過剰で下手くそやけど、読ませる人生

渡邊洋次郎さんの『下手くそやけど なんとか生きてるねん。』(現代書館)を読む。そもそも帯に書いてある「精神科病院入退院、48回。刑務所、3年服役。「施設太郎」だった私の、生き直しの道。」というフレーズからして、過剰である。そんな過剰な人生が書かれているのを読むのは、正直疲れそうで、手に取るのをためらった。でも、僕の本でも「産婆さん」をしてくださった名編集者、小林律子さんが退職を挟んでも編集に関わり続けられたと聞き、読んでみようと思う。彼女は、物怖じせず、ピシッと筋目を通す。そういう律子さんとの対話がなされての書籍化なら、きっと読めそうだ、と。

予感はあたった。

確かに渡邊さんの人生は、比類無きほどの「過剰さ」で満ちあふれている。でも、そのことを描く筆致は、決して過剰でも「盛っても」いない。淡々と、ご自身の人生であった経験を記述する。悔しかったり寂しかったり苦しかったり見捨てられ恐怖を抱いた記述は、情感もこもって書かれているが、ここでも感情が先走らない。そう、一般に僕が「手記」を苦手に感じるのは、著者がその壮絶な・過剰な人生を、情感を込めて描くとき、表現上の語気が強くなり、話が盛られ、フルスロットで、「これでもか」「どやさ!」と不幸自慢大会っぽくなるから、である。そういうのを読んでいると、苦しくなって、そっとページを閉じてしまうのだ。

でも、渡邊さんのこの本は、気がつけば移動中の車内で一気読みできた。「抑制された過剰」というか、淡々とシンナー中毒とか病院や刑務所の入院・入所経験を語るからこそ、渡邊さんご自身の生きづらさが、かえって浮き彫りになってくる。過剰なエネルギーの持ち主で、それを痛めつける自傷行為も繰り返すのだけれど、そういう生きるのが下手くそな部分を、どうやってそのものとして認められるようになったのか、を書いてくれているから、筋も通っている。ある種、尊厳を取り戻すための執筆、というか。

いや、たぶんまだ渡邊さんの中にも、過剰で下手くそでドロドロしたものがあるのだと思う。でも、以前の彼は「ええかっこ」して、それを過剰に表現したり(=人前でたばこの焼きをいれたり、倒れるほどアルコールをラッパ飲みをしたり)、悪循環に輪をかけていた。でも、今回の本では、「ええかっこ」を引き算して、下手くそで、要領も悪くて、過剰な関係を求めようとする彼の姿を、等身大で描こうと努力している。これが、すごく良かった。

「わかってきたことは、守って欲しい境界線は自分にもあるんだということでした。そこに踏み込んで入ってこられると気持ちが不安定になったりぶれてしまうから、私が私を生きるために踏み込まれたくない、自分を保つための境界線があることがわかってきました。そのときはじめて、境界線を守ったり、そのための距離感を保つことは、自分が自分を生きるために必要なこと。それは裏切りや見捨てるということではなく、自分が自分を守ってあげることなんだと思いました。」(p139)

渡邊さんは、刑務所に入るまでずっと「裏切り」や「見捨てる・見捨てられる」ということに、過剰にこだわってきた。その枠組みから外れることは出来なかった。だが、「守って欲しい境界線」が、他者にあるだけでなく、自分自身にもある、ということを理解することで、「自分が自分を守ってあげること」の重要性もわかってきた。それは、薬物や他人に依存するのではなく、「自分が自分を生きるために必要なこと」だとも気づき始めた。これまでの過剰で下手くそで、悪循環を加速させていく人生は、「私が私を生きるために踏み込まれたくない、自分を保つための境界線があること」をそのものとして受け入れられないからそうなるのだ、という「わかっていないことが、わかった」のである。

自分が何を「わかっていないのか」に気づくことが出来るかどうか。これは、沢山知識を持っていることよりも、大切な事だと僕は感じている。特に「守って欲しい境界線は自分にもあるんだ」とういことが「わかっていなかった」と「わかる」ことは、すごく大切だと思う。渡邊さんのように薬物依存にならなくても、他者評価に依存的になり、同調圧力に過剰に適合的になり、「空気を読む」ことを優先して自分を押し殺している人は、この社会には沢山いる。それは、法律を犯していない、という意味では、「社会適応」しているのかもしれないが、その内面の虚ろさでいえば、シンナーを求めて万引きする渡邊さんの虚ろさと、何ら変わらないように思う。そして、そういう虚ろさを抱えた普通の人が、「守って欲しい境界線は自分にもあるんだ」と気づけることで、自分自身の悪循環を転換させることができる。だけでなく、他者に支配されず、自分自身を大切にして生きる、転換点にもなるようにも思う。

そう思うと、この本は単に「自分とは全く違う過剰な人生をのぞき見する本」ではなく、「守って欲しい境界線」を取り戻したサバイバーの記録であり、決して他人事ではない、独特の迫力が、謙虚で淡々と書かれた文体から染み出てくる本なのだ、と感じた。

16歳に伝えたかったこと

今日は兵庫県立大学の附属高校での授業。高校一年生66人が受講してくれた。前半は、附属高校出身のゼミ生が、高校と大学の違いや、大学生として学んでいる内容を、自分の調べている「教育の不利」について語りかけながら、講義してくれた。で、僕は残りの40分で、「勉強すること」と「学ぶこと」の違いを伝えようとした。

あなたは、この二つはどう違うと思いますか? そして、ご自身は今、どっちをしていますか?

僕自身は、強いて勉める=努める勉強をshould, mustと捉え、それを「型稽古」だと整理した。一方、学びは、would like toに基づき、わくわくする、オモロイものだ、と整理した。そして、高校までは勉強かもしれないけど、大学ではオモロイ学びが待っているよ、とメッセージを送ったつもりだ。それは一体、どういうことか。

英語の文法であれ、数学の公式であれ、その型を身につけなければならい型稽古は、確かにつまらない。その型を理解しなければならないし、暗記して身体化させる必要もある。道理が身体化出来ないと、まず訳がわからないし、理解できても、それを使いこなせるか、は別である。合気道でも、初級くらいまでは、この型稽古に四苦八苦する。でも、ある程度型を覚えた段階で、今度はそれを理解できて使える、だけでなく、その型を離れる必要がある。英語なら、文法を理解した上で、例えばカリフォルニアの弁護士と権利擁護について議論し(ヒアリングとスピーキング)、その準備の為に英語で資料を読みこなす(リーディング)ことも、アポを取るためにメールを書くこと(ライティング)も求められる。これは、お勉強モードを超えて、学びに入る。で、必死に読んで聞いてしゃべって書いて、としているうちに、意思疎通が出来るようになり、議論が深まり、認識や世界観が拡がったり深まったりする。

これは以前、「稽古と守破離」で書いたプロセスそのものである。

実はそれに関連して、勉強と学びについて意見を出してくれた男子高校生が、こんなことを言っていた。「勉強は答えが決まっていることを学ぶことで、学ぶことは自分で考えること」。「僕は漢文とか何で勉強しなければならないのかわからないのをするのは嫌だ」。この二つの意見に、「わかる、わかる」と思いつつ、後者に関しては、実は異論も持っている。

勉強はセンター試験に代表されるように、ロジカルに答えを導き出す訓練である。これは、「守」という型稽古をみっちり身につけて、ある種、「黒帯」を取るために、必要なプロセスである。そして、それが面白くない、というのも、よくわかる。ただ、だからといって「漢文は俺に関係ない」と言い切ってしまって良いのか? それは、疑問である。そもそも、「関係あるなし、ってどう決めるの?」

「中国の2000年前の四書五経を読むことに、何の意味があるのか?僕は理系なのに。。。」

僕も、彼ら彼女らの年頃では、そういう「何の意味があるの」「俺には関係ない」と、色々切ってきた。でも、そうやって学ぶ範囲に「意味がある・ない」と決めつけたのは、実に阿呆やった、と今なら、後悔しきり、である。物理学を面倒くさがらずに面白がれば、カオス理論をもっと理解しやすかったかもしれない。統計から逃げなければ、午前中のブルデューの読書会で議論になったコレスポンデンス分析を、僕も易々と使いこなせたかもしれない。世界史をサボらなかったら、中東の部族間の争いや香港での学生によるプロテストを、時代を遡って、フーコーの系譜学的に捉えることも出来たかもしれない。でも、僕は高校から大学にかけて、「自分には関係ない」と、今から考えたら「関係がめっちゃある」ものを切り捨てて、視野が狭い人間になっていたのだ。本当に、それは人生で損したと思う。

同じように、理系だからと漢文を毛嫌いする。でも、漢文の構造ってすごくロジカルだし、漢文で伝えられる論理は、2000年以上経っても古びないエッセンスがある。未だに論語や老子は読み継がれているし、明治期までの理系の人びとも、当たり前のように漢文の素読をして、身体の中にしみこませていた。ということは、漢文が無駄だ、と切り捨てることで、論理力や視野の広さを切り捨てることにもなるのだ。

ついでに「意味がある・意味が無い」とは、受験に関係ない、とか、それを学んでもお金にならない、という形で、新自由主義的選択をしているようにも、思う。それは、高校や大学くらいまでの僕自身が、そういう「経済合理性」で判断する、つまらない青年だったからだ。でも、大学から少しずつ思想系の本も読み進めて四半世紀後、新自由主義がいかに人を経済合理性以外の判断基準で考えないようにフレーミングしているか、をウェンディ・ブラウンの書籍から教わるにつけて、己がいかに視野狭窄だったか、を思い知るのである。そして、今の16歳の若者達に、そんな風にはなってほしくないと思う。

長々と書いたが、should, mustの勉強は、いやいややるものであればなおのこと、なるべく負荷を減らしたい。それは、一方で、わかる。でも、強いられて無理してするのではなく、物理であれ漢文であれ英語であれ、その内在的論理をつかみ、そのロジックを理解し、それが表現する世界の面白さを体得する「学び」に漕ぎ出すことが出来たら、無味乾燥な暗記科目では無くなる。そして、30年近く年の離れたおじさんは、今の年になって、オモロイ学びにハマっているし、もっと考えたい、読みたい、理解したいものが一杯あるし、そのためには学んでも学んでも時間が足りない。問いが沢山出てくる。

そういうオモロサを、高校時代から、少しずつ見つけて探してほしいと思うのだ。それが、親や先生に強いられて、いやいやするモードの勉強からの脱出であり、そういう勉強に支配されていることに自覚することで、その強いられた何かからの自由を獲得する第一歩が始まると思うのだ。それが、高校1、2年生の間に出来たら、あなたがどんな大学の何学部に行こうとも、絶対オモロイ学びが実現出来るはずである。

・・・ということを伝えたかったのだけれど、たぶん書いたことの3分の1も伝えられなかったと思うので、ここに記載しておく。聞いてくれた66名の学生さん達には、「今日の話は三割くらい理解できたら、それで良い」とも伝えておいた。おじさんだって、ここに書いてあることを理解するために、その後30年近く試行錯誤した。あなた達も、そういう試行錯誤の旅に出て欲しい。そう願っている。