精神病院を媒介子と捉え直す

『アクターネットワーク理論入門 「モノ」であふれる世界の記述法』(ナカニシヤ出版)を、著者のお一人である伊藤嘉高さんからご恵贈頂く。科研の研究班でアクターネットワーク理論を勉強し続け、昨年は伊藤さんをオンラインゲストにお呼びしての研究会も開いたご縁があって、頂いた。単なる概説書ではなく、この理論はどんな風に「使えるか」という展開可能性についてまで論じられていた。ぼく自身もアクターネットワーク理論を「義父の死」を巡るエピソードに当てはめた論考を書いた後だったこともあり、非常に刺激的だった。

そこで、自分自身の頭の整理もかねて、四半世紀追いかけてきた「精神病院」とアクターネットワーク理論がどう接続しうるか、この本のいくつかの論考から拾いながら、書いてみたい。

「近代的なオブジェクトの特徴について少しまとめておこう。まず、それは限定された現場でのみ分節化が行われた後、次々と他の現場へと移送されていく点に特徴がある。有用性が強調され、その性質は自明のものとされ、問いを発することを許さない。仮に問いが発されたとしてもそれを無視し続けるというある種の強靱さをもっている。より正確には、そのような強靱さをもつような形で構築されているモノである。ラトゥールは、これをリスク・フリーなオブジェクトであると言い換えていもいる。それは本質的にリスク・フリーであるということではなく、リスク・フリーに見えるように扱われてきたモノという意味である。」(12章、p234)

ここで「リスク・フリー」としてあげられているのは、建設資材として安易に使用され、その後「静かな時限爆弾」と「翻訳」されるようになったアスベストであり、私たちの身の回りに沢山ある・今は海洋汚染の原因ともされるプラスティックである。

そして、精神病院というモノも、「リスク・フリーに見えるように扱われてきたモノ」であった。医師の診断と社会の必要性という「限定された現場でのみ分節化」された後は、その「有用性が強調され、その性質は自明のものとされ、問いを発することを許さない」。欧米では脱施設化という形でその有用性や自明性が否定されていったが、日本では精神病院協会の会長が「医療を提供しているだけじゃなくて、社会の秩序を担保しているんですよ」と豪語するくらい、「問いが発されたとしてもそれを無視し続けるというある種の強靱さをもっている」。ラトゥールは事実を「厳然たる事実(matter of fact)」と「議論を呼ぶ事実(matter of concern)」に分けているが、欧米では精神病院の必要性は「議論を呼ぶ事実(matter of concern)」である一方、日本では未だに「リスク・フリーなオブジェクト」であるかのように精神病院が扱われ、「厳然たる事実(matter of fact)」だと思い込もうとする。

だが、このような言説が構築されるアクターを辿ることで、違う可能性が見えてくる。

「ラトゥールは、representationの意味が二つに分裂してしまっているのもまた、「近代」の枠組みのもとで、人間のみから成る「社会」に関わる政治と、非人間のみから成る「自然」に関わる科学という二分法が成立しているせいであると考える。ラトゥールは、この枠組みを取り外して非近代的な思考へと至ることで、政治家が誰かの利害を代弁することも、科学者が何らかの非人間の性質等を発話することも、いずれも適切な手段を用いて、誰/何かの声を代表/表象する営みであるという点で同等のものとして捉えようとするのである。そうすることで、人間も非人間も交渉のテーブルにつくことができると主張するのである。」(8章、p146)

政治と科学は、一見、二つに分裂しているように見える。だが、精神科医が「医療を提供しているだけじゃなくて、社会の秩序を担保しているんですよ」と述べるとき、彼は政治と科学の両者の言語を話している。それでは一体「誰/何かの声を代表/表象する」のであろうか。精神科医に限らず、医者は「病気」「症状」という「声なき声」であるモノを代弁しようとしている。その一方、政治家は、同じ声なき声でも、サイレントマジョリティや社会的弱者などの「声なき声」を代弁し、その再配分に采配を振るうことが求められている。だが、少なくとも日本の精神医療においては、社会的弱者の代弁機能(政治)と、病気や症状の代弁機能(自然)の二つが、精神科医という象徴に統合されている。ラトゥールは自然と人間の分離とは逆の、自然と人間のハイブリッド化という言い方をしている。そして、日本の精神医療におけるハイブリッド化が、権力の一元化や権力の濫用に繋がっている。

こう言うと、権力の一元化や濫用は、一部の粗悪な精神病院だけだ、という反論も聞こえてくる。それに対して、アクターネットワーク理論(ANT)からは、どのように言えそうだろうか。

「従来の社会学においては、「疾病」(disease)と「病い」(illness)を区別するのが常道であった。疾病は生物医療の対象であり客観的に実在するものであるのに対して、病いは患者の主観的なものである。そして、かつての医療者は前者の単一性に傾倒し、後者の多様性・複数性を等閑視してきたとされるなかで、社会科学者は後者の重要性を訴え、とりわけ、患者にその疾病の意味を問うことのない医師の権力性を問題にしてきた。
しかしながら、ANTにおいては、客観/主観の区分自体が無効化され、したがって、患者の主観や解釈が医療批判の根拠になることはない。むしろ、客観的(オブジェクティブ)なものこそが多重的である。(略)
したがって、大切なことは、上記のような専門家のパターナリズムを問題視して、自律的な患者の選択の多様性を認めることではない。解釈の複数性を説けば説くほど、実在の複数性が遠ざかる。解釈や選択を支える中立的なデータセットは存在しない。データーセットこそが政治的なのである。」(9章、p167)

精神医療においても「むしろ、客観的(オブジェクティブ)なものこそが多重的である」。イタリア・トリエステでは、総合病院精神科と地域精神保健センターが機能すれば、長期社会的入院はなくても済んでいる。フィンランドの西ラップランドでは、クライシス状態の患者の求めに応じて、24時間以内に専門チームが訪れ、毎日のように対話を継続する中で、入院を最小化したり、なくても済んだり、そもそも病状が消失している。これらの実践はトリエステ方式やオープンダイアローグとして、客観的な論文や書籍として、多数紹介されている。他方、日本では、未だに長期社会的入院が続いていて、それらの人の入院継続の必要性が、医師によりお墨付きを与えられている。精神医療という自然科学の「客観的実践」が、あまりにも「実在の複数性」によって支えられているのである。こういう実践を比較すると、まさに「データーセットこそが政治的なのである」という箴言に、深く、頷く。

「ANTのテクストは、各々の人やモノが媒介子として扱われるアクションの連鎖(ネットワーク)をたどるものであって、諸々の存在を中間項に貶めるような客観的説明や批判を行うものではない。ANTは新たな媒介子を見いだす為の方法なのであり、「ここまで事物の連関をたどればよい」という基準はない。どこまでも連関をたどり、どこまでも分節化することが可能であるからだ。」(3章、p57)

このフレーズを書き写しながら、僕は反省している。これまで、日本の精神病院や精神医療政策を数多く批判続けてきた。だが、現に目の前にある病院や政策を、「厳然たる事実」として批判してきた。その上で、病院や政策は現にこういう状態であるのだから、どう変えるべきか、を論じてきた。その際、病院や政策を、中間項と捉えるか、媒介子と見立てるか、でずいぶん見方が変わる。この部分はラトゥール自身の説明から引用してみよう(下記についてはブログ「中間項から媒介子へ」でも引用した)。

「中間項は、私の用語法では、意味や力をそのまま移送する(別のところに運ぶ)ものである。つまり、インプットが決まりさえすれば、そのアウトプットが決まる。」「媒介子は、自ら運ぶとされる意味や要素を変換し、翻訳し、ねじり、手直しする。」「正常に作動するコンピューターは複合的な中間項の格好の例と見なせる一方で、日常の会話は、恐ろしく複雑な媒介子の連鎖になることもあり、そこでは、感情や意見、態度が至るところで枝分かれする。」「学会で開かれる非常に高度なパネルディスカッションが、どこかほかでなされた決定を追認するだけであるならば、まったくもって予測可能で問題をはらまない中間項になる。」(『社会的なものを組み直す』(法政大学出版会)p74-75)

これまでは、精神病院協会の会長発言など、特定の人間に対しての批判はしてきたが、精神病院そのものは「インプットが決まりさえすれば、そのアウトプットが決まる」「中間項」だと見なしてきた。だが、精神病院の機能の仕方が、無くしたイタリアと最小化したフィンランド、世界最大規模で残っている日本では異なっている。つまり、日本の精神病院が何のどのような「意味や要素を変換し、翻訳し、ねじり、手直し」ているのか、という精神病院の媒介子機能を分析しないと、精神病院そのものの複雑性を理解したことにならないのである。

日本の精神科病院では、未だに虐待が起き続けている。これを、「厳然たる事実」や「中間項」として批判し続ける限り、その批判が「厳然たる事実」を揺り動かすことはないだろう。そうではなくて、虐待事件を「議論を呼ぶ事実」であると考え、精神病院における虐待が発生し続けるメカニズムの中には、精神病院や精神保健福祉法、病院スタッフや入院患者など、いかなる「人やモノが媒介子として扱われるアクションの連鎖(ネットワーク)」があるのか、を辿る事によって、見えてくるものがあるはずだ。それが、媒介子を辿る、という意味でのアクターネットワーク理論の醍醐味なのだろうと思う。

この入門書は、優れたアクターネットワーク理論の世界への手引き書、だけでなく、自分自身が抱えているテーマのアクターをどのように追いかけていけばよいのか、に気づかされてくれ、議論を呼ぶ事実を喚起させる、優れた媒介子の一冊である、と感じた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。