「意味の網の目」の内在的理解

「人類学的思考で視るビジネスと世界」という副題の付いた『アンソロビジョン』(ジリアン・テット著、日本経済新聞社)は読み出したら止まらなくなって、他の読みかけの本を差し置いて一気読み。彼女の前作『サイロエフェクト』が面白かったので(そのことはブログにも書いていた)、珍しく発売直後に買う。

博士課程の間、90年頃、タジキスタンの婚礼儀式について調査していた人類学者で、そのことを博士論文にもしているのだけど、その後のソ連崩壊のプロセスで、ロシア語が出来る特技を活かしてファイナンシャル・タイムズ紙の記者になり、資本主義経済をおもに取材する。そして、膨張した金融市場で複雑な数式を用いたデリバティブ取引を主導する人々の会合に出ていて、次の様な感想を持つ。

「投資銀行業界の会合はタジキスタン人の結婚式とまるで変わらない、と私は思った。どちらも集団の社会的絆と世界観を共有し強化するために、儀礼や象徴を使っていた。タジキスタンではそれが結婚の儀礼、踊り、刺繍入りのクッションの贈り物といった複雑なサイクルを通じて行われた。一方コートダジュールの投資銀行の面々は、一緒にゴルフコースを回ったり、明かりを落とした行動でパワーポイントを眺めたりしているあいだにも、名刺を交換し、酒を酌み交わし、ジョークを飛ばしあっていた。どちらのケースでも儀礼と象徴が、共有された認知バイアス、前提を確認すると同時に再生産していた。」(p118)

ダジキスタン人の婚礼と投資銀行業界の会合、踊りとゴルフコース、には、全く関係がなさそうに思える。でも、それは表面的な事実の違いである。その集まりで重視され、取り交わされている「儀礼や象徴」とは何か、を掘り下げて考えると、二つに共通することが著者には見えてきた。それが、「共有された認知バイアス、前提を確認すると同時に再生産していた」という点だ。タジキスタンの人々が、同じ谷(=地域)の住人としか理解し合えない(ので婚姻関係も結ばない)と思い込んでいたのと同じように、高度な数式を前提とした投資銀行業界の人々には同族意識や選民意識があった。

ここから人類学的思考が華開く。

「ここもタジキスタンと変わらない、新しい言葉を学べばいいだけじゃないか、と思った。投資銀行の人々も、さまざまな儀礼と文化的パターンで自らの営みを彩っているに過ぎない。タジク語を学ぶことが出来たなら、外国為替市場の仕組みも絶対に学べるはずだ」(p122)

表面的な違いを超えて、「儀礼と文化的パターン」という抽象的な視点で捉え直すと、タジキスタンの婚礼と投資銀行という「異なる部族」には、構造的類同性がある。その類同性は、相手の言語を学ぶことで理解可能である。これが、著者の洞察力の優れたところである。これは、サイロエフェクトで「たこつぼ化」というキーワードから、異なる業種の大企業に共通する官僚制的システムの弱点を見抜いたのと、同じような発想である。

「マネーと文化を同時に調べ、二つの視点を結びつけることができれば、新たな気づきが得られるのではないか、と私は考えた。ヨーロッパの経済チームを振り出しに、五年にわたって東京支局で記者と支局長として働くなどFTでキャリを積む中で、私は同じ問いを何度も繰り返した。マネーはどのように世界を動かしているのか。世界のさまざまな場所に住む人はこのプロセスをどう見ているのか。言葉を換えれば、ファイナンスをめぐる『意味の網の目』はどのようなものか。」(p123)

文化を「意味の網の目」と捉えたのは、人類学の大家、クリフォード・ギアーツである。著者はその視点を継承し、一見すると人類学や文化と関係なさそうな金融資本主義やファイナンスにおける文化や「意味の網の目」を読み解こうとした。タジキスタン人の婚礼儀式を学ぶためにタジク語を理解したのと同じプロセスで、金融市場システムを学ぶために経済記者として取材し続けた。そのどちらでも、「意味の網の目」を探ろうという問いを持ち続けたので、双方の「部族」における儀礼や象徴とは何か、を捕まえることが出来た。

その上で、「意味の網の目」を読み解く上でのヒントもいくつか示している。その一つが「汚れたレンズ」の意識化である。

「第一に自分のレンズは汚れていると自覚すること。第二に、自らのバイアスを意識すること。第三にこうしたバイアスに惑わされないようにするために世界を別の視点から眺めてみようとすること。そして最後にとても重要なこととして、ここまでの三つのステップを踏んでもレンズが完全にクリーンになることはあり得ないと肝に銘じることだ。私たちは(そして私は)他者を笑い飛ばす前に、社会的沈黙に耳を澄ます必要がある。」(p211)

これは、SNSなどで自分と似た情報ばかりを選択的に吸収することで、視野が狭くなってしまうエコーチェンバー現象を考える際にも有用だ。「なんでそんな常識的なことが通用しないのだ?」と思った時には、特に自覚的になった方がよいと自戒の念を込めて書く。アメリカでは共和党と民主党の支持者の世界観が全く異なっていることが深刻な社会問題になっているが、それは「相手は間違っている=自分は正しいはずだ」という「汚れたレンズ」への無自覚さが拍車をかけている。さらに、ある程度知識や情報を収集していると、「私は知っていて、相手は知らない・無知だ」という特権的・選民的意識を持ちやすい。これが、世論との大きな乖離となって、まさかのトランプ現象を生み出した、とも筆者は指摘している、

自分自身に関しても、「なんでそういう乱暴な事がまかり通るのだ?」とか、「どうしてそういう極端な思想や発言が評価されるのだ?」と思うことも、しばしばある。でも、それは自分のレンズの汚れを度外視して、相手の方が問題だ、と問題を相手に押しつけている場合がある。自分のバイアスと相手のバイアスは違う。その時に、「世界を別の視点から眺めてみようとすること」を通じて、相手のバイアスの内在的論理を理解する事が出来れば、一定の論理を理解できる。共感はしなくても、まずはそれを理解する必要がある。そのためには、何が語られているか、だけでなく、何が語られていないか、という「社会的沈黙に耳を澄ます必要がある」のだ。

その上で、次のまとめも有用である。

「では、どうすればアンソロ・ビジョンを身につけられるのか。本書では少なくとも五つの方法論を提案した。①誰もが自らの生態学的、社会的、そして文化的な環境の産物である事を理解する。②「自然な」文化的枠組みはひとつではないと受け入れる。人間のあり方は多様性に満ちている。③他の人々への共感を育むため、たとえわずかなあいだでも繰り返し他の人々の思考や生き方に没入する方法を探す。④自分自身をはっきり見るために、アウトサーダーの視点で自らの世界を見直す。⑤その視点から社会的沈黙に積極的に耳を澄まし、ルーティンとなっている儀礼や象徴について考える。ハビトゥス、センスメイキング、リミナリティ、偶発的情報交換、汚染、相互依存、交換と言った人類学の概念を通じて自らの習慣を問い直す。」(p309-310)

他者は、自分と違うので、なぜその他者の他者性があるのだろう、と、他者の「生態学的、社会的、そして文化的な環境の産物」を理解することは、意識すれば少しずつ可能だ。でも、自分の中で当たり前になりすぎている「自らの生態学的、社会的、そして文化的な環境の産物」を、改めて問い直す事は、簡単ではない。ぼくの場合は、たまたま子どもが生まれたことによって、それをボチボチ問い直している

その上で、「他の人々への共感を育むため、たとえわずかなあいだでも繰り返し他の人々の思考や生き方に没入する方法を探す」というのは、人類学だけの特権ではない。社会学者の岸さんも、同じ事を述べている。

「他者の合理性を再記述する、つまり、行為の合理性を理解するとどうなるか。その帰結はいろいろあると思いますが、そのひとつは、行為責任の解除です。「そういう状況なら、そういうことするのも仕方ないな」というのが理解でしょう。」(「インタビュー 社会学の目的 岸政彦」

そして、難度が上がるのが「アウトサーダーの視点で自らの世界を見直す」ことだ。自分はどうしてそのような思考様式をしているのか。自分の金銭感覚や判断基準は、どのような合理性に基づいて構築されているのか。そんなことを普段は考えない。でも、他者の合理性をそのものとして理解するプロセスを経ていくなかで、それとは違う己の合理性の構成要素も理解することは可能なのかも知れない。

いまの僕にとって、最も難度が高いと感じるのは、ツイッタやSNS、マスコミ等で論争的な事態が起きている時に、「何が語られているか」だけでなく、「何が語られていないか」という「社会的沈黙」に耳を傾けることである。でも、問われていない、語られていないことに耳を傾けることは、何が欠けているのか・盲点となっているのか、を知る上で、すごく重要である。そして、それは結果として、その世界の常識やルーティン化された儀礼や象徴とはなにか、を捉え直すことにもつながる。でもそれを全く道具なしですることは難しいから、「ハビトゥス、センスメイキング、リミナリティ、偶発的情報交換、汚染、相互依存、交換と言った人類学の概念を通じて自らの習慣を問い直す」ことが第一歩になる、というのはよくわかる。僕もこれは意識化したい。

長々と書いて、もう紹介する余裕がないが、日本で独自に華開いたキットカット受験バージョンがどのようなグローバルな変化をもたらしたか、とか、様々な事例の話はどれも面白いし、記者出身だけあって文章はめちゃ読みやすい。翻訳もすごくこなれている。なので、お勧めの一冊である。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。