共同決定と相互連関

社会学評論の最新号(71巻3号)に載っていた、天畠大輔さんによる「『発話困難な重度身体障がい者』の論文執筆過程の実態—思考主体の切り分け難さと能力の普遍性をめぐる考察—」という論文を興味深く読む。天畠さんは、意思伝達装置を用いない「あ、か、さ、た、な話法」で意思表明をされる重度障害者であり、研究者でもある。この論文も、立命館大学に提出した博士論文の成果に基づいている、という。彼は論文執筆担当!の介助者らとSkypeを通じた論文ミーティングをしたり、その内容についてLINEのグループチャットで、ご自身のアイデアを介助者に投げかけ、アイデアを膨らませていく、という。そのプロセスが論文として可視化されていて、非常に面白かった。

本文で触れられた、博論の一節の執筆に関する整理は、まず次のLINEのやりとりからはじまる。

「合理的配慮と介助論は相反する。つまり合理的配慮とは障がい者自身の真の能力の探求ではないか。介助論とはニーズ先行のこと」「介助論寄りの論文にしたいです。つまり水増しされた能力のところで使いたいのです。教育は死ぬまで、本人のものだけど、介助は関係性重視だよね」(p453−454)

これが、介助者の整理や、その後の介助者との論文ミーティングでの対話を経た上で、最終的には以下のような文章に落ち着く。

「これに対して筆者は、合理的配慮の条件標準化原理と筆者の求める介助スタイルは相反すると考えている。合理的配慮の考え方に即してみれば、筆者の介助スタイルは『本質的な能力』を不当に『水増し』していると受け取られかねず、それでは筆者のような『本質的な能力』に介助者が介入する障がい者は、正当に能力が評価されず、大学院に行くこともできない。その結果、能力社会から取りこぼされてしまう。」(p458)

天畠さんのような、他者の介助がないと言語表現しにくい人にはつねに、「『本質的な能力』を不当に『水増し』していると受け取られかねず」という問題がついてまわる。それは、自閉症の作家、東田直樹さんが、パソコンを用いてコミュニケーションを取る以前は、親がその意向を読み取ることをしていたが、このような介助者による読み取りや表現支援に関しては、常に「本質的な能力の水増し」の疑念が持たれていた(例えばこの論文に詳しい)。

僕がこの意思決定や意思表明に関して、この論文を読んで深く納得したのは、上記のプロセスを提示した後の考察で、次のように書かれていたからである。

「筆者の論文執筆においては、『それ、書いておいて』の文脈で、論文の構成・表現・論理展開などは、本人の意を汲みながら介助者が全体を整えたうえで、『これでいいですか』と確認する方法をとっている。つまり論文の主旨や発想は筆者発信であるものの、その体裁を整えたり、説得力を加えたり、議論を深めたりするために、ミーティングというかたちをとって介助者に自由に発言させている。そのなかで、筆者が自分の言いたいことに近いものを採用するという過程を経て、文章が形作られていく。それゆえ結果としてできあがった文章について、それが筆者自身の文章なのか、それとも介助者の文章なのか、その思考主体の切り分けが不明瞭になってしまう。」(p459)

実に率直で誠実な、ご自身のスタンスの表明である。そして、それを読みながら。このプロセスって本当に「『発話困難な重度身体障がい者』の論文執筆過程」だけなのだろうか、と疑問に思った。発話が出来、一応自分一人で論文を書いたことになっているぼく自身だって、似たり寄ったりの部分があるのではないか、と。これは、オリジナリティと共同決定における主体性の問題でもあるように、思える。

まず、オリジナリティについて。「『本質的な能力』を不当に『水増し』している」という批判は、「本質的な能力」とは、他者からの介助や支援を受けずに、自分一人でやるのが「真の能力」であり、他者にサポートされて出来たことにするのは、「不当な水増しだ」という価値基準がある。でも、僕が文章を書くときだって、このような「水増し」をしばしばしている。

例えば前回書いたブログ「己の萃点性」について。これは、僕のメンターであり対話相手を務めてくださっている深尾葉子先生から中沢新一の本を紹介され、それを読んだ上で彼女とメッセージのやりとりをしたり、対話をする中で「萃点」は一人一人にあるのではないか、という着想が浮かび、それを対話を繰り返しながらブラッシュアップして、生み出されたものである。その意味では、天畠氏の文章を借用して述べるならば、「それが僕自身の文章なのか、それとも深尾先生の文章なのか、その思考主体の切り分けが不明瞭になってしまう」部分があるのが、この文章の本質である。

それは、オリジナリティとは何か、という問題でもある。僕は、深尾先生からの示唆や彼女との対話の中から、自分が納得できる文章として上記のブログを書き出した。でも、深尾先生や中沢新一、井筒俊彦の論に大きく影響を受けている。僕の場合は自分一人でPCに打ち込み、ブログにアップできたけど、書くプロセスの中では、先達からの沢山のバトンを受けて、文章との・リアルな相手との対話を繰り返す中で、今回のブログに行き着いた。そういう意味では、僕も「水増し」をされている、という批判も受けるかもしれない。でも、その着想や、言語化しようという意思やプロセスのハンドリングを僕や天畠さんがしていた、という意味では、僕の・天畠さんのオリジナルな文章である、といえるのだと思う。

そして、この部分では共同決定における主体性の問題が大きく関係する。

天畠さんは「論文執筆においては、『それ、書いておいて』の文脈で、論文の構成・表現・論理展開などは、本人の意を汲みながら介助者が全体を整えたうえで、『これでいいですか』と確認する方法をとっている」という。これって、チームで仕事をする際の基本である。方向性を決めて、最終責任を取る上司・責任者と、部分的に仕事を任されて、現場の裁量である程度仕事を終えた上で、上司の判断を仰ぎ、適宜修正していく部下・チームメンバーの関係性そのものである。そして、天畠さんだけでなく、理系において研究室単位で、あるいはプロジェクトチームで研究して論文を書くときだって同じようなやり方をしているし、作家だって必要に応じてリサーチャーとかライターを抱えて、部分的に彼等彼女らに託しながら、最終的なディレクションと価値判断を行い、作家単独の名前で出している人もいる。

つまり、オリジナリティとは、最初から最後まで全部自分でしなくても、方向性を示し、進捗管理を切り盛りし、価値判断をした上で、全体の整合性を整え、そのことに責任を持つことが出来れば、それがオリジナリティといえるのではないか、ということである。そのときに、実際には他者と共同で決定して実践していくプロセスなのだが、あくまでも主催者が自らの主体性を失わず、その主催者の価値判断が尊重される形で決定がなされていったら、それは水増しでもなんでもなく、オリジナルな決定であり、オリジナルな成果といえるのではないか、ということである。

さらに言えば、これは前回のブログで書いた、萃点性や相互連関性とも重なっていく。

論文は一人で書くものであり、他者にアシストされて書いたらオリジナリティが水増しされる、という発想自体が、能力主義的個人観であり、近代合理主義が前提として描く、線形的な因果関係像に起因している。でも、人間とは関係的な存在であり、お互いがお互いに影響を与える、相互連関のネットワークの中で生きている。そして、それを華厳経では縁起だとのべ、南方熊楠はその縁起ネットワークの結節点を萃点と述べた。僕は井筒俊彦の縁起論や、中沢新一の語る南方熊楠論を読みながら、あるいは深尾先生との対話の中から、そのような縁起ネットワークの結節点としての萃点性は、一人一人の中にあるのではないか、と前回のブログで提起した。

この仮説を応用するなら、天畠さんは、まさに己の萃点性に極めて自覚的である、といえるのではないか、と仮説も立てられる。

彼は、自分で書くこともしゃべることも出来ない。意思表明もつねに介助者が介在しないと、充分になしえない。つまり、介助者や他者との相互連関性を四六時中意識しないと、生きていけないのである。そのような、相互連関ネットワークの中にいて、それでも自分が書きたいなにかを論文で表現したいという強い主体性を持って、論文執筆のサポートをしてくれる介助者を獲得して、チーム形成をする。その介助者達がフランスや札幌に住んでいたら、Skypeをつないで(別の介助者につないでもらって)、論文執筆チームでのミーティングをしていく。そのなかで、「ミーティングというかたちをとって介助者に自由に発言させている。そのなかで、筆者が自分の言いたいことに近いものを採用するという過程を経て、文章が形作られていく。」

これは、ミーティングにおける論文執筆チームメンバーと相互連関を強くしながらも、最終的に「自分の言いたいことに近いものを採用する」形で、己の萃点性を意識し、それを言語化しようとしているプロセスのようにも、思える。(そもそも、論文執筆をサポートできる介助者と接点を持っていること自体が、天畠さんの魅力であり、「能力」であるともいえるかもしれない)

この時に大切なのは、「それが筆者自身の文章なのか、それとも介助者の文章なのか、その思考主体の切り分けが不明瞭になってしまう」こと自体は、問題はない、ということである。あくまでも、天畠さんなり竹端なり、書き手の表現したいという意思や価値基準が存在して、様々な相互連関ネットワークの中で、色々な意見の相違を踏まえながら、最終的に「自分の言いたいことに近いもの」になるようにディレクションしていくことが出来る、その能力こそ、オリジナリティの根幹にある。その上で、実際に文章を打ち込む能力とか、文章を論理的に構成する能力だって、PCや音声入力と同じように、補助具や介助者の力を借りても、己の萃点性は毀損されない。現に、この論文をよんで、なるほど、とうなった僕には、天畠さんのディレクション能力に感動しているのである。

これを書きながら、久しぶりに障害者の自立生活運動の有名なテーゼを思い出した。

「障害者が他の人間の手助けをより多く必要とする事実があっても、その障害者がより依存的であることには必ずしもならない。人の助けを借りて15分かかって衣服を着、仕事にも出かけられる人間は、自分で衣服を着るのに2時間かかるため家にいるほかはない人間よりも自立している」

僕だって、このブログを書くのは、鉛筆で書くよりPCで書いた方が遙かに短時間で出来る。天畠さんの場合なら、全ての文章を「あ、か、さ、た、な」話法で介助者に読み取ってもらうようりも、論文執筆チームの介助者達に「『それ、書いておいて』の文脈で、論文の構成・表現・論理展開などは、本人の意を汲みながら介助者が全体を整えたうえで、『これでいいですか』と確認する方法」のほうが遙かに早く表現可能だし、その上で、このようなオリジナリティ溢れる論文を僕たちに届けてくれる。

実はこれは、自立を孤立と捉えるのではなく、介助者との相互連関性の中での可動領域の拡がり、およびご自身の自己表現の開放・解放と捉えた方がわかりやすいのかもしれない。

この際、オリジナリティが水増しされた、本当の能力でない、という批判は、相互連関性の中での萃点性を過小評価している、といえる。

「一人の人間は他者から独立して(=孤立して)生きているのでものあり、誰かに表現を依存している人には、オリジナリティはない。」

上記の表明は、不遜で上から面線の物言いであり、そう批判する人自身の生に現に存在する相互連関性を、そのものとして尊重できていない、ということを意味するのではないか。つまり、自分以外の他者のありよう(=他者の他者性)を評価できていない、ということは、相互連関の中での己の唯一無二性や萃点性を信用していない、ということであり、ひいては自分自身を信じられていない、という帰結にも、つながるのではないか。

認知症の人や障害者の支援において、共同意思決定の重要性が近年ずっといわれつづけている。そのとき、親や家族、支援者が勝手に代理決定するのではなく、その人の意思を支援者が共に読み取る中で、その人の萃点性を意識しながら、ご本人と周囲が相互連関する中で、意思を共同で決定していく。その際に、本人の主体性や実存が必ず中心にあり、本人がディレクションできる部分をちゃんとわきまえ、その範囲を損なわないように、決定プロセスを作り上げていく。そんな重要性も、この論文から気づかされた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。