キキの萃点性

こないだ宮崎駿アニメのDVDボックスを買った。実はこの20年ほど、テレビを殆ど見ないので、某テレビ局で流されている宮崎アニメも、断片的にしか見たことがない。子どもが4才なので、これを機に子どもと一緒に一作一作をじっくり見てみようと思い、毎週末一作開封してみている。最初はもちろんトトロを見て、娘は食い入るようにみたのだが、先週末は『魔女の宅急便』をみた。娘にはまだ内容が難しいようで、途中でお絵かきを始めてしまったのだが、父ちゃん母ちゃんはずっと食い入るように見ていた。

特に印象的だったのは、13才で修行中の魔女主人公キキが、一度魔法の力を失いかけ、落ち込み、その後友人トンボを助ける際に、魔法の力を取り戻す瞬間。僕の目からは、気がつけばどっと涙があふれ出た。トンボが今にも墜落しかけているのを見て、飛べなくなっていた&ホウキも持っていなかったキキが、街中のおじさんのデッキブラシを借りて飛ぶシーンである。そして、なぜ僕はあのシーンで涙を流したのだろうと考えていて、以前このブログで書いた萃点性に行き当たった。

キキは空を飛ぶことができる。でも、それ以外の魔法は持っていない。一方、彼女がたどり着いた大都会では、きらびやかな洋服でパーティーを開く同世代の少女たちがいて、また可愛い高価な靴がショーウィンドウに飾られているけど、キキはとてもその世界に手が届かない。トンボと親しくなるけど、そういうきらびやかな世界に繋がるトンボにもジェラシーを感じてしまい、ちゃんとした友人にもなれない。そのくすぶりのなかで、ついにはホウキで飛ぶことも出来ず・ホウキも折れてしまい、心の伴侶だった猫のジジの言葉もわからなくなってしまう。

そんな失意の中で、以前出会った絵描きのウルスラがキキを訪ねに来てくれて、彼女の山小屋に泊まりにいき、キキはウルスラに絵が描けなくなるときもあるのかを聞く。すると当然あるよ、という答えとともに、彼女はこんなことをキキに伝える。

「そういう時はジタバタするしかないよ。描いて、描いて、描きまくる。」「描くのをやめる。散歩をしたり、景色をみたり、昼寝をしたり、何もしない。そのうち急に描きたくなるんだよ」

この時、ウルスラからキキが教わったのは、あれこれ考えたり、他者をうらやむのではなく、無心になる、ということである。それが、世界との相互連関的な関係性(=縁起の世界)の中での唯一無二性である萃点性を取り戻す上での、最大の鍵である。それは、執着を捨てろ、というメッセージでもある。

そんなことを考えながらも、映画で感じた事をブログに言語化出来ないままでいたら、今朝になって、僕のメンターである深尾葉子先生から、こんなメッセージが届いた。

「井筒の「意識と本質」の132ページを開けたらいきなりまた本質に触れる言葉が!」

なになに、と思って、僕も当該書を開いてみたら、こんなことが書いてあった。

「分節的意識、『有心』、を人間の正常な心の働き方だとすれば、『無心』は一種のメタ意識である。『人人自ら巧妙あるあり。看るときに見えず、暗昏昏』と雲門の言葉にある、光明というのが、まさにそれ。事物を別々に分節して対象化し、『・・・の意識』的に見ようとしないとき、人々に自然にそなわる『光明』は存在をあるがままに照らし出す。だが、ひとたび分節意識が働けば、存在の真相は消えて影のみが残る。『看るときに見えず、暗昏昏』とはそのことだ。」(井筒俊彦『意識と本質』岩波文庫、p132)

『看るときに見えず、暗昏昏』。確かに、キキが魔法を使えていた時は、世界との無心な自己同一化を果たし、つまり何も考えずに飛べていた。でも、都会できらびやかな世界を知り、「他者と比較する心」に気づいてしまったキキは、「事物を別々に分節して対象化し、『・・・の意識』的に見よう」としてしまった。そのとたん、彼女は自分自身の魔法を見失い、飛べなくなってしまったのだ。まさに「暗昏昏」である。

キキは「無心」だったからこそ、「自然にそなわる『光明』」を「見る」ことができた。でも、「ひとたび分節意識が働けば、存在の真相は消えて影のみが残る」。それが、飛べなくなって路頭に迷うキキの姿だった。だからこそ、ウルスラは「そういう時はジタバタするしかないよ。描いて、描いて、描きまくる」と、有心から無心に戻ることを、キキに説いていたのだ。

そして、久しぶりに読んだこの本の数ページ前に、赤線引きまくっている部分にも、思わず目がとまる。

「『執心』、すなわち闇質的認識とは、特定の事物にたいする欲情的、妄執的な態度。テクストにもあるとおり、ある一つの対象を、まるでそれがすべてであるかのように追い求める、根拠のない愛着の心。勿論、この次元での心が逆の否定的方向に走れば、ある特定の対象への憎悪となって燃え上がる。欲にくらんだ心の目には、実在の真相など見えるはずもない。」(同上、p123)

ああ、「執心」か! ぼく自身、お恥ずかしい話なのだが、数ヶ月に一度くらい、この「執心」に支配される。実は昨晩も、「僕って何にもできてない!」と落ち込んでいたのだが、これはこの「ある一つの対象を、まるでそれがすべてであるかのように追い求める、根拠のない愛着の心」による「闇質的認識」の支配である。特に、SNSなどでキラキラと輝いた内容の告知をしていたり、メディアでその活躍が報じられている同業他者を見ると、その内容に憧れたり自己嫌悪したりして、気がつけば「特定の事物にたいする欲情的、妄執的な態度」になっている自分を発見する。それが「根拠のない愛着の心」であるとはわかっているのだが、一度そこにとりつかれると、まさに心が執着してしまう、という意味で「執心」となるのだ。

13才で修行にでる前は「無心」だったキキも、大都会で「有心」になることにより、気がつけば「執心」の領域に近づきかけていた。それは、己の萃点性を忘れ去り、魔力も消えかかり、空は飛べず、ジジとも話せなくなっていた「有心」だった。なぜ13才で魔法使いは修行にでるのか。それは、子どもから大人に変わる思春期において、この「有心」や「執心」の試練を乗り越えることが出来るか、が魔女には試されているからだという補助線を引くと、すっと色々な事が理解できる。試練が問われているのは、無論キキだけではない。ぼく自身も、未だに「有心」や「執心」で苦しめられている。年齢に関係なく、大人になる、成熟するとはどういうことか、が問われる時に、改めて「無心」「有心」「執心」が一人一人に問われているのだ。

DVDボックスの付録についていた、宮崎駿氏による企画書にも、このように書かれていた。

「空飛ぶ孤独。空をとぶ力は地上からの解放を意味しますが、自由はまた不安と孤独を意味します。空をとぶことで、自分自身であろうときめた少女が私たちの主人公なのです。いままで、TVアニメを中心にたくさんの“魔法少女”ものが作られてきましたが、魔女は少女たちの願望を実現するための手立てにすぎません。彼女たちは、何の苦もなくアイドルになってきましたが。『魔女の宅急便』での魔法は、そんなに便利な力ではありません。この映画での魔法は、そんな便利な力ではありません。この映画での魔法とは、等身大の少女たちのだれもが持っている、何らかの才能を意味する限定された力なのです。」(宮崎駿「魔女の宅急便」映画化に当たって)

一般的に魔法は、全知全能の力だと思われやすい。だが、宮崎駿は、「この映画での魔法とは、等身大の少女たちのだれもが持っている、何らかの才能を意味する限定された力なのです」と宣言する。キキの持っている魔法も、空を飛ぶ・ジジと話せる、という限定された力であり、かつ有心・執心になるとその能力を見失う、という意味では、「等身大の少女たちのだれもが持っている、何らかの才能を意味する限定された力」なのだ。その時の「限定」というのは、「ひとたび分節意識が働けば、存在の真相は消えて影のみが残る」という意味の「限定」であり、「あるがまま」という「無心」を失ったら「看るときに見えず」という意味での「限定された力」なのだ。

であれば、キキのケースから僕たちが学べることは何か。それは、自らの「限定された力」に自覚的になれるか、である。他者比較の牢獄に陥る=有心・執心することによって見失うことのない、己の萃点性や、「人々に自然にそなわる『光明』」を取り戻すために、「無心」になることである。『看るときに見えず、暗昏昏』の状態から脱することである。

冒頭の話に戻ろう。キキは、トンボを救いたいと願ってデッキブラシに飛び乗ったとき、きらびやかな服装とも、将来への不安とも、無縁だった。ただただ、自らの丹田に意識を集中させ、「存在をあるがままに照らし出す」「光明」とつながろうとした。そして、自らに内在する「光明」と繋がった瞬間、デッキブラシが変異し、空を再び飛ぶことができたのである。そのプロセスを経て、執心を離れ、無心を取り戻したのである。それが、感動的な物語として、僕の中でじわっと響くものがあった。そして、未だ執心を持っていない(未分化な)娘が、この物語の意味世界に興味を示さない一方で、執心でいっぱいの父がこんなにも心揺さぶられた理由でもある。

「等身大の人間のだれもが持っている、何らかの才能を意味する限定された力」に自覚的になり、それを大切にすること。これは、己の中の萃点性を自覚的に意識し、取り戻すことでもある。根拠のない愛着の心であり、「闇質的認識」である「執心」を意識し、そこから遠ざかることである。

僕の中には、どのような「何らかの才能を意味する限定された力」があるのだろう。それを、再び問い直そう。小雪がちらつく冬景色のなか、改めてそんなことを思い始めている。

共同決定と相互連関

社会学評論の最新号(71巻3号)に載っていた、天畠大輔さんによる「『発話困難な重度身体障がい者』の論文執筆過程の実態—思考主体の切り分け難さと能力の普遍性をめぐる考察—」という論文を興味深く読む。天畠さんは、意思伝達装置を用いない「あ、か、さ、た、な話法」で意思表明をされる重度障害者であり、研究者でもある。この論文も、立命館大学に提出した博士論文の成果に基づいている、という。彼は論文執筆担当!の介助者らとSkypeを通じた論文ミーティングをしたり、その内容についてLINEのグループチャットで、ご自身のアイデアを介助者に投げかけ、アイデアを膨らませていく、という。そのプロセスが論文として可視化されていて、非常に面白かった。

本文で触れられた、博論の一節の執筆に関する整理は、まず次のLINEのやりとりからはじまる。

「合理的配慮と介助論は相反する。つまり合理的配慮とは障がい者自身の真の能力の探求ではないか。介助論とはニーズ先行のこと」「介助論寄りの論文にしたいです。つまり水増しされた能力のところで使いたいのです。教育は死ぬまで、本人のものだけど、介助は関係性重視だよね」(p453−454)

これが、介助者の整理や、その後の介助者との論文ミーティングでの対話を経た上で、最終的には以下のような文章に落ち着く。

「これに対して筆者は、合理的配慮の条件標準化原理と筆者の求める介助スタイルは相反すると考えている。合理的配慮の考え方に即してみれば、筆者の介助スタイルは『本質的な能力』を不当に『水増し』していると受け取られかねず、それでは筆者のような『本質的な能力』に介助者が介入する障がい者は、正当に能力が評価されず、大学院に行くこともできない。その結果、能力社会から取りこぼされてしまう。」(p458)

天畠さんのような、他者の介助がないと言語表現しにくい人にはつねに、「『本質的な能力』を不当に『水増し』していると受け取られかねず」という問題がついてまわる。それは、自閉症の作家、東田直樹さんが、パソコンを用いてコミュニケーションを取る以前は、親がその意向を読み取ることをしていたが、このような介助者による読み取りや表現支援に関しては、常に「本質的な能力の水増し」の疑念が持たれていた(例えばこの論文に詳しい)。

僕がこの意思決定や意思表明に関して、この論文を読んで深く納得したのは、上記のプロセスを提示した後の考察で、次のように書かれていたからである。

「筆者の論文執筆においては、『それ、書いておいて』の文脈で、論文の構成・表現・論理展開などは、本人の意を汲みながら介助者が全体を整えたうえで、『これでいいですか』と確認する方法をとっている。つまり論文の主旨や発想は筆者発信であるものの、その体裁を整えたり、説得力を加えたり、議論を深めたりするために、ミーティングというかたちをとって介助者に自由に発言させている。そのなかで、筆者が自分の言いたいことに近いものを採用するという過程を経て、文章が形作られていく。それゆえ結果としてできあがった文章について、それが筆者自身の文章なのか、それとも介助者の文章なのか、その思考主体の切り分けが不明瞭になってしまう。」(p459)

実に率直で誠実な、ご自身のスタンスの表明である。そして、それを読みながら。このプロセスって本当に「『発話困難な重度身体障がい者』の論文執筆過程」だけなのだろうか、と疑問に思った。発話が出来、一応自分一人で論文を書いたことになっているぼく自身だって、似たり寄ったりの部分があるのではないか、と。これは、オリジナリティと共同決定における主体性の問題でもあるように、思える。

まず、オリジナリティについて。「『本質的な能力』を不当に『水増し』している」という批判は、「本質的な能力」とは、他者からの介助や支援を受けずに、自分一人でやるのが「真の能力」であり、他者にサポートされて出来たことにするのは、「不当な水増しだ」という価値基準がある。でも、僕が文章を書くときだって、このような「水増し」をしばしばしている。

例えば前回書いたブログ「己の萃点性」について。これは、僕のメンターであり対話相手を務めてくださっている深尾葉子先生から中沢新一の本を紹介され、それを読んだ上で彼女とメッセージのやりとりをしたり、対話をする中で「萃点」は一人一人にあるのではないか、という着想が浮かび、それを対話を繰り返しながらブラッシュアップして、生み出されたものである。その意味では、天畠氏の文章を借用して述べるならば、「それが僕自身の文章なのか、それとも深尾先生の文章なのか、その思考主体の切り分けが不明瞭になってしまう」部分があるのが、この文章の本質である。

それは、オリジナリティとは何か、という問題でもある。僕は、深尾先生からの示唆や彼女との対話の中から、自分が納得できる文章として上記のブログを書き出した。でも、深尾先生や中沢新一、井筒俊彦の論に大きく影響を受けている。僕の場合は自分一人でPCに打ち込み、ブログにアップできたけど、書くプロセスの中では、先達からの沢山のバトンを受けて、文章との・リアルな相手との対話を繰り返す中で、今回のブログに行き着いた。そういう意味では、僕も「水増し」をされている、という批判も受けるかもしれない。でも、その着想や、言語化しようという意思やプロセスのハンドリングを僕や天畠さんがしていた、という意味では、僕の・天畠さんのオリジナルな文章である、といえるのだと思う。

そして、この部分では共同決定における主体性の問題が大きく関係する。

天畠さんは「論文執筆においては、『それ、書いておいて』の文脈で、論文の構成・表現・論理展開などは、本人の意を汲みながら介助者が全体を整えたうえで、『これでいいですか』と確認する方法をとっている」という。これって、チームで仕事をする際の基本である。方向性を決めて、最終責任を取る上司・責任者と、部分的に仕事を任されて、現場の裁量である程度仕事を終えた上で、上司の判断を仰ぎ、適宜修正していく部下・チームメンバーの関係性そのものである。そして、天畠さんだけでなく、理系において研究室単位で、あるいはプロジェクトチームで研究して論文を書くときだって同じようなやり方をしているし、作家だって必要に応じてリサーチャーとかライターを抱えて、部分的に彼等彼女らに託しながら、最終的なディレクションと価値判断を行い、作家単独の名前で出している人もいる。

つまり、オリジナリティとは、最初から最後まで全部自分でしなくても、方向性を示し、進捗管理を切り盛りし、価値判断をした上で、全体の整合性を整え、そのことに責任を持つことが出来れば、それがオリジナリティといえるのではないか、ということである。そのときに、実際には他者と共同で決定して実践していくプロセスなのだが、あくまでも主催者が自らの主体性を失わず、その主催者の価値判断が尊重される形で決定がなされていったら、それは水増しでもなんでもなく、オリジナルな決定であり、オリジナルな成果といえるのではないか、ということである。

さらに言えば、これは前回のブログで書いた、萃点性や相互連関性とも重なっていく。

論文は一人で書くものであり、他者にアシストされて書いたらオリジナリティが水増しされる、という発想自体が、能力主義的個人観であり、近代合理主義が前提として描く、線形的な因果関係像に起因している。でも、人間とは関係的な存在であり、お互いがお互いに影響を与える、相互連関のネットワークの中で生きている。そして、それを華厳経では縁起だとのべ、南方熊楠はその縁起ネットワークの結節点を萃点と述べた。僕は井筒俊彦の縁起論や、中沢新一の語る南方熊楠論を読みながら、あるいは深尾先生との対話の中から、そのような縁起ネットワークの結節点としての萃点性は、一人一人の中にあるのではないか、と前回のブログで提起した。

この仮説を応用するなら、天畠さんは、まさに己の萃点性に極めて自覚的である、といえるのではないか、と仮説も立てられる。

彼は、自分で書くこともしゃべることも出来ない。意思表明もつねに介助者が介在しないと、充分になしえない。つまり、介助者や他者との相互連関性を四六時中意識しないと、生きていけないのである。そのような、相互連関ネットワークの中にいて、それでも自分が書きたいなにかを論文で表現したいという強い主体性を持って、論文執筆のサポートをしてくれる介助者を獲得して、チーム形成をする。その介助者達がフランスや札幌に住んでいたら、Skypeをつないで(別の介助者につないでもらって)、論文執筆チームでのミーティングをしていく。そのなかで、「ミーティングというかたちをとって介助者に自由に発言させている。そのなかで、筆者が自分の言いたいことに近いものを採用するという過程を経て、文章が形作られていく。」

これは、ミーティングにおける論文執筆チームメンバーと相互連関を強くしながらも、最終的に「自分の言いたいことに近いものを採用する」形で、己の萃点性を意識し、それを言語化しようとしているプロセスのようにも、思える。(そもそも、論文執筆をサポートできる介助者と接点を持っていること自体が、天畠さんの魅力であり、「能力」であるともいえるかもしれない)

この時に大切なのは、「それが筆者自身の文章なのか、それとも介助者の文章なのか、その思考主体の切り分けが不明瞭になってしまう」こと自体は、問題はない、ということである。あくまでも、天畠さんなり竹端なり、書き手の表現したいという意思や価値基準が存在して、様々な相互連関ネットワークの中で、色々な意見の相違を踏まえながら、最終的に「自分の言いたいことに近いもの」になるようにディレクションしていくことが出来る、その能力こそ、オリジナリティの根幹にある。その上で、実際に文章を打ち込む能力とか、文章を論理的に構成する能力だって、PCや音声入力と同じように、補助具や介助者の力を借りても、己の萃点性は毀損されない。現に、この論文をよんで、なるほど、とうなった僕には、天畠さんのディレクション能力に感動しているのである。

これを書きながら、久しぶりに障害者の自立生活運動の有名なテーゼを思い出した。

「障害者が他の人間の手助けをより多く必要とする事実があっても、その障害者がより依存的であることには必ずしもならない。人の助けを借りて15分かかって衣服を着、仕事にも出かけられる人間は、自分で衣服を着るのに2時間かかるため家にいるほかはない人間よりも自立している」

僕だって、このブログを書くのは、鉛筆で書くよりPCで書いた方が遙かに短時間で出来る。天畠さんの場合なら、全ての文章を「あ、か、さ、た、な」話法で介助者に読み取ってもらうようりも、論文執筆チームの介助者達に「『それ、書いておいて』の文脈で、論文の構成・表現・論理展開などは、本人の意を汲みながら介助者が全体を整えたうえで、『これでいいですか』と確認する方法」のほうが遙かに早く表現可能だし、その上で、このようなオリジナリティ溢れる論文を僕たちに届けてくれる。

実はこれは、自立を孤立と捉えるのではなく、介助者との相互連関性の中での可動領域の拡がり、およびご自身の自己表現の開放・解放と捉えた方がわかりやすいのかもしれない。

この際、オリジナリティが水増しされた、本当の能力でない、という批判は、相互連関性の中での萃点性を過小評価している、といえる。

「一人の人間は他者から独立して(=孤立して)生きているのでものあり、誰かに表現を依存している人には、オリジナリティはない。」

上記の表明は、不遜で上から面線の物言いであり、そう批判する人自身の生に現に存在する相互連関性を、そのものとして尊重できていない、ということを意味するのではないか。つまり、自分以外の他者のありよう(=他者の他者性)を評価できていない、ということは、相互連関の中での己の唯一無二性や萃点性を信用していない、ということであり、ひいては自分自身を信じられていない、という帰結にも、つながるのではないか。

認知症の人や障害者の支援において、共同意思決定の重要性が近年ずっといわれつづけている。そのとき、親や家族、支援者が勝手に代理決定するのではなく、その人の意思を支援者が共に読み取る中で、その人の萃点性を意識しながら、ご本人と周囲が相互連関する中で、意思を共同で決定していく。その際に、本人の主体性や実存が必ず中心にあり、本人がディレクションできる部分をちゃんとわきまえ、その範囲を損なわないように、決定プロセスを作り上げていく。そんな重要性も、この論文から気づかされた。

己の萃点性

2021年最初のブログである。今年もよろしくお願いいたします。

年始は、年末以来ずっと自分の中で考えてきた「萃点(すいてん)」に関する覚え書きから。きっかけは、僕のメンターをしてくださっている阪大の深尾葉子先生から教わって読んだ、中沢新一による南方熊楠論からだった。

「世界の真実のありようは『ロゴス的思量を越えている』。すなわち『不可思議』を本質とします。南方熊楠は那智の山中において、この『不可思議』の領域の内部構造と運動学を、レンマ的知性によって捉えることが可能ではないかと考えついた。ロゴスの近代的形態である科学は、世界の事物に因果関係ありとして、因と果の間に存在する射(モルフィズム)を数式であらわすことを科学の本質と考えていました。
しかし、熊楠の考えでは、そのような因果関係こそロゴスの仮構であり、世界の事物に因果関係などはなく、あるのは仏教の教える『縁起』なのです。因果ではなく縁起こそが、レンマの知性の得意とする領域であり、熊楠はこのことをもとにロゴスならざるレンマによるオルタナティブな学問を創造できる、と確信したのでした。」(中沢新一『熊楠の星の時間』講談社、p32−33)

この中沢新一の講演録は、彼の著作の中でも極めてわかりやすく読みやすいのだが、内容は実に深い。線形的な因果論で世界の有り様を充分に説明できないのは、複雑性科学を紐解くまでもなく、日常的な人々の関わりの悪循環において、しばしば感じることである。(それは以前ブログでも何度か書いたこともある。)

ダイアローグ実践を色々手がける中で感じるのは、何らかの悪循環を「因と果の間に存在する射(モルフィズム)を数式であらわすこと」で理解したり解決することは出来ない、という当たり前のことである。では、「世界の事物に因果関係などはなく、あるのは仏教の教える『縁起』なのです」というときの、縁起とは何か。中沢はこう解説する。

「『華厳経』に代表される古代型の学問としての仏教経典では、世界は縁起の作用によって相互連絡をおこなう巨大(無限)な全体性としてとらえられています。その全体性の中ではどんな細部の変化も縁起の作用によって即座に全体に連絡され、変化は全体に波及していきます。しかしその変化によって、『法界』の全体性にはなんの変化も移動もおこらないのです。そういう全体(無限)がさらに無限にある。」(p35)

「世界は縁起の作用によって相互連絡をおこなう巨大(無限)な全体性としてとらえられています」というのは、悪循環の構造を眺めていると、よく理解できる。誰かが悪い、と因果を同定することは出来ず、その悪循環構造に関わる関係者の「縁起」のなかで、循環が「悪く」固定されているのである。ということは、コミュニケーションパタンを変えることによって、「その全体性の中ではどんな細部の変化も縁起の作用によって即座に全体に連絡され、変化は全体に波及してい」くことになる。これもダイアローグ実践をしていると、実感することである。

そして、同じく深尾先生から教わって井筒俊彦の『コスモスとアンチ・コスモス』(岩波文庫)を読んでいたら、縁起に関する興味深い図が見つかった。(これは次のサイトで見ることが可能)。この図の解説に、以下のようなことが書いてある。

「Aという一つのものは、他の一切のものとの複雑な相互関連においてのみ、Aというものであり得る。ということは、Aの内的構造そのもののなかに、他の一切のものが、隠れた形で、残りなく含まれているということであり、またそれと同時に、反面、まさにその同じ全体的相互関連性の故に、AはAであって、BでもCでも、X、Yでもない、という差異性が成立するのです。
ただ一つのものの存在にも、全宇宙が参与する。存在世界は、このようにして、一瞬一瞬に新しく現成していく。」(p59)

Aというものは、他と独立して(=何の関係もなく)存在している訳でもなければ、Bと単純な因果関係にあるわけでもない。「Aの内的構造そのもののなかに、他の一切のものが、隠れた形で、残りなく含まれている」。これがまさしく縁起の作用そのもの、である。そして、そのような「全体的相互関連性の故に、AはAであって、BでもCでも、X、Yでもない、という差異性が成立する」。全体性・不可分性と差異性が縁起によって同時並行的に存在する。この井筒の説明するAとは南方熊楠の言う「萃点(すいてん)」と重なる。

南方は自らの描いたダイアグラムの最も交錯するポイント(イ)について、次のように述べている。

「図中(イ)のごときは、諸事理の萃点ゆえ、それをとると、いろいろの理を見いだすに易くしてはやい。」(南方熊楠『南方マンダラ』河出文庫、p297)

萃点とは合理非合理も合わせた縁起的な諸事理の交錯点である。この萃点を、先の井筒の縁起ネットワークの説明と重ね合わせると、何が言えるか。それはA,B,C・・・X,Y,・・・とつながる万物が、それぞれの萃点性をもって、他の別々のものと繋がっている、というイメージである。

すると、ここから僕の妄想(暴走)がはじまる。

つまり、僕も含めた、全ての生きとし生けるものには萃点性がある、というのが、南方=井筒縁起論からいえるのではないか、と。そのときに、僕は、自分自身の中にある萃点性にどこまで自覚的だっただろうか、と。

確かに、僕は様々な人や書籍に影響されて、タケバタヒロシとして構成されている。その意味では、かなり他者依存的である。とはいえ、僕も他者に影響を与える、相互関連性のネットワークの中にいる。であれば、僕がいくら金銭的な資産を持っているか、どれだけの情報処理能力があるか、どれだけ知識があるか、という、何らかの所有の多寡に関係なく、生まれながらにして、僕には僕固有の萃点性があるのではないか。

実はそのことは、もうじき4才になる娘を見ていて、強く感じる。彼女は、資産も知識も別にもっていない。でも、そんなこととは全く関係なく、ただ存在しているだけで、周りの人が笑顔になったり、引き寄せられるような萃点性をもっている。それは、彼女だけではなく、すべての赤ちゃんや幼児に共通する魅力である。

でも、徐々に「社会化」されていくと、その萃点性が失われていく。集団に従うことが基本となると、溌剌さが失われ、唯一無二の特徴はいつのまにか目立つが故にイジメの対象になり、出る杭にならぬように、足を引っ張れないように、世間を気にして、空気を読んで、同調圧力に従う。そんな中で、みごとに「大人」になることで、己の萃点性が去勢されていく。ぼく自身は、この40年間、そうやって己の萃点性を自己去勢したり、見ないふりをしてきた。必死に因果モデルの中に自らを押し込め、それなりに賢いフリをして、縁起論のような「非科学的」な発言は慎むようにしてきた。そしてそれは、普段接する大学生をみていても、同じような萃点性の弱さを感じる。

でも、自らの縁起性や萃点性を無視するより、それを大切な価値として慈しんだ方が、生きていてオモロイのではないか。いきいきするのではないか。昨年末から、そんなことを思い始めている。実際、オモロイ人生を生きている人は、肩書きや人種、年齢関係なく、己の萃点性を活かして、大切に育んでいる人のような気もする。

ここから、妄想に少しドライブをかけてみよう。

オープンダイアローグで言われている、他者の他者性を尊重する(respecting otherness)、ということは、己の唯一無二性の自覚でもある(これについては以前のブログでも触れた)。これを今までの議論に重ねるなら、縁起ネットワークの中に存在する他者の、自分にはうかがい知れない他者性をそのものとして尊重することは、そのネットワークの中に存在して、関係しているけど、他者とは明らかに違う己自身の独自性、唯一無二性を尊重することでもある。これは、己の萃点性の自覚であり、縁起ネットワークの中での己の関係性の自覚でもある。

自分自身の唯一無二性を大切にする、というと、わがままになることだ、と誤解する人がいるが、上記の説明を元にすると根本的に異なるとわかる。全宇宙と繋がっていながら、それと同時に唯一無二でもあるのが、華厳経のいう、南方=井筒の指摘する萃点ネットワークなのである。その中で、己の萃点性を自覚するとは、わがままになることとは逆の、自分のオリジナリティと、世界との相互連関性の、同時的な理解と覚悟なのである。

逆にヒトラーに代表される独裁者は、他者の他者性を尊重出来ないということにおいて、己の唯一無二性=萃点性にも無自覚で、それに抑圧的だったから、他者支配=他者依存的ではあったのでは、という仮説も浮かぶ。それは、そういう独裁者に自発的に隷従する人々と、己の萃点性を自覚していない、という意味では重なってしまう。

空気を読む、とか、同調圧力、とかは、世界との相互連関の中に個人を埋め込む作用はあった。だが、それと同時に、自分自身のオリジナリティや萃点性に蓋をし、去勢する圧力でもあった。これでは、本当の意味での他者の他者性を尊重出来ない。なぜなら、自分自身の唯一無二性を、そのものとして尊重する前提がないからである。

ということは、自分自身が持っている傾向とか特性とか、あるいは直観とか好みとか、そういう唯一無二性をそのものとして大切に慈しむことは、他者のそれを他者の他者性として尊重することにもつながる。そして、そういう形で自分と他者の関係性を変えていくことができれば、自分と世界をめぐる縁起ネットワークは少しずつ、だが確実に変わっていく。おもろい人生を生きたければ、この縁起ネットワークにおける己の萃点性と、世界との相互連関性を強く意識することが、「急がば回れ」ではないが、一番の近道なのだ。

僕自身は、社会化することは、競争社会の中で勝ち残ることだ、と長い間誤解してきた。これは、団塊ジュニア世代で、高度経済成長期を生き残った親=団塊世代からの洗脳もあっただろうし、受験戦争が厳しかったことにも起因している。だが、こういう「必死に勉強して、良い大学に入って、有名企業に入社して、終身雇用で勤めてあげて一生安泰」というモデルは既に過去物語になりつつある。しかも、こういうライフコースに残れたとしても、歯を食いしばって我慢してその中から蹴落とされないように食らいつくだけでは、ストレスで心身がやられやすい。萃点性が失われると、他者比較の牢獄に埋没する。

それは、嫌だ。

子育てをしながら、めっちゃ大変だけどめっちゃわかいい娘との豊かな生活を過ごす中で、娘の他者性や唯一無二性、そして萃点性を理解し始めている。それと共に、娘と相互連関する妻や僕自身にも、唯一無二性や萃点性があることにも、やっと気がつき始めた。そのような相互連関ネットワークの縁起の世界の中で、いま・ここ、の僕たち家族という小宇宙が構成され、繋がる社会が構成されているのである。こういう入れ子構造(法界)をおぼろげながら理解すると共に、僕自身がこれまで抑圧してきた、無視・軽視してきた自らの萃点性を取り戻す重要性を、ひしひしと感じている。

ただ、誤解の無いように付け加えておくと、だからといって因果論的科学や論理性を捨てるのではない。因果論的科学の背景にある「不可思議」な「縁起」に思いをはせ、因果連関で説明できることと、そうではないことの、双方をそのものとして尊重する、ということである。線形性モデルで近似値として捉えられる世界の数理的記述を頼りにしながらも、その論理構造だけでは捉えられない世界の「不可思議」なダイナミズムも、そのものとして感じるのである。「語り得る」ものは論理で語るがゆえに、それと同時に「語り得ぬもの」の縁起世界に想いもはせるのである。(そう言えば安冨先生の『合理的な神秘主義』は、この世界観を言語化されようとしていたとも思い出す。)

これは、まさにコロナ危機の渦中から、その後の世界を眺めた時にも、少なくとも僕にとっては絶対に必要不可欠な世界である。多くの一人一人が、自らの萃点性と縁起ネットワークを意識することで、世界と私のありようは、大きく変わってくると思うのだ。そして、おそらくそれを描いたのが、宮崎駿のアニメ世界なのだと思う。主人子の少女達に共通する、己の唯一無二性と萃点性の自覚、他者の他者性への尊重、および世界との相互連関性への嗅覚の鋭さが、混沌とした世界を生き抜き、連関した世界を変え、結果的に世界を変える原動力となるのだ。(宮崎アニメについては、以前ブログでも触れたことがある)

というわけで、今年は娘と宮崎アニメを色々みるところから、娘と僕と世界の、お互いの萃点性の研究を始めてみようか、と思っている。