ノーマライゼーションと入所施設

気になる記事を読んだ。

「老朽化による建て替えを段階的に進める宮城県の知的障害者施設「船形コロニー」(大和町)のうち居住棟2棟が完成し、現地で1日、開所式があった。」「村井嘉浩知事は「思い入れの強い施設。ノーマライゼーションの哲学を生かし、有効に施設を活用したいと思い、残した。入居者や家族が安心できるよう充実を約束する」とあいさつした。」「船形コロニーは1973年開所。浅野史郎前知事が04年、県内全ての知的障害者施設の閉鎖を目指す「施設解体宣言」を打ち出したが、村井知事が06年にコロニー解体を撤回した。」(河北新報2020年9月2日

船形コロニーには、「施設解体宣言」が打ち出された直後に、調査に出かけたことがある。巨大な敷地に多くの知的障害者を収容する、障害者の大規模入所施設だ。もともとグループホームの推進を厚生労働省の課長として進めてきた浅野史郎さんが宮城県知事になった時、入所施設を解体し地域の中で暮らしてもらうことを宣言した施設解体宣言が出された。スウェーデンでは2003年に入所施設をゼロにした実情を現地調査していた僕にとっては、日本でもやっとその方向が打ち出されたことを、歴史の転換点として喜んで受け止めた。そして、船形コロニーの前にすでに実質的な施設縮小を始めていた長野県の西駒郷の調査も行っていたので、いよいよ日本でも入所施設は本格的に縮小解体されていくのだとこの時点では感じていた。

だが村井知事は「コロニー解体の撤回」をした上で、「重い障害がある人は入所施設でケアをし続ける」と言う宣言でもある。知事は「ノーマライゼーションの哲学を生かし」と述べているが、これは本当の意味でのノーマライゼーションの哲学を知るものからすると、全くその哲学を生かしていない、理念の誤用・逆行である。

2年前、「ノーマライゼーションの育ての父」と言われるベンクト・ニィリエのことを掘り下げた本を書いた。1969年に英語でノーマライゼーションの原理を発表し、アメリカを始め世界中に脱施設化の動きを進め、知的障害者福祉の歴史を変えた重要人物の1人と言われる人である。そのニィリエが、半世紀前にノーマライゼーションの原理を初めて言語化した文章の中で、居住環境についてこのように述べている。

「ノーマライゼーションの原理の重要な部分は、例えば、病院、学校、養護施設、生徒のホーム(訳注:学校に通う子どものための小規模グループホーム)や下宿ホームなどの建物の基準は、一般の市民向けの同様な建物に対するものと同じでならなければならないと言うことだ。この原理により、いくつもの特殊な結果を見出した。
a それは、知的障害者向けの施設の規模は、社会にあるノーマルな人間的なものと同等でなければならないと言うことだ。知的障害者の施設は、周辺社会の人々の生活の場よりも、多くの人々が一緒に生活する場として考えられたものではなく、周辺社会と同等なものにすることを常に念頭に置かなければならないと言う意味だ。
b ということは、さらに知的障害者のための施設が、単に知的障害者向けというだけの理由で、孤立した場所に設置されてはならないと言うことを意味しているのだ。
ノーマルな立地条件と建物の水準、そしてノーマルな規模のものであれば、知的障害者向けの施設は、そこに住み生活する人たちに統合成功に向けてのより優れた可能性を与えてくれる。」(ベンクト・ニィリエ著『再考・ノーマライゼーションの原理』現代書館、p19-20)

ニィリエは「知的障害者向けの施設の規模は、社会にあるノーマルな人間的なものと同等でなければならない」と述べている。「多くの人々が一緒に生活する場として考えられたものではなく、周辺社会と同等なものにすることを常に念頭に置かなければならない」ということは、人里離れた場所にある大規模入所施設を否定し、グループホームに代表されるように、普通の人の住居と同じ規模のもので、少人数での生活を念頭においている。このニィリエの哲学と、村井知事が言う「ノーマライゼーションの哲学」は、全く真逆である。

ニィリエは、知的障害者も他の人と同じような生活環境を与えられるべきであると主張した。障害者だけが集団生活をさせられるのはおかしい。この単純な原則に基づき、普通の暮らしを実現するためには、入所施設を解体縮小し、街の中で少人数で暮らせるような支援システムを作るべきだと唱えた。実際にスウェーデンでは、2003年に入所施設は本当になくなり、どんなに重い知的障害を持っている人でも、グループホームなど街の中にある住まいで暮らすことができ、そこから買い物や余暇など地域での暮らしを楽しめるような仕組みを作った。

そして日本における施設解体宣言とは、1人の知事による人気取りのパフォーマンスではなく、本来であれば重い障害のある人も地域の中で当たり前に暮らせる、ニィリエが言う意味でのノーマライゼーションの原理の実現に向けた方向転換であったはずだ。

宮城県での施設解体宣言が出される前から、実質的に施設の縮小を進めてきた長野県の西駒郷に調査に入っていたこともある。これは大阪府立大学の三田優子さんの研究チームに混ぜてもらった時のことだ。この西駒郷の地域移行は、「ノーマライゼーションの哲学」を極めて忠実に守ったものであった。入所施設で暮らしている人にじっくりと本人の意向を聞き取った上で、本人の居住位置に近いところにグループホームを作り、そこで仕事の場を探す。そしてグループホームでの生活に自信ができたら、一人暮らしへの移行(グループホームからの卒業)も支援する。そんなプロセスである。(詳しくはこの当時の調査報告書もネットで読むことが出来る)

この当時、多くの知的障害のある当事者に聞き取りをしていて、非常に印象的だったことがある。それは、入所施設にいたときには、「もうここでいい」と思っていた人が、グループホームで住むようになると、自分の自由が増え、誰にも邪魔されない1人部屋の快適さや、制約の少ない生活環境を楽しむようになり、入所施設に戻りたくないと言い出したと言うことである。入所施設の生活しか知らない人は、「ここでいい」と思っている(諦めている)が、別の生活の選択肢もあり得るのだと知ると、入所施設でない生活の方が良いとおっしゃるのである。

ただ西駒郷の地域移行にも限界があった。強度行動障害や、いわゆる重度障害とラベルが貼られている人を地域で支えるには、かなりの人員配置が必要なのだが、国の制度ではそこまでの体制が十分に整えられていなかったため、思うように地域移行が進まなかったのである。 また「親なき後の我が子の幸せ」を切実に願う、知的障害者の保護者たちの中には、入所施設こそが安心できる場であり、入所施設をなくされると我が子の生活保障はできないと強く思い、施設存続を求める人もいた。その中で西駒郷も重度障害者のための新しい入所施設を作り、現在でも重度障害の人はそこで暮らしている。つまり障害の重い軽いの違いによって、暮らす場所が異なっているのである。そしてこの論理が、船形コロニーにも引き継がれてしまった。

だが「入所施設こそ安心できる場」と言うのは、幻想である。そのことを明確に知らせてくれるのが、神奈川県の入所施設での事件である。相模原で起きた障害者連続殺傷事件の舞台である入所移設と同じ法人が経営する、別のやまゆり園で、虐待事件が発生した。

「愛名やまゆり園は、知的障害のある人約100人が入所。県に匿名で「人権侵害にあたるのでは」との情報が寄せられたことから調査に踏み切った。関係者によると、男性の居室(1人部屋)のドアの引き戸の取っ手にガムテープがはられていることを県担当者が確認した。男性は、けが防止を理由にミトンの手袋をはめられており、自分ではドアを開けられない状況だったという。」(毎日新聞2020年9月2日

僕はこの記事の「男性は、けが防止を理由にミトンの手袋をはめられており、自分ではドアを開けられない状況だったという」を読んで、船形コロニーの重度棟で自分自身が体験した、あることを思い出していた。それは、こんな風に言語化したことがある。

「10年以上前,とある入所施設で調査研究を行う際,まずはその施設の実情を学ばせてもらおう,と「1 日体験」 をさせてもらった。私が受け入れられたのは「重度棟」と呼ばれ,強度行動障害をもつ方や,重症心身障害の方が入所されていた。その棟に足を踏み入れてまもなく,何も言わずにスッと近寄ってきて,私の手を握ってくれた男性がいた。仮に Aさん,と呼ぼう。
Aさんは言語的コミュニケーションが難しい方である。 私がいろいろ話しかけても,何も答えてくださらない。でも,ずっと手を握って,施設内をあちこち動こうとする。 「なるほど,今日は 1日 A さんが私にお付き合いしてくだ さるのだな」と勝手に納得して,手をつながれるまま,施設内をぶらぶらしていた。その後,とある「事件」が起こることなど,全く予期せぬまま。
Aさんと私は,日中はデイルームとして開放されている,食堂の片隅に座っていた。やがて夕食の配膳の準備が始まると,支援スタッフがそこにいた当事者のうちの何人かを食堂の外に出し,食堂の扉の鍵を一旦施錠する。多くの利用者は,食堂の外からガラス越しにこちらを眺めている。私と A さんはその光景を,食堂の中からぼんやり見ていた。
そして,支援スタッフは当日の夕食の配膳を始めた。味噌汁にご飯,おかずと各テーブルに並べていく。A さんと私が座っているテーブルにもその食事が並べられていった。すると突然 A さんは,目の前のおかずを猛烈な勢いで食べ出した。必死の形相で,目の前の一人分だけでなく,他の人の分まで食べようとする。私はオロオロして, 「A さん,食事時間まで待とうよ!」と語りかけ,ご飯を食べる手を押さえようとするものの,A さんは食事に集中して聞いてくれない。するとベテランスタッフたちが「しまったなぁ」という顔でやってきて,暴れて抵抗する A さんを二人がかりで抱きかかえ,食堂の外に連れ出す。オロオロしながら後から私もついて行くと,「静養室」と書かれた部屋に A さんを入れ,外から鍵をかけた。A さんは必死に扉をガンガン叩いているが,あるスタッフは「もう今日の晩飯は十分に食べたから,オシマイ」と言って,食堂に戻っていった。
後でそのスタッフに伺うと,食堂の配膳時には,きちんと食事まで待てる人以外は外に出ておいてもらわないと今日のようなことが起こるということ,そして A さんは普段は外に出される人であるということ,今日は私が一緒にいたのでそれをしなかったこと,が語られた。私には,「静養室」の中から扉を叩きながら私を見つめる A さんの表情が,今でも脳裏に浮かぶ。そして,「静養室」から出された後の A さんは,私と目を合わせず,決して手もつないでくださらなかったことも・・・。」
(竹端寛「私たちが目指す共生社会の 実現に向けて」さぽーと 2014.02 )

やまゆり園で「けが防止を理由にミトンの手袋をはめられて」いた男性も、僕が船形コロニーで出会ったAさんも、「自分ではドアを開けられない状況」だった。おそらく二人とも、言語的コミュニケーションでやりとりすることが難しく、「強度行動障害をもつ方や,重症心身障害の方」とラベリングされていたのだろう。そして、「注意しても聞かないから」と、「自分ではドアを開けられない状況」に押し込められていた。

ただ、どちらも入所施設での制約だった、というのがポイントである。大規模入所施設では、集団生活が基本であるため、一人一人のニーズが尊重されにくい。そもそも、支援の人手がかかるため、50人など多人数を「効率的」に収容し、24時間同じ場所にいてもらうことで、「効率的」にケアするのが、入所施設の根本的特徴である。そこには第三者の目が届きにくい。そのような現場で、自分自身の尊厳が守られない生活を送っていると、「必死の形相で,目の前の一人分だけでなく,他の人の分まで食べようとする」のである。それは、Aさんが野蛮だから、聞き分けのない人だから、ではない。ふだんから満足に自分の希望が満たされていないと思い、それがやっと第三者(=何も知らない竹端)の介在によって満たされるから「必死の形相」になるのである。逆に言えば、普段から自分の希望が満たされていたら、そんなに必死にはならない。

そのように、自分自身の願望が満たされてないと言う欠如があるだけではなく、もう一つ大きな問題がある。それは職員が言うことを聞かない場合、外から鍵がかかる部屋に閉じ込められると言うことである。施設収容においては真にやむを得ない場合のみ隔離拘束が認められているが、それが現場レベルでは、どんどんと拡大解釈され、濫用されていると言うことである。やまゆり園はその濫用が内部通報によって発覚した。

入所施設はただでさえ第三者の目が入りにくく、職員と利用者の間でヒエラルキー的な支配—服従に結びつく、強固な上下関係が成立しやすい。しかも最近の入所施設は、職員の賃金構造がいびつで、若手職員を中心に臨時職員の雇用が多く、十分な研修等が受けられているわけではない。強度行動障害や重症心身障害の人でも、適切な関わり方をすれば充分に落ち着く事は可能(RDIなど色々な支援方法は日本でも導入されている)なのに、そのような適切な関わり方の支援の研修を受けないまま、とりあえず目の前にいる利用者の危機に対応することが求められる。すると少人数で場を治めるためには、いうことを聞かない人は、とりあえず別の部屋に閉じ込めておくというのが、安易な解決手段である。今から振り返ってみると、Aさんが閉じ込められていたのも、その安易な解決策だった。

つまり入所施設と言うのは、当事者にとって決して安心できる場ではないのである。しかも、施設職員個人が悪だとか、そのような個人レベルの問題ではない。そもそも一人ひとりの支援ニーズが異なる人々を集団で集めて、規格化された支援の中に押し込もうとする、入所施設の構造そのものが問題なのである。だからこそ脱施設化や施設解体が必要であるとノーマライゼーションの原理で述べていたのである。ノーマライゼーションの哲学を本当に理解しているのであれば、せめて入所施設を小規模にしたり、地域の中で重い障害がある人も暮らせるような支援体制を構築することこそ求められている。まかり間違っても新しい入所施設を作って、それがノーマライゼーションの哲学に沿っているなどと言うのは、誤解も甚だしい。

100歩譲って保護者が求めるからと言うのであれば、本人が本当に求めるような生活を保護者と共に作り上げていく必要がある。実際相模原で連続殺傷事件が起こった津久井やまゆり園の元利用者達に向けては、地域の中で暮らしたい人のニーズに沿った支援が展開され始めている。そのことを物語る、象徴的な記事がある。

「事件が転機になった。神奈川県が園を現地で再建する方針を決めると、障害者団体からは「障害者の生活の場を施設から地域に移す『地域移行』の流れに逆行する」と批判が噴出した。
「園でしか生活できない人がいることを知って欲しい」。剛志さんは当初、強い反発を覚えたという。
だが、事件を考える講演会やシンポジウムに参加するうちに、重い障害があっても、介助を受けながらアパートなどで自立して暮らす人がいることを知った。実際に自立生活をしている人を訪ねた。重い知的障害がある人が、介助者とともにアパートで暮らし、外出したり家でご飯を食べたりしていた。
「そういう暮らしもあるのか」
昨夏から、毎週の面会に、介護福祉士の大坪寧樹(やすき)さん(51)が加わっている。今後は、大坪さんと2人で外出したり、短期間の2人暮らしを経験したりするつもりだ。施設暮らしと、アパートでの生活と、どちらがいいか。両方を経験し、一矢さんが決める。
「事件があって、一矢の生活も変わった。一矢の選択肢を増やすのが、僕にできることだと思う」と剛志さん。」
やまゆり園か地域か 生活の場、自分で選ぶ 事件3年

一矢さんは、バリバラの映像で何度か拝見したことがあるが、僕が出会ったAさんと同じような、「重度」とラベリングされる障害を持っている。そして、親の剛志さんは、事件後も「園でしか生活できない人がいることを知って欲しい」と当初は訴えていた。だが、一矢さんやAさんと同じような重い障害のある人も地域で暮らしていることを知り、「そういう暮らしもあるのか」も知ることで、別の暮らし方を模索し始める。それが、「一矢の選択肢を増やすのが、僕にできることだと思う」と剛志さんの考えを変えるにいたった。

このプロセスが、たまたま残虐な事件が起こった津久井やまゆり園の元入所者には与えられ、別のやまゆり園で「けが防止を理由にミトンの手袋をはめられて」いた人や、僕が出会ったAさんには与えられていなかった。それは、あまりに不平等だし、一般社会の人と同等な暮らしが提供されていない。アブノーマルであり、おかしい。

村井知事は重度障害者施設を建てることではなく、意思決定支援や重度訪問介護、重度障害者向けのグループホームなどの支援体制を増やし、「園でしか生活できない人がいることを知って欲しい」と思っていた当事者や保護者に対して、「一矢の選択肢を増やすのが、僕にできることだと思う」と剛志さんの考えが変わるような、そういう支援を提供すべきではないのか。それが村井知事のいう「ノーマライゼーションの哲学」ではないか。

そんなことを考えている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。