複雑な権力関係を可視化するインターセクショナリティ

今日は長い表題だ。その場もズバリ『インターセクショナリティ』(コリンズ&ビルゲ著、人文書院)を読んだ。まさに王道を行く概説書であり、読み進めるのに時間はかかったが、決して難解ではなく、読みやすくて、この概念への見通しがよくなった。

インターセクションとは交差点のことである。なので、インターセクショナリティとは「交差性」と訳されている。何と何が交差するのか。それによって、これまで見えていなかったどのような点が可視化されるのか。著者は冒頭で、以下のように明快に定義している。

「インターセクショナリティとは、交差する権力関係が、様々な社会にまたがる社会的関係や個人の日常的経験にどのように影響を及ぼすのかについて検討する概念である。分析ツールとしてのインターセクショナリティは、とりわけ人種、階級、ジェンダー、セクシャリティ、ネイション、アビリティ、エスニシティ、そして年齢など数々のカテゴリーを、相互に関係し、形成し合っているものとして捉える。インターセクショナリティは、世界や人々、そして人間経験における複雑さを理解し、説明する方法である。」(p16)

この定義を、最近「はやり」のヤングケアラー問題に当てはめてみたら、どんなことが言えるだろうか。最近流行しているから、だけでなく、研究室に関わる方がヤングケアラー経験を持つ方だったり、ゼミ生の卒論調査でヤングケアラーに関わるスクールソーシャルワーカーへのインタビュー調査をするのに同席させてもらったり、あるいはブログで書いたが教育社会学系のエスノグラフィーを読み進めたりする中で、ヤングケアラーを単に「親を世話するかわいそうな子ども」と単純化して理解してはならない、と思い始めている。そこで、ヤングケアラーを巡る「世界や人々、そして人間経験における複雑さを理解し、説明する」ために、インターセクショナリティを使うと、どんな風に言えそうだろうか。

まず、ヤングケアラーの親の中には、精神疾患の当事者が結構な割合でいる。私も精神障害者支援を研究してきたので、これまで当事者が子育てをされている例も、見聞きしてきた。ただ、精神障害者福祉の視点だと、あくまでも当事者の子ども、という切り取り方であり、その子どもがどのような苦悩を抱えているのか、になかなか焦点が当たってこなかった。

次に、精神疾患を抱えた親を持つ子どもは、親の世話や障害の理解、だけでなく、自分や兄弟の世話なども必要で、充分に勉強が出来なかったりする。だが、これまでは「自分でする」「家族でする」ことが当たり前になっていると、それが出来ない子どもや家庭は「ルーズな家の子」とひとくくりにされていた。しかし、「出来ない」背景にある、親の困難や子どもの困難という複合性に目を向けると、その困難の内在的論理が浮かび上がる。これは、以前論文にも書いたが、ゴミ屋敷を巡る「困難さ」に関して、世間や常識といった「合理性のレンズ」で眺めるのではなく、あくまでも本人の「非合理の合理性」を捉えることが必要である部分である。

さらに、精神疾患を持つ親の抱える困難は、それだけではない場合がある。離婚してシングル家庭であるとか、経済的困窮を抱えているとか、近所や親戚との関係性がうまくいかないとか、依存症の離脱がしにくいとか・・・様々な不利や障壁とセットになっている場合もある。

すると、上記に挙げただけでも、障害とジェンダー、貧困や教育格差、福祉的支援の有無・・・といった様々な領域・要因が絡み合っている事が見えてくる。これが、複合的問題であり、多重な困難として家族全体に覆っているからこそ、ヤングケアラーの問題が大変なのである。

しかもだ、そんなヤングケアラーを「個人の悲劇」モデルで考えると、「交差する権力関係が、様々な社会にまたがる社会的関係や個人の日常的経験にどのように影響を及ぼすのかについて検討する」機会を喪失してしまう。親が精神障害(発達障害)を持っているから、シングル家庭であるから、貧困であるから・・・という理由で、子どもがヤングケアラーを引き受けなければならない、という直接的な因果関係はない。上記の理由が重なった上で、「そのような家庭や子どもに充分な支援が行き届いていない」がゆえに、ヤングケアラー問題が大きくなっているのだ。そこには、権力構造が、その問題を放置してきた、という構造的な瑕疵があるのである。それは、家族介護は日本の美風である、ケアは家族が責任を負うべき「家族責任」だ、という日本型福祉の発想が根底にあり、だからこそ、家族内のケアに国家が関わるのは残余的であり、家族が抱えきれなくなったら精神病院か入所施設に丸投げ、という「家族丸抱え」か「施設丸投げ」の論理があるのである。

この交差する権力関係や、その前提となる日本型福祉の権力構造を見抜いて、それを批判しないと、ヤングケアラーのような問題は、くり返し起こり続けるのである。そして、以下の「ウィメン・オブ・カラー(非白人女性)」の表記を「ヤングケアラー」に言い換えてみると、多くの事が学べる。

「(1)個人のアイデンティティと集団のアイデンティティ感のつながりを描き、(2)社会構造に焦点を当て、(3)ウィメン・オブ・カラーに対する暴力的な権力関係を理論化し、権力の構造的、政治的、象徴的な力学を強調し、そして(4)インターセクショナリティの研究目的は、社会正義イニシアティブへの貢献にあることを読者に思い起こさせる」(p142)

そう、ヤングケアラー問題が放置されていることは、社会的不平等の温存であるばかりでなく、ヤングケアラーが家族介護の枠組みに矮小化され、放置されることによって、社会構造への焦点化を妨げ、個人の悲劇に矮小化され、結果的に社会的正義が損なわれている状態なのである。

「『批判的(クリティカル)』という用語は、社会的不正義の状況下において起こる社会問題を批判し、拒否し、解消しようすることを意味する。」(p106)

ヤングケアラーは個人の悲劇だ、と矮小化して、ヤングケアラーを巡る社会的不正義の状況を放置するのであれば、インターセクショナリティ概念は必要ない。だが、障害やジェンダー、貧困などが複雑に絡み合うことによって明らかに社会的な不正義がヤングケアラーに襲っていて、その状況を批判し、拒否し、解消しようとするなら、ヤングケアラーにどのような交差する権力作用が働いているか、を批判的(クリティカル)に捉える必要がある。これは、ヤングケアラー問題にも共通する視点であると感じる。

そして、本書の最後の方では、教育の構造的問題にも触れている。サラ・アーメド(Sara Ahmed)による以下の言葉の引用は、非常に重い。

「<ダイバーシティ>という用語の登場は、<平等>を含む他の(そして、おそらくより重要な)用語から離れることを伴う。ダイバーシティの制度的な魅力に警戒しながら、制度に組み込まれやすいことが脱政治化の表れではないかと問いかけなければならない」(p285)

「ヤングケアラー」が流行語になる以前から、「SDGs」は流行語になっている。その中でも、ダイバーシティ=多様性、というのはキー概念の一つになっている。多様であって何が悪いのか? そんな突っ込みも受けそうだ。多様性が悪いのではない。ただ、多様性を尊重することが「制度に組み込まれる」ことによって、「脱政治化」されることを危惧している。それは、よくわかる。制度に組み込まれることによる「脱政治化」、とは、例えばLGBTや障害理解を大学教育の中に組み込むことによって、多様性を担保したことが「お墨付き」が得られた、と「勘違い」することである。もちろん、障害やジェンダーの理解教育は必要だ。でも、理解教育をしたらそれで免罪符を渡されるわけではないのは、ヤングケアラー理解や啓発教育でも同じだ。実際に、障害を持って、セクシャルマイノリティで、ヤングケアラーとして、社会的不平等の扱いを受けたり、社会的な不正義の状況に置かれている人がいた時に、それを解決する「政治化」された行動が必要になる。それを、個人の不幸や悲劇に矮小化して、理解はするけど行動しない、あるいは温情的な行動に終始するようでは、「制度に組み込まれることによる脱政治化」であり、「批判的(クリティカル)」とは言えないのである。

ヤングケアラー問題も、制度的な解決が求められている。だが、制度に組み込まれることによって「脱政治化」し、ヤングケアラーが置かれている社会的不正義や構造的な抑圧を、なかったことにしたり、そこに触れずに表面的な解決策を探るだけでは、本質的な問題への対処とは言えない。こういう複雑な問題こそ、どのような構造的課題が複雑に絡み合っているのか、を解きほぐし、その交差性を明らかにする中で、では他の類似の問題だったらどう対応できているのか、あるいは他と同様何が支援不足として明らかになっているのか、を炙り出す必要がある。ヤングケアラー問題でいえば、ファミリーソーシャルワークや家族全体の福祉的支援の欠落、障害や貧困、女性支援などの縦割りを超えた重層的相談支援の不全、などの問題も見えてくる。こういったことの交差性=インターセクショナリティを押さえることが出来るか、社会構造の改革へと踏み切ることが出来るか、それによって社会的不平等の温存や放置を変えていくことが出来るか、が問われているのだ。

今回はヤングケアラーに引きつけて論じたが、この本ではもっと沢山の有益な示唆があり、そのほんの一部しか今回は触れることが出来なかった。インターセクショナリティのことが気になる方は、是非ご自身で手に取って読んで頂きたい一冊である。

積ん読の効用!?

世の中には、買ってすぐ読める本と、寝かしておいた方が良い「積ん読」本がある。今回は、2014年に購入しているから、7年前に買い求めた、定評のある一冊なのだけれど、ぼくは最近まで「読めなかった」。でも、2022年の今だからこそ、読んですごく良かった。それが『その後の不自由』(上岡陽江・大嶋栄子著、医学書院)である。

「疲れたって言えばいいのに言えずに自殺未遂しちゃう人たちですが、『死ぬ』としか言えなくて本当に死んじゃうことが私は怖いんです。だから、グチも不満も何も言えなくて“いい人でしかいられない”人たちに、『少し日常的に困ってることを話そう』とか言ってあげてください。手首を切ってまで生き延びようとしている人たちなんだから、グチがないわけはありません。」(p103)

この記述の迫力というか、真の価値を、7年前のぼくが理解出来ていたか、というと、多分怪しい。それはちょうど1年前に読んだ、荒井裕樹さんの本に出てくる「苦しみ」と「苦しいこと」の違い、などを補助線にすると、やっと理解出来る世界である。

「疲れた」という「グチや不満」が言えない。だからこそ、リストカットしたり、本当に死んじゃう人がいる。そんなの普通じゃあり得ない、と、昔なら思っていた。でも「疲れた」「しんどい」という形で「苦しみ」を表現出来ないから、でも「苦しいこと」をわかってほしいから、自殺未遂しちゃうとか、手首を切るのである。これは「死にたい」のではなくて、「手首を切ってまで生き延びようとしている人」の、「苦しいこと」という自己表現なのだ。そのことを押さえた上で、上岡さんや大嶋さんの語る内容を読んでいくと、ほんとうに頷くことが多い。

「アルコールや薬などアディクションは止まらないままであっても、たしかによくなっていく。よくなっていくとは、仕事、お金、社会的地位など“何か”を手に入れるといった、上昇していくことではないと思います。
むしろ自分がさまざまなものへのめり込みながら逃れようとしたこと、忘れようとしたことを、なかったことにしないでほしいのです。嗜癖にのめり込んだ意味を消して生きることは、自分を否定しながら生きることです。人に迷惑をかけたことをきちんと償うことは大切ですし、病気のせいにして自分を正当化するのはそれこそビョーキです。
けれども、自分のなかにある、『そうでもしなければ生きられなかったなかで嗜癖が必要だった』というその“意味”を消してしまうと、等身大の自分と、表面に見せている自分の距離が少しずつ大きくなってしまいます。その距離の大きさはやがてバネのような反動となり、ふたたび本人を嗜癖の世界へと押し戻してしまうでしょう。」(p127-128)

「嗜癖」や「アディクション」を「仕事中毒」と入れ替えると、案外多くの人に当てはまる可能性の言葉ではないだろうか。ぼくはそれを、子育てをしながらの5年間の間に感じている。

子どもが産まれる前は、「馬車馬の論理」だった。業績をとにかく沢山出さなければ、そのためにはもっともっとインプットして、もっとアウトプットしなければ、と強迫観念的に思い込んでいた。読めるはずもないほどの大量の本を買い込み、研修や講演の依頼があればとにかく引き受けて全国各地を移動しまくり、予定表をみっちり詰める事をデフォルトにして、その中での効率性を高める為のライフハック本を読みまくっていた。それは、「もっともっと」という「上昇」志向そのもの、だった。

だからこそ、子育てを始めて仕事を極端に減らした時、身を切るように苦しかった。あれは、今から思うと、仕事中毒というアディクションから離脱する時の苦しみだったのかもしれない、と思う。自分の存在価値が否定されるような苦しみに、当時は感じられた。でもよく考えてみれば、それまでのぼくは、仕事中毒になることで、自分自身の自己肯定感を満たそうとしていた。忙しいほど評価されていると思い込んでいた。そして、忙殺されることで、「自分がさまざまなものへのめり込みながら逃れようとしたこと、忘れようとしたこと」を、「なかったこと」にしていた。

子どもが産まれた後、仕事の量を極端にセーブすると、その「なかったこと」が見えてきた。「等身大の自分と、表面に見せている自分の距離」というものが、クリアになってきた。それはぼく自身が仕事中毒という「嗜癖にのめり込んだ意味」を考え直すプロセスでもあった。前任校で准教授から教授になり、給与も上がり、講演や研修にもひっきりなしに呼ばれていた。でもそのなかで、ある種の虚像というか、「等身大の自分」から離れた何かになっていたのだと、今になっては思う。

「ケアと男性」で書き続けてきたが、子育てというのは、本当に思い通りにならない、想定外の、自分で選択も決定も出来ないことだらけだ。子どもの事で、親が振り回されまくっている。それは、腹が立ったり、トホホと思うことだらけだ。でも、そのプロセスがあるからこそ、娘や妻との関わりのなかで、ぼくは有り難いことに、「等身大の自分と、表面に見せている自分の距離が少しずつ大きくなって」いくことを食い止めることができた。娘と関わっていると、虚像のぼくを出そうとしても、等身大のぼくに引き戻してくれるのである。

嗜癖と仕事中毒を、それでもやっぱりごっちゃにされたくない、と感情的に反発する人はいるだろう。でも、『そうでもしなければ生きられなかったなかで嗜癖や仕事中毒が必要だった』という補助線は、沢山の気づきをもたらしてくれると思う。それは医師で、自分自身も仕事中毒でクラシック音楽CDの「買い物依存症」でもあったGabor MateのTED映像をみても、そう思う。彼はこう語っている。

「依存とは一時的な安らぎや喜びを与えながら、長期的には害になり悪影響をもららす行動のことで、その悪影響にも関わらずやめることができないもの」

この定義に照らすと、家族や他の社会関係、等身大の自分自身との関係もなおざりにして仕事に忙殺されるほど、のめり込むことは、明確な「依存」でありアディクションである。

そして、この本はそういったアディクションから距離を取った「その後の不自由」が描かれている。確かに、一度距離を取ったからといって、そう簡単に自由になれるわけではない。子どもが赤ちゃんの時代は仕事をかなり減らしていたが、今はこども園に行き、そのうち小学校に行くようになると、少しずつ仕事できる時間が増える。そして、放っておいたら、また以前と同じように仕事中毒になりかねない。だからこそ、等身大の自分、とか、向き合ってこなかった、逃げていた自分自身の実存と不自由ながらも向き合う事が出来るか、が「その後」の人生には問われているのだ。

「回復とはある地点に到達することではなく、むしろ変化し続ける過程そのものを指している」(p126)

アルコール依存でもリストカットでも仕事中毒でも、その地点に到達して無限ループに入っている限り、「回復」とは言わない。その悪循環から出る、ということは、何かに没頭・埋没・はまり込んだ状況から抜け出る、ということである。生きていると、様々なことが起こる。そのことに、柔軟に対応し続け、変化し続ける。その過程が「回復」というのだ。それは、子どもを育てながら、柔軟に対応し続け、今も変化をし続けている、というか、娘にそれを迫られている父としては、本当によくわかる。

・・・と書いてみて、単なる書評を書くつもりが、まさか自分語りをするとは思ってみなかった。でも、それほど、アディクションの問題って、すごく縁遠い、一部の人の困った・他人事の問題のように見えて、いま・ここ、の自分に近い、自分事の課題なのだと思う。そしてそれを実感として言葉にするためには、購入してから7年間、寝かせて置く必要があっとのだと思う。時間はかかったけれど、いい本を読めました。

逸脱という関わりの内在的論理

実に素敵なフィールドワークに基づく大著を読んだ。『社会の周縁を生きる子どもたち:家族規範が生み出す生きづらさに関する研究』(志田未来著、明石書店)である。この本は両親と子ども(たち)から構成される「標準家庭」とは違う「ひとり親家庭」や「虐待などの環境下で生きている家族」を「非標準的家庭」に焦点をあて、そのような家庭の子どもたちが中学校でどのように暮らしているのか、教師と生徒の関係性がどのように構築されていくのか、を、関西とカリフォルニアの二つの学校でのフィールドワークに基づき辿っていく一冊である。

で、何が圧巻か、というと、この著者のフィールドワークの肉薄度というか、対象となる子どもや学校への入り込み方が、本当に圧巻だったからだ。例えばこんなフレーズが出てくる。

「4時限目、体育の時間。授業開始直後に彩が話しかけに来てくれる。
彩:らいらい元気?
*:元気やで。彩元気?
彩:元気! 最近調子いいねん。
*:そうなん? 全体的に?
彩:うん。全体的に。お父さんもな、最近叩いたりしてこーへんしな。
*:ホンマに? よかった。」(p118)

さらっと書いているが、一度でもフィールドワークをした事がある人間なら、このやりとりに唸ると思う。彩さんが親しげにあだ名で志田さんに話しかけてくるだけでなく、するっと「お父さんもな、最近叩いたりしてこーへんしな」と会話している。それは、彩さんが父に叩かれていて、父との関係が上手くいかないことも含めて、志田さんにも話してよいと感じていて、安心してその内容を話せる間柄、になっているからである。

志田さんはなぜこのような関係性を築けたのだろうか?

「調査を開始する前、生徒たちには学習補助の『大学生』として紹介された。男子生徒たちからは『志田』『元ヤン』、女子生徒たちからは『らいらい』と呼ばれることが多かった。調査時は教師とは違ったかかわりを持つように心がけ、生徒を注意するなど教師と認識されそうな言動は極力避けた。塚森中の教師からも『僕らとは違った関わり方をしてもらえれば』と言ってもらうなかで調査をさせてもらった。」
「荷物を置く以外に控室を使うことはほぼなく、登校後は控室に荷物を置いてすぐに教室に入って生徒たちと雑談した。」
「生徒と少し違ったのは、エスケープをする生徒たちについていくことだった。教室から出て行く生徒がいた時には常に後を追いかけた。」(p45)

本当に「入り込んで調査する」の王道である。対象となる中学生と一緒にいることを心がけ、授業をエスケープして体育館の裏でタバコを吸っている生徒達の話を聞き、それを告げ口することなく、その輪の中に入り込んでいる。そういう教員とは違った関わり方をしているからこそ、「らいらい」と親しく呼んでもらい、関係性を深めていく。だからこそ、「授業崩壊」の瞬間にも立ち会うのだ。

「この日の社会の授業が始まる前、クラスの生徒たちは授業中どのように振る舞うべきかをお互い相談し合っていた。この時点ではクラスメイトたちの『状況の定義』が一致せず、それに伴い『適切な振る舞い』も定まらない不安定な状況にあった。しかし、友介が家庭訪問時に明確な反抗の意思を示したことを知ることで、浩二は教師への反抗的な態度を『適切な振る舞い』として採用する。教室のドアを蹴り飛ばし大声で不満を叫ぶことで浩二はクラスメイトたちにそのスタンスを強烈に示している。その浩二の『状況の定義』を(男子生徒一人を除く)クラスメイト全員で共有することによって、クラス全体が一つのインタラクション・セットとなり、授業崩壊が起こったシーンである。」(p144)

文章は書き写すことによって、その論理構成を辿ることが出来る。今回、授業崩壊が起こったシーンに関する志田さんの文章を書き写す中で、この短いフレーズに込められている内容の濃さ、分析の深さに圧倒されていた。まず、社会の先生が登場する前のクラス内での、教師を巡る査定や評価の模様を、志田さんは的確に把握している。その上で、友介の対応を浩二が受けて行動化している、という内在的論理を読み解いている。その上で、浩二の行動化がきっかけとなって、クラス内が騒然として行く様子が、この記述の直前のフィールドノーツに活き活きと描かれているのが、それがインタラクション・セットのひとまとまりと、「適切な振る舞い」の合意としての「授業崩壊」と論じる。観察眼の鋭さ、視ている解像度の深さ、だけでなく、それを理論的な枠組みで切り取る鮮やかさも備えている。これは、ほんまもんである。

さらに、ここから一歩引いて、このコミュニケーションから見えてくる相互行為を分析している。

「逸脱を一つのコミュニケーションの方法として用いて教師たちとやりとりをし、駆け引きをし、さらには学級崩壊を招いた時のように他の生徒たちをリードする存在へとなっていく。それまで学校の中にあった文化的価値パターンを、逸脱という行動を用いることによって転覆させることによって自らが下位に位置付く可能性を無効化し、自由を行使できる存在として自らを上位に位置づけ、承認を獲得しようとしていたのである。」(p160)

教師からみれば恐るべき逸脱に思えても、生徒には生徒なりの内在的論理がある。下位に位置付いていた自らを上位に位置づけ直す、コミュニケーション戦略としての逸脱が、学級崩壊の瞬間にも行使されていた、と志田さんは見抜く。さらに、その背後も分析する。

「春樹や浩二のように、逸脱する生徒達の交流の場をうまく活用しながら、学校での活動に戻っていくことができたことを鑑みると、問題となるのは逸脱それ自体というよりも、逸脱する生徒たちのネットワークの中にしか彼らの居場所がなくなってしまうことではないだろうか。そういった状況を避けるには、逸脱する生徒たちとクラスをつなぐブリッジングの機能を果たすような教師や友人の存在が極めて重要であると言える。」(p161)

志田さんは体育館裏など、生徒がエスケープする溜まり場にも通い、そこで逸脱する生徒たちの内在的論理を学んでいた。だからこそ、逸脱そのものを問題として捉えていなかった。そうではなくて、「逸脱する生徒たちのネットワークの中にしか彼らの居場所がなくなってしまうこと」、つまり体育館裏しか居場所がないことの方が大きな問題であると見抜いた。だからこそ、体育館裏にいても、教室に戻れるような「ブリッジングの機能」が重要だと気づけたのだろうし、実際、友人だけでなく「らいらい」と呼ばれていた志田さんご自身も、そのようなブリッジング機能を結果的に果たしていたのではないか、とも想像が出来る。

そして、相手の内在的論理に肉薄しているのは、生徒だけではない。フィールドワークを行った塚森中の先生達へのインタビューも、読ませるものがある。

「*ここに勤めてはって、だんだん自分が変わってきたかなって思う部分って何かありますか?
吉岡先生:ある。(略)結構子ども中心に考えられるようになってきた。今までは『自分が、自分が』って。自分がしんどいし、とか、自分が嫌やし、とかやったけど。なんか子ども様子変やなって思ったら、まず聞こう、とか。子どもの方にすぐにいけるようになった、とかは大きいかなぁ。」(p157)
「*:かまって欲しいのかなーとか。やっぱり先生とかかわっているところですごい嬉しそうだったりとかするので。
雨宮先生:ケガねえ、つくんなくてもいいんやけど。理由が欲しいんでしょうね。人とかかわる理由というか、かかwってもらう、触れてもらうとか。ここでね、よくね、ゴロゴロして寝ている子とかいるんですけど。やっぱりちょっと触れてほしいっていうのがあるんですよね。で、私が起こすじゃないですか、寝ると。それが結構嬉しかったりするみたい。」(p172)

吉岡先生は前任校から、やんちゃな子の多い塚森中に転勤して、カルチャーショックだったという。最初は辞めたくて仕方なかったが、子どもたちの声を聞くことで、子ども中心に考えられるようになってきた。それは、結果として、これまでの自分が教師中心であったことに気づくプロセスであり、そこから距離を取ることで、この学校で逸脱している生徒達とも上手く関われるようになってきた。

保健室の養護教員の雨宮先生は、もっとダイレクトに、一見すると逸脱しているように見える生徒達が「かまって欲しい」という思いを持っていて、中学生であることもあり、素直にそれを先生に伝えられないので、無理矢理ケガをつくったりして、人とかかる、触れてもらう理由をつくって、保健室にやってくる。そんな生徒たちの繊細な心の襞の部分を、志田さんは聞き取り、描き出している。そして、その繊細さは、吉岡先生など、教師の側にもあった。だからこそ、こんなまとめが彼女には可能になる。

「教師達はこれまでの生活のなかで自身の依存状態を意識することがなく、学校のなかでも依存を扱うべきものだとは考えてこなかった。そうして社会のなかで人々が抱える依存状態が隠されてきたからこそ、生徒の依存状態にも、教師自身の依存にも目を向けることは非常に厳しい状態にあった。『もしこれが、ちゃんと授業座って聞いている子ばっかりだったら、こういう風にできることもないでしょうね』と田中先生が語っていたように『自立』を前提としたうえで学校教育が成り立っていたとしたら、その事実を自明として疑うことはなく依存状態は隠されてきただろう。この自立神話とも呼べる固定概念が非常に強固なものとして教師たちの中に根付いていたために、それを覆すためにはここで塚森中の教師たちが経験するカルチャーショックほどの大きな出来事が必要だったと言える。」(p195)

これは、教員の主流文化と、逸脱している子どもたちの文化という、二つの異なる文化をつなぐ、重要な指摘だとぼくは受け取った。

教員は、生徒時代におそらく大半が「ちゃんと授業座って聞いている子」だったし、教師になってもそれが当たり前だという「自立観」に基づいて学校教育に関わっている。そしてしっかり出来ていない、クラスを統制できていない自分は悪いと責めたり、ちゃんとしなくちゃいけない、と自立に向けて頑張り続ける。それが教員の燃えつきに結びつきやすい。

でも、逸脱している子どもたちは、「ちゃんと授業座って聞いている」ことができない。それを、逸脱だ、しっかりしなさい、といっても、それが出来ないのには、彼ら彼女らなりの「しんどい」家庭環境の事情がある。それを理解すると、生徒達が体育館裏にたむろしたり、かまってほしいと教員にコミュニケーションを取ることでしか、そういう依存状況も含めて承認されることでしか、学校空間にいれない、という事情も見えてくる。すると、これまで自明だった「学校(教育・教師・生徒)とは○○だ」という当たり前の価値前提がぐらつく。これが「カルチャーショック」なのである。

ただ、そのカルチャーショックを経た後だからこそ、先生達ははじめて子どもの声に耳を傾け、子ども中心の視点へと転換していくことが出来る。それは、逸脱する子どもたちから学ぶことによって、関わり方を変えざるを得なくなることによって、時には学級崩壊を経験することによって、自らの当たり前の前提を突き崩し、新たな可能性を探るのである。それは、教師も生徒も、ともにか弱い存在であり、両者が依存し合い、協力し合い、ともに考え合う中で、学級という空間を協働構築していくしかない、ということに気づき合うプロセスでもあるのだ。

そして、志田さんがこのようなまとめができたのは、カリフォルニアでエスニックマイノリティの子どもたちを教える公立中学校の先生達から教わったことも、大きいと思う。

「*ケアすることとか、生徒や教師同士のつながりが、生徒達を巻き込んで何かするという時にすごく重要じゃないかぁと感じているんです。特に、社会的に不利な状況に置かれている生徒にとって。
William先生:そうだね。自分で動機付けできるひともいるよ。いるけど、周縁化されてきたマイノリティグループとか、疎まれてきた人たちとかは、なぜ自分がそんな状況におかれているのかわからない。そんな時に教師を信じることなんて出来ない。十分やる気がある生徒がいて、『難しいだろうけどできるよ!』って教師に言われる子はいいよ。専門職にでも技術者にでもなんでも就いたらいい。でもこの学校で必要なのは、生徒への期待を高く持って、かつ、感情を持って接して、ケアすることなんだよ。難しい要求を突きつけても、モチベーションが既にあるからできるっていう生徒はいい。でもここではそれじゃうまくいかない。感情を持って接して、気にかけるよっていうことも示す。でも同時に生徒達がそれに甘えてサボらせてしまうのではなく、難しい課題にも立ち向かえるようにする。そのバランスを取ることが重要だと思う。」(p221)

これは、福祉領域で言われているエンパワメント概念と全く同じ事である。あなたのことを気にかけているよ、と、心からの(感情を持って)応援をしつづけ、まず「この大人は信じても良い」と、子どもたちの諦めを、希望に変えることが大前提で必要である。でも甘えてサボらないよう、「もうちょっとやってみよう」と難しい課題にも立ち向かえるように応援する。そのバランスを取ることが、国を超えて、周縁化されてきた子どもたちの教育や支援には必要不可欠なのである。

「Miller先生:ここで働くことの一番の難しさは、それは同時に一番いいところでもあるんだけど、自分自身が一体誰なのかということを学んでいかなきゃいけないってことだと思う。自分自身からは絶対逃げることができないってこと。」(p245)

Miller先生は白人で、エスニックマイノリティの子どもたちに白人至上主義を批判的に伝える難しさを語るときに、このフレーズが出来た。ただ、これは日本の塚森中の先生でも共通しているのではないか、とぼくは感じた。教師至上主義、とか、学校中心主義、を内面化して、そういうものだと思い込んでいるからこそ、塚森中に赴任した時に、カルチャーショックを受ける。だが、それは教師である自らの特権と向かい、自分は一体誰なのか、教師として何をしたいのか、と向き合うことである。教師は教師、生徒は生徒、と無意識・無自覚に線を引いていたら、こんなことは考えなくてもよい。でも、逸脱する・かまってほしい生徒達が、その線引きに揺さぶりをかけてくるからこそ、教師はそのことを問い直す必要がある。しかしながら、実は「ちゃんと授業座って聞いている」子どもたちだって、本当は教師にかまってほいしと思っているのではないか。線引きをして距離を取らず、先生が先生役割を問い直して、子ども中心の視点を持って近づいてほしいと感じているのではないか。そういう妄想も浮かぶ。

もう6000字も超えてしまったので、ちょっとだけ自分の興味関心にひきつけて、書評を終えたい。

僕はこの本を読みながら、福祉領域で言われている「問題行動」「困難事例」との共通性を強く感じていた。教師や支援者にとって「逸脱行動」と思える行動であっても、本人にとってはそうせざるをえない、内在的論理がある。不適切な振る舞いをカテゴリー化して逸脱行動とする、という従来の研究に対して、志田さんの調査の魅力的なところは、逸脱行動をする子どもたちの視点から「状況の定義」を捉え直し、教師にとっては逸脱行動に見えても、子どもたちにとっては「適切な振る舞い」がなされた結果、学級崩壊などの「行為」が発生する、と、問題行動を「インタラクション・セット」として捉え直している点である(p135)。これは、ぼくたちが『「困難事例」を解きほぐす』で捉えた視点と似ていると感じた。

次に、ぼくは志田さんの描く世界に、「謎解き」のような感覚を持って読み進めた。以前からブログに書いているが、僕もやんちゃな子どもが多い公立中学校で育ったからであり、「ちゃんと座って授業聞いている」ことが出来ない子達が、身近にいたからである。そして、言われてみたら、彼ら彼女らの多くが「非標準家庭」だったし、コミュニケーション的な逸脱をしていた。でも、その時の僕には、そのことがよくわかっていなかった。そんな30年近く前の現象を、こういう構造的背景があったのでは、と解き明かしてくれて、すごく分析にも納得して読めた。

だからこそ、志田さん自身が後書きに書いておられた事に、強い意味性を感じた。

「思春期の私は、父子家庭・母子家庭で過ごす中で親に反発し自らの手で家庭での居場所をなくしていました。そのため時間時期にかかっわらず友に時間を過ごしてくれるAを含むヤンキーの男友達が唯一の居場所でした。教師を含む全ての大人たちに反感を抱き、勉強嫌いだった私は、16歳になったらすぐに結婚して家を出て、自分こそが『幸せな家庭』を築くのだと心に決めていました。その将来展望が大きく変わるきっかけになったのは亡くなった父でした。勉強をナメきっていた高3。父が生前ICUに行かせたがってことを突然思いだし、父が生きている間『親孝行』からほど遠かった私はこれが最後と思い、ICUへの進学を目指しました。」(p279-280)

彼女自身も、やんちゃな子どもたちに囲まれていた、だけでない。彼女自身が「非標準家庭」で育ち、大人を信用できず、逸脱するヤンキー仲間だけが頼りだった。中学校を卒業したら結婚する、とも思っていた。そんな彼女が、父の死や、父の遺言的なフレーズを思い出し、それを契機に猛勉強してICUに進学し、その後、教育社会学の授業に出会って、自らの経験を振りかえると共に、教師ではなく、逸脱する子どもたちから捉えた世界観を描こうとした。それが、この素晴らしい大著につながったのだと後書きで知ることができた。

彼女は大学院の時、僕と同じ大阪大学大学院人間科学研究科の教育社会学講座で学び、この博士論文を書き上げた。阪大の教育社会学は本当にレベルが高い、と気づいたのは、大学院の時ではなくて、今頃になってから。大学院の同期の柏木さんの『子どもの貧困と「ケアする学校」づくり』を読んで、その面白さに気づかされる。また、学部時代からの後輩の濱元さんが翻訳した『学力工場の社会学』もめちゃくちゃ面白かった。僕は院生の頃、本当に視野が狭くて、教育社会学系の授業をちゃんと取っていなかった愚かさを、今更ながらに悔やむ。そして、阪大だけでなく、こないだ書評で取り上げた都島さんの『非行からの「立ち直り」とは何か?』も含めて、教育社会学研究者の層の厚さ、教育を批判的に捉え直すフィールドワークの質的水準の高さ、に圧倒されている。福祉社会学で、こんな魅力的な論文にあんまり出会わないよなぁ、とも。もちろん、自戒を込めて。

この本が高いのが惜しいけど、5000円払う価値は絶対にある、と太鼓判を押せる一冊だった。

「意味の網の目」の内在的理解

「人類学的思考で視るビジネスと世界」という副題の付いた『アンソロビジョン』(ジリアン・テット著、日本経済新聞社)は読み出したら止まらなくなって、他の読みかけの本を差し置いて一気読み。彼女の前作『サイロエフェクト』が面白かったので(そのことはブログにも書いていた)、珍しく発売直後に買う。

博士課程の間、90年頃、タジキスタンの婚礼儀式について調査していた人類学者で、そのことを博士論文にもしているのだけど、その後のソ連崩壊のプロセスで、ロシア語が出来る特技を活かしてファイナンシャル・タイムズ紙の記者になり、資本主義経済をおもに取材する。そして、膨張した金融市場で複雑な数式を用いたデリバティブ取引を主導する人々の会合に出ていて、次の様な感想を持つ。

「投資銀行業界の会合はタジキスタン人の結婚式とまるで変わらない、と私は思った。どちらも集団の社会的絆と世界観を共有し強化するために、儀礼や象徴を使っていた。タジキスタンではそれが結婚の儀礼、踊り、刺繍入りのクッションの贈り物といった複雑なサイクルを通じて行われた。一方コートダジュールの投資銀行の面々は、一緒にゴルフコースを回ったり、明かりを落とした行動でパワーポイントを眺めたりしているあいだにも、名刺を交換し、酒を酌み交わし、ジョークを飛ばしあっていた。どちらのケースでも儀礼と象徴が、共有された認知バイアス、前提を確認すると同時に再生産していた。」(p118)

ダジキスタン人の婚礼と投資銀行業界の会合、踊りとゴルフコース、には、全く関係がなさそうに思える。でも、それは表面的な事実の違いである。その集まりで重視され、取り交わされている「儀礼や象徴」とは何か、を掘り下げて考えると、二つに共通することが著者には見えてきた。それが、「共有された認知バイアス、前提を確認すると同時に再生産していた」という点だ。タジキスタンの人々が、同じ谷(=地域)の住人としか理解し合えない(ので婚姻関係も結ばない)と思い込んでいたのと同じように、高度な数式を前提とした投資銀行業界の人々には同族意識や選民意識があった。

ここから人類学的思考が華開く。

「ここもタジキスタンと変わらない、新しい言葉を学べばいいだけじゃないか、と思った。投資銀行の人々も、さまざまな儀礼と文化的パターンで自らの営みを彩っているに過ぎない。タジク語を学ぶことが出来たなら、外国為替市場の仕組みも絶対に学べるはずだ」(p122)

表面的な違いを超えて、「儀礼と文化的パターン」という抽象的な視点で捉え直すと、タジキスタンの婚礼と投資銀行という「異なる部族」には、構造的類同性がある。その類同性は、相手の言語を学ぶことで理解可能である。これが、著者の洞察力の優れたところである。これは、サイロエフェクトで「たこつぼ化」というキーワードから、異なる業種の大企業に共通する官僚制的システムの弱点を見抜いたのと、同じような発想である。

「マネーと文化を同時に調べ、二つの視点を結びつけることができれば、新たな気づきが得られるのではないか、と私は考えた。ヨーロッパの経済チームを振り出しに、五年にわたって東京支局で記者と支局長として働くなどFTでキャリを積む中で、私は同じ問いを何度も繰り返した。マネーはどのように世界を動かしているのか。世界のさまざまな場所に住む人はこのプロセスをどう見ているのか。言葉を換えれば、ファイナンスをめぐる『意味の網の目』はどのようなものか。」(p123)

文化を「意味の網の目」と捉えたのは、人類学の大家、クリフォード・ギアーツである。著者はその視点を継承し、一見すると人類学や文化と関係なさそうな金融資本主義やファイナンスにおける文化や「意味の網の目」を読み解こうとした。タジキスタン人の婚礼儀式を学ぶためにタジク語を理解したのと同じプロセスで、金融市場システムを学ぶために経済記者として取材し続けた。そのどちらでも、「意味の網の目」を探ろうという問いを持ち続けたので、双方の「部族」における儀礼や象徴とは何か、を捕まえることが出来た。

その上で、「意味の網の目」を読み解く上でのヒントもいくつか示している。その一つが「汚れたレンズ」の意識化である。

「第一に自分のレンズは汚れていると自覚すること。第二に、自らのバイアスを意識すること。第三にこうしたバイアスに惑わされないようにするために世界を別の視点から眺めてみようとすること。そして最後にとても重要なこととして、ここまでの三つのステップを踏んでもレンズが完全にクリーンになることはあり得ないと肝に銘じることだ。私たちは(そして私は)他者を笑い飛ばす前に、社会的沈黙に耳を澄ます必要がある。」(p211)

これは、SNSなどで自分と似た情報ばかりを選択的に吸収することで、視野が狭くなってしまうエコーチェンバー現象を考える際にも有用だ。「なんでそんな常識的なことが通用しないのだ?」と思った時には、特に自覚的になった方がよいと自戒の念を込めて書く。アメリカでは共和党と民主党の支持者の世界観が全く異なっていることが深刻な社会問題になっているが、それは「相手は間違っている=自分は正しいはずだ」という「汚れたレンズ」への無自覚さが拍車をかけている。さらに、ある程度知識や情報を収集していると、「私は知っていて、相手は知らない・無知だ」という特権的・選民的意識を持ちやすい。これが、世論との大きな乖離となって、まさかのトランプ現象を生み出した、とも筆者は指摘している、

自分自身に関しても、「なんでそういう乱暴な事がまかり通るのだ?」とか、「どうしてそういう極端な思想や発言が評価されるのだ?」と思うことも、しばしばある。でも、それは自分のレンズの汚れを度外視して、相手の方が問題だ、と問題を相手に押しつけている場合がある。自分のバイアスと相手のバイアスは違う。その時に、「世界を別の視点から眺めてみようとすること」を通じて、相手のバイアスの内在的論理を理解する事が出来れば、一定の論理を理解できる。共感はしなくても、まずはそれを理解する必要がある。そのためには、何が語られているか、だけでなく、何が語られていないか、という「社会的沈黙に耳を澄ます必要がある」のだ。

その上で、次のまとめも有用である。

「では、どうすればアンソロ・ビジョンを身につけられるのか。本書では少なくとも五つの方法論を提案した。①誰もが自らの生態学的、社会的、そして文化的な環境の産物である事を理解する。②「自然な」文化的枠組みはひとつではないと受け入れる。人間のあり方は多様性に満ちている。③他の人々への共感を育むため、たとえわずかなあいだでも繰り返し他の人々の思考や生き方に没入する方法を探す。④自分自身をはっきり見るために、アウトサーダーの視点で自らの世界を見直す。⑤その視点から社会的沈黙に積極的に耳を澄まし、ルーティンとなっている儀礼や象徴について考える。ハビトゥス、センスメイキング、リミナリティ、偶発的情報交換、汚染、相互依存、交換と言った人類学の概念を通じて自らの習慣を問い直す。」(p309-310)

他者は、自分と違うので、なぜその他者の他者性があるのだろう、と、他者の「生態学的、社会的、そして文化的な環境の産物」を理解することは、意識すれば少しずつ可能だ。でも、自分の中で当たり前になりすぎている「自らの生態学的、社会的、そして文化的な環境の産物」を、改めて問い直す事は、簡単ではない。ぼくの場合は、たまたま子どもが生まれたことによって、それをボチボチ問い直している

その上で、「他の人々への共感を育むため、たとえわずかなあいだでも繰り返し他の人々の思考や生き方に没入する方法を探す」というのは、人類学だけの特権ではない。社会学者の岸さんも、同じ事を述べている。

「他者の合理性を再記述する、つまり、行為の合理性を理解するとどうなるか。その帰結はいろいろあると思いますが、そのひとつは、行為責任の解除です。「そういう状況なら、そういうことするのも仕方ないな」というのが理解でしょう。」(「インタビュー 社会学の目的 岸政彦」

そして、難度が上がるのが「アウトサーダーの視点で自らの世界を見直す」ことだ。自分はどうしてそのような思考様式をしているのか。自分の金銭感覚や判断基準は、どのような合理性に基づいて構築されているのか。そんなことを普段は考えない。でも、他者の合理性をそのものとして理解するプロセスを経ていくなかで、それとは違う己の合理性の構成要素も理解することは可能なのかも知れない。

いまの僕にとって、最も難度が高いと感じるのは、ツイッタやSNS、マスコミ等で論争的な事態が起きている時に、「何が語られているか」だけでなく、「何が語られていないか」という「社会的沈黙」に耳を傾けることである。でも、問われていない、語られていないことに耳を傾けることは、何が欠けているのか・盲点となっているのか、を知る上で、すごく重要である。そして、それは結果として、その世界の常識やルーティン化された儀礼や象徴とはなにか、を捉え直すことにもつながる。でもそれを全く道具なしですることは難しいから、「ハビトゥス、センスメイキング、リミナリティ、偶発的情報交換、汚染、相互依存、交換と言った人類学の概念を通じて自らの習慣を問い直す」ことが第一歩になる、というのはよくわかる。僕もこれは意識化したい。

長々と書いて、もう紹介する余裕がないが、日本で独自に華開いたキットカット受験バージョンがどのようなグローバルな変化をもたらしたか、とか、様々な事例の話はどれも面白いし、記者出身だけあって文章はめちゃ読みやすい。翻訳もすごくこなれている。なので、お勧めの一冊である。