時代を超えて突き刺さる刃

米津知子さんという女性障害者運動家の存在は、ちらっと耳にしたことがあるだけで、ちゃんとは存じ上げていなかった。荒井裕樹さんが新刊で彼女を主人公にした物語を書かれる、と、彼と僕の担当編集者でもあるMさんから伺い、どんな本になるのだろう、と興味津々だった。頂いた『凜として灯る』(荒井裕樹著、現代書館)に引用された、彼女が書いたアジビラ(鰺の開き、ではなく、呼びかけのチラシの文章です、念のため)の文章が、確かに実に活き活きしているのだ。

「耐え忍ぶことで自らヌケガラになっていた日本の女達と心中するなんてつまらなすぎると思わない? 自分の欲すら発見できなかった、私達を産んできた母親達、そのまた母親達にむくいることの出来るのは、私達が欲情し、延々とうばわれ続けてきたエネルギーを取り返すことだ、彼女達の分も。欲望の畑にクワを入れろ。」(p82)

これは半世紀前の1971年に書かれたビラだが、そのエネルギーは風化していない。この半世紀の中で「耐え忍ぶことで自らヌケガラになっていた日本の女達」はどれくらい、「うばわれ続けてきたエネルギーを取り返すこと」が出来ただろうか。半世紀後にもジェンダーギャップ指数が世界で120位という低さの国においては、「ヌケガラ」とならざるを得ないような女性への構造的抑圧が続いている。大学の学生たちはそろそろ親が僕と同世代やその少し上、という感じなのだが、ヌケガラ的な親に苦しめられたり、「耐え忍ぶ」という意識もないまま、「いい子」を必死で演じてきた学生たちも、結構いる。そういう学生こそ、生きる事への不全感やモヤモヤを抱えている。それは「私達を産んできた母親達、そのまた母親達」のヌケガラの再生産に近い実態なのかも知れない。

だからこそ、米津さんの「私達が欲情し、延々とうばわれ続けてきたエネルギーを取り返すことだ、彼女達の分も。欲望の畑にクワを入れろ」という直裁的なメッセージは、半世紀後のいま・ここ、においても、心にスッと入り込むメッセージであり続けるのだ。そして、荒井さんはそんな米津さんの言葉が生み出されてきた背景を、彼女の人生に重ね合わせて丹念に叙述していくから、読み手の心にも色々なフレーズが刺さる。

「知子や、他の女たちの目には、男の運動家たちが抱える問題が見えはじめていた。男達は、厳めしく難解な社会理論を振り回して資本主義の弊害を語り、労働者階級の解放を語っていた。だが、そんな男たちも、女を見下す価値観には無自覚だった。男たちの目には、労働者階級を搾取する資本主義社会の構造的暴力は見えても、男女の性役割の不均衡さは見えてなかった。
だが、厄介なことに、女たちの中にも、こうした性の役回りを受け入れてしまう価値観が深く根付いてしまっていた。男が語れば、女は黙って聞く。男が食べれば、女が片付ける。男が表に立てば、女は下がって面子を立てる。こうしたことに不満や違和感を覚えても、なぜか、そのように動いてしまう女の身体がそこにはあった。
女の身体に降り積もってきたものは何なのか。女たちは、これまでの人生で何を注ぎ込まれてきたのか。男たちが、来るかどうかもわからない社会変革をロマンティックに語っているとき、女たちは、自分たちは何者なのかと悩み、考えはじめていた。」(p56-57)

最近でこそ、信田さよ子さんが「「よきことをなす人」たちのセクハラ」という連載が話題になっているが、これは米津知子さんが50年前に出会った話の「繰り返し」である、残念ながら。社会運動を語り、労働者階級や社会的弱者の解放を訴える「よきことをなす人」たちの中には、昔も今も、「男女の性役割の不均衡さは見えてなかった」人が一定するいた。そして、今はMe Too運動以後、それを告発するムーブメントがやっと広がってきたが、少し前までは、そのような不均衡さや性役割があまりにも根付いてしまい、身体化してしまう女性もいた。

だが、米津さんはその「女の身体に降り積もってきたもの」を黙って受け入れることはできなかった。それは、彼女の身体性そのものに根ざしたある部分と抵触したからである。彼女は幼児の時に小児麻痺になり、右足に歩行を補助する器具を付ける必要がある、軽度障害者だったのである。だからこそ、自らの身体性への違和感を常にもっていた。

「なぜ自分は自分を『醜い』と思うのだろう。この感覚はどこから来るのだろう。
周囲から向けられる冷たい視線になれ、いちいち傷つかなくなったとしても、それは解放ではない。ただ、そうした価値観に心が麻痺しただけだ。知子は書く。<解放とは平気になることとは違うのだ>。
ならば、自分の心の傷つきを受け止め、自分を『醜い』と決めつけてくる価値観そのものへと怒りの刃を向けねばならない。しかし、自分を『醜い』と感じているのは、周囲の身勝手な人たちだけではない。自分も自分を『醜い』と感じてしまっている。ならば自分も、その刃を受け止めねばならない。
<私の身体の『醜さ』が私と私を見る人が共に持つ美意識に由来するなら、私が自分の暗闇に目をすえるのも、私を見る人との緊張関係の中でだ。>」(p100-101)

彼女は、女性に向けられるルッキズムと同根の「見た目」問題を、「醜い」という眼差しを、子どもの頃から受け続けていただけでなく、自分自身の中にも内面化していた。そして、そこに異議申し立ての刃を突き刺すとき、対外的な刃、ではなくて、己の価値前提にも刃を向ける必要があった。

これは、社会運動に関わる若者達の間で、男尊女卑的構造が温存されているのに、女性がそこに異議申し立てが出来なかった事とも通底する。これまでの人生で注ぎ込まれてきた、「男を立てる」という性役割の価値前提の内面化にこそ、刃を向ける必要がある。それは、自らの内面を問い直すことであるがゆえに、しんどいし、出来れば向き合いたくない部分でもある。でも、男と女の、健常者と障害者の間に横たわる差別意識は、男と健常者だけの専有物ではなく、女や障害者も共有している。であれば、女であり障害者でもある私が持ってしまっているその価値前提にこそ、刃を向けなければならない。例えそれで、見る者(男であり健常者)だけでなく、それを内面化している見られる者(女であり障害者)との間に緊張関係が生まれたとしても、そこから逃げてはならない。

この発想を敷衍していったのが、優生保護法改革阻止闘争での、彼女が自分自身に向けたさらなる問いであった。

「障害児でも産めるのかという問いには、二つの問題が含まれている。一つは、自分は障害児を受け入れられるのかという道義的あるいは感情的な問い。もう一つは、この社会は今、生まれた障害児と産んだ女の双方が安心して生き切っているのかという内省的な問いだった。
知子には、ここにもう一つの問いが加わった。障害者である自分は、自分自身の人生を本当に生き切っているのかという内省的な問いだった。
障害のある自分が、自分の人生を全身全霊で生き切っていない中で、障害児にも安心して生まれてこいと言えるのだろうか。知子の問いは深く複雑だった。」(p135)

「障害のある自分が、自分の人生を全身全霊で生き切っていない中で、障害児にも安心して生まれてこいと言えるのだろうか」と問うとき、間違いなく、彼女は社会的な抑圧や偏見への怒りの刃を、他ならぬ自分自身で深く受け止めている。差別構造があるこの社会で、私が私の人生を全身全霊で生き切っているか? それが出来ていないのに、「障害児にも安心して生まれてこいと言えるのだろうか」。これは、自分が苦しめられている社会構造に責任を押しつけず、その中で生きる主体者としての自らの覚悟を、自分に問い直す、実に深くて重い、内省的な問いである。

この刃を自分にも社会にも向け続けた米津さんだからこそ、本書の主題の一つである「モナリザ裁判闘争」(詳しくは本書を読んでほしい)においても、彼女は凜として灯りつづけてきた。これも詳述はしないが、優生保護法を巡る障害当事者団体である「青い芝の会」との議論においても、彼女はずっと中絶する側・される側、という両義的な立ち位置で、この刃を問い続けてきた。

障害者運動にもフェミニズムにも興味を持ちながら、こんな素敵な女性のことを、今まで知らないままでいたのは、なんて残念なのだろう、と思った。でも、荒井さんのこの素敵な一冊を通じて、彼女と初めて出会えて、実によかった。だからこそ、以下の荒井さんの謝辞に、心から頷く。

「米津さんについて書くことは、彼女や彼らの葛藤に満ちた叫び声と、複雑に入り組んだ運動の歴史と向き合うことにほかなりません。『私には無理だろう』という率直な思いと、『私にしか書けないだろう』という大それた自負心と、その狭間でぐらぐらと揺らぎながら、なんとか一文字ずつ言葉を積み上げてきました。それがこの本です。」(p235)

そう、障害者文化や障害者運動に精通し、一人一人の葛藤に満ちた叫び声と丁寧に向き合ってこられた荒井さんにしか書けない、かつ、物語として純粋に面白くてスルスルと読めてしまう、でも心の中に残響や余韻(僕にとっては刃)が残る、素敵な一冊である。この本自体が、時代を超えて凜として灯り続ける、そんなロングセラーになるのではないか。そんな読後感を抱いた。