異色のフィールドワーク

興味があって読み始めたら、あっという間に最後まで一気読み、という本がある。その一方、めっちゃ興味があって、読んでいて面白いのだが、その内容を咀嚼するのに時間がかかって、一気に読み通すことが出来ず、チビチビと時間をかけて読み進める本もある。今日ご紹介するのは、後者の代表例のような一冊。村上靖彦さんの『子どもたちがつくる町 大阪・西成の子育て支援』(世界思想社)である。

何が異色かって、現象学者が質的研究をするとこんな風に描けるのだ、という意外さであり、西成におけるソーシャルワークの底力が、著者のなじみ深い哲学的用語を殆ど使わずに豊かに描かれている鮮やかさであり、そのうえで、現象学的還元に基づいて現状を問い直し、「問題行動」や「困難事例」を見事に問い直しながら、関わり合いの相互作用の魅力をガッツリ描き出している、という意味で、幾重にも異色さがあり、ほんまもんのフィールドワークの成果を読んだ、という満足感が残る一冊である。

大阪の西成は、日雇い労働者の町として知られ、今でも生活保護受給者の割合が他の地区に比べて高い。簡易宿泊所など、一時的に住める住まいもあることから、他の地域から、しんどい状況を抱えた親子が逃げてくる場合もある。そういう意味で、子ども支援においても、「しんどい子」がたくさんいる。その西成における子ども支援については、学校現場の教育実践について調べている、大学院の同期だった柏木智子さんの著書を以前紹介したことがある。また、「「ホームレス」と出会う子どもたち」は随分以前から授業でも見続けてきた。それゆえ、子どもの里の荘保さんなどへのインタビュー調査から、西成における子ども・子育て支援の実態を明らかにするこの本は、すごく楽しみだった。

で、この本で一番印象的だったのは、以下の部分だ。

「二間続きの畳敷きの居間の片側でほかの子どもたちと遊んでいたときに、ちょうどもうひとつの部屋の奥にいたA君が、つーっと無言でやってきて、何も言葉を発しないままに、私の目を見ることもなく、私を本気で殴り始めたのだ(彼はとくに発達上の問題はない)。小学生だが、私の急所めがけて、本気でパンチをしてきた。打ちどころが悪かったら、ケガをするような勢いだった。そして、何も言わずにつーっと離れて、玄関から出て行ってしまった。
目も合わせず本気で殴り続ける様子に、私は殺気を感じた。その晩、私は大きな犬に襲われる悪夢を見たことで、この経験が言葉にならない仕方で残っていたことにも気がついた。」(p149)

フィールド先で、子どもに本気で殴られる。しかも殺気をもって殴られる。これは、フィールドワーク最中でなくても、ものすごく恐ろしい出来事だし、悪夢を見るのもよくわかる。だが、このA君が本気で殴り始めたのは、こんな理由だったと、児童相談所の勤務経験のある人に教わって、村上さんは腑に落ちる。

「先生によると、『お前は誰やねん。ここはおれの縄張りやぞ』というメッセージで、大人は『痛い痛い、暴力はんたーい』といって相手をすればよいというのだ(実際、私はほぼそういう対応をした)。そして、最後に子どもが一発本気で殴ってきたら、こちらをメンバーとして認めてくれたあいさつだ、というのだ。」(p150)

村上さんは、2014年から西成に関わり始め、2017年以後、集中的に西成に通い続け、色々な人に話を聞き続けている。A君とは「にしなり☆こども食堂」の川辺康子さんへのインタビューをしている中で、川辺さんが最も気になる子どもとしてあげた、複雑な生活環境を抱えた子どものことである(本文にその内容が詳しく記載されている)。「しんどい」家庭環境を抱えた、「しんどい」子ほど、関わりづらい。それは「処遇困難事例」「問題行動」などとラベルが張られがちであり、村上さんが受けた殺気ある暴力も、まさに「問題行動」である。

だが、その子にはその子なりの、そういう行動に至る内在的論理がある。村上さんは、ご自身のフィールドワークの積み重ねや、川辺さんへの継続的なインタビューを通じて、A君の内在的論理を理解しようと、探求し続けてきた。その中で、川辺さんとA君のつながり方に「拒絶と否認」があることを発見する。

「このあと何年か継続的に彼と川辺さんをみてきてわかったことは、川辺さんがA君とつながろうとして居場所をつくり出そうとするたびに、『そもそもお前と俺の関係はなんやねん』というようなメッセージをA君が出すということだ。これは関係を拒絶する言葉というよりは、どれだけ彼が孤独であるか、ということを表現しているように今は感じる。まさに川辺さんとはつながりがあり、切れることもない安心感ももちかけているがゆえに、切れてしまうのではないかという不安から、このような言葉を発しているように感じるのだ。
彼が要所要所でくり返す切断の身振りは、幼少期に両親が突然失踪した切断を無意識的に反復していると考えると理解しやすくなる。過度に心理学化したくないのだが、このような精神医学的な心的外傷の理解を踏まえないとわからないことがある。潜在的な外傷の表現としての『そもそもお前と俺の関係はなんやねん』というふるまいがあり、かつ、<つながることができない人とでもつながる装置>としての子ども食堂がある。」(p152)

書き写しながら、村上さんの、関係性を把握してそれをしっかりと描写する、その抽象化力と表現力の豊かさや確かに、敬服する。もともと現象学の研究者だった村上さんが、近年自閉症や看護、虐待など福祉や医療的な領域でのヒアリング調査に基づいた著作を積み重ねてこられたのは知っていたし、本もご恵贈頂いたり、自分で買って読んだりしてきた。でも、一読者として感じるのは、この本では、以前の村上さんの著作からはギアがぐっと入れ替わった、というか、村上さんの現象学的な視座と、西成におけるソーシャルワーク実践の魅力がガッツリはまり、そこに彼の時間をかけたフィールドワークの経験値が深く刻み込んだ上で成立した、骨太のフィールドワーク記録であり、現象学的質的研究の集大成の一冊である、という読後感である。

ご自身が本気で殴られる、という形で出会ったA君が、川辺さんという支援者とどのようなつながりを持ち続けているのか。『そもそもお前と俺の関係はなんやねん』というのを、表面的な拒絶や否認、自己決定や問題行動という狭い枠組みで捉えるのではなく、A君の辿ったかなりしんどい人生の中での、「潜在的な外傷の表現としての『そもそもお前と俺の関係はなんやねん』というふるまい」であり、でもそれを川辺さんには表現して良い、という、つながりの安心感と、それを表現してよいのかという不安と、でもそうせざるを得ない孤独と・・・というものがない交ぜになる中での、「暴力」であったり「暴言」であったりするのだ。親密さを、親密さとして表現することができないほど、絶望的な状態においやられた「しんどい子」であるA君の内在的論理を、長い時間をかけて捉えようとする、村上さんの思いが、行間に詰まっている、と感じた。

そして、この圧倒的なフィールドワークに基づく分析を読んでいると、社会福祉学や福祉社会学は一体何をしているのか、という問いも浮かんでくる。それは、必然的に、ぼく自身はフィールドワークをちゃんと出来ていないよなぁ、という自分自身へのリフレクションにもつながる。

村上さんは、荘保さんや川辺さん、「わかくさ保育園」の西野さん、アウトリーチと居場所をつなぐスッチさん、助産師ひろえさんという魅力的な5人に焦点化し、それぞれの人へのインタビュー記録を元に、現象学的質的研究という視点から、この本を編み上げる。だが、この本は単なるインタビュー本ではない。上記のように、村上さんがどっぷり西成の世界観にはまっていく中で、時には殴られたり!しながら様々な人と出会い、要保護児童対策地域協議会というフォーマルな会議に自身も関わっていきながら、つまり西成と村上さんの関係性を深める中で、その地域の・支援者の・子どもたちの発するメッセージを読み取る深さや濃度が高まる中で、レンズの解像度がぐんと上がるなかで、この本を書き上げられた、と一読者には感じる。

他方で、社会福祉学や福祉社会学で、こういう魅力的なモノグラフってあるだろうか?と問うと、自分の仕事も含めて、甚だ心許ない。川辺さんとA君の関係性の描写などを通じて、「しんどい子」の「しんどさ」の背景にある、心理的・社会的課題を村上さんはガッツリ描き出しておられるが、例えば社会福祉研究で、そこまでの迫力のある分析は、そんなにあるだろうか? 「問題行動」「困難事例」「要保護児童」を所与の現実として、そういう行動や事例、子どもがどのような内側の困難を抱え、社会的に構築され、そこから逃れられない状況に構造的に追い込まれているか、をしっかり分析出来ているだろうか? この本は、実質的にはソーシャルワークの魅力や可能性について提起している一冊であるが、ソーシャルワーク研究の文脈で、こういう現場実践を豊かに描き出しつつ、理論と接合させる記述が出来ているだろうか?

そういう疑問が読みながら次々と出てきて、自分への刃ではないけど、イテテ、と思いながら読み進めていたので、時間がかかったのかも、しれない。

最後に、これはこの本への不満や批判ではなく、この本を踏まえた上で、自分自身がずっと抱いている研究課題に引きつけたことを、一言書いておきたい。

こういう魅力的な実践やインタビューを読むと、いつも感じることがある。それは、「その人がいなくなればおしまいの壁」があるのではないか、ということである。ここに出てくる魅力的な5人も、他の普通のソーシャルワーカーや教員やボランティアが出来ないことを、やってのけておられる。だからこそ、魅力的だし、学びが多いし、こういうことを実践しなくちゃ、と勇気がもらえる。でも、ここに出てくる5人は、支援者のスタンダートではない。むしろ、カリスマであり、秀でた・ものすごく魅力的な人々である。そして、こういう魅力的な人の実践はすごく学びが多いし、刺激的である。だが、そういう魅力的な人々に支えられた組織や地域って、その人々がいなくなったらどうするのだろう、という不安が、つねに頭によぎる。

だが、繰り返し述べるが、これは村上さんの研究や西成への批判ではない。僕の20年前からの問題意識である。昔「ボランティアとは言わないボランティア」という論文を書いた時に感じていたのも、そうだった。ものすごく魅力的で、カリスマというか職人芸的に仕事をされている、精神科ソーシャルワーカーのやっていることを、フィールドワークに基づいて大学院生の頃に書いたものである。その時からずっと感じているのは、対人援助においては、現場の裁量性が大切だけれど、その裁量性によって、めちゃくちゃ魅力的な支援も、あるいはとんでもなくまずい支援もある、という裁量が担保されてしまっている、という現実である。おそらく西成では、要保護児童対策地域協議会が形骸化しておらず、地域の「しんどい子」「困っている子」を常に意識し、スッチさんのように「気になる子」を訪問する人材もそろっているから、現場の裁量がポジティブに活かされているのだろう。それが、「地域のすき間を見つける支援者が持つ<点のカメラ>と<面のアンテナ>」(p195)を通じて活かされていることも、よくわかった。

だが、西成以外の地域で、こういう「しんどい子」と向き合う時にどうしていったらよいのか、という時に、このフィールドワークの知見をどう活かせるのだろうか。常に僕の頭はそういう方向で考えてしまう。それは、ケアマネジメント=マネジドケアの枠組みのなかで、計画相談やケアプラン作成でアップアップしていて、パソコンを見るのが仕事になって、本人や家族とじっくり向き合うことが出来ていない、そういう一般的な支援者が、少しでもこの「子どもたちがつくる町」に出てくる5人の支援者のように、本気で子どもたちと出会い、子どもたちに教えられ、子どもたちと共に生き心地のよい町をつくるために、ソーシャルワーカーがどう関われるのだろう、そのためのソーシャルワーカーの変容課題は何だろう、という問いである。

いや、このあたりは、村上さんの本への評価ではなく、ぼくが考えるべき仕事であり、長年の宿題である。(その一部は、この春土屋さんや伊藤さんとともに出した『困難事例を解きほぐす』の中でも、部分的に考えている)。でも、そういう、社会福祉学と福祉社会学の境界領域を歩き続ける研究者のぼく自身の実存にも直接問いかけてくださる、本質的な課題提起がされている、そして何より西成の子ども・子育て支援の魅力が濃縮されている、実に読み応えのある一冊だった。そしてほんまもんのエスノグラフィーを読んでいると、僕も久しぶりにちゃんとインタビューとか調査研究を再開せねば!と思いを新たにさせてくれる、研究欲をかき立てる一冊でもあった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。