実存を深く問う本との出会い

書き手が自らの実存をかけて、魂を込めて書き上げた本と向き合う時、それは己の実存が問われるし、魂が揺さぶられる。小松原織香さんの『当事者は嘘をつく』(筑摩書房)を読んでいて感じたことである。

小松原さんは自らも性被害を受け、そのことに苦しみ、自助グループで助けられながら、やがて性被害や修復的司法に関する研究を深め、その論考で博士号を取って研究者になった。被害を受けたときから、研究者になるまでの、様々な心の葛藤や揺れ、実存が揺さぶられるような問いが、全編にわたって描かれている。今回の著作で、はじめてそれを対外的に公にされた。

だが、この本を詳細に紹介することはしない。実存をかけて、魂を込めて書き上げられた素晴らしい本に「返礼」するためには、己がこの本でどのように実存が揺さぶられたか、魂が震えたか、の自分語りをするしかない。そう思わせる「力作」である。

ぼくが大きく揺さぶられたのは、次の部分である。

「私は、当事者が望んで自己の探求を行う手法として『当事者研究』を使うことには賛同するし、大きな価値があるのだろうと思う。しかしながら、私は『当事者研究』のなかに、当事者の生々しい言葉をすべて『回復』の言説に回収しようとする支援者の欲望の匂いを嗅ぎつける。」(p93)

なぜ揺さぶられたのか。それは、「当事者研究」に関して、それをリスペクトしつつもモヤモヤしていたことを、ズバリと指摘しているからである。

支援者は、当事者の「回復」を目指した仕事をしている。そして、精神障害を持つ人は、自分自身との折り合いをうまくつけられず、家族や仕事場などの対人関係のまずさ・しんどさ・悪循環が重なる中で、「回復」しにくい。そんな「絶望」の状況の中で、北海道の浦河にある「べてるの家」のソーシャルワーカーの向谷地さんが生み出したのは、当事者が自らの悪循環を仲間と「研究」し、自己病名をつけることによって、その悪循環から逃れる方策に言葉を与え、それを「練習」することによって、「回復」していくプロセスを生み出してきた。この浦河発の当事者研究は全国的に、そして国外でも広まり、一定の評価がされてきた。ぼくも、浦河に何度か出かけ、本も沢山読んで、多くの事を学んで来た。

ただ、「当事者研究」を手放しで評価していたのではない。確かにすごく魅力的な実践なのだけれど、なんだかなぁ、とモゴモゴしてしまう部分があった。小松原さんは、そこをバッサリ、次の様に描き出す。

「私にとって性暴力被害者の直面している問題とは、社会制度や社会構造の不備であった。十分な支援制度が確立されず、経済的に不安な状況で性暴力被害者は苦境に陥っていた。性暴力被害の当事者として語るのは『社会を変える』ために訴えたいからであり、自己のトラブルの対処方法を知りたいのではなかった。その点において、『当事者研究』はそれぞれの当事者が直面する問題を個人化、内面化しており、自己や個人的な知り合いといった小さな人間関係に矮小化していると、私には思われた。」(p92)

これは極めて重要で本質的な指摘である。

ぼく自身は、精神障害や薬物依存、社会的ひきこもりなどの圧倒的な悪循環を前にして、その悪循環からの離脱を、仲間と共に考える「研究」である「当事者研究」は、これまでの支援のあり方を覆すような可能性や魅力を持っている、と感じている。

その一方で、自立生活運動から学び、障害者制度改革にコミットし、脱精神病院に向けて「社会を変える」ために動いてきたぼくにとって、「当事者研究」に感じていた物足りなさは、「それぞれの当事者が直面する問題を個人化、内面化しており、自己や個人的な知り合いといった小さな人間関係に矮小化」している部分だった。

当事者研究の創始者である向谷地さんは、その背景を次の様に語る。

「わが国における統合失調症を中心とした当事者活動が、社会的・政治的な変革と地位の向上を目指す『社会変革機能』に偏り、いわゆる明確な『自己変革機能』を持ち得なかったのは、その部分の役割を、精神科医をはじめとする援助者が『治療』と『援助』の名のもとに独占してきた、という背景がある。」(向谷地生良『統合失調症をもつ人への援助論』金剛出版、p53)

精神障害者の当事者活動が、1970年代からずっと、主として「社会的・政治的な変革と地位の向上を目指す『社会変革機能』に偏」っていたのは、事実である。抑圧的な社会に対してNOと言い、精神病院の劣悪な処遇を改善するように訴え続けてきた。だが、自らが精神症状になることによる、上記の「悪循環」からどう抜け出せばよいのか、という『自己変革機能』に関しては、「精神科医をはじめとする援助者が『治療』と『援助』の名のもとに独占してきた」のであり、当事者はその部分では無力であった。しかも、治療や援助が必ずしも上手くいかず、援助者も無力に陥っていた。

当事者研究のパラダイムシフトは、この無力状態を超えるために、当事者運動の『自己変革機能』を用いて、治療や援助ではうまくいかなった、当事者の抱える悪循環から抜け出る方策を「研究」によって導き出すことであり、それによって「己のトラブルの対処方法」を、援助者に教わるのではなく、自分たちで導き出すことが出来た。

これは本当に画期的で、重要な進歩だと感じている。

だが、である。ぼく自身が以前から「当事者研究」を尊重しつつも、それだけで良いのかな、と感じていた危惧は、「自己変革機能」に集中するあまり、「社会変革機能」を手放したり、置いてけぼりにしていないだろうか、という危惧だった。この点については、少しだけ上記の向谷地論考を引用しながら、『権利擁護が支援を変える』にも書いたし、ブログでも「向谷地さんへの反論、というよりも」という形で書いた事もある。どちらも、精神病院での強制収容を減らす・なくすといった、「社会を変える」を重視しなくてもよいのか、という問いだった。

だが、小松原さんの見抜いた「『当事者研究』はそれぞれの当事者が直面する問題を個人化、内面化しており、自己や個人的な知り合いといった小さな人間関係に矮小化している」という指摘と、「私は『当事者研究』のなかに、当事者の生々しい言葉をすべて『回復』の言説に回収しようとする支援者の欲望の匂いを嗅ぎつける」という警句には、重大な問いが含まれている。

向谷地さんが、べてるの家が、という個人批判ではない。そうではなくて、「当事者研究」を称揚し、それを研究者もこぞって研究する流れの中で、精神医療の構造的問題への告発という「社会変革機能」が矮小化・なかったことにされ、「自己変革機能」の先鋭化にのみ、すすまないか、という問いである。また、それは「当事者の生々しい言葉をすべて『回復』の言説に回収しようとする支援者の欲望の匂い」に結びつき、当事者研究を支援する支援者・研究者の「欲望」が支配する可能性はないか、という問いである。

もちろん、混沌とした中で生きるより、「回復」した方がよい。でも、「当事者の生々しい言葉をすべて『回復』の言説に回収しようとする」ことは、複雑でアンビバレントな思いを持つ当事者の実存を「回復の途上にある者」というフレームの中に縮減して理解することではないか。そして、それは語る人の唯一無二性の生きる苦悩を、「回復者の苦悩」という形で標準化・パターン化して「わかったふり」をすることにつながらないか。そこに、向谷地さん自身がかつて批判した「精神科医をはじめとする援助者が『治療』と『援助』の名のもとに独占してきた」、自己変革機能の他者のフレームによる独占が継続する可能性はないか、という問いである。

「その傷つきやすく、混乱している私に向けられる、支援者の善意ややさしさや愛情こそが、私(たち)の言葉を『回復』の言説に回収し、もともと秘められていた生命力を奪っていく。支援者に『わかってほしい』と思っているかぎり、私の目指す道は拓かれることがない。
だからこそ、愛情深く優秀で真摯な支援者たちに背を向けなければならないのだ。『良き支援者』の協力の誘いこそが当事者の言葉の力を奪うのであり、形骸化した『当事者の語り』はかれらの知の体系に埋め込まれる。私は『わかってほしい』という心を捨てて、当事者として支援者と闘わなければならない。」(p98)

支援者や研究者が、当事者の生きる苦悩を理解しよう、わかろうとする。それは他者の合理性の理解、という基本的で重要な営みである。だが、そこに「回復」のフレームワークを用いると、その当事者の生命力のある「生の言葉」を、「回復」のどの段階か、を査定するモードで捉えるようになってしまう。「混乱している私」から発せられる、まとまらない言葉を、そのものとして受け取るのではなく、「回復」の初期・前段階における昏迷や葛藤だな、と「解釈」して受け取ってしまう。そして、その言葉をまるごと受け止め理解するのではなく、そこに「回復」という視点に基づく「解釈」を入れ込むことによって、「当事者の言葉の力を奪うのであり、形骸化した『当事者の語り』はかれらの知の体系に埋め込まれる」のである。これが、「良き支援者」だけでなく「共感的な研究者」のやっている、相手の実存と向き合わない暴力ではないか、という問いだと受け取った。

そこで、改めてぼく自身はどうだったか、を振りかえってみる。

四半世紀前、精神病院でのフィールドワークを始めるとき、ぼく自身は、理解が解釈にするっとすり替わる暴力が、恐ろしかった。それは、自分の師匠が『ルポ 精神病棟』を書いていた大熊一夫だったから、というのが大きい。精神病院の中にはもちろん「愛情深く優秀で真摯な支援者たち」がいる。にもかかわらず、長期社会的入院が続いている。支援者個人がいくら愛情深くて優秀で真摯でも、社会制度や社会構造が不備で、精神病院から出られないのであれば、あくまでもその構造を告発し続ける必要がある。師匠はそのスタンスで、一貫して告発し続けてきた。

だからこそ、ぼくは元々学部時代から河合隼雄やユングが好きで、神田橋條治とか中井久夫とかよみかじり始めていたけど、師匠と出会い、精神病院で当事者の方々と出会うようになって、博士論文を書き上げるまでの間、精神科医や心理学者による本を読むのを「封印」した。そういう本を読んでいたら、出会う相手を勝手にエセ診断したり、解釈するのではないか、と恐れたからだ。ぼくが通った阪大人間科学部の図書館には、臨床心理学や精神医学の本が沢山あったので、時間的に余裕があった院生時代にそれらを封印していたのは、今から思えば何という勿体ないことをしたのだろう、とも思う。でも、それよりも、「その傷つきやすく、混乱している」当事者の語りを、「回復」や「診断」の枠組みに矮小化して理解・解釈するのではなく、そのものとして受け取るためには、当時のぼくとしては、「そういう本は読まない」という選択肢しかなかったのだと思う。結果的に、その経験があるからこそ、当事者会の中に混ぜてもらうこともできたし、大阪精神医療人権センターに長年ボランティアとして関わらせてもらうきっかけにもなった。「良き支援者」が孕む暴力性には、直観で気づけていた、と今だからわかることである。

あと、この本を読んでいて、ぼく自身が「救われた」と思うエピソードを、もう一つだけ取り上げたい。

性暴力と修復的正義で博士論文を書き上げた小松原さんは、その後、水俣における修復的正義について考えるため、水俣に通うようになる。そこで、彼女は当事者ではなく、研究者として社会問題に関わることになる。その際、以下のような気づきがあった、という。ちょっと長いが、重要な箇所なので引用する。

「私は自分が当事者の立場になっていれば、もっと丁寧にものごとを積み上げて論じたはずだ。
それなのに、私の筆は走り、一面的で浅薄だが、自分なりの視点を打ち出した論文が書けてしまった。なぜなら『当事者』ではない『研究者』だからだ。かれらの苦しみの声を聞かず、ひたすらに自分の見たいものだけを見て、論文を書く鈍感で精力的な研究者。それは私の忌み嫌った研究者像だった。
『なるほど、だからかれらはスラスラと論文が書けたのか』
私は自分が『当事者ではない』ことを受け入れた。同時に、私が思ったことは、『だったら、私は仕事をしなければならない』ということだった。
私が『書けない』ことに葛藤し、苦しみ、筆が進まなかったのは当事者だったからである。だからこそ、水俣に来て私が『書けない』と思うことは、苦悩のふりをしているようにしか思えなかった。私はここでは、『書けない』わけがない。『書ける』のだから、書かなくてはならない。」(p155)

ぼく自身は、長年精神障害や「困難事例」という問題をずっと研究しながら、医者でも福祉専門職でもないし、また当事者でもないのに、どうしてこの問題をずっと研究し続けているのだろう、という問いを抱えてきた。自分自身の立ち位置=ポジショナリティを、問い続けてきた。でも、「当事者」になってしまうと、「書けない」のである。それは、大学教員の当事者だからこそ、日本の大学の構造的問題を書くことが出来ない。こないだ『日本の私立大学はなぜ生き残るのか』という、英国人による優れたフィールドワークの成果を読んで、ぼくの私学勤務で見聞きしたけど書けなかったことがズバリと書いてあって、驚いた。そう、「当事者」だから「書けない」ことでも、「当事者ではない」から見抜けるのだとつくづく感じた。

そして、ぼくは当事者でも医者でもソーシャルワーカーでも当事者研究者でもないことが、自分自身の劣等感というか、寄る辺のなさのようなものとして、あった。でも、今回の彼女の発見を読むことによって、『当事者ではない』ことの可能性を再発見した。「『書けない』わけがない。『書ける』のだから、書かなくてはならない」し、『だったら、私は仕事をしなければならない』のである。

長年放置してきた、精神医療の社会学に関する単著化プロジェクトも、そろそろ本腰を入れて考えなければならない。そんなエールまで勝手に受け取った。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。