履歴書の空白期

僕が尊敬する、年若い友人のてっちゃん(小笠原祐司さん)が、「私の『履歴書の空白期』」を書いていた。ファシリテーターとして全国で、海外でも大活躍するてっちゃんにも、苦しい時期があったんだな、と改めて読みながら感じていた。彼のひりひりするような記述を読みながら、僕自身も己の「履歴書の空白期」を思い出していた。

僕の「履歴書の空白期」は博士号を取ってから山梨学院大学に入るまでの二年間。2013年4月から2015年3月までの二年間である。その間は、思い出せば味わい深いけど、実にキッツい二年間だった。

そもそも博論を書き上げるのに必死で、その後の就職活動のことは何も考えていなかった。甘ったれてたその当時、僕は新設講座の一期生だったので、博論を書いた後、助手のポストを譲ってもらえるのではないか、とぼんやり思っていた。でも、当然そんなはずもなく、みんな履歴書を必死になって書いてエントリーすると知ったのが、博論を書いた後の2013年春。博士号取得で大学院修了になったけど、いきなり肩書きのない状態に放り出された。

一応、大学や専門学校の非常勤講師をしていたけれど、プー太朗状態。見かねた大阪精神医療人権センターの当時の代表、里見弁護士に相談したら、人権センターでバイトしませんか、と誘ってい頂いた。里見先生は阪大法学部出身の大先輩で、数年前に神奈川でご一緒し、帰りの新幹線でゆっくり話をさせてもらって以来、何かと気にかけてくださっていた。でも人権センターに潤沢な予算がある訳でもなく、里見法律事務所に雇って頂く形になった。その当時はその意味があまりわかっていなかったが、本業に全く役立ったない人間に給料を払ってくださったばかりか、その業務には全く口出しせずにこちらに任せてくださった里見先生の包容力には、本当に感謝してもしきることはない。

そして、定職に就かずに困っていたからこそ、チャンスも巡ってくる。大学院のころに毎週東京から教えに来てくださっていた河東田博さん(立教大学)の科研研究班に混ぜて頂き、脱施設に関する調査に関わっていたからこそ、その延長線上で、在外研究のお誘いを頂く。定職が無くて困っていた時期だからこそ、その意味もわからず、とにかくエントリーして、スウェーデンに旅立つ。博論を書いている最中に無謀にも結婚して、妻は常勤職だったが、彼女も一緒に行けそうだったので休職して、二人で2013年10月末から2014年3月までの5ヶ月間、スウェーデンの第二の都市、イエテボリに住む。受け入れてくださる知的障害者の当事者組織、グルンデンの支援者アンデシュさんと連絡がなかなかつかず、ビザもギリギリで下りたし、住むところも決まらずユースホステルに滞在した期間もあったし、何より何を研究するかほとんど決まらずに行ってしまったし、不安で押しつぶされそうだったが、「背に腹は代えられない」無職期間だから、だったこそ、それでも現地で調査を続けた。その報告は、今でもウェブで読める。

で、スウェーデンで調査をしながらも、スウェーデンからもせっせと履歴書を送り続けた。そもそも福祉を研究しているのだが、社会福祉士を持っておらず、社会福祉学部の教育を受けている訳でもない僕は、就職に圧倒的に不利だった。そんな中、「助手採用の二次面接に来て欲しい」と東京の某有名大学から連絡を受け、10万円くらい自腹を切って、一時帰国する。面接では「君はお酒が飲めますか?」とか、採用を前提としたように思える話が進み、「これは決まったかも」と思って、住宅情報誌を買って帰る。そして、帰国日の当日、実家から関空に行く「はるか」に乗っている際に、別の大学から電話がかかってきて「明後日に二次面接に来れますか?」と聞かれて、飛行機を当日キャンセルする。で、また東京で面接を受けて、5万円の追加料金を払ってスウェーデンに戻るも、どちらとも不採用。そりゃないよ!と激しく落ち込む。今なら「人事は水物」と承知しているが、この時の消耗感は、本当に激しかった。

結局二年間で、50ほど履歴書を書き続けては、紙切れ一枚の不採用通知をもらい続ける。結構沢山のボリュームの内容を書き、業績も三本ほどはフルコピーして送らねばならず、その労力と資金だけでも、ままならない。あるときは、東京で学会発表があった日の午後、飛行機で行かねばならない大学から二次面接にどうしてもその日中に来てほしい(もちろん自腹で)、と言われ、当時住んでいた西宮から、朝一の新幹線で東京に行き、自分の発表を終えるや否や、羽田空港に飛び込んで飛行機で現地に行き、面接を受けるも、不採用、なんてこともあった。この時はほんまに「ふざけんな!」と思った。

で、こういう時期の周りの「助言」も、痛い。当時妻が常勤職で、僕はある種「妻のヒモ」だったのだが、それを見かねた僕の母親が「そんなに仕事決まらないなら、大学教員の道は諦めて、何でもいいから他の職を探したら? ○○ちゃん(妻のこと)がかわいそう」と言い出した。母の言うことはもっともだし、妻に迷惑をかけてることはその通りなんだけど、これまでの努力を捨てなさい、とも思えるこの「助言」に、なんと言い返してよいのかわからず、ぐったり落ち込んでいた。

で、もう履歴書を書くのもいい加減嫌になっていた2014年秋、学部時代からお世話になっていた社会学の大家、厚東先生から「こんな公募が出ているよ」と転送してくださったのが、山梨学院大学で法学部政治行政学科での「地域福祉論」の公募。やさぐれていたが、厚東先生がわざわざ送ってくださったのだから、という先生への義理だけの気持ちで、とりあえず履歴書を書いて送った。大学教育への抱負を書く項目があったので、「大学教員と違って僕は予備校講師をしてきたので、学生のニーズを捉えないと翌年の更新がないので、ニーズオリエンテッドな講義をしてる」とか、喧嘩を売るような事を書いて送ってしまっていた。

でも、なぜか二次面接に呼ばれる。甲府に朝10時。当然どこかで宿泊する必要はあるが、山梨に行ったことはない。で、よく考えたら、大熊一夫師匠の山荘が、八ヶ岳の麓にある。師匠に電話したら、喜んで歓待して頂く。面接の前の日は緊張するはず、なのに、僕は師匠の美味しい手料理に舌鼓をうち、ワインをたらふく頂いて、翌朝気分良く甲府まで送り出して頂いた。そんなご縁があったから、二次面接でも自然体で話すことが出来た。学長から「他の大学の二次面接も受けているそうだが、どっちを選ぶのか?」と聞かれて、馬鹿正直に「先に声をかけてくださった方」と応える。「それは半分当たっているけど、半分間違いだ」と言われるが、仕事が無くて背に腹を変えられない僕は、とにかく雇ってくれると声をかけてくれたところに、どこでも行く気でいた。そう伝えていたので、1週間後、十三駅付近の阪急電車で携帯がなり、「まだ決まっていませんか?あなたを採用したいので、学長決裁が出た段階で電話しました」と、当時の学部長に言われた時、十三駅のベンチで涙声になっていた。やっと履歴書の空白期から解放される、と。後から聞くと、対抗馬は東大卒の優秀な人で、僕より業績は多かったけど、「竹端さんの方が元気そうで、学生とうまくやりそうだから」というのが決め手だったようだ。破れかぶれの履歴書が功を奏する時もあるのだ。

一気呵成に、二年間の履歴書の空白期を書いていて、改めて感じるのは、二度とあの時期は経験したくないけど、確実に自分のコアな原点なった二年間でもある、ということ。完全公募の採用に辿りつくまで、他の研究者の何倍もの履歴書を書いたけど、でもしがらみに絡め取られることなく仕事をする土台を作るためには、必要な二年間だった。そして、その二年間は、僕の厳しい実情を気にかけてくださり、多くの人が、様々な機会を与えてくださった。カリフォルニア調査の声をかけてくださり、その旅費の工面などもしてくださったのは、その後もお世話になった北野誠一さん(元東洋大学)だった。北野さんのお宅にもしばしば通い、外弟子的に学ばせて頂いたことも、その後の僕の展開の基盤になった。こういう時間的余裕「だけ」はあったのが、履歴書の空白期、だった。

てっちゃんは冒頭に紹介したブログの最後に「何も見えないなら、動いてみる。そこから見える世界を見つけていく」と書いていた。これは全く僕にも当てはまる。何の肩書きもなく、何も決まっていないから、不安で仕方なかったけど、自分の可能性を探していく、模索期だった。それがあったからこその今だと、振り返ってみると、改めて感じる。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。