優生思想を「いま・ここ」に繋げる一冊

歴史は高校生の頃から、嫌いになってしまった。それは教科としての歴史で、暗記しなければならない事項が爆発的に増え、それで嫌になってしまったのだ。だから、センター試験は倫理・政経で受けたし、未だに歴史コンプレックスがある。大人になって、世界史も日本史もちゃんと流れを知っていないことで、ずいぶん損した気分になったし、「マンガ世界の歴史」も買っているけど、未だに本棚に積ん読状態だ。

そんなぼくでも、食い入るように読み終えた「歴史といま・ここをつなぐ一冊」があった。それが、藤井渉さんの『ソーシャルワーカーのための反『優生学講座』――「役立たず」の歴史に抗う福祉実践』(現代書館)である。何が良い、って、いま・ここ、で疑問に思わず口にしているフレーズや考え方、価値前提が、歴史的にどのように構築されてきたか、を辿る一冊だからだ。例えば、こんな風に。

「『障害者を納税者に』との論理自体は少なくとも100年前から繰り返されてきた古典的なものであり、『社会が低納者の害毒から免れる』という認識との関連性を考えずにはいられません。また、障害者への教育や就労支援が結果的には社会の『コスト』抑制につながる、という論理も同様に100年前から語られていました。そして、障害者の『コスト』をめぐっては、間接的であるにせよ、優生学思想も具体的に絡んで述べられていたのです。」(p95)

この15年近く、障害者就労は劇的に進んできた。確かに「障害者を納税者に」というのは、聞こえのよいフレーズである。だが、「納税者」というラベルに「社会に役立つ人」、そこから「障害者」に「社会のお荷物」というラベルを付与すると、「社会が低納者の害毒から免れる」という現在の社会から見れば明確な差別的な100年前の論理と、実は地続きである事が見えてくる。入所施設や精神病院の削減、あるいは就労支援や障害者教育を「コスト」論で語りたくないのは、それは「社会のコスト抑制」というのが、実はナチス・ドイツの障害者殲滅計画(T4計画)と地続きであるからだ。

「ナチス政権下では治療ができない人たちへの『安楽死』、つまり殺害が議論され、そこでは国家的な『コスト』となる障害者がピックアップされていた状況が見られます。当時のプロパガンダでは、その『コスト』を強調したプラカードが多々用いられていました。
障害者の『コスト』の計算は、元々、施設を対象とした社会調査をもとに行われていた形跡が見られます。その調査では重度知的障害者の保護に年間一人あたり平均1300マルクを費やしているとされ、その人口は2〜3万との推計があり、平均寿命を50歳と設定した上で、膨大なコストを非生産的なものに費やしていることが強調されたりもしていました。そこには、障害者が生まれることによって、『コスト』が積み重ねられていくという、将来予測までを踏まえた『遺伝的価値』が問われていた状況が見られます。」(p126)

書き写していても寒々しくなるが、「納税者」と「社会のお荷物」を分けた上で、納税できない重度障害者に年間1300マルクかかり、その人が50年生きたとしたらいくらかかり、2万人いると年間いくらかかるか、を全て計算して、それが「膨大なコスト」である、と「客観的」に述べてしまう。こんなコストを「非生産的なものに費やす」余裕がありますか?あなたの税金ですよ?と畳みかける。そして、そのような「非生産的」な存在を「モノ」扱いにするからこそ、ガス室に送り込んで「安楽死」させることも肯定してしまう。つまり、お金のためには、人殺しもやむを得ない、という論理がナチスの政権下ではまかり通っていたのである。そして、さすがにガス室に送り込むことは日本ではしていなかったが、「非生産的」で「社会のお荷物」とラベルが貼られた重度障害者の「遺伝的価値」を淘汰するために、強制不妊手術をしてきたのは、日本でも第二次世界大戦後も続いてきた。また、相模原の障害者殺傷事件の犯人は、「役立つ障害者かどうか」で殺害対象を選別してていた。つまり、いま・ここの私たちの社会の価値判断と、T4計画の価値判断も、隔絶されたものではなく、連続性のあるものだ、というのが藤井さんの論からわかってしまうのだ。

そして、このような排除や選別の論理は、私たちの「いま・ここ」の社会の中に根深く浸透している。

「社会では熱心に人を『平均』と比較し、『異常』として判断することをあまりにも軽々に行っています。偏差値もそうですし、新型出生前診断はその典型だと思います。一方で、社会が『異常』と見なした人たちが、今度は『普通』を求める場合はあまりにも道は険しく、社会は途端に無関心になります。
つまり、『異常』を判別するために『平均』が軽々しく用いられる一方で、『平均』の論理で排除されてしまった人たちが、隔離され、社会的に不利を背負わされた後で、地域社会で『普通の生活』を送りたい、『平均的な生活』を送りたいと言った場合は、『なんでそういうこと言うんですか?』といった態度で、あまりにも無関心になる。社会にはこういう姿勢のギャップがあって、それを本人は日常生活のあらゆる場面で見せつけられてきているのです。」(p39-40)

「新型出生前診断」は、本当に簡単に出来る。妻が妊娠中も、「できますよ」と医師から言われた。だが、私たち夫婦は相談した上で、「結構です」と断った。それは、これから生まれてくる待望の命に対して、「平均と比較し、異常として判断すること」にどのような意味があるのか、それをして染色体異常がわかったら堕胎するのか、そのような神のような選別的な眼差しを私たちが持てるのか、を夫婦で話し合った上で、そんなことを軽々にしたくはない、と価値判断したからである。

また、入所施設や精神病院からの地域移行や、特別支援学校から普通学校での学び合いというへのインクルーシブ教育への移行について話をすると、『なんでそういうこと言うんですか?』という声もしばしば聞く。特別な支援が必要な人に向けた専用の施設や病院、学校があるから、それでいいではないですか? 地域の中で一緒に暮らすのは手間もコストもかかりますよ、と言わんばかりの問いである。でも、藤井さんが言うように、そもそも「専用の施設や病院、学校」が作られるのは、「『異常』を判別するために『平均』が軽々しく用いられる一方で、『平均』の論理で排除されてしまった人たちが、隔離され、社会的に不利を背負わされた」というプロセスの「後」なのである。「平均の論理」で「異常」とラベルが貼られ、排除・隔離の後に、社会的な不利を背負わされている。このことに関する認識がなく、『なんでそういうこと言うんですか?』と私たちが無自覚に口にするのは、あまりにも、排除の歴史を自覚していない、ということでもある。

そして、この「平均」の論理は、偏差値の論理でもあり、社会的排除の論理でもある、と藤井さんは整理する。

「優生学では、本来複雑である人の『才能』や『知能』に正規分布の人口構成を措定、あるいは断定しながら、その平均から外れた人たちを『異常者』だとして、その人たちを当時の言葉で『精神薄弱者』と言って蔑視していった思考や経緯が見えてきます。」(p158)

偏差値がどれくらいだから、どの高校や大学に入れる。ごく当たり前のように使っている、このフレーズ。でも、それは「本来複雑である人の『才能』や『知能』に正規分布の人口構成を措定、あるいは断定」するプロセスである。模擬試験や入学試験で、人の才能や知能をバッチリ測れる訳ではない。あくまでも目安だし一つの基準に過ぎない。でも、それに縛られると、東大出身の人は賢い、とか、そういうことに囚われてしまう。

ものすごく恥ずかしい話なのだが、ぼくもかつて、めちゃくちゃ偏差値に囚われていた。

京都出身で、京都大学に合格者数が日本一という事が自慢だった高校に通っていたので、「京大に入れない奴はバカだ」と思い込んでいた。で、浪人しても、センター試験で点数が足りず、一浪して阪大人間科学部に入る。でも、大学一年生の時は、「阪大生はバカばかりだ」と思い込んでいたので、すごく嫌な奴で、あまり友達も出来なくて、全然楽しくない大学一年生だった。その後、震災ボランティアなどで同級生と出会い、そう思い込んでいた自分自身が「最大のバカ」だったことに気づくのだが、それはぼくが10代後半に偏差値をあまりにも内面化して、その牢獄に囚われていた、ということでもある。

また、この牢獄はそれに気づいても、簡単に抜け出せない。障害者福祉を学び始め、多くの障害当事者の知人友人と出会った後も、インクルーシブ教育については、能力主義的なぼくの価値前提を覆すことは、簡単ではなかった。だが、大阪の大空小学校の実践や、それを語る木村先生の本を読む中で、ぼく自身の価値前提に深く刻み込まれた集団管理型一括指導の学校空間そのものの歪みや、そこに合わない人の社会的排除のことまで踏まえると、そもそも「平均から外れた人たちを『異常者』」として蔑視するシステムそのものが問題ではないか、とやっと気づけるようになった(そのことは、模擬講義で話したこともある)。

そして、このような偏差値の盲信も、実は歴史的な文脈の中で受け継がれてきたことも、藤井さんの著述から見えてくる。

「優生学では平均を用いて人の能力を測定し、平均から外れた『異常』を判別することで、『異常』に対する排除の方途や正当性を示そうとしていました。そのための手段として、回帰分析や相関係数といった数理統計学が開発された経緯もあったのでした。
この考えは知能検査をめぐる研究でより顕著に示されていきました。そこで『低い』成績を示した人たちを『低能』や『不良』などと称し、侮蔑の対象として知的障害者たちが取り上げられました。
それだけではありません。それは確率論的に計算すると遺伝するため、その『淘汰』が必要だと主張されていたのです。優生学を唱えた学者達は、人を『才能』や『知能』といったモノサシで評価し、それによって人の分布を表そうとしました。そのときに前提としたのがベル型の正規分布です。そして、その下位の端に位置する人たちを社会の構成員から切り取っていく、つまり『剪除』していくことで、世代的な再生産を通して『民族』や『人種』の『遺伝の改良』を考えたと言えます。」(p193)

偏差値に代表される正規分布は、「『異常』に対する排除の方途や正当性」を科学的に示すために用いられた。「そのための手段として、回帰分析や相関係数といった数理統計学が開発された経緯もあった」。言語表現が出来ない障害者をガス室で抹殺したり、刃物で殺傷する。それだけ聞くと、おぞましいと感じる。だが、それに「もっともらしい」「合理的な」理屈を与えて正当化するために、平均からの逸脱や正規分布などの統計学的知識が用いられ、殺人と言わずに『剪除』という曖昧なフレーズを用いることで、「世代的な再生産を通して『民族』や『人種』の『遺伝の改良』」というやばそうな考えを合理化していく。そこに科学が加担していった歴史と、偏差値の歴史には、土台が一緒、という共通性があるのだ。(そして、この科学の恣意性については、精神医療に関して以前拙稿で論じたこともある)。

いずれにせよ、藤井さんの本を読み進める中で、19世紀から20世紀初頭に隆盛した優生学や、世界大戦期におけるその「応用」など、一見すると昔話に思える出来事が、いかに自らの「いま・ここ」の価値前提に直結しているか、が見えてきて、恐ろしくなる。でも、絶対に知っていた方がよい。特に、「支援」に関心がある人は、その支援が誰のため、何のためか、を土台から考える上で、この本は批判的に物事を捉えるための重要な補助線となるだろう。何度か読み返したい一冊だし、注や参考文献が恐ろしく充実しているので、ここから色々な文献を辿ってみたいとも思う。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。