発達の最近接領域(ZPD)としてのブログ

最近「積ん読本をちら読みしよう」というのがマイブームで、てっちゃんが誘ってくれて、井庭崇さんの『クリエイティブ・ラーニング』(慶応大学出版会)を読んで対話する読書会を行った。初見で4章だけを30分間で読んだ上で、その内容についてガッツリ1時間議論した。その内容がめちゃくちゃ気になったので、教わった井庭さんのLife with readingに関する動画を見た上で、さらに面白かったので、序章も風呂読書で読み切った。

読んだ上でふと気づいたことがある。それが表題の「僕にとってのブログはZPDだ」ということ。このZPDについて、井庭さんは次のように解説してくれている。

「ヴィゴツキーは、自分一人で自力で解ける水準(今の発達水準)と、他者の助けを借りて解ける水準(いま成熟しつつある水準)の間の領域を『発達の最近接領域』(ZPD:Zone of Proximal Development)と名付けた。現在の発達水準に「最も近接」する「発達」の「領域」という意味である。」(p87)

今まで読んだZPDの説明の中で、一番腑に落ちる説明である。自分で出来ること、と、他者に助けてもらわないと出来ないこと、の間にある領域のことである。さらに、井庭さんと対談しておられる市川力さんは、こんな風にも語っておられる。

「ヴィゴツキーは、できることだけを積み重ねていっても、できないことができるようになるわけではないと考えます。そうではなく、いまギリギリできそうだけれどもできない部分を見つけて挑戦することで、できなかったことができるようになる。この『できそうだけれどもできない』領域が発達の最近接領域です。発達の最近接領域にあるような課題や出会いを通じて、人は新しいことができるようになり、成長できるわけですね。」(p520)

市川さんは「『できそうだけれどもできない』領域が発達の最近接領域」だと語る。棒高跳びの高さを少しずつ上げていって、さっき飛べたけど、今回は飛べなかった、という領域。あるいは跳び箱で4段は跳べても、5段目は無理だ、という、あの領域である。(ちなみに鈍くさい僕は、跳び箱は苦手だった)

僕は受験勉強は本当に嫌いだったのだが、大学生以後の学びは徐々に好きになり、研究者として働き出してからは、めっちゃ好きに変わった。いま、人生で一番学びが楽しいかも知れない。それは、『できそうだけれどもできない』領域としての最近接発達領域(ZPD)に挑戦し続けながら、自分の可動域を広げてきたからであり、そこによって見える世界がずいぶん違ってきたからであり、その中でオモロイ何かと沢山出会い続けているからだ、と思う。そして、その時々の発見(My Discovery)を言語化するのが、16年間書き続けているこのブログという媒体だ。

このブログは2005年に大学教員になった年から始めている。最初は文章修行のつもりで、自分の意見を書くのはめちゃくちゃこわごわ、書いていた。イメージしているのは、当時から読み始めた内田樹さんのブログで、内田さんのブログの文体や引用して思考する記述スタイルを当時はこっそり真似をしたりしながら、言語化トレーニングを始めていた。

それがある時期から、自分が時々に読んだ本や出会った経験を主題化して、その時に自分が「これは書かねば!」と発見したことを言語化するブログとして機能し始める。猛烈に仕事が忙しくなってくると、読んだ本や浮かんだアイデアもすぐ忘れるので、外部記憶装置のように書いておいた。実際、検索して思い出すアイデアや情報も数知れず(苦笑)。

そして、さっき井庭さんの本を読みながら、僕がオモロイ本を読んでブログに記述して言語化する行為って、「いまギリギリできそうだけれどもできない部分を見つけて挑戦すること」なんだな、と深く了解した。論文のようにこなれていなかったり、自家薬籠中の物になるまえの、割と生な思考や感情を言語化しようとしている。そして、ブログで取り上げる本も、最近では子育て支援や教育領域が多いのは、ゼミ生のテーマを一緒に勉強しているから、もあるけど、娘が生まれて以来、やっと児童福祉や教育領域を自分事として考えるようになってきたから、かもしれない。いずれにせよ、自分の専門領域でない本を読んで、「そういうことだったのか!」と発見して、『できそうだけれどもできない』領域に関しての思考を深めるためのツールとして、ブログが機能している。井庭さんは、パターン・ランゲージが自分で自分の足場をかけることができるメディアだ(p521)、と言っているが、僕はそのことを知らなかったので、ブログを「足場かけ」として用いてきたのかも、しれない。

それに関連して、あと二つ、この本から紹介したい概念がある。一つ目は、≪発見の広がり≫(Discovery-Driven Expanding)である。井庭さんはこんな風に書いている。

「自分のことを見つめ直す『My Discovery』(自分の発見)から始め、次に相手の発見も受け止められるようになる『Your Discovery』(相手の発見)を経て、みんなでコラボレーションして『Our Discovery』(自分たちの発見)に至るという三段階として設計するというものです。」(p547)

僕自身がプロジェクト型の探究をする時に感じていた疑問は、教員なりリーダーのプロジェクトに学生やフォロワーが従うときは、従う方は面白くないのではないか、というものだった。そして、その理由はまさに井庭さんがいうように、『My Discovery』(自分の発見)をベースとしないリーダーの『Your Discovery』(相手の発見)だったり、最初からの『Our Discovery』(自分たちの発見)だからではないか、と今日のてっちゃんとのZoom対話でも整理された。これはゼミでも同じで、僕のゼミでは僕がテーマを決めない。ゼミ生達は自分が探求したいテーマを自由に探して、それを深掘りしてほしいと願っているのだが、それは『My Discovery』(自分の発見)がないと、学びや発見は拡がらないからだ、と感じているからだ。

もちろん、これは僕自身の学び方に関係している。僕も、大学院生のころから、必死になって自分のテーマを探してきた。有り難いことに大熊一夫師匠は、「これでやれ」とテーマを最初から指示することはなかったので、僕は精神病院でのフィールドワークをする中で、自分が何をテーマに博論を書けるか、を模索し続けた。その中で、病院と地域を、当事者と家族や他の医療者を、シャバと医療界をつなぐ「つなぎ役」としての精神科ソーシャルワーカー(PSW)が気になっていた。だが、どうやって博論に高めてよいか分からなかったD2の秋に、師匠にこう言われた。

「竹端くんはPSWが大層気になっているようだ。であれば、フィールド先の京都府内のPSW全員に会って話を聞いて、そこからPSWの課題を探って博論にまとめよ。それが出来なかったら、竹端くんの博論はない!」

そのエピソードを思い出したのも、さっき引用した部分の続きで井庭さんが書いていたからである。

「プロジェクト学習のミッションは、先生が与えずに、生徒が自分で見つけないと主体的な学びではない、と考える人たちもいますが、市川さんはミッションを与えるという方法で実施していました。≪チャレンジングなミッション≫を設定するのです。ミッションをこちらから与える理由として、世の中において多くのミッションは天から振ってくるように与えられるからです。そこから自分なりにそのミッションとどう関わるかが大事。」(p547)

D2の秋の師匠からの一言は、まさに僕にとっての「天啓」であり、≪チャレンジングなミッション≫であった。何をすべきかはわかった。でも、1年強で100人以上のPSWにあって、そこからPSWの課題を見つけ出して、そのインタビューデータに基づいて博論を仕上げないと、僕には未来がない。めっちゃハードルは高いけれども、出来ないとは限らない。それを『できそうだけれどもできない』領域にして、期間内にやり遂げるという≪チャレンジングなミッション≫。沢山の方に助けてもらいながら、そこに猪突猛進で突き進んでいくうちに、僕なりの『My Discovery』(自分の発見)が開かれてきて、それが博論で発見した5つのステップという形で昇華され、後に支援者エンパワメントや『「無理しない」地域づくりの学校』など20年近く研究をし続ける原動力となる≪発見の拡がり≫につながっていった。

さらに、この師匠と僕との関係で言うと、「正統的周辺参加」と「好奇心誘発参加」の違いを市川さんが述べておられる。これが紹介したい二つ目の概念である。

「師匠に出会い、憧れて、師匠の仕事を手伝いながらだんだん師匠のようになるという学び方を、『正統的周辺参加』と言いますが、こうしたスタイルは、すでに確立された技の伝承においてはとても有効だと思います。一方で、単にブラックな働かせ方やハラスメントにつながる可能性も高い。
ジェネレーターとともに行うプロジェクトは、好奇心が主導します。あこがれの人を目指し、ついていくのではなく、いわば『好奇心誘発参加』。面白さにひきずられてみんな巻き込まれてゆくんです。だからジェネレーター気質の人って、仕事のプロセス自体を楽しんじゃう。」(p536)

これを書き写しながら改めて気づいたのだが、僕は大熊一夫氏に弟子入りした、という師弟関係を結んでいた意味では、今まで「正統的周辺参加」だったと思い込んでいた。そして、確かに「あこがれの人を目指し、ついていく」という形で学んできた。でも、師匠からは本当に幸いなことに、「ブラックな働かせ方やハラスメント」は受けなかった。別の教員にアカハラを受けて潰れそうになり、人生のどん底だったときも、既に大学を離れた師匠は折りに触れ僕にアドバイスをくださり、護ってくださった。「師匠に出会い、憧れて、師匠の仕事を手伝いながらだんだん師匠のようになるという学び方」そのものだったが、師匠自身はその後もイタリアに長期取材を続けてバザーリアを日本に紹介する数々の仕事をされるなど、師匠の好奇心を全面展開して、探求しておられた。僕は、師匠から時々の探求のお話を伺い、それらの「面白さにひきずられて」「巻き込まれてゆく」のだった。そういう意味では、師匠との関係は、「好奇心誘発参加」でもあったのかも、しれない。

そして、今、ゼミ生や社会人の方々と、色々な学びの場をコラボレーションしつつある。教わる側、ついて行くフォロワーから、教える側、に変わりつつある。その際、僕自身は上意下達的な教師は嫌だな、と思っていたので、なるべく話し合いを促すファシリテーターとして生きようとここ10年近くやってきた。でも、こないだてっちゃんに指摘されて、ファシリテーターから探求者のほうが良いのではないか、と思い始めた。

そして今日もてっちゃんから教わって井庭さんの本を読んでみたら、創造社会においてはティーチャーでもファシリテーターでもない、ジェネレーターが求められている、と整理されていた。

「ジェネレーターは、プロジェクトでの創発的な活動に、自ら参加者として入って一緒につくりながら、自分の創造性も他者の創造性も刺激しつつ、たくみにコミュニケーションを誘発し、アイデアを生成するという教師像です。」(p528)

これこそ、僕が探求者として求めていたアプローチそのものだ、と読んでいて嬉しくなってきた。そう、僕は僕での探求をしたいし、「自分のことを見つめ直す『My Discovery』(自分の発見)」をし続けたい。でも、関わるゼミ生や社会人の方々も、それぞれ「自分のことを見つめ直す『My Discovery』(自分の発見)」をしてほしい。そして、僕とみなさんが交錯する場に置いて、お互いの「自分のことを見つめ直す『My Discovery』(自分の発見)」に基づいて、「次に相手の発見も受け止められるようになる『Your Discovery』(相手の発見)を経て、みんなでコラボレーションして『Our Discovery』(自分たちの発見)」につながる。そういう学びの共同体を作っていきたいし、その中で率先してオモロイことを楽しみながら、他の人の面白さにも火をつけるジェネレーターでありたい。そう思い始めている。そして、『「無理しない」地域づくりの学校』でやってきたことも、一人一人の「マイプラン」作成を応援する中で、お互いの「自分のことを見つめ直す『My Discovery』(自分の発見)」を励まし合い、互いのプランを聴き合うプロセスにおいて、「相手の発見も受け止められるようになる『Your Discovery』(相手の発見)を経て、みんなでコラボレーションして『Our Discovery』(自分たちの発見)」を生み出してきたプロセスなのかも、しれない。

そう思うと、科研でやっている反抑圧的で対等な場づくり・地域づくり、という研究テーマも、実はこのようなクリエイティブ・ラーニングの場づくりなのかもしれない、と思い始めている。

と、つらつら書いてきたこのブログは、まさに「自分のことを見つめ直す『My Discovery』(自分の発見)」のプロセスであり、僕にとっての『できそうだけれどもできない』=最近接領域での大人の成長・発達にむけたチャレンジである、と改めて言語化しながら感じた。

異色のフィールドワーク

興味があって読み始めたら、あっという間に最後まで一気読み、という本がある。その一方、めっちゃ興味があって、読んでいて面白いのだが、その内容を咀嚼するのに時間がかかって、一気に読み通すことが出来ず、チビチビと時間をかけて読み進める本もある。今日ご紹介するのは、後者の代表例のような一冊。村上靖彦さんの『子どもたちがつくる町 大阪・西成の子育て支援』(世界思想社)である。

何が異色かって、現象学者が質的研究をするとこんな風に描けるのだ、という意外さであり、西成におけるソーシャルワークの底力が、著者のなじみ深い哲学的用語を殆ど使わずに豊かに描かれている鮮やかさであり、そのうえで、現象学的還元に基づいて現状を問い直し、「問題行動」や「困難事例」を見事に問い直しながら、関わり合いの相互作用の魅力をガッツリ描き出している、という意味で、幾重にも異色さがあり、ほんまもんのフィールドワークの成果を読んだ、という満足感が残る一冊である。

大阪の西成は、日雇い労働者の町として知られ、今でも生活保護受給者の割合が他の地区に比べて高い。簡易宿泊所など、一時的に住める住まいもあることから、他の地域から、しんどい状況を抱えた親子が逃げてくる場合もある。そういう意味で、子ども支援においても、「しんどい子」がたくさんいる。その西成における子ども支援については、学校現場の教育実践について調べている、大学院の同期だった柏木智子さんの著書を以前紹介したことがある。また、「「ホームレス」と出会う子どもたち」は随分以前から授業でも見続けてきた。それゆえ、子どもの里の荘保さんなどへのインタビュー調査から、西成における子ども・子育て支援の実態を明らかにするこの本は、すごく楽しみだった。

で、この本で一番印象的だったのは、以下の部分だ。

「二間続きの畳敷きの居間の片側でほかの子どもたちと遊んでいたときに、ちょうどもうひとつの部屋の奥にいたA君が、つーっと無言でやってきて、何も言葉を発しないままに、私の目を見ることもなく、私を本気で殴り始めたのだ(彼はとくに発達上の問題はない)。小学生だが、私の急所めがけて、本気でパンチをしてきた。打ちどころが悪かったら、ケガをするような勢いだった。そして、何も言わずにつーっと離れて、玄関から出て行ってしまった。
目も合わせず本気で殴り続ける様子に、私は殺気を感じた。その晩、私は大きな犬に襲われる悪夢を見たことで、この経験が言葉にならない仕方で残っていたことにも気がついた。」(p149)

フィールド先で、子どもに本気で殴られる。しかも殺気をもって殴られる。これは、フィールドワーク最中でなくても、ものすごく恐ろしい出来事だし、悪夢を見るのもよくわかる。だが、このA君が本気で殴り始めたのは、こんな理由だったと、児童相談所の勤務経験のある人に教わって、村上さんは腑に落ちる。

「先生によると、『お前は誰やねん。ここはおれの縄張りやぞ』というメッセージで、大人は『痛い痛い、暴力はんたーい』といって相手をすればよいというのだ(実際、私はほぼそういう対応をした)。そして、最後に子どもが一発本気で殴ってきたら、こちらをメンバーとして認めてくれたあいさつだ、というのだ。」(p150)

村上さんは、2014年から西成に関わり始め、2017年以後、集中的に西成に通い続け、色々な人に話を聞き続けている。A君とは「にしなり☆こども食堂」の川辺康子さんへのインタビューをしている中で、川辺さんが最も気になる子どもとしてあげた、複雑な生活環境を抱えた子どものことである(本文にその内容が詳しく記載されている)。「しんどい」家庭環境を抱えた、「しんどい」子ほど、関わりづらい。それは「処遇困難事例」「問題行動」などとラベルが張られがちであり、村上さんが受けた殺気ある暴力も、まさに「問題行動」である。

だが、その子にはその子なりの、そういう行動に至る内在的論理がある。村上さんは、ご自身のフィールドワークの積み重ねや、川辺さんへの継続的なインタビューを通じて、A君の内在的論理を理解しようと、探求し続けてきた。その中で、川辺さんとA君のつながり方に「拒絶と否認」があることを発見する。

「このあと何年か継続的に彼と川辺さんをみてきてわかったことは、川辺さんがA君とつながろうとして居場所をつくり出そうとするたびに、『そもそもお前と俺の関係はなんやねん』というようなメッセージをA君が出すということだ。これは関係を拒絶する言葉というよりは、どれだけ彼が孤独であるか、ということを表現しているように今は感じる。まさに川辺さんとはつながりがあり、切れることもない安心感ももちかけているがゆえに、切れてしまうのではないかという不安から、このような言葉を発しているように感じるのだ。
彼が要所要所でくり返す切断の身振りは、幼少期に両親が突然失踪した切断を無意識的に反復していると考えると理解しやすくなる。過度に心理学化したくないのだが、このような精神医学的な心的外傷の理解を踏まえないとわからないことがある。潜在的な外傷の表現としての『そもそもお前と俺の関係はなんやねん』というふるまいがあり、かつ、<つながることができない人とでもつながる装置>としての子ども食堂がある。」(p152)

書き写しながら、村上さんの、関係性を把握してそれをしっかりと描写する、その抽象化力と表現力の豊かさや確かに、敬服する。もともと現象学の研究者だった村上さんが、近年自閉症や看護、虐待など福祉や医療的な領域でのヒアリング調査に基づいた著作を積み重ねてこられたのは知っていたし、本もご恵贈頂いたり、自分で買って読んだりしてきた。でも、一読者として感じるのは、この本では、以前の村上さんの著作からはギアがぐっと入れ替わった、というか、村上さんの現象学的な視座と、西成におけるソーシャルワーク実践の魅力がガッツリはまり、そこに彼の時間をかけたフィールドワークの経験値が深く刻み込んだ上で成立した、骨太のフィールドワーク記録であり、現象学的質的研究の集大成の一冊である、という読後感である。

ご自身が本気で殴られる、という形で出会ったA君が、川辺さんという支援者とどのようなつながりを持ち続けているのか。『そもそもお前と俺の関係はなんやねん』というのを、表面的な拒絶や否認、自己決定や問題行動という狭い枠組みで捉えるのではなく、A君の辿ったかなりしんどい人生の中での、「潜在的な外傷の表現としての『そもそもお前と俺の関係はなんやねん』というふるまい」であり、でもそれを川辺さんには表現して良い、という、つながりの安心感と、それを表現してよいのかという不安と、でもそうせざるを得ない孤独と・・・というものがない交ぜになる中での、「暴力」であったり「暴言」であったりするのだ。親密さを、親密さとして表現することができないほど、絶望的な状態においやられた「しんどい子」であるA君の内在的論理を、長い時間をかけて捉えようとする、村上さんの思いが、行間に詰まっている、と感じた。

そして、この圧倒的なフィールドワークに基づく分析を読んでいると、社会福祉学や福祉社会学は一体何をしているのか、という問いも浮かんでくる。それは、必然的に、ぼく自身はフィールドワークをちゃんと出来ていないよなぁ、という自分自身へのリフレクションにもつながる。

村上さんは、荘保さんや川辺さん、「わかくさ保育園」の西野さん、アウトリーチと居場所をつなぐスッチさん、助産師ひろえさんという魅力的な5人に焦点化し、それぞれの人へのインタビュー記録を元に、現象学的質的研究という視点から、この本を編み上げる。だが、この本は単なるインタビュー本ではない。上記のように、村上さんがどっぷり西成の世界観にはまっていく中で、時には殴られたり!しながら様々な人と出会い、要保護児童対策地域協議会というフォーマルな会議に自身も関わっていきながら、つまり西成と村上さんの関係性を深める中で、その地域の・支援者の・子どもたちの発するメッセージを読み取る深さや濃度が高まる中で、レンズの解像度がぐんと上がるなかで、この本を書き上げられた、と一読者には感じる。

他方で、社会福祉学や福祉社会学で、こういう魅力的なモノグラフってあるだろうか?と問うと、自分の仕事も含めて、甚だ心許ない。川辺さんとA君の関係性の描写などを通じて、「しんどい子」の「しんどさ」の背景にある、心理的・社会的課題を村上さんはガッツリ描き出しておられるが、例えば社会福祉研究で、そこまでの迫力のある分析は、そんなにあるだろうか? 「問題行動」「困難事例」「要保護児童」を所与の現実として、そういう行動や事例、子どもがどのような内側の困難を抱え、社会的に構築され、そこから逃れられない状況に構造的に追い込まれているか、をしっかり分析出来ているだろうか? この本は、実質的にはソーシャルワークの魅力や可能性について提起している一冊であるが、ソーシャルワーク研究の文脈で、こういう現場実践を豊かに描き出しつつ、理論と接合させる記述が出来ているだろうか?

そういう疑問が読みながら次々と出てきて、自分への刃ではないけど、イテテ、と思いながら読み進めていたので、時間がかかったのかも、しれない。

最後に、これはこの本への不満や批判ではなく、この本を踏まえた上で、自分自身がずっと抱いている研究課題に引きつけたことを、一言書いておきたい。

こういう魅力的な実践やインタビューを読むと、いつも感じることがある。それは、「その人がいなくなればおしまいの壁」があるのではないか、ということである。ここに出てくる魅力的な5人も、他の普通のソーシャルワーカーや教員やボランティアが出来ないことを、やってのけておられる。だからこそ、魅力的だし、学びが多いし、こういうことを実践しなくちゃ、と勇気がもらえる。でも、ここに出てくる5人は、支援者のスタンダートではない。むしろ、カリスマであり、秀でた・ものすごく魅力的な人々である。そして、こういう魅力的な人の実践はすごく学びが多いし、刺激的である。だが、そういう魅力的な人々に支えられた組織や地域って、その人々がいなくなったらどうするのだろう、という不安が、つねに頭によぎる。

だが、繰り返し述べるが、これは村上さんの研究や西成への批判ではない。僕の20年前からの問題意識である。昔「ボランティアとは言わないボランティア」という論文を書いた時に感じていたのも、そうだった。ものすごく魅力的で、カリスマというか職人芸的に仕事をされている、精神科ソーシャルワーカーのやっていることを、フィールドワークに基づいて大学院生の頃に書いたものである。その時からずっと感じているのは、対人援助においては、現場の裁量性が大切だけれど、その裁量性によって、めちゃくちゃ魅力的な支援も、あるいはとんでもなくまずい支援もある、という裁量が担保されてしまっている、という現実である。おそらく西成では、要保護児童対策地域協議会が形骸化しておらず、地域の「しんどい子」「困っている子」を常に意識し、スッチさんのように「気になる子」を訪問する人材もそろっているから、現場の裁量がポジティブに活かされているのだろう。それが、「地域のすき間を見つける支援者が持つ<点のカメラ>と<面のアンテナ>」(p195)を通じて活かされていることも、よくわかった。

だが、西成以外の地域で、こういう「しんどい子」と向き合う時にどうしていったらよいのか、という時に、このフィールドワークの知見をどう活かせるのだろうか。常に僕の頭はそういう方向で考えてしまう。それは、ケアマネジメント=マネジドケアの枠組みのなかで、計画相談やケアプラン作成でアップアップしていて、パソコンを見るのが仕事になって、本人や家族とじっくり向き合うことが出来ていない、そういう一般的な支援者が、少しでもこの「子どもたちがつくる町」に出てくる5人の支援者のように、本気で子どもたちと出会い、子どもたちに教えられ、子どもたちと共に生き心地のよい町をつくるために、ソーシャルワーカーがどう関われるのだろう、そのためのソーシャルワーカーの変容課題は何だろう、という問いである。

いや、このあたりは、村上さんの本への評価ではなく、ぼくが考えるべき仕事であり、長年の宿題である。(その一部は、この春土屋さんや伊藤さんとともに出した『困難事例を解きほぐす』の中でも、部分的に考えている)。でも、そういう、社会福祉学と福祉社会学の境界領域を歩き続ける研究者のぼく自身の実存にも直接問いかけてくださる、本質的な課題提起がされている、そして何より西成の子ども・子育て支援の魅力が濃縮されている、実に読み応えのある一冊だった。そしてほんまもんのエスノグラフィーを読んでいると、僕も久しぶりにちゃんとインタビューとか調査研究を再開せねば!と思いを新たにさせてくれる、研究欲をかき立てる一冊でもあった。

子どもを中心にする視点

子どもが生まれてから、児童福祉や教育学領域の本を遅まきながら読み始めている。その中で、今年読んだ本のベストに入りそうな一冊と出会った。教育学者が子どもの権利条約をベースにしながら、学校にまつわる5つの論点(「不登校」「学力」「障害」「道徳」「校則」)を論じていくのだが、まず最初に読み始めた「障害」の章で痺れてしまった。

「日本の学校は、分類することによって『多様な』子どもたちを生み出している。なぜ、さまざまな基準を用いて細かく分けるのか。丁寧な指導のため、それがその子のため、と思い込んでいるのだろうが、実際には全体を統一(画一化)していくためである。
まず、分類されることによって、その分類されたグループ内は画一化される。その分類は能率性という観点からなされ、『問題』とされる者たちが集められていく。『問題』である限り、修正を施されることになる。つまり、分類によっていったん名付けられた多様性は、最終的には解消されなければならないということになる。落ち着きがないなどの『問題』を理由に、たとえばその状態に『発達障害』などの医学的な命名がなされ、特定の子どもたちが普通学級から分離されていく。『不登校』も同様である。その『問題行動』の背景に、受験等の競争的学力観によるストレスなどがあるのではないかといった問いが立てられることはない。現象的にわかりやすい部分にのみ着目し、似た者同士が集められ、訓練を施され、何らかの『水準』に達することが期待される。つまり、分類は画一化のための手段ということになる。」(池田賢市著『学びの本質を解きほぐす』新泉社、p146-147)

漠然と日本の学校教育や分離教育に感じていた疑問を、教育学者がこれほどズバリと射貫く表現をしてくれると、気持ちよい。「分類は画一化のための手段」とは、精神病院や入所施設と構造的同一性の論理である。

入所施設や精神病院は、「地域で暮らせない」と分類された人を、画一的に処遇する場所である。両者は本来「通過施設」であり、人生の一時期だけを過ごし治療や療育を受ける場所、という建前であるが、長期社会的入院入所の状態が続いている。その背後にある論理は、池田さんが指摘する以下の構造そのものである。

「その分類は能率性という観点からなされ、『問題』とされる者たちが集められていく。『問題』である限り、修正を施されることになる。つまり、分類によっていったん名付けられた多様性は、最終的には解消されなければならないということになる。」「現象的にわかりやすい部分にのみ着目し、似た者同士が集められ、訓練を施され、何らかの『水準』に達することが期待される。」

そして、障害のある人の差違を「能率性」に基づいて「分類」し、治療や改善が見られたら=差違が最小化されたら退院・退所可能、という論理構造になっていると、いつまで経っても退院や退所は可能ではなくなる。「画一化のための手段」としての「分類」が続いている限り、このような分類による排除はいつまでも再生産されていく。日本でこの20年間、「発達障害」とラベルを貼られる人が急増し、特別支援学校の高等部が雨後の筍のように急増した背景にも、このような「能率性」に基づいた「画一化のための手段」としての「分類」の発送はなかっただろか。そしてそれは社会的排除と軌を一にする。

「認識すべきは、『普通』という権力的・暴力的に設定された軸からズレていることを否定的なニュアンスで意識化させて、期待されている軸に乗ろうとするメンタリティの形成が目指されている、という点である。」(p147)

これは特別支援学校(学級)への指摘であるが、例えば障害者就労の現場でも、これと同種の論理が働いているように思えてならない。「普通の職場」に適合することが善とされて、そこに合わないから「障害者雇用」という特別枠での就労が期待される。いずれも「期待されている軸に乗ろうとするメンタリティの形成」が前提として目指されていて、その軸にどれくらい乗れるか・乗れないか、で査定されていくシステムである。

ただ、池田さんが本書全体で問い直そうとしているのは、そもそもこのような「『普通』という権力的・暴力的に設定された軸からズレていることを否定的なニュアンスで意識化」させる、そのこと自体の問題性である。なぜ学校・学級・社会における「普通」の言動が出来ない人は、社会的に排除されるのか。その時、この「普通」の暴力性や権力性を問うことなく所与の前提として無批判に受け入れ、この「普通」の軸に合うか合わないかで分類し、分類された特別支援学校や障害者施設、精神病院などでも、普通に戻る、という画一化された基準でしか捉えられないことの暴力性について、なぜ不問にしておくのか、という問いである。そういう意味で、精神病院や入所施設の構造的暴力や、社会的排除の論理は、特別支援学校における問題と全くの地続き(同一スペクトラム上)である、とこの本を読んで、再確認することが出来た。

上記の、問題の個人化を問い、社会構造の抑圧課題として問題を解きほぐす姿勢は、他の章でもしっかり主軸として語られている。

「なぜ学校に来られなくなってしまったのだろうか、という疑問は封印されている。学校はそのままの形で存在していてよいのであって、そこになじめない子どもに問題があるという発想をとっている。」(同上「不登校」p42)
「いまの大人たちが、まるでそれが避けがたい方向性であるかのように一定の状況を設定し、その中でうまく生き残っていけるような『力』『スキル』を子どもたちにあらかじめ身につけさせようと考えること自体が問題である。本当にそんなに『大変な』社会状況になるのならば、そのような社会にならないよう、その技術の普及にはストップをかけていくのが今の人間の未来に対する責任ではないのか。」(「学力」p81)
「思いやりなどの心の状態を強調し、『弱者』への配慮こそが問題解決のあり方として肯定的に示されていくとすれば、その『弱者』自身が、自らを弱者に追い込んだ社会を批判し、権利を主張していくことについては否定的にとらえられていくことになるだろう。そのような『主張』は『わがまま』だとされるか、『煙たがられる』ことになる。」(「道徳」p186)

書き写しながら改めて感じるのだが、教育の現場でこそ、「問題の個人化」「自己責任化」や、「社会構造や公的責任について不問とする姿勢」が再生産されている、と強く感じる。事実、僕自身も、大学院生の頃から精神病院問題に関わり、障害者運動に出会うまで、能力主義を鵜呑みに信じ、努力するものは報われると思い、だからこそそれが出来ない人は結果責任だ、と思い込んでいた。そうであるがゆえに、精神病院や入所施設の構造的暴力の問題に取り組んでいる間も、特別支援学校(学級)に関しては、自分の意見を述べるのを、10年前くらいまで、躊躇していた。学力差があったり、普通学級で落ち着いて学ぶことが出来ない子どもがいるならば、別の学級で学んだ方が、「その子のため」になるのではないか、と。

しかし、この「あなたのため」に私とあなたを分離・区別する眼差しこそが、実は当の排除を生むのである。「まるでそれが避けがたい方向性であるかのように一定の状況を設定し、その中でうまく生き残っていけるような『力』『スキル』を子どもたちにあらかじめ身につけさせようと考える」からこそ、その「力」「スキル」を「普通」の子と同じように身につけられない子が、有徴化され、排除される。でも、池田さんは、そもそも「学校はそのままの形で存在していてよいのであって、そこになじめない子どもに問題があるという発想」自体が差別を生み出す、と決然として述べる。「その『弱者』自身が、自らを弱者に追い込んだ社会を批判し、権利を主張していくこと」が「『わがまま』だとされるか、『煙たがられる』ことになる」、そんな差別的な社会構造を問わない限り、この構造は再生産され続けるのである、と。そして、それに僕は深く頷く。

では、どうすればよいのか。そこで出てくるのが、子どもの権利条約の「参加する権利」および「意思表明権」(第12条)や「子どもの最善の利益」(第3条)である。それに関しても、池田さんは至極真っ当な、それゆえキラリと光る発言をしておられる。

「『自己の意見を形成する能力』の<ある子ども>と<ない子ども>がいて、<ある子ども>に対して認められている権利だということではなく、子どもというのは、そもそも『自己の意見を形成する能力』がある存在なのだ、とこの条文は言っているのである。もちろん、うまく意見が言える子どももいれば、なかなかことばにならない子どももいる。だからこそ、『年齢および成熟度に従って相応に考慮』されなければならないのである。しっかりと大人にわかるように意見の言える子どもの意見をより尊重するという意味ではなく、どんな子どもも正しく自分の意見を述べているのであって、それを理解できていないのは、大人の側なのである。条約は、子どもによってはその表現が伝わりにくいこともあるから、その点を大人の側はしっかりと意識(配慮・考慮)して、その子どもの意見を受け止めるようにしなければならない、としているのである。」(「校則」p213)

これは、障害者の意志形成・意志決定支援についても考えてきた&4年間子育てで四苦八苦してきた僕からすれば、本当に我が意を得たり、のような発言である。

うちの娘は、まさに生まれた時から、様々に意思表明をし続けてきた。ただ、おなかが減った、眠い、疲れた、感情のコントロールができない、しんどい・・・と言語的に理路整然と表現出来ないから、泣いたり、叫んだり、ジタバタしたりして、懸命に表面しているのである。しかし、親は非言語的メッセージと出会っても、すぐに何を訴えるのか、が理解できるわけではない。だからこそ、おなかが空いているのか、眠たいのか、感情的に煮詰まっているのか・・・など、どのような意見を述べようとしているのかを推察し、色々試行錯誤しながら、何を伝えようとしているのか理解しようと努める。4才になって、だいぶ言語的表現は出来るようになってきたが、今日も西松屋で「この水筒欲しい」と言ってきかず、どうやったらその気持ちを収める事が出来るか、で15分くらい、ジタバタしていた。これが、『年齢および成熟度に従って相応に考慮』することの意味、そのものである。

そして、これは重症心身障害や重度の知的障害・認知症などで、論理的に言語的表現がしにいくい・できないとされている人を支援する時にも、必要不可欠な視点である。あるいは、自傷他害の行動に陥った人に関しても、同様である。

薬物依存の回復者である倉田めばさんと20年前に出会った時、次のような素敵な言葉を教えてくれた。

「母はよく私に言った「薬さえ使わなければいい子なのに」私は思った(いい子の振りをするのが疲れるから薬を使っているのに・・・・・・)」
「私にとって薬物とは言葉であった。ダルクのミーティングは本来の言葉を取り戻す作業である。自分の言葉を取り戻したときに、薬物が不必要になってくる。」

薬物依存状態の人は、薬物に頼らざるを得ない状況に構造的に追い込まれている。つまり、薬物依存を通じてでしか、自己表現出来ない状況に陥っている。それが、「私にとって薬物とは言葉であった」という意味だと僕は受け止めた。「いい子の振りをするのが疲れるから薬を使っているのに」というのは、「いい子の振り」をさせる(この場合は親子での)権力関係構造をそのまま放置しておいて、「薬さえ使わなければいい子なのに」という眼差しを大人が子どもに向け続けること自体が、薬物依存の悪循環を強化していくのである。これは、薬物依存に限らず、自傷他害と呼ばれる行為や、強度行動障害、認知症の人のBPSDと呼ばれる言動にも共通していると感じる。そのような行為は「普通ではない」し「注意をしても聞かない」から、上記のような症状としてラベルが貼られている。だが、そういう「問題行動」は、生きる苦悩が最大化した人々の、論理的に言語化出来ないが故の、非言語的なSOSの表現なのである。それを、周囲の人間が社会規範や世間的道徳で糾弾するのではなく、本人がそうせざるを得ない内在的論理を理解した上で、どうやったらその悪循環から脱出することが可能か、どうしたらその「自己表現」をしなくても安心して「本来の言葉を取り戻す作業」ができるのか、を本人と周囲の人が協働して考えることが出来ると、そのような悪循環は結果的に収まっていくのである。

そのあたりは4月に出た共著『「困難事例」を解きほぐす:多職種・多機関の連携に向けた全方位型アセスメント』でも一部書いている。そして、実は「解きほぐす」が同じタイトルだったので、この池田さんの新刊情報に興味を持って、著者のことは全く知らない状態で買い求めたら、教育と福祉と、別のアプローチから同じ山を登ろうとしていることがわかり、なおさら共感を持ってこの本を読んでいた。

すべての人には、障害の有無や年齢如何に関わらず、『自己の意見を形成する能力』がある。ただ、年齢や状態によって、その能力の発揮にはでこぼこがある。だからこそ、全ての人が「自己の意見を形成する」ことが充分に出来るように、教員や支援者、親などの応援者が、その人の意思形成や意思表明を応援し続けていく必要がある。それが安心して保障される社会こそ、障害者や子どもの権利が護られる社会であり、ひいては全ての人の尊厳が保障される社会である。

この本を読んで、そのことを改めて感じた。

孤独なのは医者だった

オープンダイアローグに関わる知り合いの精神科医の本を二冊読んで、腑に落ちたことがある。それは、実は旧来のシステムの中にいる精神科医ってめちゃくちゃ孤独な存在だ、ということだ。縛る・閉じ込める・薬漬けにする、という治療では、うまくいかない。でも、それ以外のやり方を教わっていないし、どうしていいのかわからないし、序列やヒエラルキーの激しい日本の医療界にあって、看護師やソーシャルワーカー、ましてや患者や家族にどうしてよいのかお尋ねするなんてことは「してはいけない」と思い込んでいる。だからといって、医局の先輩が教えてくれる訳でもない。すると、精神科医は孤独に陥るか、居直って独善的になっていく。

『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』(医学書院)の第9章「タマキ先生のビフォーアフター」に出てくる斉藤環さんは、治療者として抱え込んで独善的になっても上手くいかず、その後患者から距離を取って孤独に陥り、「斎藤ロボ」と陰であだ名がつけられていた。それは、彼の個人的性格もあるのかもしれないけど、基本的に薬物治療で上手くいかなくても、それ以外のやりかたを彼自身が知らないし、どうして良いのかわからず、袋小路に陥っていた、ということでもあった。

一般的に、精神病を抱えた人こそ孤独であり、治療者はその孤独を和らげる仕事をしている、というイメージを抱きやすい。でも、タマキ先生自身が、かなり孤独であり、それを他人にカミングアウトすることさえできなかったのだ。

それが、オープンダイアローグにであって、斎藤さんは鎧を脱ぐことが出来た。看護師や臨床心理士、ソーシャルワーカーなどに助けてもらう必要性や、そうすることで自分一人で患者と向き合う孤独を乗り越えることが出来、結果的に煮詰まっていた治療関係を開くことが出来た。その中で、診察の間に笑いも増え、「斎藤ロボ」ではなくなっていった。支援チームと一緒にダイアローグに関わることで、斎藤さんは圧倒的な孤独から解放され、「当事者が自発的にふるまうことのできる空白(スペース)を生み出すための対話」(p145)をはじめることができた。それは、斎藤さんの治療観のパラダイムシフトであり、「斎藤ロボ」が人間に戻るために必要不可欠な経路であった。

そして、孤独なのは「斎藤ロボ」だけではなかった。

「『先生は変わった。昔はロボットみたいだった』
私はAIのように、正しい方法をみつけることで、人を助けようとしていたのかもしれない。医学を必死に学ぶほど、私の脳は『標準化』されて、私の言葉は技法のようになっていったと思う。」(森川すいめい『感じるオープンダイアローグ』講談社現代新書

森川すいめいさんも、その昔、ロボットのようだったという。斎藤さん同様、誠実に治療に取り組んだ医者であり、両方とも従来の治療に煮詰まりを感じて、オープンダイアローグに出会った精神科医である。森川さんの言う「医学を必死に学ぶほど、私の脳は『標準化』されて、私の言葉は技法のようになっていった」というのは、非常に象徴的な発言だと思う。

旧来の近代合理的・線形的因果論に基づいた医学を真面目に学ぶと、生物精神医学が主流であり、それは標準化規格化された知識がたくさん身につく。でも目の前の生身の人間の生きる苦悩の最大化した姿には上手く当てはまらない。ではどうすればよいのか、を悩むと、それを乗り越えるための技法(方法論)にすがるようになる。技法は上手くなっても、どこかうまくいかない。だから、ますます知識を求め、技法にすがり、ロボット化していく。

努力は必要だが、努力の方法論を間違えると、うまくいかない。斎藤さんも森川さんも、そういう意味では、努力の仕方がわからず、袋小路に陥っていたのかもしれない。そんな二人は、治療がうまくいかず、孤独においやられた。そもそも、他者の苦悩を聞く仕事なのに、自分の苦悩には硬く蓋をしていた。そして、魂が蓋をされた状態で、ロボット化し、周囲との距離も出来て、孤独は深まるばかりだった。そんな袋小路を越えるためには、斎藤さんだけでなく、森川さんにも、チームが必要だった。

「それまでの、医師の私が中心になって行う対話は、対話なのか単に輪になっただけなのかがわからないものだったが、スタッフと対等の立場で話すようになったら、明瞭に対話は広がった。今では、他のスタッフが入ることで、対話がこれまでとは全然違う、豊かなものになることを実感している。私一人の考えではどうにもならないことがしばしばあるし、他のスタッフが話しているのを聞くことで刺激も受けられる。また、話さない時間があることで考える間が生まれ、私自身の中にも新し考えが浮かびやすくなる。対話の場にいるそれぞれの思いが重なって、新しい考えやこれまで話されていなかったことが話されるようになっていく。」(同上)

大学院生の時、精神科医の診察にしばらく陪席させてもらったことがある。その時、精神科医はカルテを見ながら患者に尋ね、それを患者が答える。あるいは患者が話したいことを口火を切って話し、医者はそれを聞く、というスタイルだった。どちらにせよ、医師と患者が1:1であると、その枠組みを超えることは簡単ではない。僕も、患者として医者の前に座ると、本当は言いたかったのに言い忘れて後で悔しい思いをしたこともある。だが、他の医療チームの皆さんと同席しながら、患者が一方的に話すのでも、医者が一方的に話すのでもなく、患者の話に関して他の医療チームの人が話すのを医者が聞け、患者も聞けると、聞きながら、自分なりに色々考えることが出来る。医者だって、本当はわからないことや判断に悩むこともある。1:1なら判断留保が出来ず、とりあえずの決断を迫られるが、チームでダイアローグするなら、あ新しい見立てを考えることもできるし、患者だって、医療チームの話を聞きながら、自分は本当に伝えたいことは・・・と落ち着いて組み立て直すことが出来る。ダイアローグによって、そういう間が生まれてくる。

そして、そうやって他の治療チームの前で見せてきた孤独を隠すための鎧を脱ぐことは、精神科医が、自分自身と向き合う必要性を示してもいる。

「トレーニングの中で行われたこの価値のセッションは、自分の人生につながるものでもあった。自分が何を大切にしていて、どうして働いているのか、今考えると、そんなことさえ人に話していなかった。自分の気持ちを隠したままで、職場によいチームを作れるはずがない。」
「それまでの私は、もう大人だし精神科医になったのだから、家族のことや傷ついた体験など、自分のことを他人に話すものではないと思っていたのだと思う。過去を乗り越えて今がある。私は未来に向かっている。そう考えていた。だから私は、自分が嗚咽していることに驚いた。私は、過去に蓋をしていただけだった。私は仲間たちに身をゆだねて涙し、自分で立つことが出来るようになるまで支えてもらった。そして、私は仲間の話を聞き、同じように涙した。私が体験したように、仲間にもそうしてあげたいと思った。あなたに支えが必要なときは、いつでもちゃんと支える。だから安心して、その傷を話してほしいと願った。」(同上)

森川さんがフィンランドで開催されたオープンダイアローグのトレーニングコースに参加していた時のエピソードを読んで、心動かされた、だけでなく、深く納得した。そういうことだったんだ、と。

現代の日本の(だけでなく、生物学的精神医学が主流であればどこの国の)精神科医は構造的に孤独になることを運命づけられている。治療チームで一緒に考えながら対話的に試行錯誤する方策がないし、1:1の患者—医者構造のなかでは、うまくなおせない場合も少なくない。そして、少なからぬ精神科医が、医者になる以前の思春期に、家族関係や発達段階でのトラウマや傷つき体験を背負っているが(斎藤さんもマンガでそのように描かれている)、「もう大人だし精神科医になったのだから、家族のことや傷ついた体験など、自分のことを他人に話すものではない」と、自分の生きる苦悩には蓋をされる。この蓋は、魂の植民地化であり、これをしてしまうと、共感能力が下がる。なぜなら、「自分の気持ちを隠したままで、職場によいチームを作れるはずがない」からである。そして、職場で看護や心理、SWなどとうまくチーム形成が出来ずに孤立して、それでも何とか事態を改善しようと、間違った方向で努力して、「ロボット化」してしまう。

こんなことを言ったら怒られるかもしれないが、4年前に森川さんとはじめて出会った時、「抱え込んだスーパーマン」のように感じた。マスコミを通じて、患者の為に身を粉にして駆け寄る姿が報じられていたが、実物の森川さんは、か弱くて、疲れていて、周りが必死にそんな彼を支えていて、大丈夫なのだろうか?と不安に思っていた。今から思うと、この当時の森川さんは、まだご自身の苦悩を外部の人に安心して話せる環境ではなかったのかも、しれない。

そんな閉塞感を越えるために必要なことはなにか。それはダイアローグなのだが、技法ではない。そうではなくて、「自分が何を大切にしていて、どうして働いているのか、今考えると、そんなことさえ人に話していなかった」ということに自覚化すること。そして、自分が蓋をしていた、そのような自分の大切な価値をちゃんと他者に話してみること。真摯に聞いてもらうこと。そのプロセスの中で、自分の言葉をちゃんと聴いてもらえた・言葉が届いた、という経験を重ねる中で、言葉を聞くこと、話すことへの信頼を取り戻すこと。そうなのかもしれない。

僕はこれを書きながら、4年前に自分自身が受けた、未来語りのダイアローグの集中研修のことを思い出していた。その場では、まだ頑なさが残っていた時代の森川さんもいた。

あの現場でも、ひたすら話したり、ひたすら聞いたりしていた。色々な技法や理念ももちろん頭に残ってはいるけど、結果的にずっと自分の根底に響いているのは、「ちゃんと話を聞いてもらえる」というのは、時として、涙が出てくるような体験である、ということだ。僕も、自分自身が大切にしている価値をみんなの前で話している時、ちゃんと聴いてもらえた、と感じると、思わず涙が出てきた。それは、自分の中で硬く蓋をしていた感情が開かれたような瞬間だった。

ぼく自身は、10年以上前に「魂の脱植民地化」と出会い、『枠組み外しの旅』という最初の単著を書くなかで、自分自身の中に抑圧していたもの、蓋をしていたものと、少しずつ向き合い始めた。だが、4年前の研修を受けた時、精神医療に関しては、まだまだ蓋をしている、というか、頑なな部分が多いと気づかされた。師匠大熊一夫が精神病院の構造的問題を告発して50年近くになるのに、どうして構造はこうも変わらないのだろう。どうしたら変わるのか? もしかしたら変わらないのではないか。そう思って、絶望的な気分になっていた。

だが、京都での集中研修に参加し、あるいはオープンダイアローグのネットワークにコミットするなかで、斎藤さんや森川さんなど、自分自身が変わることを通じて、精神医療を変えたいと願う精神科医が日本にもいることに気づいた。そして、今回二冊の本を読んで、実はそういった精神科医自身が孤独な存在であるばかりか、医療チームを作れず社会的に孤立もしていているならば、それが日本における精神医療の硬直状態の元凶の一つなのではないか、と改めて感じた。

北風と太陽、という表現がある。厳しく正面から吹き付けて(相手を批判して)、行動変容を強いる北風作戦。一方太陽作戦とは、ぽかぽかと暖かくすることで、相手が自発的に服を脱ぐ(行動変容する)のを促す作戦である。僕は、精神医療においては、ずっと北風作戦できた。日本の精神医療は世界的にみてひどく遅れているし、縛る・閉じ込める・薬漬けにすることでの権利侵害構造はとんでもないし、神出病院事件のような構造的な問題を生み出し続けているし、変わらなければならない、それを見て見ぬふりをしてよいのか、を批判し続けてきた。そして、その批判自体には意味や価値があると思うし、取り下げるつもりもない。

だが、その一方で、ここ4,5年で精神医療を提供する側の人々と関わる機会が増える中で、彼等彼女らの孤独についても知る機会が増えてきた。変わりたくても、変われない。どうしてよいのかわからない。誰とどのように連帯してよいかわからない。既存のシステムを、目の前の患者の治療をすることで精一杯で、それ以外のことを考える余裕がない。・・・こういったことが、結果的に現状を消極的に維持するシステムへの加担につながっていく。それに対して、北風作戦のような真正面からの批判を聞いても、まともに向き合う余裕がないがゆえで、馬耳東風になってしまう。そして、その構造的な対立関係はずっと残ったままになってしまう。そして、批判するぼく自身にも虚しさしか残らない。

そんな現状を変えるためには、まずは相手の内在的論理を知ることが重要である。そして、斎藤さんや森川さんの内在的論理を理解する中で見えてきたのが、精神科医だって孤独だし、閉塞感を抱えているけど、責任感が強かったり、自分が頑張って解決せねばと気負えば気負うほど、結果的に現状を肯定する、というか、現状のシステムのなかで何とかしてしまう方向にベクトルが向かってしまう、という、構造的な悪循環である。その中にいて、そこから出てこない叫びのようなものが、森川さんや斎藤さんの「ロボット化」には含まれていたのではないか。それを、今回この本を読む中で、気づかされた。

精神科医が、自らの自己防衛のためにまとう鎧を脱げるか。これは、強迫やshould, mustの強要ではなりたたない。森川さんや斎藤さんのように、安心して自分自身の生きる苦悩を差し出せるような、対話的環境が作られる必要がある。そのなかで、他者を治療する前に、まずは自分自身の生きる苦悩と向き合ったり、それをしっかりと聴いてもらえる経験をするなかで、話をすること・聞いてもらうこと、への絶望を希望に変える必要がある。精神科医のなかで渦巻く、自分自身への不信や対話への不安・絶望感を超えることなく、他者と対話的であることはできない。そういうような、自分自身の傷ついた魂と向き合ったり、その魂の植民地化された状態から、少しずつ回復していくような=脱植民地化されていくようなプロセスを、信頼できる仲間と経ることによって、やっと少しずつ、自分の言葉にも、他者の言葉にも、信頼を再び置くことが出来る。そして、そのような自分や他者への信頼の取り戻しこそが、実は、治療的経験にダイレクトに結びつき、他者を「縛る・閉じ込める・薬漬けにする」という一方的関与から、他者との対話的関係のなかで、よりよい生き方を模索する回路が開かれていくのである。

そして、僕に出来ることは、そういう精神科医や治療チームの変容を応援することなのかもしれない、と思っている。

昨年から、精神病院や入所施設の内部の人々とのダイアローグの場面をいくつか経験させてもらっている。その中でも感じた事だし、今回の二冊を読んでも改めて感じるのは、対話的なチーム作りが、精神病院や入所施設という場では圧倒的に足りない、ということである。そうであれば、異なる他者が集合的にお互いの智慧を持ち寄って現状を変えていこうとするインセンティブも働かず、ずっと同じようなシステムが残り続ける。それを外部からいくら北風的に正論で批判しても、びくともしないどころか、余計に頑なさが残ってしまう。大切なのは、内部の人々も孤立しているし、チームで話し合う風土がない、ということに目を付けて、いかに安心して対話できる場を作れるか、に心を砕くことだと思う。

さらにいえば、現状の精神医療で権力を持っている精神科医が、己の呪縛性や魂の植民地化という現実に気づいて、その傷をまず癒やすプロセスが必要である、ということも言えるかもしれない。それがないと、他者を呪縛したり、他者の魂を毀損する仕組みを止める勇気を持てなかったり、そのようなシステムを消極的に肯定してしまうのかもしれない。

だからこそ、現役の精神科医である斎藤さんや森川さんの、勇気あるカミングアウトは非常に大切だし、ダイアローグの担い手として、率先垂範していると感じた。そして、この二冊は、多くの人に読まれてほしいと改めて感じた。