生活の自立と自尊を取り戻すために

シャドーワークというのは「賃金不払い労働」(=アンペイドワーク)だと思っていた。そして、賃金不払い労働というのは、賃金労働ではないものに対しても対価を払え、というフェミニズムの運動の中から出てきた言語だと思い込んでいた。だが、その発明者でもあるイヴァン・イリイチは、以下のように賃労働とシャドーワークの関係性を整理する。

「これは、産業社会が財とサービスの生産を必然的に補足するものとして要求する労働である。この種の支払われない労役は生活の自立と自尊に寄与するものではない。全く逆に、それは賃労働とともに、生活の自立と自尊を奪い取るものである。賃労働を補完するこの労働を、私は<シャドー・ワーク>と呼ぶ。これには、女性が家やアパートで行う大部分の家事、買い物に関する諸活動、家で学生たちがやたらに詰め込む試験勉強、通勤に費やされる骨折りなどが含まれる。押し付けられた消費のストレス、施療医へのうんざりするほど規格化された従属、官僚への盲従、強制される仕事への準備、通常「ファミリーライフ」と呼ばれる多くの活動なども含まれる。」(イリイチ『シャドー・ワーク』岩波書店、p192-193)

この指摘の中で着目すべきポイントは、シャドーワークを「賃労働を補完するもの」として捉えていると言う部分である。賃労働から排除されたものではなく、賃労働とシャドーワークは対の存在であり、シャドーワークのおかげで「産業社会が財とサービスの生産を必然的に補足する」ことが可能である、と定義する。その上で、焦点化すべき部分が二つある。一つは、家事育児という不払い労働に対価を払え、というのは、賃金労働を、「変えられない所与の前提」とした上で、その賃労働の範囲を広げよ、という主張である。だが、イリイチは、そもそも、賃労働とシャドーワークという二分法そのものを疑ってかかる。二つ目は、シャドーワークは賃労働を補完する労働であるため、その範囲を家事育児だけに限らず、試験勉強や通勤、教育・教育に代表される官僚制システムへの従属など、より広範な「ファミリーライフ」をシャドーワークと定義している点である。

鶴見和子はこの「シャドーワーク」を「影法師のしごと」と解釈した上で、以下のように整理している。

「影法師の仕事は、生存のための仕事(サブシステンス・ワーク)の対立概念である。中世期ヨーロッパでは、男女ともに生存のため最低限必要なものを自分たちの手で作って暮らした。結婚は生存のための仕事における男女の協働の基地であった。ヨーロッパでは、工業化による男女の役割分化が明らかになった19世紀前半に、男性は余剰価値の生産に駆り立てられる賃金ないしは給料取りに変身する一方、女性はそれを支える影法師の働き人に変化(へんげ=「トランスモグリフィケイション」)した。ただし職場への通勤に必要以上のエネルギーを消費することも、月給取りになるために学校で強制的に勉強させられることなども、影法師の仕事だから、男性もまた多かれ少なかれ、影法師的存在ではある。影法師におんぶしなければ、賃金取りも給料取りもできない仕組みになっている工業化社会のカラクリと、人間と自然との破壊をもたらすその恐るべき結果とを、イリイチは、この滑稽な表現によって警告しようとしたのである。」(鶴見和子「影法師のしごと」『イリイチ日本で語る 人類の希望』新評論p114-115)

「余剰価値の生産に駆り立てられる賃金ないしは給料取り」とは、生活の大半の時間を「余剰価値の生産」という「賃労働」に「駆り立てられ」、「生存のための仕事における男女の協働」をする余裕がなくなった人のことを指す。すると、家事育児だけでなく、通勤や強制的に勉強することも含めて、賃労働の対象外ではあるが、賃労働をするために必要不可欠な「影法師におんぶしなければ、賃金取りも給料取りもできない仕組み」ができあがる。これが「工業化社会のカラクリ」である。そこにも賃金を払え、というのが、未だ支払われていない賃金を支払え、という意味での「アンペイドワーク」の論理でもある。だが、そもそもイリイチが問うているのは、賃労働に駆り立てられることによって、生活の自立と自尊が奪われるのではないか、という問いである。賃労働とシャドーワークの対は、「生存のための仕事(サブシステンス・ワーク)」を消し去ろうとしているのではないか、という仮説である。

つまり、賃金が支払われない仕事と、賃金が支払われる仕事を対立させた上で、より多くの労働に賃金を支払えと言う論理は、「不払い労働」は労働として価値がない、という価値前提を認めることになる。そして、自らの「生活の自立と自尊」を売り渡して賃労働を行う現状を、追認することにもなる。イリイチはここに本質的な問い直しを行う。

「生活の自立と自尊を目指す活動を商品で代替する事は、必ずしも進歩とはみなされなくなっている。女性たちは、家事に伴う稼ぎのない消費活動が特権であるかどうか、あるいは彼女たちが実際には消費を義務づける支配的な構造によって堕落的な仕事を押し付けられているのではないか、を問うている。学生たちは、自分たちが学校へ行くのは学ぶためにあるか、それとも協力しておのれ自身の愚鈍化につとめるためか、を問うている。消費のために苦労が増え、消費が約束する心の安らぎはますます減っている。だんだん多くの人に知られるようになってきている事は、おそらくはそれほど非人間的でもなければ、それほど破壊的でもない、よりよく組織された労働集約的な消費と、人間の自立と自尊を目指す現代的な諸形態との間の選択である。この選択は、影の経済の拡大とヴァナキュラーな領域の回復との相違に対応している。」(イリイチ、『シャドーワーク』、p79)

「生活の自立と自尊を目指す活動」とは、自分の頭を使って考え、自分なりに試行錯誤しながら何かを産み出す活動だ、と仮に定義してみよう。その一方で、「消費活動」を「生活の自立と自尊を目指す活動」に対置するものと定義すると、自分の頭を使わなくても、試行錯誤しなくても、お金を出せば手に入る活動と定義してみよう。そしてそのような「商品」とは、標準化規格化された賃労働によって産み出されたものだ、としてみよう。

その上で、イリイチのいう「学生たちは、自分たちが学校へ行くのは学ぶためにあるか、それとも協力しておのれ自身の愚鈍化につとめるためか、を問うている」という課題を取り上げてみる。これは、自らも教育に携わる人間としては、この問いは自己否定に繋がりかねない、キツい問いだが、本質的でもある。

例えば僕の家の前には公立中学校がある。今年はコロナ危機でそうではないが、昨年までは毎年初夏のころ、中学校1年生向けの軍隊式の行進の練習がなされていた。号令に合わせて行進し、右向け右、回れ右、全体止まれなどの一糸乱れぬ形でやるように「教育」している。そして三角座りをさせ、乱れが生じたら先生からの怒号が飛ぶ。このようなことは、先生に反抗しない、自発的に隷従する身体を作り上げるための「教育」であり、イリイチの言葉に従えば、「協力しておのれ自身の愚鈍化につとめるため」の学校である。そうやって、世間に盲従することになれてしまえば、「消費を義務づける支配的な構造」を問うことなく、広告などで消費喚起されたものを自発的に購入し、その商品を購入するためには、よりよい賃労働は必要不可欠だ、と必死になって勉強し、先生に忖度し、良い成績・内申点を取ろうと必死になる。学校以外にも塾に通い、必死になってより偏差値の高い大学に合格しようと努力する。

これは、まさに賃労働主体になるための、賃金はもらえないけどそれに準備する「ファミリーワーク」としての、シャドーワークそのものである。そして、そのシャドーワークにおける子ども達の熾烈な競争主義は、さらに賃労働における弱肉強食主義を加速させ、「消費を義務づける支配的な構造」を問うことまま、そのような悪循環は再生産されていく・・・。

では、どうしたらこの悪循環を止めることができるのか? それをイリイチは、「生活の自立と自尊を目指す活動」であり、ヴァナキュラーな領域の回復である、という。

「ヴァナキュラーな仕事、つまり生存に固有の仕事(に価値:引用者挿入)を置く考えを、私としては提案したい。それは同じ支払いでない活動であるにしても、日々の暮らしを養い、改善していく仕事であって、標準的な経済学の内側で開発された概念を用いた分析では、全く捉え切れないものである。私はこうした活動に対してヴァナキュラーという語をあてたい。それというのも、「インフォーマルな部門」とか「使用価値」とか「社会的再生産」などの用語がカバーしている領域内では、この語によるのと同様な区別が可能な、一般に流布されている概念が他には見当たらないからである。ヴァナキュラーとはラテン語の用語であって、英語として用いられる場合には、有給の教師から教わることなしに習得した言語に対してのみ使われる。ローマでは紀元前500年から紀元後600年にかけて、家庭で育てられるもの、家庭でつくられるもの、共有地に由来するものなど、そのような価値のいずれをもあらわすことばとして使われた。さらにまた、人間が保護し、守ることができる価値—ただし市場では売買されない—を表す言葉としても使われた。商品とその影に対置させる用語として、この簡素な「ヴァナキュラー」という言葉を復活させてみてはどうだろうか。この言葉によって、<影の経済>の拡大と、その逆、つまり<ヴァナキュラーな領域>の拡大と区別することが可能になると思われる。」(イリイチ、『シャドーワーク』、p68-69)

イリイチのいう「ヴァナキュラーな言葉」とは、例えば「有給の教師から教わることなしに習得した」僕の話す関西弁である。部分的には商品を用いてはいるけど、「家庭で育てられるもの、家庭でつくられるもの」なら、我が家ではぬか漬けや塩麹、キュウリ・らっきょう・ショウガのピクルス、梅ジュースなどがある。どれも購入する商品より手間暇かかるし、へたをしたら安い完成品と同程度のお金がかかる場合もあり、「標準的な経済学の内側で開発された概念を用いた分析」では、非効率で無駄の多い作業かもしれない。でも、市販の商品よりは我が家の味として馴染んでいて美味しく、そうした食べ物を作るプロセスは、「日々の暮らしを養い、改善していく仕事」そのものである。なによりそれらは苦役としての賃労働やシャドーワークとは異なり、楽しいし、美味しい! そして、英語や日本語標準語をしゃべるときよりも、関西弁の方が、自分の気持ちが素直に表現出来るので、楽だ。

このような楽しさや、心地よさ、という感情を、賃労働とシャドーワークは商品を介在する形でしか認めない。そうしないと、多くの商品を買ってもらえないし、「経済が回らない」と思い込んでいるからだ。でも、楽しさや心地よさ、という感情や感覚は、過剰に消費をしなくても、ほどほどの消費で回っていくことが出来る。だが、このような発言は、消費をあおる生産性至上主義社会においては、禁句である。イリイチもこう述べている。

「「パックス・エコノミカ」はゼロ−サムゲームを守り、その公然たる進歩を保障するものだ。すべてのものがプレイヤーになり、「ホモ・エコノミクス」のルールを承認するように強いられる。このゼロ−サムのモデルに合うように行動することを拒否するものは、平和の敵として追放されるか、妥協するまで教育されるか、そのどちらかである。このゼロ−サムのゲームのルールでは、環境と人間労働の両者は希少な賭けである。そこでは一方が得をすれば他方が損をする。」(p35)

経済が支配する「パックス・エコノミカ」では、「一方が得をすれば他方が損をする」という「ゼロ−サムゲーム」がゲームのルールになる。そして、そのルールの中で勝ち上がる「ホモ・エコノミクス」として全ての人々がプレイヤーになることが強制される。「このゼロ−サムのモデルに合うように行動することを拒否するものは、平和の敵として追放されるか、妥協するまで教育されるか、そのどちらかである」。

生産性至上主義を括弧にくくろうとすると、狂人と言われて、精神病院に閉じ込められる。あるいは病院長であったフランコ・バザーリアが同じことをしたら、反精神医学だ、と、イタリアの精神医学会からは「平和の敵として追放され」た。しかしながら、ホモ・エコノミクスも、パックス・エコノミカも、人間の生存形態の多様性の中の一つに過ぎない。それ以外のやり方はあるはずである。にもかかわらず、「これしかない」「バスに乗り遅れるな」とばかり、「このゼロ−サムのゲームのルール」を極端に押しつけてきたのが、新自由主義的価値前提であり、規制緩和や労働市場の流動化、ニューパブリックマネジメントに代表される非市場領域の市場化・民営化ではなかっただろうか。

イリイチはこのようなパックス・エコノミカやホモ・エコノミクスに対抗する概念として、ヴァナキュラーな領域の回復を主張するだけでなく、「生活の自立と自尊を目指す活動」を重視した。別の本ではそれをコンヴィヴィアリティという形で整理している。

「私が差し迫ったものとして述べてきた危機は、産業主義社会内部の一危機ではなくて、産業主義的生産様式そのものの危機なのである。私が述べてきた危機は、自立共生的(コンヴィヴィアル)な道具か、それとも機械に圧しつぶされるかという選択に、人々が直面させる。この危機に対する唯一の対応の仕方は、危機の深さを完全に認識して、避けがたい自主的限界設定も受け入れることしかない。」(イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』ちくま学芸文庫、p234)

「産業主義的生産様式そのものの危機」なのだから、「産業主義社会内部」を漸進的に改良するだけでは済まされない。そうではなく、その生産様式に全面的に従うことに疑問を持ち、それ以外の方法で生きられないか、他の生活様式に基づいて、自立共生的(コンヴィヴィアル)な道具を用いて、「生活の自立と自尊を目指す活動」が展開できないか、を模索することである。塩と麹を配合して毎日かき合わせて塩麹を作る。ぬか床を毎日かき混ぜる。そのような、ごく小さい変化からはじめて、商品や消費に煽り立てられたり、過度に依存しない、自立共生的な食生活のあり方を考えてみる。

「このゼロ−サムのモデルに合うように行動することを拒否する」ことは、簡単ではない。でも、それを変えられない所与の前提として、「どうせ」「しかたない」と自発的に隷従するのではなく、「それ以外のあり方は出来ないだろうか?」とか、「賃労働とシャドーワークの両方に絡め取られない形で、子育てや家事などをするにはどうしたらよいだろうか?」という「問い」を抱き、誰かの「正解」を鵜呑みにせず、自分なりに頭で考えて、試行錯誤の実践をして見ることが問われているような気もする。

賃労働から完全に自由になることは、そう簡単ではない。でも、賃労働とシャドーワーク、というツインズの支配から、少しでも逃れるための努力は、可能である。苦役とか賃労働の為の準備としての「影法師」には、できる限り支配されたくない。自らの自立や自尊を取り戻すような、面白くて、楽しくて、そっちの方が楽だ、心地よいと思える、労働環境以外での生活をどう増やしていけるか。それは、子どもが喜んでくれるから、とピクルスや塩麹を作り始めた僕の動機とも一致している。そういう自立共生的な、コンヴィヴィアルな生き方の模索が、ある種の土着の生き方とつながっているのかもしれない。

しかし、土着の生き方、といえども、単なる復古主義とは違う。Zoomやメールなどを通じてオンラインで世界の多様な世界とつながり、そのつながりに喜びを覚えながら、移動を減らすことによって、時間的余裕を取り戻し、その時間をゆっくりゆったりまったりと、消費や消尽ではなく、「ヴァナキュラーな仕事、つまり生存に固有の仕事」をしながら、生を充実する。そういう生き方の領域をもっともっと増やしたい。

そう思い始めている。

そして、ツイッタにブログの紹介文を書いていて気づいたのだが、消費や賃労働とは別次元の「ヴァナキュラーな、生存に固有の仕事」を増やしていくことは、パックス・エコノミカという経済=生産性至上主義を越えるための、草の根レベルの個々人に出来るゲリラ戦的な生き方なのかもしれない、とも思い始めている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。