<こと>としての自己表現

荒井裕樹さんの『生きていく絵』(亜紀書房)を読み終える。昨年、『車椅子の横に立つ人』の書評をしたことがご縁でご本人とやりとりする機会があり、その中で、精神病院の造形教室でのフィールドワークをまとめられたのが上記の本だと知り、早速拝読。僕も大学院生のころ、5年ほど精神病院でフィールドワークしていたが、僕とは全然違う切り口から、本質に切り込むアプローチが本当に秀逸で、すごいなと脱帽しながら読み進める。

『車椅子の横に立つ人』でも主題化された、「苦しみ」と「苦しいこと」の違いについて、実月さんという描き手を主題化した章のなかで、荒井さんはこんな風に整理する。

「前者は、『苦しみ』の内実をある程度自分で把握しており、言語表現であれ非言語表現であれ、それを誰かに伝えたいという表現への欲求が強いように思われます。対して後者は、『苦しみ』の内実が本人にも把握しきれず、また詳細に表現することもできないけれど、何よりもまず、苦しんでいる自分の存在を受け止めてもらいたいという関係性への欲求が強いように思われます。
おそらく、実月さんも、自分の『苦しみ』の内実を詳細に言語化することはできません(少なくとも、最も苦しかった時期にはできなかったようです)。それは『苦しい』『悲しい』『つらい』という言葉以上には言語化不可能であり、『とても』『爆発しそう』といった形態が付される形で、その重みや切実さをつたえることしかできない性質のものです(むしろ、部分的には言語化以前の衝動や情動といった次元のものだったのかもしれません)。実月さんのなかに渦巻いていたこの言語化できない衝動を、仮に<こととしての感情>と呼んでおきたいと思います。」(p152)

「苦しみ」として他者に語ったり書いたりすることができるのは、すでに感情がある程度の対象化・物語化(=<もの>化)され、把握されているので、他者に伝えることが可能な段階に至っている。一方で、「苦しいこと」は、対象化もできない、未分化で現在進行形の苦しさであり、「『苦しみ』の内実が本人にも把握しきれず、また詳細に表現することもできないけれど、何よりもまず、苦しんでいる自分の存在を受け止めてもらいたいという関係性への欲求が強い」と指摘する。

僕たちが通常、他者を理解しようとするとき、言語で表現されたものを元にする。すると、「苦しみ」という形で言語表現されたり、それが表情などでも伝えられると、「苦しいのですね」と受け取りやすい。それは、受け取る以前に、発信する側が、すでにその内容を「苦しみ」と固定化し対象化することができているから、である。だが、本当に苦しい最中には、「『苦しい』『悲しい』『つらい』という言葉以上には言語化不可能であり、『とても』『爆発しそう』といった形態が付される形で、その重みや切実さをつたえることしかできない性質」になりがちである。

そして、この「苦しいこと」は誤解されやすい。

20年近く前の大学院生時代、薬物依存症の回復者でもある倉田めばさんのお話を聞いたとき、「拾い集めた言葉たち」という印象深いフレーズと出会った。

「私にとって薬物とは言葉であった。ダルクのミーティングは本来の言葉を取り戻す作業である。自分の言葉を取り戻したときに、薬物が不必要になってくる。」
「母はよく私に言った「薬さえ使わなければいい子なのに」私は思った(いい子の振りをするのが疲れるから薬を使っているのに・・・・・)」
「薬物依存者が薬物をやめると依存が残る。」

当時の僕にとって、「私にとって薬物とは言葉であった」というのは、天と地がひっくり返るような、驚くべき表現だった。依存症の人は、遵法意識がないから・甘えがあるから・自制心がないから・・・薬やアルコールに溺れているのだ。そのような、表面的で常識的な偏見を持っていた当時の僕は、「薬物」が言葉=自己表現である、というのは、本当に思いも寄らない言葉だった。だが、自分の言葉が奪われるから、「苦しいこと」を薬物を用いて表現せざるを得ない人がいるのに、その人から単に薬物を取り上げると、それは「依存が残る」だけである。本当に「回復」するためには、「本来の言葉を取り戻す」プロセスが必要である。それがダルクなどのセルフヘルプグループの持つ力である。この話を聞いた時、これは薬物依存だけでなく、依存全般の話でもあり、また他の精神病にも共通する話なのではないか、と思っていた。だが、それ以上、当時の僕には掘り下げられなかった。

今回、荒井さんの著作を読み進めながら、改めて20年前の倉田めばさんの言葉を噛みしめ直す。

「実月さんのなかに渦巻いていたこの言語化できない衝動を、仮に<こととしての感情>と呼んでおきたいと思います」

圧倒的な苦しみの衝動や情動に押しつぶされている時、それは「苦しみ」という形で対象化はできない「渦巻く」状態であり、<こととしての感情>が支配している時である。それが、幻覚や妄想、うつやハイパーテンションのような形で人を支配している。そのときの「苦しいこと」がその人を覆い尽くしているときに、言葉は無力である。「『苦しい』『悲しい』『つらい』という言葉以上には言語化不可能であり、『とても』『爆発しそう』といった形態が付される形で、その重みや切実さをつたえることしかできない」からだ。だからこそ、その無力に対処するために、ひたすら引きこもって外界とのコンタクトを遮断する人もいれば、必死になってしんどさを訴えるのだがそれを理解してもらえず暴力や暴言に訴える人もいる。そして、倉田めばさんのように、薬物などの依存言語を用いて、やっとそのつらさを表現しようとする人もいるのだ。

そのときに、荒井さんが関わった「造形教室」は、治療や支援を目的とした場ではないのだが、結果的にはそこに通う人々の「癒し」につながっていた、と荒井さんは指摘する。

「これは、ある人物が心の病を抱え、つらく苦しい状況にあったとしても、そのような状況のなかを生きていること、生きてきたことを、まずは肯定的に受け止めようという考え方です。つまり自らを<癒す>という営みは、『自己肯定』からはじまるわけです。」(p83)

造形や創作が人を癒す。それは治療を目的とした「絵画療法」という方法論の話をしているのではない。そうではなくて、苦しいことの渦中にあっても、それを造形という表現形態で表出する「言葉」を取り戻すことによって、「そのような状況のなかを生きていること、生きてきたことを、まずは肯定的に受け止めようという考え方」が湧き上がってくるからではないか、と荒井さんは指摘する。

自分を傷つけたり、他人に危害を与えたり、薬物を使用するという「言葉」しか持てない状況に追い込まれた人々がいる。その人々は、本来の言葉が奪われる状況に追い詰められている。そういう人々が、造形という別の言葉と出会うことで、自傷他害や薬物依存以外の別の表現をすることで、「苦しいこと」を別の形で表現することが可能になる。実際、実月さんも「どろどろした心の中身を吐き出すよう」(p144)に描いてく。そして、そのプロセスのなかで、「苦しいこと」を「肯定的に受け止め」るきっかけができ、それが「自らを<癒す>という営み」であり『自己肯定』につながる、というのだ。

実際、荒井さんが取り上げた本書のなかでの表現者達もみなさん、造形教室を通じて、そのような「本来の言葉を取り戻す」プロセスを辿っておられるように感じた。荒井さんはそれを「<こと>としての文学」と表現する。

「私はいま<こと>としての文学に目を向ける必要性を感じている。いまだ生硬な概念だが、<こと>としての文学とは、苦境にあるその人がその痛みを動機として発した私的な自己表現であり、その人が表現していること自体が重要な文学である。
現在の関心から一部を例示すれば、精神科病院の閉鎖病棟内でひそかに書きとめられた小説や、あるいは虐待の記憶が刻み込まれた形代のような詩などがあげられる。いずれも生きづらさの極地にいる人たちが、苦境を生きのびていくために紡ぎ出した切実な言葉であるが、これらは現在の文学研究の枠組みでは関心の対象にさえならない(医学や福祉学においても正統な関心事にならないだろう)。」(p254-255)

できあがった作品が<もの>としての文学であるとするならば、「苦しいこと」をそのものとして自己表現するプロセス自体が重要な文学であり、それを「<こと>としての文学」と名付ける。そして、このような「切実な言葉」は確かにこれまで重要視されてこなかった。僕自身も、これまで出会った数多くの精神医療ユーザーから、色々な種類の自己表現(絵画や詩、エッセー、小説、手記・・・)を手渡されたる機会があったし、拝見もしてきたのだが、正直に申し上げて、僕の研究枠組みの関心の対象にはなっていなかった。それは、<もの>として作品に僕の目が曇らされていたからであり、<こと>としての自己表現の、その言葉を取り戻すプロセスそのものの価値を、僕は理解していなかったのである。倉田めばさんの言葉を20年近く前に知っていたにも、関わらず。

今回、荒井さんの本を拝読することで、「苦しみ」と「苦しいこと」の根源的違いを教わることで、改めて「<こと>としての自己表現」の可能性が理解できた。そして、それは表現された<もの>(=絵画など)だけでなく、それが表現されゆくプロセスに立ち会い、その表現者と何度も雑談をしたり、お互いの人間性にふれあうなかで、荒井さんのなかでしみこんでいくなかで、荒井さんという文学研究者の「地」を通して浮かび上がってきた「図」(=本書)があるからこそ、僕たちにも理解できたのだと思う。

そういう意味では、『生きていく絵』とは、造形教室で出会った絵画をきっかけにして、「苦しいこと」それ自体を「<こと>としての自己表現」と捉え、そのプロセスを可視化する伴走者である荒井さんによる、格好のガイドブックのようにも思えた。

アンダークラスの子どもたち

遅まきながら初めてブレイディみかこさんの単著を読んだ。『子どもたちの階級闘争』(みすず書房)というタイトルにちょっとびびって積ん読していたのだが、中を読み始めたら、めちゃくちゃ深刻な内容なのだけれど、グイグイと引きつけられる。彼女は、「底辺託児所」「緊縮託児所」という、イギリスの貧困層が集まる公営住宅の地域の保育所で働いていて、そこで感じたことがこの本に書かれている。内容はもちろん明るくはない。だが、ここに出てくる子どもたちが、本当に活き活きとしていて、どぎつい言動でトラブルメーカーも多いけど、実に人間味がある。でも親や社会との相互作用の中で身につけ(させられ)た陰影に、既に2,3才のころからどっぷりと浸かっていて、それが悲しい。

「問題児」の背景

「金髪の巻き毛の天使のようなジャックは、何かの拍子にいきなり暴発することがあった。アンガーマネジメントが必要だな、と思える幼児たちの怒りの出力法はさまざまだ。他人に暴力を振るう子もいるし、物を破壊する小屋、自分の体を傷つけようとする子もいる。が、ジャックの場合は、『ひゅうーーーー、うううーーーー』という形容しがたい超音波のような高音でわめきながら両手を広げてくるくる回り始めるのだった。」(p73)

一見すると、とんでもない問題児である。最近の日本ならすぐに「発達障害」とラベルを貼られ、小さい子どもでも行動抑制をするために抗精神薬などが投与され、ヘロヘロにさせられるケースもあるというが、彼女のいた託児所では、違う対応が取られていた。

「それ以降はジャックが託児所に来るときには一対一で必ず誰かがつくようにし、プレイルームにできるだけ広いスペースを作り、彼が旋回を始めても顔色を変えず、冷静な態度で対応して他の子どもたちをパニックさせないようにした。そういう雰囲気ができあがると、ジャックのくるくる旋回も日常のワンシーンとなり、子どもたちも彼がスピンし始めると自分から被害に遭わない場所に移動したりして、たいしたこととは思わなくなってきたようだった。」(p74)

このジャックは二才なのだが、自分の怒りや衝動をうまくコントロールできない。だが、あたなも私も二才のころにはそういう衝動があったのであり、しかも大人がそれをしっかり受け止めないと「問題児」と排除されるが、「一対一で必ず誰かがつくようにし、プレイルームにできるだけ広いスペースを作り、彼が旋回を始めても顔色を変えず、冷静な態度で対応して他の子どもたちをパニックさせないようにした」ら、それが「日常のワンシーン」となってしまう。これはジャックに働きかける保育者たちとの相互作用の中で生まれていく変化である。そういう関わり合いの中で、旋回を一日に二回はしていたジャックは、それが一回に減りいまは週に一度になった、という。そのジャックの母について、こんな風に描かれている。

「この天使のようなジャックの母親は、二〇才のシングルマザーで、ドラッグ依存症から回復中である。緊縮託児所からそう遠くない場所に、さまざまな依存症と戦う女性たちを支援するセンターがあり、そこにも託児所があった。だが、この緊縮のご時世でそちらの託児所が閉鎖に追い込まれたため、ソーシャルワーカーを通じてジャックとその母親はわが託児所を紹介されてきたのだった。」(p68)

「しんどい家庭」に育った「しんどい子」は、親から充分に関わりを持ってもらえない場合も少なくなく、それが暴発してアンガーマネジメントが出来ない状態に陥る事も多い。ジャックもそんな子どもの一人だった。でも、ブレディさんのいた託児所では、そういう子どもたちを排除することなく、その子どもへの関わり方を変えながら、子どもたちの内在的論理を探り、上手く付き合おうとしていた。そして、彼女はそういう草の根レベルの泥臭い関わりをしながら、ジャックの家庭が置かれている社会的布置のようなものまで同時に描き出す。

「『ソーシャル・アパルトヘイト』だの『ソーシャル・レイシズム』だの『ソーシャル・クレンジング』だの、以前は民族や人種による差別を表現するために使用されていた言葉が、階級差別を表現するために使われるようになってきた。『アパルトヘイト』や『エスニック・クレンジング』といった極端な言葉まで階級差別にスライドさせて使われるようになってきた背景には、英国社会がいかに底辺層を侮蔑し、非人道的に扱っているか、そしてそれが許容されているかという現状がある。それはまた格差を広げ、階級間の流動性のない閉塞された社会を作り出した新自由主義のなれの果ての姿ともいえるだろう。」(p71)

この本を読んで初めて知ったのだが、ジャック親子が排除されるのは、イギリスの上流階級から、だけではない。実はこの緊縮託児所には移民の子どもたちも通っているのだが、母国を離れイギリスで成功しようと必至に子どもを養育している移民たちは「ジャックっていう子は、暴力的で他の子どもたちにとって危険だ」「ああいう子どもが来ている託児所には安心して子どもを預けられない」と、排除に加担しているのである。「階級間の流動性のない閉塞された社会」に固定されている「底辺層」に対して、階級間移動を目指している移民が侮蔑する眼差しを向けている。それくらい、イギリスにおける階級差別は固定化している、ということである。そして、恐ろしいことに、福祉国家がこのような固定化に関与している。

福祉や政治が排除に加担する

「福祉がサンクションを連発するから、文字通り、日々の食事ができなくなる人たちが増えている。だからフードバンクが国中に必要になって、政府は『フードバンクは社会の一部』なんて言ってる。いっったいどんな社会にしようとしているんだろうね」(p167)

ブレイディさんの働いていた託児所は、閉鎖されてフードバンクに変わった。それは労働党政権から保守党政権に変わり、助成金や寄付が大幅にカットされた緊縮財政による。緊縮財政でカットされたのは、託児所運営費だけではない。ジャックの母親も「子どもの預け先が見つからないから夜のシフトがある仕事はしたくない、って紹介された仕事を断ったら、四週間生活保護を止められた」(p165)という。これが、職業安定所のソーシャルワーカーによるサンクション(制裁措置)である。サッチャー以前の労働党政権時代には、「シングルマザー家庭であれば、国が住居を与えてくれ、生活費も養育費もくれて、働かずともシングルマザーとして生きていけた」(p161)。だが、マスコミなどで生活保護バッシングがイギリスでも進み、シングルマザーが攻撃される中で、行政はwelfare to workなど労働強化政策をとり、それが、ジャック親子のような家庭を追い詰める。

ジャック家に訪れた著者たちが、あまりに空っぽの冷蔵庫に見かねて、ジャックを連れて買い物に出かける際、階段を降りているときのエピソードに全てが込められている。

「『チョコレート!チップス!ヨーグルト!ブレッドスティック!ソーセージ!』とジャックが私の腕の中で食べ物の名前を連呼する。元気に叫んでいるがその体は赤ん坊ぐらいの重さしかなかった。
『・・・託児所をフードバンクにしやがって』
悔しさで目の前が滲んできたので、足元に気をつけながらわたしはジャックを抱いて階段をそろそろ下りていった。」(p168)

サンクションとは、見せしめの刑罰ではなく、本来は労働へのインセンティブのはず、だった。だが、「子どもの預け先が見つからないから夜のシフトがある仕事はしたくない」という、至極まっとうな要望もサンクションの対象にされ、ジャックはほとんど食べ物のない家にいる。それでストレスが溜まり、託児所では旋回する。だが、その託児所も緊縮財政の予算カットで廃止され、ジャック母子は生きていくために託児所から変わったフードバンクに依存せざるを得ない。だが、そもそもジャック母子を追い詰めるようなサンクションや労働強化を進めることが、全ての元凶ではなかったのか。ジャック母子に、特に託児所に通う年齢のジャックにその緊縮財政のしわ寄せがくるのは、あまりに過酷である。これが『・・・託児所をフードバンクにしやがって』というブレイディみかこさんの涙や怒りの背後にあると感じた。

「わたしの政治への関心は、ぜんぶ託児所からはじまった。底辺のぬかるみに両脚を踏ん張って新聞を読み、ニュース番組を見て、本を読んでみると、それらはそれまでとはまったく違うものに見えた。政治は議論するものでも、思考するものでもない。それは生きることであり暮らすことだ。そう私が体感するようになったのは、託児所で出会ったさまざまな人々が文字通り政治に生かされたり、苦しめられたり、助けられたり、ひもじい思いをさせられたりしていたからだ。」(p282)

「暴力的で他の子どもたちにとって危険だ」と「問題児」のラベルが貼られたジャック。彼は、明らかに「底辺のぬかるみ」にいる。だが彼がなぜ問題児であるのか。そこにどのような苦しみやしんどさや、本人には「どうしようもない」苦境が重ねられているのか。それを、ジャックの母親の状況を知るにつれ、ブレイディみかこさんは理解するようになる。薬物依存症のどうしようもない母親、と見られた状況の背後に、「子どもの預け先が見つからないから夜のシフトがある仕事はしたくない、って紹介された仕事を断ったら、四週間生活保護を止められた」という背景がある。そして、それは、保守党政権時代に進めた緊縮財政が関与している。そんな現実と出会う中で、「託児所で出会ったさまざまな人々が文字通り政治に生かされたり、苦しめられたり、助けられたり、ひもじい思いをさせられたりしていた」ことから、彼女は「新聞を読み、ニュース番組を見て、本を読んでみると、それらはそれまでとはまったく違うものに見えた」。実際に政府予算がカットされ、福祉が切り詰められることによって、人間がどのように追い詰められるのか、を肌身で感じるようになったのである。

ブレイディみかこさんは、あくまでも地べたの保育士=労働者目線で、手のかかる子どもたちの内在的論理に寄り添いながら、その子どもたちがそういう状況に留め置かれている社会構造を描こうとしている。あくまでも子どもとの関わりというミクロレンズを切り口にしながら、緊縮財政や福祉カットというマクロへレンズが見事に描かれている。福祉研究者の本では、「アンダークラス」や「福祉依存」がどのような抑圧を生み出したいるのか、を理念的に整理している。だがブレイディさんのすごさは、その本で描かれたことを証明するような実例を、彼女の保育士での経験の中から描き出し、かつそこで追い詰められていく庶民の側に立って、その絶望的な感覚を描写している鋭さである。でも、社会運動家のように「すべきだ」「ねばならない」という運動の言語に当事者を当てはめようともしない。あくまでも、「クソガキ」どもは「クソガキ」どもだし、ダメな親はダメな親なのである。けれども、アンダークラスに閉じ込められた子どもたちやその親たちの、行き場のなさを、彼女ら彼等と同じ地べたの目線から書いている。これが、ブレイディさんの本が評価されている理由なのだとわかって、彼女の他の著作をどんどん注文している僕がいた。

ブルシットジョブと関所資本主義

仕事がなくなったら・・・

デービット・グレーバーの大著『ブルシットジョブ』(岩波書店)は、非常に刺激的で濃厚な人類学研究である。四半世紀前、僕が学部生の頃にかじった文化人類学と言えば、青木保さんの『タイの僧院にて』(中公文庫)とか、山口昌男さんの『人類学的思考』(筑摩書房)とか、いずれも先進国以外の土地でフィールドワークを行い、そこから先進国とは違う習慣や慣行を描き出し、さらにそれを通じて人類の営みを捉え直す、そういう仕事だった。

グレーバーは、先進国における「クソどうでもいい仕事(=ブルシット・ジョブ)」に焦点を当て、その内在的論理を解き明かすことを通じて、先進国で無意識化的に「そういうものだ」と思い込んでいる習慣や慣行の異常性を明らかにする、という仕事をしている。その発端は、2013年8月にウェブマガジンに載せた、ある原稿がきっかけだった。そのときに、「ブルシット・ジョブ」を以下のように定義している。

「まるで何者かが、わたしたちすべてを働かせつづけるためだけに、無意味な仕事を世の中にでっちあげているかのようなのだ。」(p4)
「実質のある(リアル)仕事を持った生産的労働者は、容赦なく苦しめられ搾取される。それ以外の人間たちは、万人から罵倒される怯えた失業者からなる層と、基本的に報酬を与えられてなにもしないという、より大きな層とに分断される。」(p9)

この記事は瞬く間に「一ダースの言語に翻訳され」「ウェブサイトは100万ヒットを超えるアクセスデータを処理できずに、ひっきりなしにダウン」するほどの反響を得る。その中で、グレーバーの元には数百のコメントが寄せられ、それを読み込み、書き込んだ人へのインタビューをする中で、本書ができあがったのである。

議論を進める上で、この本の「最終的な実用的定義」を見ておこう。

「ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。」(p27-28)

実は本書を読む中で、あるエピソードを思い返していた。とある現場で、僕からみたら大層無駄の塊のような書類仕事を作らされることになった。そのことに腹を立てながらも、対応された現場の事務職員の方に非があるわけではないので、共感のつもりで、「こんな書類、電子化したらお互い手を煩わせなくてすむのに、本当に無駄ですよねぇ」と発言したところ、その方が、ぼそっと呟いたのである。

「私の仕事がなくなったら、困ります・・・」

まさにあの発言は、「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である」という表明であった。とはいえ、「本人は、そうではないと取り繕わなければ」「私の仕事がなくなる」危機に陥る。だからこそ、無駄な仕事をわかっていながら、「そうではないと取り繕」いながら、その仕事に従事する。これは本当に人をダメにする、意欲をそぐ、刑罰のような労働形態である。

グレーバーはこの種の労働を、「お役所仕事」とは言わない。官僚制システムの弊害であるが、この官僚制は、銀行や携帯電話の販売店、カスタマーサービスや広告業など、あらゆる業種に入り込んでいる、という。映像制作会社のトムは、著者にこのように語っていた。

「ほとんどの産業では供給が需用をはるかに上回っていて、それゆえ、いまや需用が人工的につくりだされるのです。わたしの仕事は、需用を捏造し、そして商品の効能を誇張してその需要にうってつけであるようにみせることです。実際、それこそが、広告産業になんらかのかたちでかかわるすべての人間の仕事なのだといえるでしょう。商品を売るためには、なによりもまず、ひとを欺き、その商品を必要としていると錯覚させなければならない。」(p64)

そういえば、グレーバーを高く評価している斎藤幸平さんは「本当のイノベーションは、お金がなくても生きていける社会設計を考えたり、20年使っても壊れないiPhoneを作ったりすることではないですか。」と語っていたが、そんなことをすると需要がなくなるため、絶対にそういうことにはならない。

壊れてもいないのに、まだ使えるのに、電化製品や服飾品を買い換える最大の理由は、捏造された需要に感化され、「その商品を必要としていると錯覚」する必要があるのだ。これはまさに欺瞞のプロセスである。仕事の中で欺瞞があるだけでなく、仕事の目的そのものにも欺瞞がつきまとっているのである。そして、そのような「その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態」に関して、「本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている」という意味では、ダブルバインドでもある。

ダブルバインドとは、人類学者のグレゴリー・ベイドソンが作り出した概念だが、その訳者でもある佐藤良明氏は現代社会学事典(弘文堂)の中で、「二つの相容れない指示や禁止のもとで身動きが取れない状況をさす」(p859)と簡潔に定義している。

「その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある」にも関わらず、「本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている」というのは、「無意味である」けど「そうではない」という「二つの相容れない指示や禁止のもとで身動きが取れない状況」である。そして、それが極まると統合失調症が深まる話は、『精神の生態学』の中でも書いているし、以前ブログでも触れたことがある。

そっちの話になるとまた壮大になるので、本論に戻ってくると、このようなダブルバインド状態は、ひとを狂気に陥れる呪いの指示である。そして、私たちの資本主義社会では、このような呪いの指示が蔓延していて、ある種の狂気が社会に蔓延している、というのがグレーバーの喝破したポイントである。

関所資本主義

そして、僕はこのグレーバーの本を読み終えて、思うのだ。これって、読んだ事がある議論だぞ、と。グレーバーがこの本の元になる小文を発表したのが2013年。その3年前の2010年に、安冨歩さんは名著『経済学の船出』(NTT出版)の中で、関所資本主義という概念を用いて、グレーバーが伝えようとしていることに類似した内容を説明しているのである。

「『利潤』の源泉を他人の生み出した価値を横取りする『関所』に求める。コミュニケーションの結節点を占拠することで『関所』が形成され、資本主義の本質はそこにある」(pⅳ)

安冨さんは大学卒業後2年ほど、当時の住友銀行に勤めて、「銀行員の仕事の相当部分は、表面的な取り繕いに注がれていた」(p152)ことに気づく。そして、退職後に研究者として金融史を探究する中で、その「表面的な取り繕い」と「関所」概念が結びついた時に、彼の「関所資本主義」の論理が構築されていく。

「あの無意味な砂を噛むような仕事の数々は、関所の維持管理業務だったのだと私は結論する。関所が膨大な利益を生むので、その維持管理に日々いそしむ銀行員が高い給料をもらえるのは、理の当然である。このような考えに到って私は、永年の胸のつかえが急に取れたように感じた。私が日々従事していた不合理な意味のない仕事は、巨額の利益を生む関所を維持管理するという、『合理的』で『意味のある』作業だったのである。(略)実際のところ銀行員は、『上乗り』を巻き上げるためのシステムの維持管理をして、高い給料をもらっていたのである。ここに思い至って私は『世の中、合理的にできているものだ』と、いたく感心してしまった。」(p156)

グレーバーと安冨さんの違いは、前者はブルシット・ジョブをしている人々へのヒアリングやメールの解読に基づいて論を構築しているのに対して、後者は実際にそこで働いて(=結果的に参与観察して)その論を構築している、という違いである。また、グレーバーは「クソどうでもいい仕事」を「その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある」と切り捨てていたが、安冨さんはその「無意味な砂を噛むような仕事の数々」が、人々の通行料を巻き上げる「関所」の「維持管理」という「『合理的』で『意味のある』作業だ」と喝破している。不合理なものをサドマゾ的に押しつけられている、というのがグレーバーの主張なのだが、その<非合理なものの内的合理性>を解き明かそうとしているのが安冨論考、という比較も出来るかもしれない。

「不安に駆られる人間は、自分のやっている仕事が『有効』なものだ、と自分にも他人にも言いふらすことで、不安と苦痛とをまぎらわせようとする。自分の行為の真の姿から目を背け、偽装工作を何重にも上塗りする。この浅ましい心は、組織内に無数の関所を作り出す。というのも、不安に駆られた人は、組織内に作った関所を管理する権限を確保することで、自分の存在意義を確保しようとするからである。つまりは保身である。」(p151)

「組織内の無数の関所」というフレーズは、大学においては、自己点検報告書や授業評価など、「PDCAサイクル」を回すための膨大な書類仕事を想起させる。そのどれもが、本来的な意味では、「内部質保障」を掲げ、再帰的に自分自身や自組織の実践を振りかえり、よりよいものにしていくための評価検証プロセスであるとされている。でも、大半の大学組織においては、結局のところこのような評価シートは、「やっているフリ」をするだけの書類仕事に成り下がっている。では、なぜそのような「無意味な砂を噛むような仕事」が押しつけられているのか。それを、「組織内に作った関所を管理する権限を確保することで、自分の存在意義を確保しようとするから」という内的合理性に基づくと言われたら、まさにその通りだと思う。そして、これは大学に限った話ではない。一定の規模を持つ組織では、このような「組織内の無数の関所」がある。そして、それが「クソどうでいい仕事」を増殖させていくのである。

解決策はベーシックインカムなのか?

さて、グレーバーに戻ろう。彼は、技術革新がブルシット・ジョブを作り出した、と整理している。

「自動化(オートメーション)は、大量失業を生み出した。わたしたちは、あれこれ効果的な仕事もどき(ダミー・ジョブ)をつくりだすことで亀裂を塞いできたのである。」(p340)

つまり、雇用調整のために作られた「仕事もどき(ダミー・ジョブ)」が、大量のブルシット・ジョブを生み出した、というのである。そういえば建設業関連で働いていた友人と昔議論をしたとき、誰も通らないような道路工事現場でも警備員を配置することは無駄ではないか、と尋ねたら、「それがあるから、失業率が下がっているのだ」と猛烈に怒られたことを思い出す。これも「仕事もどき(ダミー・ジョブ)」である。では、どうしたらよいのか? グレーバーは「仕事と報酬を切り離し本書で論じてきたジレンマを集結させる構想の一案としての普遍的ベーシックインカム」(p345)を提案する。

彼はアナキストなので、「政府や企業により多くの権力を与えてしまう解決策よりは、自分たちの問題を自分たちの手で対処できるような手段を人々に与えるような解決策のほうを好む」(p346)という。無駄な仕事を減らして「週15時間労働」に規制したとしても、「仕事の有用性を評価するためのあらたな政府官僚が求められ、不可避に巨大なブルシット生成装置へと転じることになろう」(p347)と予言する。それゆえ、ミーンズテスト(どれだけ財産を持っているか、などを調べる調査で生活保護の扶養調査などもそれにあたる)は「クソどうでもいい仕事」を増幅させるために廃止し、全ての国民に一律に生活費を支給せよ、と提案する。そのことで、「労働を生活から完全に引き剥がすこと」 (p359)が可能になるという。そうはいっても、人々は強制収容所でも、なにか意味ある労働を自発的にしようとしていた。だから、「人間は強制がなくとも労働をおこなうであろう、ないし、少なくとも他者にとって有用ないし便益をもたらすと感じていることをおこなうであろう」(p360)という前提に立ち、強制労働を廃止するためにベーシックインカムを提唱する。

これは興味深いが、関所資本主義の廃止同様、「危険」な提案である。安冨さんが書いているが、現代日本の最強の関所である国家資本主義の構造を調べ上げ「国民の税金と巨額の国家勇とによって調達された資金が、特別会計という隠れ蓑を通じて特殊法人・認可法人へと流れるルートを解明した」(p147)民主党の石井紘基衆議院議員は、その構造を暴いたため、何者かに暗殺された。「クソどうでもいい仕事」がなくなることで、自らの利潤が減ると思う人々は、その実現を命がけで止めようとする。それは、「仕事の有用性を評価するためのあらたな政府官僚が求められ、不可避に巨大なブルシット生成装置へと転じる」というマイルドな形態もあれば、そのようなことを暴露するひとを刺し殺す、という暴力への転化もありうる。

僕たちがこれに抗して出来ることは何か。少なくとも、自らにふりかかる「クソどうでもいい仕事」をなるべく減らすこと、であろう。そのために必要なのが、実質的な仕事であるケア労働の再評価である、という指摘は、頷かされる。

「仕事の大多数が厳密にいうと生産的であるよりはケアリングであり、だれの目にも非人格的であるような仕事にすらケアリングの要素がつねにひそんでいると認識することは、別の規則をもった別の社会を作ることがなぜかくも困難であるかという問いへの、ひとつの応答となり得る。(略) もしいまある社会が好きではないとしても、生産的かどうかにかかわらず、わたしたちのほとんどの行為の意識された目的が、他者―たいていは具体的な他者—をおもいやることにあることに変わりはない。」(p310)

実はこの部分も安冨さんの本と呼応する。

「自らの感覚から乖離させられた人間は無力感に浸ることになり、商品の利用者ではなくなり、単なる消費者となる。単なる消費者とは、自らの苦しみの原因から目を背け、そこから生じる痛みを誤魔化すための刺激を求めて、必要もないのに商品やサービスを蕩尽する者である。その消費活動は、創発を伴わず、価値を生み出さないので、ただただ資源を浪費する。このような状況に陥った消費者ばかりが存在する市場では、何を供給しても価値は生み出されない。それゆえ、創発の構えを回復し、消費者を利用者へと転換することが、経済活動の大前提なるが、それには、消費者の感覚を呼び覚まし、生きる力の発揮を可能にすることが不可欠である。これはもちろん、容易なことではない。しかし少なくとも、その方向へ人々を導く風を送り込むことが、ビジネスを展開するうえで、最大の資源となる。」(『経済学の船出』p167)

グレーバーは現在の資本主義に絶望し、アナーキストの立ち位置から、ベーシックインカムを導入して強制労働から人々を解き放つことに、その解決策を見いだす。その上で、「具体的な他者をおもいやる」ケアリング労働の価値を再評価しようとする。安冨さんは、「必要もないのに商品やサービスを蕩尽する」「消費活動」にはまり込む、無力感を伴った消費者から、人々が「利用者」に転換することが大切だと説く。そして、「その方向へ人々を導く風を送り込むことが、ビジネスを展開するうえで、最大の資源となる」と、限定付きで、現在の資本主義を肯定している。

現時点での僕自身の考えを言うなら、ベーシックインカムよりは、井手英策さんの言うベーシックサービスの方に魅力を感じている。そして、その上で、安冨さんの指摘するような、創発や価値を生み出すような「利用者」に消費者が転換することのほうが、現実的な変化を生み出す上で効果的だとも思う。そして、労働における創発や価値生成は、まさに「具体的な他者を思いやる」ケアリングの中に詰まっている。そのことは、僕も「ケアと男性」という連載を書き進めながら、強く感じている部分でもある。

残念ながら、そのことをグレーバーにはぶつけられない。彼は2020年9月に亡くなってしまったから。安冨さんとグレーバーが対談していたら、どんな論が繰り広げられたのだろう。そんなことを妄想しながら、この小論を閉じたいと思う。