっていた社会学の大家、厚東先生から「こんな公募が出ているよ」と転送してくださったのが、山梨学院大学で法学部政治行政学科での「地域福祉論」の公募。やさぐれていたが、厚東先生がわざわざ送ってくださったのだから、という先生への義理だけの気持ちで、とりあえず履歴書を書いて送った。大学教育への抱負を書く項目があったので、「大学教員と違って僕は予備校講師をしてきたので、学生のニーズを捉えないと翌年の更新がないので、ニーズオリエンテッドな講義をしてる」とか、喧嘩を売るような事を書いて送ってしまっていた。

でも、なぜか二次面接に呼ばれる。甲府に朝10時。当然どこかで宿泊する必要はあるが、山梨に行ったことはない。で、よく考えたら、大熊一夫師匠の山荘が、八ヶ岳の麓にある。師匠に電話したら、喜んで歓待して頂く。面接の前の日は緊張するはず、なのに、僕は師匠の美味しい手料理に舌鼓をうち、ワインをたらふく頂いて、翌朝気分良く甲府まで送り出して頂いた。そんなご縁があったから、二次面接でも自然体で話すことが出来た。学長から「他の大学の二次面接も受けているそうだが、どっちを選ぶのか?」と聞かれて、馬鹿正直に「先に声をかけてくださった方」と応える。「それは半分当たっているけど、半分間違いだ」と言われるが、仕事が無くて背に腹を変えられない僕は、とにかく雇ってくれると声をかけてくれたところに、どこでも行く気でいた。そう伝えていたので、1週間後、十三駅付近の阪急電車で携帯がなり、「まだ決まっていませんか?あなたを採用したいので、学長決裁が出た段階で電話しました」と、当時の学部長に言われた時、十三駅のベンチで涙声になっていた。やっと履歴書の空白期から解放される、と。後から聞くと、対抗馬は東大卒の優秀な人で、僕より業績は多かったけど、「竹端さんの方が元気そうで、学生とうまくやりそうだから」というのが決め手だったようだ。破れかぶれの履歴書が功を奏する時もあるのだ。

一気呵成に、二年間の履歴書の空白期を書いていて、改めて感じるのは、二度とあの時期は経験したくないけど、確実に自分のコアな原点なった二年間でもある、ということ。完全公募の採用に辿りつくまで、他の研究者の何倍もの履歴書を書いたけど、でもしがらみに絡め取られることなく仕事をする土台を作るためには、必要な二年間だった。そして、その二年間は、僕の厳しい実情を気にかけてくださり、多くの人が、様々な機会を与えてくださった。カリフォルニア調査の声をかけてくださり、その旅費の工面などもしてくださったのは、その後もお世話になった北野誠一さん(元東洋大学)だった。北野さんのお宅にもしばしば通い、外弟子的に学ばせて頂いたことも、その後の僕の展開の基盤になった。こういう時間的余裕「だけ」はあったのが、履歴書の空白期、だった。

てっちゃんは冒頭に紹介したブログの最後に「何も見えないなら、動いてみる。そこから見える世界を見つけていく」と書いていた。これは全く僕にも当てはまる。何の肩書きもなく、何も決まっていないから、不安で仕方なかったけど、自分の可能性を探していく、模索期だった。それがあったからこその今だと、振り返ってみると、改めて感じる。