少年院と精神病院の類似性

超繁忙期もやっと終盤で、ブログを書く余裕が出来た。今回は週明けの研究会の課題図書である都島梨紗さんの『非行からの「立ち直り」とは何か』を読む。副題にあるように、少年院でのフィールドワークや非行経験者へのいたビュー調査に基づいた、骨太な質的研究の成果をまとめた一冊である。社会学の古典的名著であるゴッフマンの『アサイラム』を用いながら、「全制的施設(total institution)」である少年院を「退院」するための、少年達と教官の相互行為や、少年が施設のルールをどのように受け入れて・やり過ごして、少年院を「退院」するために戦略を練っていくのか、が綴られていた。

そしてそれを読みながら、精神病院への強制入院と、入院患者の「退院」戦略との構造的同一性が強いと改めて感じていた。それを考えるためにも、ゴッフマンの『アサイラム』で述べられていた「全制的施設(total institution)」の特徴を改めて振り返ってみよう。

・生活の全局面が同一場所で同一権威に従って送られる。
・構成員の日常活動の各局面が同じ扱いを受け、同じ事を一緒にするように要求されている多くの他人の面前で進行する。
・毎日の活動の全局面が整然と計画され、一つの活動はあらかじめ決められた時間に次の活動に移る
・様々の強制される活動は、当該施設の公式目的を果たすように意図的に設計された単一の首尾一貫したプランにまとめ上げられている。
(E・ゴッフマン(1961=1984)『アサイラム−施設被収容者の日常世界』誠信書房、p4)

少年院は、精神病院における医療保護入院や措置入院と同様、自発的にでなく強いられて入る場所であり、自発的に出ることが出来ない。しかも、矯正された、あるいは病状が治った(寛解した)と権力を持つ他者(教官や医師)が判断しない限り、退院は出来ない。そしてこの治療や矯正という目的が掲げられ、その目的を達成するためのプログラム(矯正教育や治療プログラム)が用いられ、入院者はこのプログラムに従わざるを得ない。そのプログラムに従わず、教官や医療者に反発した入院者は、「問題行動」をする人とラベルが貼られ、独房や保護室などで(時には)懲罰的に鎮静化させられる。その際に、教官や医療者、あるいは少年院や病棟組織の抑圧的言動や環境が問題化されることはほとんどなく、「問題行動」を起こした入院者の個人的問題だと解釈される。また、そのことに対して入院者から異議申し立てをするルートがほとんどない(精神病院の場合は精神医療審査会があるが、それで異議申し立てが認められる例は滅多にない)。

つまり、改めて振り返ると、ゴッフマンが60年前に見抜いたこの構造は、現代日本の少年院と精神病院の非自発的入院において、未だに同様の構造が引き継がれ、今日でもそのような運用形態で行われている、ということがはっきりわかる。

その上で、都島さんは少年院と精神病院では異なる局面がある、としている。一つは、少年院は少年と教官における施設内での相互作用だけでなく、家族や非行仲間、職場や学校との関係性という「『帰りたい』と思える外部社会」を念頭において入院者の行動変容が目指されている、という点である。しかも、矯正教育の一環で行われている筋トレや学習も、シャバに帰った後に負けないための筋トレ、とか、ワルの世界でのし上がるための学習、など、入院者が「外部世界」に戻る際の「準備」期間として読み替えられ、「少年院にあえて順応していった」(p111)のである。それを少年院経験者へのインタビューから引き出していて、大変興味深いし、確かにこれは精神病院とは異なる展開である。

そしてもう一つ、病院との違いで筆者が提起しているのが、「学ぶふり」についてである。都島さんはこんな風に述べている。

「被収容者は『サービスを受ける』という受動的な役割ではなく、『学ぶ』という能動的な役割を遂行しなければならなくなる。つまり、少年院において少年たちは『学びのしるし』として『改善・更生』を証明するために、何らかのスキルを得た状態を維持しなければならないのである。言い換えると、少年院とは、全制的施設の特徴を持ちつつも、施設が用意する枠組みに対し少年がより能動的に参入しなければならない状況下にあるといえる。」(p95-96)

実はこの指摘を読みながら、「これは精神病院でも同じではないか?」という疑問が浮かんだ。強制入院させられた入院患者は、精神症状が消失したり、「問題行動」がなくならないと、退院出来ない。すると、治療というサービスを受ける、という受動的な役割だけでなく、「治る」という能動的な役割も求められている。「治ったしるし」として病状が改善された状態を維持しなければ、退院判断に結びつかないのである。そういう意味では、病棟が用意する枠組みに対し入院患者がより能動的に参入し、「治ったふり」を選択する可能性が充分にあり得るのである。

そういう意味でも、少年院の構造を読み解くことは、精神病院への強制入院を考える上でも、実に示唆深い、ということが、この本を読みながら改めて感じたことだ。

この本での学びは色々あったのだが、もう一点ご紹介すると、「立ち直り資源としての非行仲間」という視点が非常に興味深かった。

「非行仲間は必ずしも病理の関係性というわけではない。非行仲間との接触による帰結は、必ずしも逸脱者への道一本に閉ざされているわけではないのである。非行仲間という一見不健全な関係性は、実際は健全に機能している場面がある」(p208)

「非行少年の『立ち直り』援助者は専門家や必ずしも『正常な』価値規範を有する社会成員に限らないといえる」(p211)

非行仲間、というと、「『正常な』価値規範を有する社会成員」からすれば、ろくでもない人であり、再び犯罪や非行に手を染める影響力を持つ、逸脱者への誘因になる存在、と思われやすい。でも、非行少年にとっては、お互いの価値観を共有している仲間であり、偏見の目でラベリングされずに対等に付き合える大切なリソースなのである。そういう仲間が待っていると思うから、少年院の退院に向けて頑張れるし、シャバに戻っても仲間と一緒にいるからこそ、立ち直りにむけて動き出すのである。

実はこれも、精神疾患からの「立ち直り資源」という文脈との共通性を感じる部分である。

対話に基づく精神医療実践であるオープンダイアローグでは、立ち直り資源にその人の持つネットワークを活用している(基礎知識としては、斎藤環さんのインタビューなどを参照)。入院患者やその家族、仲間といった一人一人の人がその人独自のリソース(様々な役割や智慧、経験)を持っていて、急性症状の人でも、自分が安心して頼ることが出来る人とのネットワークを強化し、その仲間のリソースを活用させてもらうことで、急性状態から回復していくことが出来ると考える。そして、急性期の人やその家族、仲間と毎日のようにミーティングをし、どうすれば苦境を脱することができるか、を共に話し合う。

つまり、少年院に入ることや、精神症状が急性期になること、という苦境状況から抜け出すためには、本人一人の努力では超えがたく、また支援者や教官のサポートだけでも部分的である。そこで、本人が仲間だと感じる人の持つ力に頼り、そういった仲間との関係性を豊かにすることにより、その苦境から脱出することが可能なのである。「立ち直り資源」という視点で考えると、そういう共通性が見えてきた。

また、この本はインタビュー調査に基づくモノグラフとしても、非常に手堅い作品で、模範的な整理をしている。ゼミ生などに、特定の章を読んでもらうことで、質的研究としてデータをまとめるとはどのようなことか、を学ぶ上でも実に参考になりそうな一冊である。

この本を読んで、久しぶりに改めて『アサイラム』を読み直したくもなった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。