シンバル猿にならないために

シンバルを叩くおさる。それは最近はあまり見かけなくなかったが、昔はよくおもちゃ屋に売っていた、あの三三七拍子のお猿である。そんなシンバルを叩く猿に関する恐ろしい話を聞いた。

先日、こども園の保護者会に出かけたところ、理事長が運動会の振り返りの話をしてくれた。うちの子の通うこども園は、「子供を見せ物にするな」と言うポリシーで、一糸乱れぬ行進とかマスゲーム、鼓笛隊の演奏などは全くない。それはなぜなのか、と言う話をする中で、理事長が語ってくれたことが衝撃的だった。

「私は本当は鼓笛隊の指導がすごく上手なのです。びしっと揃えて子供たちを演奏させることができます。保護者からもずいぶん評判が良かったんです。でもある日、商店街でシンバルを叩く猿を見たとき、そのおさるの均一的なリズムが、子供たちの鼓笛隊と重なってしまったんです。それ以来、子供を機械じかけのようにして良いのだろうかと言う疑問が浮かび、以後、笛や号令に合わせて秩序よく子どもを動かすようなアクティビティを止めよう、と決めたんです。」

このエピソードは、とても印象的だったし、ハッとさせられた。僕自身が、大学と言う現場において、シンバルを均質なリズムで叩くおさるのように秩序付けられた「よい子」と沢山出会うからである。そして、それはブログで紹介した『ファシズムの教室』をも思い出させる。田野さんが大学でやっていた実験授業で、一糸乱れぬ整列などを体験した学生が、こんな感想を寄せていた。

「規律や団結を乱す人を排除したくなる気持ちを実感した」
「250人もの人間が同じ制服を着て行動すると、どんなに理不尽なことをしても自分たちが正しいと錯覚してしまう」(p116-117)

実はこの秩序感の気持ちよさは、幼稚園やこども園のマスゲームとか、鼓笛隊とかそういう段階から、延々と再生産され続けているのである。笛を吹いて、号令をかけて、右向け右、と整列させ、子ども達がそれにピタッと従う。それは、子ども達の自生的秩序ではなく、号令や笛を吹く人というひとつの権威や権力の秩序に従わせる姿である。一方、僕の子の通うこども園では、子ども達の自生的な秩序を生み出すことを大切にしている、という。年長組の子ども達が運動会の運営にも全面的に協力し、年下の子ども達を導き、みんなで運動会プログラムを作り上げていこうとする、という。そして、年下の子ども達も、お兄ちゃんお姉ちゃんに導かれて、一緒になって活動を楽しんでいく、という。

僕も大学と言う現場で教員をしているとわかるのだが、教員の言う事に一方的に従わせる方がはるかに楽である。学生たちに自分たちで考えてもらい、学年を超えて連携してチーム活動を展開してもらうためには、大人の側がそれなりの仕込みをする必要がある。そういうめんどくさいことをするよりは、教員が一方的に指示をして、枠組みを決めて、その枠の中にはまりなさいと指導する方がはるかに楽だとわかっている。しかも、対象にしているのは、大学生ではなく園児である。それは並大抵ではない、と思う。

だが、その一方で思うのだ。園児の頃から、頭ごなしに大人の言うことに従わせるのではなく、子ども達が自分たちで考え、協働し合うのを大人が助けるのが当たり前となれば、この国の教育の形や社会の形はかなり大きく変わるだろうな、と。大人に一律に従わせるよりは、自分たちの頭で自主的に考えて動くように促すのは、遙かに手間も時間もかかる。でも、そうやって手間暇かけることで、主体的に自律的に考える子どもが増えてくれば、大学生ももっと溌剌としているのではないか、と。

大学で教えていて思うのは、シンバルを叩く猿のように規律を従順に守ることに必死になってきた「よい子」が沢山いる、という現実である。彼ら彼女らは、楽しくてシンバルを均一的に叩いているのではない。そうしろと言われたから、そうしたら自分たちはもっといいことがあると教え込まれたから、無批判に無意識に均一にいただくことが可能である。でも自分の音を出してごらん、自分のリズムで叩いてごらんと言われたら、途端にどうしてよいのか、わからなくなってしまうのだ。僕の授業は別に音楽やダンスの授業ではないのだが、「あなたはこの問題について、どんな意見を持っていますか?」と尋ねても、「この先生なら、どのような答えを言えば正解と認めてくれるのだろう?」という思考方法に慣れきってしまっている学生が、一定数いるのである。それは、シンバルを一律に叩く猿のように仕込まれた期間が長すぎて、誰かの号令なしに、自分のリズムで奏でるやり方をすっかり忘れてしまったようにも、思えるのだ。

大学という現場で、そういう標準化・規格化された意見から自由になれない学生たちの「武装解除」というか、「自分の意見を持ってもいいんだよ」と解きほぐすような授業スタイルに変えて、はや10年以上。その中で、子ども達のこの不自由さの元凶は、センター試験に代表される、「正解」を覚え込む受験勉強のせいだろう、と思い込んできた。だが、今回こども園での話を聞きながら、既に園児の鼓笛隊とか運動会の号令とか、そういうところから10年15年と積み上げられてきた、標準化された集団一括処遇の「成果」だ、とわかると、末恐ろしくなった。だから、日本社会では多くの子ども達が、時間をかけて「シンバルを叩く猿」として仕込まれていくのだ、と。それが、生きづらさや閉塞感をもたらす一因でもあるのだ、と。

そんな世の中は嫌だし、娘もそういう世界から距離を置いて育ってほしい、と思う。だからこそ、親として、教員として、何が出来るのだろう。そういうことを、その話を聞いてから、ずっと考え続けている。

追伸:3年前に書いた自発的隷従の起源と結びついているような気もするので、そのリンクも貼り付けておく。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。