理解の先にある希望

坂上香監督のドキュメンタリー『プリズン・サークル』をやっと拝見できた。前作の『ライファーズ-罪に向き合う』の書籍化されたものがすごく面白く、前任校の大学図書館でドキュメンタリーDVDを購入してもらい、死刑絶対賛成派のゼミ生と一緒にみたら、彼はあまりのショックに上映後立ち上がれなかった。ゼミ生はその映像を見ながら、自分の信じてきたことが覆されて、死刑囚の気持ちや背景が「理解できてしまった」という。そのライファーズのような治療共同体が、日本の官民協働の刑務所である「島根あさひ社会復帰促進センター」で取り組まれ、その実践を2年にわたって追いかけたドキュメンタリーである。

僕はこの映像を見ながら真っ先に思い浮かべたのが、幻聴や幻覚を巡る周囲の反応との共通性であった。オープンダイアローグや当事者研究が広く知られるようになるまで、日本の精神医療の現場でも、長らく、「幻聴や幻覚のことを本人に聞いてはいけない」という不文律のようなものがあった。幻聴や幻覚はなくすことが大切なので、それを聴いてしまうことによって、その幻聴や幻覚を刺激し、ますますそれらに支配されることに繋がるのではないか、と言われていた。その「話してはいけない、聴いてはいけない」は支援者だけでなく本人にも強い規範として機能し、「医者の前では幻聴について話すと薬が増やされるし医療保護入院させられるかもしれないから、言わないでおこう」という「対処療法」が取られることもある。だが、誰にも話さない中で、幻聴や幻覚はますます支配的になり、本人は追い詰められて、アンコントローラブルな状況に追い詰められることもある。

その構造と、『プリズン・サークル』に出てくる受刑者達の語りに、強い共通性を感じたのである。

受刑者達は治療共同体の中で、事件のことを語る前に、まずは自分の過去のことを語ったり、仲間のそういう語りを聴くことからスタートする。そして、彼ら(男性刑務所なので登場人物は全て男性)の物語を聴くと、家庭内での虐待や愛情不足、無視・放置、いじめ・・・など、「安心できる・自分が護られる環境や感覚」とは真逆の子ども時代を過ごしてきた話が、次から次へと語られる。その中で、暴力や憎悪の連鎖の中で被害者から加害者に転換したり、軽微な万引きが常習化していくプロセスも、語られていく。

ここで大切なのは、治療共同体で語られるこれらの物語が「健常者」や「専門家」から一方的に査定や評価、断罪などがされるわけではない、ということである。そうではなく、治療共同体の仲間から、違った視点・角度で、それらのエピソードについての質問やコメントがなされていく。すると、誰かに説得されるのではなく、語った受刑者の中でも「そういう見方もあったんだ」という気づきが生まれる。蓋をして見ないようにしてきた、自分が封印した「自分自身の傷ついた体験」も、そのものとして語り、聞き、考え合う。

この治療共同体のプロセスは、オープンダイアローグや当事者研究で大切にされているような、精神障害の当事者の内在的論理を、制約することなく安心して語れる場作りの構造と、共通していると感じる。「反社会的」な「問題行動」といわれるような言動に至るには、どのような背景や、本人の中での内在的論理があるのか。生きる苦悩の最大化した姿があるのか。それを、本人一人だけでなく、周囲の人との関わり合いの中で模索していこうとする。そして、本人のなかで強く規定された「どうせ」「しかたない」「世の中そういうもんだ」という強固な認知前提を、そのものとして話しても馬鹿にされない。それどころか、真剣に聞いてもらい、理解や共感もしてもらうなかで、別の風にも考えられるかもしれない、という、違う可能性が、本人のなかで芽生える。説得ではなく、納得のプロセスである。

そして、そのプロセスが作られる前提として、ブログでも拙著でも何度も紹介している、フランコ・バザーリアの次の言葉を今回も引用する。

「病気ではなく、苦悩が存在するのです。その苦悩に新たな解決を見出すことが重要なのです。・・・彼と私が、彼の<病気>ではなく、彼の苦悩の問題に共同してかかわるとき、彼と私との関係、彼と他者との関係も変化してきます。そこから抑圧への願望もなくなり、現実の問題が明るみに出てきます。この問題は自らの問題であるばかりではなく、家族の問題でもあり、あらゆる他者の問題でもあるのです。」 (出典:ジル・シュミット『自由こそ治療だ』社会評論社、p69)

この「病気」を「犯罪」と置き換えると、「プリズン・サークル」で描かれている治療共同体の内容そのものでもある。精神病や犯罪は、常識の世界からほど遠いものとされ、「理解不可能」で「一線を越えたもの」だと、ラベルが貼られやすい。「精神病」や「犯罪」なんだから、精神病院や刑務所で隔離収容されるのは仕方ない、おわり。「理解不可能」なことをした人は、治療や矯正が専門施設でなされて、「まともな人」に戻らない限り、「社会復帰」はさせるべきではない。そうしないと、私たちの社会の安全は護られない。こういう「他人事」からの社会防衛の発想である。

だが、精神病や犯罪を「生きる苦悩の最大化」と捉えると、「他人事」の話ではなくなる。誰しもが「生きる苦悩」から自由である訳ではない。僕には僕の、あなたにはあなたの、「生きる苦悩」がある。そして、運良く・偶然にも、それが最大化していないから、精神病にも犯罪にもならずに、いま・ここ、にいる。でも、目の前で語られる家族関係のしんどさが、もし自分自身の経験としてそれを生き抜かざるを得なくなった時、精神病にならずに、罪を犯さずに、サバイブすることが本当にできるだろうか。そう思うと、犯罪者や精神病者は自分とは違う、という強固な分断線が溶解していく。

そして、プリズン・サークルを見ながら感じるのは、受刑者の辛さを「わかる」ことで、その強固な分断線が溶解してしまう、ということである。これは、幻聴や幻覚の状態にある人の「生きる苦悩の最大化した姿」を聴いていると、その辛さが「わかる」こととも通じる。犯罪者や精神病者は自分と違う、と強固な分断線を引いて、他人事にしていた。にもかかわらず、「他人事ではないかもしれない」「もしかしたら自分にも生じうることかもしれない」と気づいて、その線が揺らぐ。精神病や犯罪はあくまでも「他人事」だったはずなのに、「この問題は自らの問題であるばかりではなく、家族の問題でもあり、あらゆる他者の問題でもある」と気づかされることによって、他者への糾弾の矢印は、気づけば自分自身も含めたこの社会を捉え直す、視点の捉え直し、常識の捉え直し、アウトフレームに繋がっていく。

そういえば、坂上香さんが代表を務めるout of frameというNPO団体には、こんな表現があった。

アウト・オブ・フレームとは、フレームに収まりきらない現実や、主流からずらすことを意味しており、型にはまらない独自の映像活動を目指していますたとえば、暴力からの脱却や変容をテーマにしたドキュメンタリー映画の製作や上映、DVDの販売、生きづらさを抱える子どもや女性たちとのコラボレーションやイベント運営など、多角的な表現活動を行っています。」

フレームに収まる現実、とは、精神病者は精神病者に、犯罪者は刑務所に、隔離収容してそれでおしまい、という現実である。でも、そこで「収まりきらない現実」が、ライファーズやプリズン・サークルの中には溢れている。それは、僕がずっと伺ってきた、学んで来た、精神病を持つ人の語りとも通底する、「社会の主流の語りに収まりきらない現実」である。それを見てしまったからこそ、かつてのゼミ生も立ち上がれないほどのショックを受けた。(ちなみに、フレームに収まりきれない現実に関しては、僕も『枠組み外しの旅』の中で違った角度から考察しています)

そして、そのフレームに収まりきらない現実を、罪を犯した本人が蓋をして見ないようにするのではなく、それを同じ経験をもつ受刑者と語り合う中で、少しずつ、開いていく。「犯罪」と自分でも閉じ込めることなく、「生きる苦悩の最大化」した状態をそのものとして認めるからこそ、その延長線上に、初めて「犯罪」をそのものとして受け入れることが出来る。「生きる苦悩」に蓋をして、だからこそ自らの犯した「罪」も「他人事」だと蓋をしてきた受刑者が、「生きる苦悩」と蓋をせずに向き合い直すからこそ、自分自身の声を取り戻し、だからこそ、他人の声も自分の中にはじめて入ってくる。その中で、はじめて「自分が取り返しのないことをしてしまった」ことに、やっと気づける。その土台を獲得できる。そして、それを受刑者仲間に語ることが出来る。

この話は、刑罰をなくすべきだ、とか、被害者より加害者の権利を優先したい、という話ではない。本当に再犯を予防したいのであれば、単に厳罰化するのではなく、このような治療共同体での実践を通じて、本人が様々なものに蓋をしてきた、そのプロセスに本人が気づき、納得して変容できる支援をしていく必要があると感じる。それは甘やかすのではない。ある意味、普通に受刑者としての刑期を過ごすより、自分自身の見ないようにしてきた過去や傷と向き合うことは、遙かに内的にきついことである。でも、自由を奪われた刑務所において、本来なされるべき「矯正」とは、使役労働よりも、このような内面との向き合いなのではないか。そのために、この社会は何をどう変えていけばよいのか。

このドキュメンタリーを見てから、ぐるぐるグルグル、考え続けている。

でも、少なくとも現時点で、決めつけの先には絶望しかないが、「理解の先にこそ希望がある」と思っている。そのことだけは、映画を見て、直感的に捉えることができた。

*この映画、7月10日まで「仮設の映画館」でやっています。これは、家事育児の都合でリアルの映画館に行く時間がとれない僕には、本当にありがたい存在。これまで沢山のドキュメンタリーを見逃してきたので、ぜひとも引き続き、やってほしいと願っている。独立系シアターにちゃんと入場料が支払われるなら、ハイブリッドで放映し続けてほしいとも思う。それは、僕のように映画館に行きにくい・行く機会がない人に朗報だし、映画を見る習慣が出来たら、劇場でもまたみたい、ときっとなるはずだ。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。