同調圧力の恐怖

ここ最近、不安感や緊張感が半端ない。

その不安感や緊張感は、コロナウィルスに感染する恐怖、というよりも、その恐怖に支配された人々が、同調圧力に支配されて、思考停止状態に陥り、他者を相互監視する恐怖である。

内田樹さんも「隣組と攻撃性」というブログを書いている。

僕が付け加えるとしたら、子育てをしていて感じる不安感や緊張感の話である。昨日(4月28日)、姫路でも5月末までの休校措置が決まった。その理由を市のHPにはこんな風に書いている。

「兵庫県内において依然として新型コロナウイルス感染症患者の発生が続いている状況であることから、市長からの要請や他都市の動向を踏まえ、市立学校園の臨時休業を延長することを決定しました。」

え、たったこれだけの理由で休校に出来るの!?

正直、ものすごく腹が立ち、ものすごく落ち込んだ。たった数行の理由で、子どもたちの教育や社会化の機会を奪うんだ、と。大人の仕事は強制的に奪うことは出来ない一方で、学校の休校はこんな簡単な、合理的根拠も示されていない一文で、サクッと1ヶ月休みにするんだ、と。では、その間の子どもの教育やケアはどうするの? 自己責任なの? 養育責任でしょ、で終わりなの? それって、一体どういうことなの?

2ヶ月前、「ケアを軽んじていないか」と書いたときから、主張は変わっていない。本当はこの2ヶ月で、政治家が教育やケアに目を向けて、配慮してくれていて、2ヶ月後には「あのときキツいこと書いたけど、すいませんでした」と意見を変えられたら、どれほどよかっただろう。でも、残念ながら、そのときに書いた、「ケアをあくまでも家庭内の自己責任にとどめ、ケア責任に関しては政府は積極的に関与しない、という姿勢」は、今も変わっていないように見える。

だからこそ、2ヶ月前に書いたことを、繰り返す。子育てやケアを、軽んじてはいないか、と。

さらに、今日から大きな公園では駐車場を閉鎖したり、大型遊具にテープを貼って入れないようにしていた。これには、どれほどのコロナ対策効果があるのか。科学的な合理性がどれくらいあるというのだろうか? それよりも、内田樹さんのブログではないけど、隣組的攻撃性を持った密告者が、「公園でサッカーしているのはけしからん」と市役所などに電話をかけまくったり、開いている施設に爆破予告をするなどのヒステリックな対応におびえた行政が、「それなら一律閉鎖で」と安易な判断をした可能性はないだろうか。それが、子どもの育ちや発育にどれほどの「危険性」を与えているか、という比較考慮はなされただろうか。それが、市役所の簡単なフレーズから、全く見えてこない。それも、すごく腹立たしい。

2ヶ月前、Zoom対話をした高松の友人、中村香菜子さんがこんなことを書いていた。

「「敵」がウイルスではなく、「国」になったとき、同じことがおこるかもしれない。私はそのことのほうが、とてつもなく恐ろしいです。私はできるだけ、兵隊に行く人のために「千人針」(弾に当たらないための願掛け)を作ろうみたいな、その場しのぎの動きはしたくないです。今、自分自身の子供にとって、自分のくらしにとってなにが大切なのか冷静に感じ取れる「感覚」を母親こそが身につけていたい。」(今、気づきたいこと。

彼女と対話した時も、同じようなことを口にしておられた。で、最初聞いたときは、確かにそういう側面もあるかもしれないけど、ちょっと過敏すぎない?と思っていた。

でも、ごめんなさい、中村さん。あなたの言うとおりでした。

この2ヶ月の「隣組的攻撃性」は、明らかに75年前に起こっていたことの再来のような気がする。内田樹さんのブログにも書かれていたが、そのような攻撃性が第二次世界大戦での暴力性を引き起こし、学生運動で暴発し、今、コロナ危機の下で、再来している。つまり、こういう「千人針」的メンタリティ、というか、同調圧力で「お国のために」と一致団結し、異論や反論、多様性を許さず「黙って従え」というのは、明らかに再来しているのである。同調圧力の恐怖が再来している!

それは、いやだ! この社会はそんな社会であってほしくない!

そう思うなら、どのような社会が必要なのか、を、改めて考える必要がある。いやなことはいやだ、と口にするだけでなく、中空構造的な「空気を読め」を超えるための、自律分散制御、というか、一人一人の魂の脱植民地化に向けたアプローチを、ここに書いてみたいと思う。

というあたりで、家事育児タイムなので、たぶん、つづく。

心配ごとを意識化する

目が時折ぴくぴく痙攣する。胸に圧迫感を感じている。そわそわした気持ちになる。こういう焦燥感を感じるのは、2011年3月11日の後の苦しい数ヶ月と、非常に酷似している。

新型コロナウィルス関連で、4月6日の夕方、緊急事態宣言の対象地が兵庫であるとも知り、子どもの通う学校も連休明けまで休校という連絡を知る。その後、勤務先や非常勤先からも、授業の遠隔授業やオンライン化の要請が届く。情報は聞きかじっていたが、一気に現実に直面すると、しんどい。不確実性が急速に高まり、状況がコントロールできない。どうしてよいのかわからず、右往左往する。不安や心配ごとで頭の中がパニックになりそうになる・・・。

ん、まてよ。これってどこかで聴いたことがある、だけでなく、書いた事もしゃべった事もある内容だぞ。そう、この数年間学び続け、実践もしてきたオープンダイアローグ(Open Dialogue: OD)や未来語りのダイアローグ(Anticipation Dialogue: AD)が必要になる状況でもある、心配ごとが最大化しつつある状況なのだ。そういうときだからこそ、ダイアローグが必要不可欠。

実は、昨日の朝も、ダイアローグをしていた。1ヶ月前にSOSをもらった、高松の中村さん、大美さんとのダイアローグの続きである。昨日はお仲間2人も加わって、計5人でのZoomダイアローグだった。

昨日は、ADの基本的なやり方を踏襲してみた(ADの基本的なことは3年前のブログを参照)。

①この1ヶ月のあいだに、どんな良い変化がありましたか?
②この1ヶ月のあいだに生じた心配ごとや不安はなんですか?
③良い変化を増やし、心配ごとを減らすために、誰となにが出来そうですか?

この3つのテーマで、一人ひとりの声を聴く。「はなす」と「聴く」をわけて、相手の声を聴きながら、自分の中で浮かび上がってくる内なる声にも耳を傾ける。話をまとめようとはせずに、ある方向に枠づけようともせずに、「いま・ここ」で浮かび上がってくることを、そのものとして差し出してもらう。

その中で、良い変化としては、「お互いの価値観や方向性について、じっくり話をすることができた」「どう感じるのだろう、なぜそう考えるのだろう、と深く思考し、色々考えるようになった」「自分たちが大切にしてきた軸を、再認識することができた」「仕事が減って、時間が出来たので、日々をこなすだけでなく、丁寧に生きるようになった」「この1ヶ月で新しい動きをしている人と新たに出会えた」などの話が出てきた。

その後、この1ヶ月で生まれた不安については、実に多様な話が出てきた。詳細は省くが、皆さんがそれぞれの現場で、様々な不安を感じていることが、聞こえてきた。それは、コロナウィルスそのものへの不安、というよりも、日常の活動や判断を継続できるかどうか、何が正しいかがわからない、同調圧力がきつくてそれと違うことを感じ・考え・表現することが怖い、自分の発言がどう他人に影響を与えるのかが不安だ、言葉をどう選んだら伝わるのかがわからない、一つの方向に流れていくのがなんだか怖い・・・。そういった、ウィルスと向き合う人々の動きやこの社会のダイナミクスの不安定さ、不確実さへの不安のようにも、思えた。

そして、ダイアローグの中で、大美さんと中村さんの意見が少し対立した場面もあった。でも、その時に僕が伝えたのは、次の話だった。(書くに当たって、言い足りなかった部分も補足してみた)

『対話には、二つの対話があります。①「違いを知るための対話」と②「決定のための対話」です。当事者研究をしている東大の熊谷晋一郎さんは、セルフヘルプグループで行われているのは、「共有のための対話」であり、企業などの意思決定は「決定のための対話」である、とその違いを言っている。実は僕がADを学んだトム・アーンキルさんの所属する研究所では、何かを決める日には、午前中にお互いの意見の違いを出しあった上で、ランチブレイクを挟んだ上で、午後、決定のための対話をする、という。つまり共有や違いを知るための対話と、決定のための対話をわけているのです。
そして、今日の場面では、決定のための対話ではなく、違いを知るための対話だと思います。だからこそ、違和感があったり、納得出来ない声も出てくると思います。でも、自分とは違う声がある、と知ることで、その声を受け止めることで、それを納得しなくても、違いを理解出来ればよい、となるはずです。
不安が高まって、どうしてよいのかわからない、先の見えない今の時期ほど、いきなり決定のための対話をするのではなく、違いを知るための対話をすることが大切だし、今日の対話もそういう対話なのだと思います。』

この話をしたあと、「こういう場だからこそ、言ってみてもいいかな、と思うことがあるし、それを聴いてもらえるのがよかった」「不安を解消することって出来ないけど、不安といかに折り合いをつけるかが、今日の対話の中で腑に落ちた」「メールやブログでは伝わらないことが、こういうやりとりの中で伝わった」「自分が関わる人とのあいだで、しっかり相手の声も聴きたいと思った」といった声が聞こえてきた。

僕が感じたのは、ODやADは精神症状の急性期や、「問題行動」が最大化されたときに有効だとされているけど、今のこの新型コロナ騒動の渦中は、社会的な危機、という意味で、まさに社会の急性症状だ、ということだ。そして、それは2011年の東日本大震災の時に僕が感じたことと通底している。あのときは、一次的存在論的安定が失われて、気が狂いそうだった。(その時のことは「存在論的裂け目」というブログに記している)

9年前の僕は、妻にはその時の焦燥感やしんどさを話していたけど、職場や同業者などとは、自分の不安や心配ごとを主題化したダイアローグをすることが出来ず、すごく苦しんでいた。多少臨床心理をかじっていたので、うわごとのように「教育分析が受けたい」と叫んでいたが、よく考えたら自分の不安や心配を聴いてもらいたい、カウンセリングをうけたい、という思いだったと今振り返って、思う。その直後に山梨の漢方内科、中田薫先生に繋がって、じっくり話を聞いてもらい、心身の様々な不調にも向き合ってもらえたのを思い出した。以後、関西に戻っても、漢方治療は続けている。

9年前と今の違いは、今なら自分の不安や心配ごとを、そのものとして口にして良いのだ、と自覚できるようになったこと。そして、Zoomを通じて、その不安や心配ごとを聴いてもらえる、ダイアローグが出来る仲間が複数いる。これは、ものすごく大きな違いである。

もちろん、ダイアローグをしたら不安が消えるわけでも、ウィルス感染を防げる訳でもない。でも、不安や心配ごとを主題化したダイアローグを続けるなかで、多様な声を聴く中で、そして自分の声も聴いてもらえるなかで、他者との対話による「水平の対話」と、己の心の声との対話という「垂直の対話」が重なる。そして、この二つの対話が重なる中で、己の不安や心配ごとが鎮まっていくのだと、感じている。

外出自粛など、様々な自由が制限され、不安が高まる時期だからこそ、不安や心配ごとを否定せずに、自覚化したうえで、丁寧なダイアローグの機会を大切にしたい。そう改めて感じている。そして、9年前も、今日も、こうやってブログに書きながら、自分の感じた・考えた・経験したプロセスを言語化することにより、自分自身の気を鎮めようともがいている自分がいることも、改めて発見した。