魂のこもった「学術書」

社会福祉を研究していると、同業他者の名前はなんとなく知っている。あの人はこの研究をしていて、どこの大学に属していて、とか。今日取り上げる堅田さんはベーシックインカムや貧困問題を研究しておられて、法政大学の教員だ、ということは知っていた。でも、恥ずかしながら、彼女の著作や論文もちゃんと目を通したことはなかったし、ご本人とたぶん一度すれ違ったけど、ちゃんと会話したこともない。だからこそ、新刊情報で流れてきたタイトルを見て、意外だったし、ちょっと読んでみようかな、という気になるタイトルだった。

『生きるためのフェミニズム パンとバラと反資本主義』(堅田香緒里著、タバブックス)

だから、読んでみた。すごく、良い本だった。

草の根の、地べたから見える風景が描かれている。研究者としての理論的フレームワークはもちろん持ちながらも、あくまでも、自分が出会った生身の人間の尊厳を大切にしている、そんなスタンスが、単純に良いな、と思ったし、共感できた。そして、そのスタンスが端的に示されている部分を、少しずつ拾っていく。

「 私にとって、聞き取った「声」をもとに論文を書くことの困難は、何よりもまず、私自身が路上に「通って」いただけで、そこで共に暮らしていたわけではない、という事実に由来する。白状すると、何度か路上での暮らしに挑戦したものの、挫折したのである。当時の私には、そんな人間が路上で暮らす人たちに「ついて」書くことなどできるわけがないと思っていたし、書きたくもなかった。」(p88)

さらっと書いているけど、「え、そうなの!」である。彼女は貧困問題を研究する以前から「路上に「通って」いた」。ホームレスと名指される人々の「声」と出会い続けていた。それだけでもなかなかない経験なのに、「何度か路上での暮らしに挑戦したものの、挫折した」と告白する。路上暮らしを挑戦したって! それも、びっくりである。さらに、「共に暮らしていたわけではない」のに「聞き取った「声」をもとに論文を書くこと」に「困難」を感じていたのである。研究対象に「ついて」論文なんてき「かきたくもなかった」というのは、ふつうの研究者とはずいぶん違うスタンスである。さらに、引用を続ける。

「 巷でますます量産されていく「ホームレス研究」の書籍や論文についても、戸惑いと若干の憤りとともに、ただ眺めていた。彼らと生活を共にしているわけでもないのに、彼らの「声」を「聞く」ことなど、ましてや「書く」 ことなどできるわけがない。とりわけ研究者は、いかにももっとももらしい「調査」を通して、ただ自分が聞きたい「声」を「聞く」のみである。そして、「調査」を立ち上げ、カネ(研究費)を取り、それを自分たちの「業績」にしていくと言う行為が、彼らの存在と、その「声」を「業績」のために消費しているようで、あさましく感じられた。」(p88)

たしかに2000年前後から、貧困研究ブーム(バブル!?)が到来し、実態調査系の本や論文もたくさん出てきた。その一方で、堅田さんは、自分も路上で色々な出会いをしながらも、調査対象者として改めて「「声」を「聞」」き、それを「書く」ことにためらいがあった。その背後には、「ただ自分が聞きたい「声」を「聞く」のみである」ということへの独善性を感じ、さらには、「「調査」を立ち上げ、カネ(研究費)を取り、それを自分たちの「業績」にしていくと言う行為が、彼らの存在と、その「声」を「業績」のために消費している」「あさましさ」を感じていたという。なんという素敵な感性だろう。

ただ、ぼくもそれはわかる部分がある。

ぼくは大学院時代、精神病院でフィールドワークをしたのを皮切りに、作業所とか当事者活動グループとかで、精神障害を持つ当事者の方からお話を伺う機会を結構数多く持ってきた。堅田さんのように、研究者になる前から出会っていた訳ではない。でも、そんな僕でも当事者の「声」を「聞いて」「書く」という、研究者の枠組みに当てはめるために聞く事へのおこがましさ、というか躊躇があった。だからこそ、いっぱい学ばせてもらったし、色々な話は聞いてきたけど、それは全然「書く」ことにつながらなかった。よって、大学院生の頃は、本当に全然何もかけなかった。(実はその後も、伺った「声」そのものはほとんど言語化できていない)

あと、蛇足的になるが、学生時代は臨床心理や精神医学も読み囓っていたが、院生時代は中井久夫も神田橋條治も河合隼雄も読むのを封印していた。中途半端に「分析」や「解釈」をしていては、当事者の声をそのものとして聞けない、と直観で感じていたからだ。だからこそ、ただ聞くだけで、ノートに書き留めたけど、それらの言葉は、全然活字にならなかあった。自分の言語化能力の低さとか、研究者としてのアウトプットの出来なさに、情けないな、と感じることもあった。

でも、いま堅田さんの記述に出会い、当時のぼくも「彼らの存在と、その「声」を「業績」のために消費しているようで」、後ろめたさ、というか、なんかちょっとそれは違うよな、と思っていたのかも知れない。だからこそ、それはぼくだけじゃなかったんだ、と思うと、勝手に同志的連帯、というか、似た感じ方の人がいたんだ、と嬉しくなった。

ただ、彼女の感受性の鋭さは、ぼくは到底及ばない。

「私にとって、かれらについて「書く」ということは、私と路上の友人との間に「書く」者と「書かれる」者との非対称性をはっきりと生じさせるだけではなく、かれらを物理的に「殴る」ことと同等の暴力であり、とても受け入れられなかった。なにより、路上の友人達のほとんどはおそらく一生読むことがないであろう「学術論文」を、かれらの「声」に基に書き「業績」をあげる、ということをしたくなかった。」(p89)

ここまで、書くことの暴力性について、ぼくは自覚的でもセンシティブでもなかった。確かに非対称性は感じていたし、精神病院のことを考えると、自ずと権力関係への自覚はあった。でも、ぼくの場合、当事者の声を聴いても、それをそのまま論文にする回路が結びついておらず、途方に暮れていただけかもしれない。そういう意味では、彼女はぼくなんかより、はるかに筋金入りで、ちゃんと路上で人としてホームレスの友人と出会っていたのである。

だからこそ、だと思うのだが、彼女がフェミニズムやベーシックインカムなどの理論を取り上げるとき、「お勉強のできる情報処理人間」とは違う回路やスタンスでの書き方だと感じる。筋が通っている、というか、彼女が友人と出会ってきた経験やプロセスが、理論や概念の解釈に結びついているようにも感じるのだ。

「ベーシックインカムの要求も『家事労働に賃金を』も、私たちに、労働に—賃労働にも家事労働にも—隷従しない生のあり様を示し、欲望に満ちた主体の可能性を開いていくだろう。パンが欲しければバラを引き換えにせねばならない、パンを我慢すればバラが与えられる、そうした交換の論理を軽々と超越していく。魔女は禁欲も隷従もしないのだ—パンも、バラも、よこせ!」(p41)

気持ちよいほど射貫く文章である。

パンは「生きる糧」でありバラは「尊厳」のこと(p15)だが、過労死寸前まで働いたら「生きる糧」は得られるかも知れないけど、「尊厳」は踏みにじられる。逆にエッセンシャルワーカーと呼ばれる人は、仕事に「尊厳」を持っているけど、「生きる糧」があまりに過小評価されている。パンかバラ、生きる糧か尊厳は、二者択一の問題ではない。「パンも、バラも、よこせ!」 それは、「労働に隷従しない生のあり様」を考える上で必要不可欠な理論的帰結であり、彼女が出会ってきた路上の友人のことを想うこととも直結しているのである。

また、ぼくはベーシックインカムについては、近年、新自由主義的価値前提に親和的な人々がその導入を口にしていて、胡散臭いと感じていたのだが、彼女はそれとは全然違う視点で見ている。

「ベーシックインカムとは一般に、『すべての人に、個人単位で、資力調査や労働要件を課さずに無条件で定期的に給付されるお金』と定義されているものである。ただしこの定義では、給付水準についての言明がなく、社会保障給付のコストダウンを志向する陣営からしばしば提案されるような低水準の給付がベーシックインカムと呼ばれることもある。これに対し、本書では、『生活に必要な所得』を保障する水準(以上)のものをベーシックインカムと呼ぶ。」(p45)

これも、「労働に隷従しない生のあり様」としての「生活に必要な所得」を保障せよ、「パンも、バラも、よこせ!」という主張で一貫している。実にロジカルで、かつ路上の友人たちのことを思い浮かべながら、の背景がしっかりしている論理である。

「社会の「役に立つ」とみなされればマイノリティも積極的に包摂するが、「能力」の「活用」を拒否する「怠け者」や貧乏人は、「役に立たない」とみなされ徹底的に排除され、ネオリベラル資本主義の秩序は維持される。要するに、ネオリベラリズムが差異に“寛容”なのは、体制の側が変わらなくてもよい、体制の側が「コスト」を引き受けなくてもよい、その限りにおいてなのである。」(p29)

彼女のこのマクロ政策への理論的な解釈は、路上の友人たちとの出会いに裏打ちされているがゆえに、本当に迫力がある。新自由主義的価値前提に「役立つ」「役立たない」という判断軸でわかりやすく分断され、ネオリベラル資本主義の秩序維持、のために、人々は包摂されたり切り捨てられたりする。その構造的な暴力、体制側の不作為を、彼女は真っ直ぐ見据え、居抜き、ズバリと言語化する。

この本は彼女の初の単著だという。これは、確かに表面的にはわかりやすい文体でまとめられた、読みやすいエッセイである。だが、その中に、軽く読み流せない、ほんまもんの問いかけがたくさんある。ブログでは紹介しないが、彼女は自分自身の痛みもそっと言語化し、差し出している。そして、ご自身の痛みや苦しみと、彼女が出会ってきた路上の友人の痛みや苦しみを交錯させながら、論理を展開し、言葉を紡いでいく。そういう意味では、素敵なエッセイであるばかりか、魂のこもった学術書でもある、とぼくには受け取った。そして、こんな大作は、並大抵の人間にはかけない。

そういう意味でも、実に読み甲斐のある本だったし、多くの人が手に取って、自分の痛みと交錯させながら読まれてほしいな、と思わせる一冊だった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。